悲喜交々

カブトムシ719

猫は今日も帰らない

焼け跡の魚の骨は、今日も太陽でぱりぱりに干からびていた。
テテが前足でひっくり返すと、アシがむっとした顔で睨みつける。

「おい、テテ。骨の割れ目にまだ肉が残ってるぞ」

テテは耳をぴくっとさせて引き下がる。
アシの言うことは大抵正しかった。
彼はこの錆びた街で十年も生きてきたらしい。
テテなんか比べものにならない。

夕暮れ時、二人は崩れかけた煉瓦塀の隙間に身を寄せた。
アシはくたびれた布切れを敷き、その上で体を丸める。

「ねえ、アシ。今日もあの音、鳴るかな」

テテが震える声で聞くと、アシは片目を開けてため息をついた。
「お前ほどの臆病猫も珍しいぜ。あの音が鳴ったって、鉄の雨はこっちに降らねえ」

その時──

「ウーウー」

低くうなる音が街を揺らした。テテの背中の毛が逆立ち、瞳が丸く開く。
アシは布に鼻をうずめ、尾でテテの目を覆った。

遠くで何かが砕ける音と共に、風がやってきた。

「ほらな、言った通りだ。音の後には必ず『暖かい風』が来る」

熱を帯びた空気が煉瓦の隙間を抜け、2匹の毛を揺らす。
テテはアシのしっぽの隙間から空を見上げた。
──黒い影の群れが、まるで季節外れの渡り鳥のように飛んでいく。

「アシ、あれ……?」
「ああ、鉄でできた鳥だ。二本足の連中は、あいつらに『希望』だの『正義』だの名前をつけてるらしい」
アシはくしゃみをして言った。
「猫にゃ関係ねえや」

夜になると、街は妙に静かになった。
いや、正確には「二本足のいない音」で満たされた。

ネズミの足音。
ガラスの欠片が転がる音。
誰もいない路地で響く、子猫の呼び声。

アシはテテの耳を舐めてやった。
「いいか、テテ。世の中にはな、吐き出しても吐き出しても終わらない毛玉みたいなものがある」
「……ずっと苦しいの?」
「ああ。でもな、そのうち風が全部運んでいってくれる」

月明かりで、アシの左耳の欠けた部分が浮かび上がる。

テテは知らない。

あの傷が「ある日突然降ってきた鋭い破片」によるものだなんて。

ふと、アシが立ち上がる。
「おい、テテ。行くぞ」
「え? 今からどこに?」
「魚の骨よりましなもんを食わせてやる」

雨は気づけば本降りになっていた。
テテはアシの姿を見失い、仕方なくゴミ捨て場の段ボールの下に潜り込んだ。
前足で留め金を転がしながら考え込む。
(家族はきっと、首輪を探してるはず…)

そしてあの時のことを思いだした。


あの日も、雨の匂いがゴミ捨て場に張りついていた。
テテは濡れた段ボールの下で、前足の肉球を舐めていた。

ふと、影が差した。

「おい、そこのボロ猫」

振り向くと、三毛猫がこっちを見ている。
片耳は欠け、背中の毛は所々焦げ茶色に変色していた。

眼光だけは鋭く、まるで夜の路地裏そのものが猫になったみたいだった。

「腐った魚食うと、毛が抜けるぞ」

テテはぴくっと耳を立てた。

「でも……僕の家族が『残ったものは感謝しろ』って」

アシと名乗るその三毛猫は、片目を細めて言った。

「ふん。で、その『家族』は今どこにいる?」

テテはぐるりと周りを見回した。

「あのね、僕、ちょっとだけ外に出てたら……道がわからなくなっちゃって」

アシの喉が、ごろりと笑った。

「はっ! お前みたいなのが『飼い猫』ってわけか」

「飼い猫じゃない!家族なんだ!」

「なら、その『家族』、お前を探しに来てるか?」

テテは口を開いたまま固まった。
確かに、あれから何日たっても、誰も迎えに来なかった。

アシは乾いた笑いを残し、言った。

「よし、取引だ。俺に『二本足の言葉』を教えろ。代わりに、食えるもん教えてやる」

「言葉?」

「ああ。お前がさっき言ってた変な鳴き声だ」

テテは考え込んだ。思い出せるのは、断片的な記憶の中の「声」ばかり。

「『おかえり』……『こっちおいで』……『大丈夫?』……」

アシはそれらをまねしようとしたが、どうしても猫の鳴き声にしか聞こえない。

「ちっ、わけわかんねえな。まあいい。こっち来い」

アシはテテを連れて、錆びた鉄の箱(冷蔵庫の残骸)の隙間へ向かった。
干からびた小魚が引っかかっている。

「見ろ。こいつは『腐ってない』」

アシは前足で魚をひっくり返した。

「ほら、目が澄んでるだろ? これなら食える」

テテは恐る恐る鼻を近づけた。確かに、昨日見つけた魚とは匂いが違う。

「……どうしてわかるの?」

「生きてりゃな、自然と覚える」

アシはそう言うと、ぽんと魚をテテの方に蹴りだした。

「全部食え。お前みたいなガリガリじゃ、次の『大きな音』が来たら消えちまう」

その夜、初めてテテは「家族」以外のものから食べ物をもらった。雨が上がり、月が錆びた街を照らす中、アシは言った。

「明日からな、俺について来い。
二本足の連中がいなくなった今、猫が生きるには知恵が要る」

────

雨上がりの小道を、テテはぴょんぴょん跳ねながら進んでいた。
水たまりに映った自分の影にじゃれついては、「キャッ!」と鳴いて喜ぶ。

「おい、遅れるぞ」
アシの足取りがいつもより重かった。
左前足をかばうようにして歩いている。

「アシ、見て見て! この水たまり、僕の顔がゆがんでるよ!」
「そうだな。」

曲がり角を過ぎた時、テテが突然駆け出した。

「あった! ほら! あの大きな木が目印なんだ──」

ぱたりと止まった。

大きな木は確かにあった。

だが、その根元には──

焼け焦げた幹。
砕けたガラスの破片。
ぽっかり空いた地面の穴。

「あれ……? おかしいな。ここに白いお家があったのに……」

テテはくるりと回り、違う角度から見てみた。
「きっと反対側にあるんだよ! だってママが『迷ったらぐるっと回ってごらん』って──」

アシがそっと前足を伸ばし、テテの背中に触れた。

「テテ」
「うん?」
「……ここだ」

テテの目が丸くなった。

「え? でも、何もないよ? あ! もしかして透明なお家? すごい! アシには見えるの?」

アシの喉がごろりと鳴った。
笑いのような、ため息のような。

「ああ。すごく綺麗な家だ」

テテは満足そうにしっぽを振り、焼け跡を走り回り始めた。
「やったー! 僕の家、魔法みたい! ママもパパも中にいるかな?」

アシはゆっくりと座り込むと、テテを見つめた。

「おい、テテ」
「なあに?」
「ちょっと、こっち来い」

テテが近寄ると、アシはゆっくりと、毛づくろいを始めた。

「あ、ありがとう! でも僕、そんなに濡れてないよ?」
「黙ってろ」

アシの舌が、テテの背中の雨粒を一つずつ取り除いていく。
その動きが、いつもよりゆっくりで、優しかった。

「アシ、今日は優しいね」
「バカ言え」

夕日が二人を包み、長い影を作った。


朝もやの中、アシは左前足をかばいながら歩いていた。
傷の熱がじんじんと広がる。
「アシ! ねえ、あの廃車の上に鳥がいるよ! 捕まえようよ!」
テテが駆け寄ってきたが、車の前でぴたりと止まった。

「……どうした?」
「うん……なんでもない」

アシはため息をつくと、よろよろと立ち上がった。

「おい、臆病猫」
「僕、臆病じゃないよ! ただ……高いところはちょっと……」

アシはテテの背中をじっと見つめた。震えている。

「ふん。ほら、見ろ」
アシが廃車のボンネットに飛び乗ると、ぐらりと体を揺らした。

「アシ!?」
「平気だ。おい、登ってこい」

テテは後ずさりした。
「だって、落ちたらどうしよう……」

アシの目が細くなった。
「お前、毎日『家族に会いたい』って言ってるくせに、廃車一台登れないのか?」

テテの耳がぺたんと倒れた。

「……登るよ」

ぎこちないジャンプ。
テテはボンネットに掴まり、必死に這い上がる。アシが首筋をくわえて引き上げた。

「ほらな。できただろ」
「うん。」

テテの体が小刻みに震えている。

夜、アシはテテを引き寄せると、いつもより深い呼吸で言った。
「...明日は港の方に行くぞ。魚がよく落ちてる」

「やった!...でも遠いよ?」
「だからこそだ。臆病猫を鍛えてやる」

暗闇で、アシはそっと左前足の傷を舐めた。鉄の味が広がった。



朝日が差し込む廃墟で、テテが目を覚ました。

「アシ? 朝だよ……アシ?」

辺りを見回す。
いつもならアシがすぐそばで、眠そうに伸びをしているはずだ。

「変だな……魚を探しに行ったのかな?」

テテは廃車に登ってみた。
昨日アシと一緒に立った場所だ。

「アシー! どこにいるのー?」

風だけが答える。

ふと、足元に光るものが目に入った。
アシの首輪の留め金だ。きれいに磨かれている。

「あれ?こんなに綺麗だったっけ?」

テテはそれをくわえると、港の方へ歩き出した。

「アシったら、先に行っちゃって。でもきっと、美味しい魚を見つけて待ってるんだ!」

陽の光を浴びながら、テテはぴょんぴょんと跳ねるように歩いていく。


「アシ、最近元気ないな。」

ふと、頬がひやっとした。
「……あれ?」

前足で触れると、水滴がついた。
「雨……? でも晴れてるのに」

ぽとん。ぽとん。

足元に広がる水たまりを見て、テテは首を傾げた。
「壊れた水道管か、空から水が……?」

その時、錆びた看板が目に入った。
「立入禁止」
──アシが「猫に指図すんな」と爪で引っ掻いた跡が残っている。

「……アシ」

突然、膝ががくんと折れた。

「なんで……?」

視界がぼやける。喉の奥から、熱い何かがこみ上げてくる。

「おかしいよ」
「ママもパパも」
「アシも」
「どうして──」

瓦礫の隙間から、赤いリボンが風に揺れている。テテはそれをぎゅっと抱きしめた。

「……わかってた」
「…ずっと、わかってた」

「わかってたよ!!!」

叫び声が廃墟に響く。

「ママもパパも! アシも! もういないって……!」

涙が地面を叩く。
「わかってるのに……! わかってるのに、怖いんだよ!!!」

地面に落ちた留め金と目が合う。
テテはそれをぎゅっと抱きしめた。

「帰りたい……ママの膝の上で、『えらいね』って撫でられたい……」
「アシにまた、『バカ猫』って呼ばれたい……」

声が小さくなる。
「どうして……ひとりにしちゃうの……」

夕日がテテを包み込む。長い影が、震える背中にそっと寄り添うように伸びた。

「にゃー。にゃー。」

ふと、遠くで子猫の鳴き声がした。

テテは顔を上げた。
「……あ」

涙に濡れた視界の向こうに、痩せた子猫が魚の骨を転がしていた。

「……」

よろめきながら立ち上がり、テテは子猫に近づく。

「まだ残ってるよ」

テテの言葉に子猫は動揺する。

「…え?」

「骨の割れ目にまだ肉が残ってる」

子猫がの骨にもう一度しゃぶりつく。

テテはまた涙があふれそうになるが、じっと耐えた。

風が吹き、タンポポの綿毛が舞う。
「ウーウー」という警報のような音を、テテはもう避けなかった。

(あの音の後には──)

綺麗に食べ終えた子猫がテテを見上げる。
「お肉いっぱい残ってた!ありがとう!」

元気よく話す子猫はとても汚れている。
テテは子猫の首筋をそっと舐めてやった。

「えっ…?」
「ごめん、つい…。」

子猫はくすぐったいと笑った。

瓦礫を伝い、暖かい風がやってくる。
相変わらず二本足は慌ただしい。
しかし、2匹の空から降ってきたのは──
灰でも爆弾でもなく、たくさんの優しい光の粒だった。

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