泣き虫エリオット

叶 望

吸血衝動

 エリオットが目覚めたのは柔らかなベッドの上だった。乾いた喉から気だるげな声が漏れる。ゆっくりと上体を起こせば愛しい金色の髪を持った女性がベッドの傍に寄り添っていた。今にも零れそうなほど涙を溜めた緑の瞳が目に映る。


「エリオット!良かった。目が覚めたのね。」


 勢いよくエリオットの胸に飛び込んできたジュリアをしっかりと抱きしめる。


「ジュリア様、無事で良かった。」


 抱きしめた体は温かく柔らかい。ふわりとジュリアの香りがエリオットに届いた。エリオットはジュリアの首筋に自然と目が向かう。
 その首筋を見ていると抑えられない黒い欲望が沸き上がってきた。口を開いてジュリアの首筋に近づいたその時、はっと気が付いたようにエリオットはジュリアを突き飛ばした。


「きゃあ!」


 驚いて声を上げたジュリアはエリオットの様子がおかしいことに気が付いた。


「えりおっと?」


 苦し気に胸を押さえて俯くエリオットは荒い息を吐きながらもぐっと何かに耐えているようだった。


「ねぇ、すごい汗よ?大丈夫なの?」


 慌てて近づこうとしたジュリアをエリオットは手で制した。


「く、来るな!」


 少しだけ上げた顔を見てジュリアは目を見開く。先ほどまでは紫がかった青の瞳だったはずのエリオットの瞳は赤く煌々と光っている。それはまるで本物の吸血鬼のような獰猛な光だ。


「エリオット、貴方のその赤い瞳はまさか…。」


 ジュリアの言葉でエリオットは顔を手で覆う。その瞳は驚愕に見開かれて絶望の表情を浮かべた。


「逃げて、ください。ジュリア様…私はもう。」


「い、嫌よ。」


「ジュリア様…。」


 苦し気な息を吐きながらエリオットはゆっくりと顔を上げた。ジュリアはその表情を見て目を見開いた。


「私は吸血鬼になってしまいました。いや、なったというよりも元々吸血鬼という存在だったのです。魔物である私はもう、貴方のお傍には居られません。」


「エリオット、貴方…泣いているの?」


 涙が流れているわけではない。しかしジュリアにはエリオットのその表情がまるで泣いているように見えた。かつて泣き虫だったエリオットの泣き顔と今の表情が重なる。


「どうか、私がジュリア様を襲う前にここから逃げて…。」


 エリオットの言葉は自分でも無茶を言っているという自覚はある。魔物が跋扈するこの地からか弱い姫にどうやって逃げろというのか。それでも口にせずにはいられなかった。
 今にも襲い掛かりたくなる衝動を必死で抑えているエリオットにできたのはせいぜいその程度だ。本能がジュリアの血を求め、理性がそれを必死で抑えようとしている。
 しかし、それは長く持ちそうにはなかった。失われた血液を取り戻そうとするようにそれを求めるのだ。赤い瞳を切なげに伏せてジュリアを視界に入れないようにしていたエリオットだがその努力はあまり意味のないことだった。


「血が欲しいの?」


 ジュリアの言葉にエリオットは固まる。欲しいと答えそうになる口を閉ざして押し黙った。


「エリオット…苦しいの?」


 ぴくりとエリオットの肩が揺れてジュリアはエリオットをそっと頭から抱え込むように抱きしめた。震える体をジュリアは優しく撫でる。


「逃げろって…言っているのに。」


 小さく呟いたエリオットの言葉にジュリアは首を横に振った。


「エリオットを置いて逃げる事なんてしないわ。」


「…なんでだよ。お願いだから、逃げてくれよ。僕はジュリアを傷つけたくない。」


 懐かしい口調にエリオット自身の余裕のなさが伺える。そんなエリオットにジュリアは不謹慎ながらもうれしいと感じていた。一人だけ大人びて置いて行かれた気持ちをずっと持っていたジュリアは弱々しいエリオットが愛おしく思えたのだ。例え、それが人でなかったとしてもジュリアが愛したのはエリオット自身なのだから。


「エリオット、私は弱い貴方も好きよ?」


 どくんと心臓が跳ねるようにエリオットの衝動が勢いを増した。先ほどまで何とか抑えていた衝動が暴れだす。


「くっ、ジュリア…駄目だ。逃げて!」


 ジュリアを押し返す力はあまりに弱々しい。エリオットは目の前がじわりと滲んでぼやけていくのを感じた。視界が狭まりジュリアの首筋に目が釘付けになる。押し返そうとジュリアの肩を押していた手に力が籠る。


「お願いだっ!」


 動こうとしないジュリアにエリオットは顔を上げる。しかし必死なエリオットに対してジュリアの優し気な瞳を見て動揺した。


「ジュリア…?」


「エリオット、飲んで。私の血。」


「やめて、くれ。」


 悲しげな瞳を揺らしてエリオットは懇願する。しかしジュリアは動かなかった。


「ねぇ、エリオットは私が苦しんでいたら同じように助けてくれるでしょう?」


「それとこれとは…。」


「同じだわ。私は大好きなエリオットを助けたいの。もう、女性にここまで言わせるなんてエリオットはやっぱりずるいわ。」


 エリオットの顔を優しく手で包んでジュリアは微笑んだ。温かい瞳は今も昔も変わらずエリオットを見つめている。そんなジュリアにエリオットは泣きそうな気持ちになった。エリオットの真っ赤な瞳に涙が溜まる。


「ジュリア、僕も君が好きだ。だから傷つけたくない。」


「分かっているわ。でも私はエリオットなら大丈夫だって信じているわ。」


「ジュリア……。」


 エリオットはそっと顔をジュリアの首筋に近づける。エリオットの息が首筋にかかってジュリアの肩がぴくりと揺れた。ジュリアは目を閉じているのだがやはり怖いのだろう。体が震えているのがエリオットにはよく分かった。
 怖いのにも関わらずジュリアはエリオットに血を吸えと言うのだ。信じていると。本能で首筋の血管が集まっている場所が分かる。エリオットはその部分を舌でぺろりと舐めた。
 ぴくりと反応するジュリアを愛おしく感じてそのまま牙を柔らかな肌に突き立てた。


「んっ…。」


 牙を刺した瞬間、ジュリアが呻いた。口の中に流れてくる温かな血液は甘く蕩けるように美味しく感じる。
 まるで甘露のような味にエリオットはうっとりと酔いしれる。今まで飲んだ高級な酒よりもずっと美味しい。ごくりと飲み込めば体の奥底に染み渡るように感じた。


「ジュリア、甘くてとっても美味しい。」


「エリオット…。」


 蕩けるような表情を見せるエリオットにジュリアは顔を真っ赤に染めた。もっと飲みたい衝動に駆られたエリオットではあったがあまり飲みすぎればジュリアを殺してしまいかねない。
 名残惜しいと感じつつも理性でなんとか本能を抑え込む。先ほどまでと違って少しでも血を口にしたからか衝動はそこまで強くはない。牙を抜いて傷跡を丁寧に舐め上げた。するとまるで傷などそこには無かったかのように綺麗に治っていた。


「もう、いいの?」


 顔を上げたエリオットにジュリアは尋ねた。そんなジュリアを見てエリオットは吸血衝動とは別の衝動が体を駆け巡った。ジュリアの上気した頬に潤んだ瞳、柔らかな肢体はエリオットに密着している。


「だ、大丈夫。その、ありがとうジュリア。」


「う、うん。」


 血をあげてエリオットにありがとうと言われたのがなんだか気恥ずかしい。ジュリアは思わず顔を俯けた。


「ね、ねぇエリオット…。」


「はい。」


「その、牙を触ってみても良いかしら?」


「えっと、触りたいのですか?」


「駄目?」


 見上げる形でジュリアはエリオットに尋ねた。その表情を見てエリオットは思わず呻いた。


「その、どうぞ。」


 口を開けて視線は横に外したままエリオットはなんだか恥ずかしいような気持ちになった。しかし、良いといった手前今更駄目だなんて言えない。
 血を分けてもらったというのもあるが何よりもジュリアのお願いを拒否するなんて有り得ないのだ。

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