メイドAは何も知らない。
メイドの知らない彼の奮闘。 3
昨日邸を訪れた人間の中で、書斎の位置まで把握しているのは、幾らか雑用を頼んだ事のあるアミリスくらいなものだが、襲われたのは彼女だし、不審者を目撃しているリリアの証言からも、彼女が狂言を吐いたと考えるのは無理がある。
一体どうやって書斎の場所を知ったのか?
そして何故書斎だったのか?
チェイスはぐるぐると思案して、気づけば件の書斎へと辿り着いていた。
流石に窓は閉まっているが、絨毯に散ったインクはそのままだった為、すっかり乾いてシミになってしまっている。
こうなってしまっては専門の業者に修繕を頼む他ないだろう。
ここまで来たついでだと、チェイスは一から書斎の中を入念に見て回る。
本が落ちた場所、棚の中、机の引き出し……いずれも昨日と変わりはなかったが、一箇所だけ不自然な箇所がある事に気が付いた。
(本の位置が微妙に変わっているな……)
掃除の際に、リリアが動かした可能性もあるが、書斎のものを不必要に動かすような娘ではないし、必要であれば確認を取ってくるはずだ。
親書を挟む為に適当に本を抜いたのだとしても、他の本に手を触れる必要もないだろう。
「ん?」
本を元の位置に戻しながら、チェイスは弄られた本に共通点がある事に気がつく。
中を開くとその殆どが、背表紙を張っただけのダミー本だったのだ。
貴族の家の書斎にダミー本があるのは珍しくない。
本は高価なもので、そうそう気軽に買えるものではないし、中には本を全く読まない貴族も居るので、こうしたダミー本を本棚に詰めて見栄を張るのだ。
ただこの書斎の本棚は、ダミー本よりも中身のある本の方が遥かに多い。
たまたまダミーを手に取ってしまって戻したにしては不自然だ。
意図的にダミー本を手に取っていたのであれば、ダミー本の中にあるであろう何かを探していたという事になる。
貴族がダミー本の中に隠すものといえば、それなりに高価な宝石類や鍵類、重要な書類といった所だが、あいにくチェイスはその場所に何も隠していない。
(うちのダミー本自体は量産型の安物だから、まぁ、見分けるのは難しくなかったと仮定して……偽造文書を作ったことで、俺が持っている何かが必要になったって事か? 殿下の文書であれば、封蝋印は王室の印を使わなければ意味がないだろうし……もしかして、使者を装う為に必要なものか? だとしたら犯人はモトム公国を目指して…………いや、トラステン家以外のものが使者に立つなんてすぐにバレてしまうような偽装をするとは思えない。大体モトムを目指すのであれば、親書を盗むだけで偽装する必要もない筈だ。一体何が必要で、何が目的なんだ)
解けそうで解けない疑問に、チェイスは苛立たしげに歯噛みする。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、時刻はそろそろ昼を過ぎようとしていた。
=====
庭の掃除を終え、大まかに二階の掃除も終えるたリリアは非常に困り果てていた。
昼食の為に軽くサンドイッチなどを作っていたら、そこにチェイスが現れ、なぜかそのまま昼食をリリアと一緒にとる事となってしまったのだ。
確かにチェイスの分も作ってはいたのだが、まさかその場で一緒に食事をとるとまでは想定していなかったリリアは、向かいのチェイスの存在を過剰なまでに意識して、酢漬けのニシンが挟まったサンドイッチをちびちびと俯き加減で食べているのが精一杯で、会話どころか口にしている物の味すらまるでわからない状態に陥っている。
時折チラリとチェイスを覗き見ては、朝の出来事から先程の廊下での出来事を思い出して、リリアは一人、身悶えしていた。
あれくらいで意識してしまうのが、おかしいとはわかっているものの、朝抱きしめられた衝撃も相まって、なんとなく涙を拭われた目元が今でも熱い気がしてならない。
どちらも単純に慰めてくれただけだというのは判っている。
判っているのだけど、どうしても一人の男性として意識してしまうのだ。
最初のあの骨の軋む痛さと息苦しさはともかく、先程の頬に触れた指や肩に置かれた大きな手は、ほとんど掠める程度の触れ合いだったのに、チェイスがあんな風に笑顔を向けてきた所為か、妙に暖かく、こそばゆい感覚だけがリリアの中に刻みつけられてしまっていた。
彼は女性に慣れている人なのだろうか?
それとも自分が男性に免疫がないだけで、あれが普通なんだろうか?
強引という意味ではセスの方がはるかに上だが、チェイスの場合は強引というより突発的と言った方が当てはまる気がする。
顔立ちだって、どこかの彫像とまでは言わないが、幾分整っている部類に入るし、きっと自分じゃなくてもあんな事をされれば、皆、勘違いしてしまう筈だ。
その上でこうやって食事を一緒になんて言われたら、この先、どう接するのが正しいのかすら分からなくなってしまう。
確かにあの条件はもう意味を成さないものだと思うけど、色々な意味でもうちょっと心の準備をする時間が欲しい。
「あまり進んでいないようだが、やはり迷惑だったか?」
「い、いえっ」
ぼんやりとして、とうとう手も動かなくなってしまったリリアを不審に思ったのか、チェイスが心配そうに顔を覗き込んできた。
リリアは慌てて首を振って、サンドイッチを口いっぱいに頬張ったものの、時間が経って酢の沁み込んでしまったパンの後味に悪さに、けほけほとむせてしまい、口元を押さえる。
それを見たチェイスが更にごく自然な所作で立ち上がり、リリアの後ろに回ると、リリアの背を労わるように軽く叩いて、水を差し出してくる。
チェイスの行動に驚いた為か、そこで限界だったのか、咳き込んでいたリリアの口からは、いつの間にかひっくひっくと、可愛らしいしゃっくりが漏れ出ていた。
「大丈夫か? 落ち着いて、ゆっくり水を飲むといい」
「す、すみません」
料理にしろ所作にしろ、なんて情けないのかと、リリアは水を口に含みながら、とうとう指先まで染め上げて、涙目になる。
相手は平然としているのに、自分ばかりが過剰になって、挙句主人に世話をされてしまうメイドなんて、どこを探しても自分以外に見つかりはしないだろう。
いくらか落ち着いたリリアがしょんぼりとコップを作業台の上に置く姿を見て、チェイスはどう感じたのか、やはり困ったようにリリアの背から手を離した。
「ごめん。そんなに嫌だったとは……俺はどうも考えるより行動が先になってしまうことの方が多いから、君にはどうしても不快な思いをさせてしまう様だ。なるべく近づかない様に気を付けるから、そんなに怯えないでくれないか? 自業自得なのは判ってはいるが、その、そんな風に怯えられると……俺も、傷付く」
最後に呟かれた言葉はとても囁やかな声だったが、リリアの耳にはちゃんと届き、ハッとして顔を上げる。
本当に傷付いた様な顔をして項垂れるチェイスを見て、リリアは慌てて「誤解です!」と、自分でも驚くくらい大きな声をあげた。
「違うんですっ。こ、怖いとかじゃなくて、えっと、その……男の人に、慣れてなくて……その…………は、恥ずかしくって……えっと……料理も、あの、ご、ごめんなさい……美味しくない、です」
もう自分でも何を言っているのかよくわからない。
支離滅裂で、ここから消え去りたい衝動に駆られ、さっきっから熱くて仕方ない両耳と両頬をリリアが堪らず手と腕で隠す様に押えていると、それを聞いたチェイスが、「料理?」と呟く。
チェイスは暫くそのままポカンと口を開けて、リリアをまじまじと観察していたが、リリアの態度の意味を理解すると、途端に口元を押さえて、リリアと同じ様に耳を赤くして、あさっての方向へと視線を送った。
「……可愛い」
「……え?」
「っ!! 俺はっ、肉より魚が好きだから、これで構わない。充分美味いと、思う」
「は、はい……」
必死になって両耳を押さえていたリリアには、幸いチェイスが無意識に呟いた最初の一言は聞こえていなかったが、互いに気恥ずかしい思いをしている二人は、妙にギクシャクとした空気に包まれる。
なんとなく中空に視線を漂わせてから、自分の席に戻ったチェイスが新しいサンドイッチを一つ掴み、軽く咳払いをする。
「あー……これから来る御用聞きはどんな人物なんだ?」
「は、はいっ、ええっと……き、気さくな方です。あっ、ジェファーソン様みたいな」
グレンを引き合いに出したのがなにか癪に障ってしまったのか、チェイスは少々微妙な顔で口元を歪める。
その顔を見て、昨日の破天荒なグレンの奇行をリリアも思い出し、リリアは慌てて首を振った。
「あ、あの、ラルフさんは、気さくな方ですけど、裏表のない方で……ええっと……あ、力仕事もたまに手伝ってくれました。とてもいい方です」
「そうか。まぁ、流石にあんなのが世の中に三人も居るわけないか」
それはグレンの他に、もう一人同じ様な人が居るってことなんだろうか? と、リリアは首を傾げる。
リリアのその仕草に、チェイスが詰まった様な声を出して、ゴホンと再び咳き込んだ。
「いや。まぁ、そのうち会うこともあるだろうが、気にしないでくれ。それより思っていたよりも、俺は随分周りのものに迷惑をかけていたのだな。洗濯屋はいつもの事だが、御用聞きも含めて方々改めて礼をしなければならないだろう。落ち着いたら後日にでも、世話になった者達について細かく教えて貰えないだろうか?」
「は、はい。あっ! で、でも、ラルフさんは、今日で、もう会えなくなってしまいます」
「今日で? ……何故?」
「えっと、前の騒ぎの時に、その、ご迷惑をお掛けしてしまったので……私の従姉妹がラルフさんに、お詫びを申し出たんです。それで……えっと、ラルフさん、船に乗せて欲しいって。ずっと旅をしていて、船に乗るお金を貯める為に、御用聞きをしていらしたって。だから、今日で……トラブル様?」
たどたどしい説明が気に障ったのだろうか?
気付けばチェイスの顔がみるみる険しくなっていく。
どうして自分はこうなんだろうかとリリアがまた自己嫌悪に項垂れ始めると、チェイスはそれに気付かない様子で何か深く考え始めた。
「そのラルフという御用聞きは、長身で茶髪か?」
「ごめんなさ…………え? ……あ、えっと、背はナナリーさんより少し高いです。髪は……茶色というより、黒だと思います」
「そうか…………少し待っていてくれ。君に見てもらいたい物がある」
「あ、はい?」
どうやら起こっている様ではないようだと、リリアが安堵する中、チェイスは徐に立ち上がり、台所から足早に出て行く。
どうしたんだろう? と、首を捻っていると、裏口からノックが聞こえ、リリアは慌てて立ち上がる。
「リリアちゃん、いるかい?」
「は、はいっ」
少し早いなと思いながらも、聞き慣れたその声にリリアは普段通り返事を返し、扉を開ける。
「……え?」
「うん、ごめんね」
ごく普通の挨拶をする様に謝罪を口にした人物の、蝙蝠の翼の様に、たなびく大きな影がリリアを覆う。
突然のことに声を上げる間もなく、リリアはそのままその影に飲み込まれていく。
「待たせて悪い、実は…………リリア?」
台所の奥の廊下から慌ただしい足音をたててチェイスが戻ってきた時には、リリアは忽然とその場から姿を消し、裏口の扉が風に揺られ、キィキィと不気味な音をたてているだけだった。
一体どうやって書斎の場所を知ったのか?
そして何故書斎だったのか?
チェイスはぐるぐると思案して、気づけば件の書斎へと辿り着いていた。
流石に窓は閉まっているが、絨毯に散ったインクはそのままだった為、すっかり乾いてシミになってしまっている。
こうなってしまっては専門の業者に修繕を頼む他ないだろう。
ここまで来たついでだと、チェイスは一から書斎の中を入念に見て回る。
本が落ちた場所、棚の中、机の引き出し……いずれも昨日と変わりはなかったが、一箇所だけ不自然な箇所がある事に気が付いた。
(本の位置が微妙に変わっているな……)
掃除の際に、リリアが動かした可能性もあるが、書斎のものを不必要に動かすような娘ではないし、必要であれば確認を取ってくるはずだ。
親書を挟む為に適当に本を抜いたのだとしても、他の本に手を触れる必要もないだろう。
「ん?」
本を元の位置に戻しながら、チェイスは弄られた本に共通点がある事に気がつく。
中を開くとその殆どが、背表紙を張っただけのダミー本だったのだ。
貴族の家の書斎にダミー本があるのは珍しくない。
本は高価なもので、そうそう気軽に買えるものではないし、中には本を全く読まない貴族も居るので、こうしたダミー本を本棚に詰めて見栄を張るのだ。
ただこの書斎の本棚は、ダミー本よりも中身のある本の方が遥かに多い。
たまたまダミーを手に取ってしまって戻したにしては不自然だ。
意図的にダミー本を手に取っていたのであれば、ダミー本の中にあるであろう何かを探していたという事になる。
貴族がダミー本の中に隠すものといえば、それなりに高価な宝石類や鍵類、重要な書類といった所だが、あいにくチェイスはその場所に何も隠していない。
(うちのダミー本自体は量産型の安物だから、まぁ、見分けるのは難しくなかったと仮定して……偽造文書を作ったことで、俺が持っている何かが必要になったって事か? 殿下の文書であれば、封蝋印は王室の印を使わなければ意味がないだろうし……もしかして、使者を装う為に必要なものか? だとしたら犯人はモトム公国を目指して…………いや、トラステン家以外のものが使者に立つなんてすぐにバレてしまうような偽装をするとは思えない。大体モトムを目指すのであれば、親書を盗むだけで偽装する必要もない筈だ。一体何が必要で、何が目的なんだ)
解けそうで解けない疑問に、チェイスは苛立たしげに歯噛みする。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、時刻はそろそろ昼を過ぎようとしていた。
=====
庭の掃除を終え、大まかに二階の掃除も終えるたリリアは非常に困り果てていた。
昼食の為に軽くサンドイッチなどを作っていたら、そこにチェイスが現れ、なぜかそのまま昼食をリリアと一緒にとる事となってしまったのだ。
確かにチェイスの分も作ってはいたのだが、まさかその場で一緒に食事をとるとまでは想定していなかったリリアは、向かいのチェイスの存在を過剰なまでに意識して、酢漬けのニシンが挟まったサンドイッチをちびちびと俯き加減で食べているのが精一杯で、会話どころか口にしている物の味すらまるでわからない状態に陥っている。
時折チラリとチェイスを覗き見ては、朝の出来事から先程の廊下での出来事を思い出して、リリアは一人、身悶えしていた。
あれくらいで意識してしまうのが、おかしいとはわかっているものの、朝抱きしめられた衝撃も相まって、なんとなく涙を拭われた目元が今でも熱い気がしてならない。
どちらも単純に慰めてくれただけだというのは判っている。
判っているのだけど、どうしても一人の男性として意識してしまうのだ。
最初のあの骨の軋む痛さと息苦しさはともかく、先程の頬に触れた指や肩に置かれた大きな手は、ほとんど掠める程度の触れ合いだったのに、チェイスがあんな風に笑顔を向けてきた所為か、妙に暖かく、こそばゆい感覚だけがリリアの中に刻みつけられてしまっていた。
彼は女性に慣れている人なのだろうか?
それとも自分が男性に免疫がないだけで、あれが普通なんだろうか?
強引という意味ではセスの方がはるかに上だが、チェイスの場合は強引というより突発的と言った方が当てはまる気がする。
顔立ちだって、どこかの彫像とまでは言わないが、幾分整っている部類に入るし、きっと自分じゃなくてもあんな事をされれば、皆、勘違いしてしまう筈だ。
その上でこうやって食事を一緒になんて言われたら、この先、どう接するのが正しいのかすら分からなくなってしまう。
確かにあの条件はもう意味を成さないものだと思うけど、色々な意味でもうちょっと心の準備をする時間が欲しい。
「あまり進んでいないようだが、やはり迷惑だったか?」
「い、いえっ」
ぼんやりとして、とうとう手も動かなくなってしまったリリアを不審に思ったのか、チェイスが心配そうに顔を覗き込んできた。
リリアは慌てて首を振って、サンドイッチを口いっぱいに頬張ったものの、時間が経って酢の沁み込んでしまったパンの後味に悪さに、けほけほとむせてしまい、口元を押さえる。
それを見たチェイスが更にごく自然な所作で立ち上がり、リリアの後ろに回ると、リリアの背を労わるように軽く叩いて、水を差し出してくる。
チェイスの行動に驚いた為か、そこで限界だったのか、咳き込んでいたリリアの口からは、いつの間にかひっくひっくと、可愛らしいしゃっくりが漏れ出ていた。
「大丈夫か? 落ち着いて、ゆっくり水を飲むといい」
「す、すみません」
料理にしろ所作にしろ、なんて情けないのかと、リリアは水を口に含みながら、とうとう指先まで染め上げて、涙目になる。
相手は平然としているのに、自分ばかりが過剰になって、挙句主人に世話をされてしまうメイドなんて、どこを探しても自分以外に見つかりはしないだろう。
いくらか落ち着いたリリアがしょんぼりとコップを作業台の上に置く姿を見て、チェイスはどう感じたのか、やはり困ったようにリリアの背から手を離した。
「ごめん。そんなに嫌だったとは……俺はどうも考えるより行動が先になってしまうことの方が多いから、君にはどうしても不快な思いをさせてしまう様だ。なるべく近づかない様に気を付けるから、そんなに怯えないでくれないか? 自業自得なのは判ってはいるが、その、そんな風に怯えられると……俺も、傷付く」
最後に呟かれた言葉はとても囁やかな声だったが、リリアの耳にはちゃんと届き、ハッとして顔を上げる。
本当に傷付いた様な顔をして項垂れるチェイスを見て、リリアは慌てて「誤解です!」と、自分でも驚くくらい大きな声をあげた。
「違うんですっ。こ、怖いとかじゃなくて、えっと、その……男の人に、慣れてなくて……その…………は、恥ずかしくって……えっと……料理も、あの、ご、ごめんなさい……美味しくない、です」
もう自分でも何を言っているのかよくわからない。
支離滅裂で、ここから消え去りたい衝動に駆られ、さっきっから熱くて仕方ない両耳と両頬をリリアが堪らず手と腕で隠す様に押えていると、それを聞いたチェイスが、「料理?」と呟く。
チェイスは暫くそのままポカンと口を開けて、リリアをまじまじと観察していたが、リリアの態度の意味を理解すると、途端に口元を押さえて、リリアと同じ様に耳を赤くして、あさっての方向へと視線を送った。
「……可愛い」
「……え?」
「っ!! 俺はっ、肉より魚が好きだから、これで構わない。充分美味いと、思う」
「は、はい……」
必死になって両耳を押さえていたリリアには、幸いチェイスが無意識に呟いた最初の一言は聞こえていなかったが、互いに気恥ずかしい思いをしている二人は、妙にギクシャクとした空気に包まれる。
なんとなく中空に視線を漂わせてから、自分の席に戻ったチェイスが新しいサンドイッチを一つ掴み、軽く咳払いをする。
「あー……これから来る御用聞きはどんな人物なんだ?」
「は、はいっ、ええっと……き、気さくな方です。あっ、ジェファーソン様みたいな」
グレンを引き合いに出したのがなにか癪に障ってしまったのか、チェイスは少々微妙な顔で口元を歪める。
その顔を見て、昨日の破天荒なグレンの奇行をリリアも思い出し、リリアは慌てて首を振った。
「あ、あの、ラルフさんは、気さくな方ですけど、裏表のない方で……ええっと……あ、力仕事もたまに手伝ってくれました。とてもいい方です」
「そうか。まぁ、流石にあんなのが世の中に三人も居るわけないか」
それはグレンの他に、もう一人同じ様な人が居るってことなんだろうか? と、リリアは首を傾げる。
リリアのその仕草に、チェイスが詰まった様な声を出して、ゴホンと再び咳き込んだ。
「いや。まぁ、そのうち会うこともあるだろうが、気にしないでくれ。それより思っていたよりも、俺は随分周りのものに迷惑をかけていたのだな。洗濯屋はいつもの事だが、御用聞きも含めて方々改めて礼をしなければならないだろう。落ち着いたら後日にでも、世話になった者達について細かく教えて貰えないだろうか?」
「は、はい。あっ! で、でも、ラルフさんは、今日で、もう会えなくなってしまいます」
「今日で? ……何故?」
「えっと、前の騒ぎの時に、その、ご迷惑をお掛けしてしまったので……私の従姉妹がラルフさんに、お詫びを申し出たんです。それで……えっと、ラルフさん、船に乗せて欲しいって。ずっと旅をしていて、船に乗るお金を貯める為に、御用聞きをしていらしたって。だから、今日で……トラブル様?」
たどたどしい説明が気に障ったのだろうか?
気付けばチェイスの顔がみるみる険しくなっていく。
どうして自分はこうなんだろうかとリリアがまた自己嫌悪に項垂れ始めると、チェイスはそれに気付かない様子で何か深く考え始めた。
「そのラルフという御用聞きは、長身で茶髪か?」
「ごめんなさ…………え? ……あ、えっと、背はナナリーさんより少し高いです。髪は……茶色というより、黒だと思います」
「そうか…………少し待っていてくれ。君に見てもらいたい物がある」
「あ、はい?」
どうやら起こっている様ではないようだと、リリアが安堵する中、チェイスは徐に立ち上がり、台所から足早に出て行く。
どうしたんだろう? と、首を捻っていると、裏口からノックが聞こえ、リリアは慌てて立ち上がる。
「リリアちゃん、いるかい?」
「は、はいっ」
少し早いなと思いながらも、聞き慣れたその声にリリアは普段通り返事を返し、扉を開ける。
「……え?」
「うん、ごめんね」
ごく普通の挨拶をする様に謝罪を口にした人物の、蝙蝠の翼の様に、たなびく大きな影がリリアを覆う。
突然のことに声を上げる間もなく、リリアはそのままその影に飲み込まれていく。
「待たせて悪い、実は…………リリア?」
台所の奥の廊下から慌ただしい足音をたててチェイスが戻ってきた時には、リリアは忽然とその場から姿を消し、裏口の扉が風に揺られ、キィキィと不気味な音をたてているだけだった。
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