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メイドAは何も知らない。

みすみ蓮華

メイドの知らない彼の奮闘。 1

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 霧の気配を感じる薄闇の中、きぃぃ……と、扉の軋む音が廊下に響く。
 足音もたてず、ひっそりと部屋の中から出てきたぼんやりとした人影は、自分以外の誰かの存在を気遣う様に、控えめに開いた扉をそっと閉めて、歩き出す。
 ランプの明かりだけを頼りに、暖がない為に一番冷え込む細く狭い廊下を抜けると、台所の作業台にランプを置いて、彼女ーーリリアは漸くホッと息をついた。


 今日はいつもなら誰もいない東棟に、この邸の主人と客人が眠っている。
 いつも以上に気合を入れ、桶に溜め置きしておいた水で手を洗う。
 氷水かと思える程に冷たい水を振り払い、赤くかじかむ指先を手巾で拭うと、早速卵と牛乳を手に取り、ボウルに移す。
 蜂蜜を加え、よくかき混ぜてから、ボウルの中にパンを浸し、今度はパンが卵に浸かりきるまでの時間を使ってサラダの準備に取り掛かる。
 以前のリリアなら何か一品作り終わるまで、他の料理に手が回らなかったが、同時に作業をこなすコツがわかり始めている。
 窯の火入れも火加減も、まだまだ完璧ではないけれど、極端な失敗をする事はもう殆どない。
 作り置きのスープが温まった頃には霧の気配も薄らぎ、外では地平線から陽が昇り始めていた。


 食堂のテーブルの上に一式準備を済ませると、リリアはまた台所へ戻り、昨日の残り物を軽く口にする。
 いつもと同じようでほんの少しだけいつもと違う日常に、リリアの胸はドキドキと高鳴っていた。


 昨日は色々な事があって怖い思いもたくさんしたし筈なのに、いつもの様に何かに怯え、不安で仕方ない気持ちは不思議と沸いてこない。
 グレンと近所の人達がリリアを笑わせようとしてくれたからだろうか?
 確かにそれも大きいと思う。
 でも何より彼の告白が衝撃的すぎたのが一番大きい。


 本当に驚いた、と思う。
 思う、と感じるのは、今でもまだ少しだけ現実味が湧かない所為かもしれない。
 それは納得出来ないとか、リリアの髪を乱暴に掴んだチェイスが帳面の主人と結び付かないからとかそういう理由からではない。
 むしろバツが悪そうに俯く彼の言葉の一つ一つは、乱暴だったあの扱いをした人物よりも、文面上の主人の印象の方がしっくり来るくらい真摯だった。
 グレンの前置き通りの人だった……と思う。
 だからこそ、悩ましい。


 リリアは食事を終えると、器の上に手にしていたフォークを伏せて置く。
 そしてエプロンのポケットから、手紙の束をそっと取り出し、これまでの懺悔と、丁寧な謝罪が綴られた手紙の最後にある彼の名前を指でなぞる。


「チェイス・トラブル=トラステン……子爵、様」


 彼の受け継いだ子爵位と、彼が幼い頃から慣れ親しんだ家の名前を口にして、リリアはほんの少し瞼を染める。
 トラステン伯爵はとても有名な方なのに、リリアはチェイスの名前もトラブル子爵の系譜も覚えていなかった。
 もっとちゃんと勉強していればすぐに判る事だったのに、恥ずかしい。
 リリアは誰が見ているわけでもないのに手紙で顔を覆い隠す。


 リリアの数々の失態に、あの手抜きとしか思えない料理の数々、そのどれもこれも受け入れたのはあの彼だ。
 しかも顔が見えない事を良い事に、帳面では大胆にも色んな事を彼に話してしまった気がする。
 一つ一つ思い返すと、彼を恐ろしいと思っていた気持ちよりも、どんな顔で彼の前に立てば良いのかという気恥ずかしさの方が大いに勝ってしまい、可能ならテーブルの下に隠れて、そこに居ついてしまいたい。


 リリアが一人身悶えしていると、食堂の方からカチャリとノブを回す音が聞こえてくる。
 リリアは心臓を跳ね上げて、慌てて手紙をポケットの中へとしまい、胸を押さえながら恐る恐る食堂へと顔を出す。


 グレンだったら良いなと密かに思ってしまったものの、眠たげな顔で席に着こうとしていたのは、残念ながらチェイスの方だった。
 こちらに気付いていない様子で、頭を掻きながらパンを無造作に手に取るチェイスを目にして、リリアは壁の裏で、ギュッと拳を握り締める。


「あ……あのっ!」


 真っ赤な顔で、かなり上ずった可愛らしい声をリリアが上げると、チェイスは手にしていたパンを掴んだまま、驚いた顔でリリアの方へ首を動かす。


「お、おはよう、ござい、ますっ」
「……おはよう」


 言い淀みながらもいつもより大きな声で、リリアはなんとか挨拶をする。
 まさかリリアが顔を出すとは思っていなかったのであろうチェイスの方も、心なしかその頬を染めてリリアに返したが、緊張していたリリアはそれに気づく余裕はなかった。


「えっと……その、ス、スープ、要りません、か?」
「……あ、あぁ。頼む」
「い、今お持ちしますっ」


 危うい呂律で、リリアにしてはかなり早口に言うと、急いでちょろ火の掛かった窯へと向かう。
 鍋のスープをひと回しして、片手で抱えるには少々手に余る位の大きさはあるスープ壺を抱え、その壺に並々とスープを入れると、リリアは両手で壺を持ち直して、食堂に戻る。
 慎重に、慎重に、と、ふらふらした足取りで、恐る恐るこちらに向かってくるリリアの姿に、チェイスはギョッとしていたが、壺を運ぶ事に集中しているリリアはやはりその事に気付かない。


「待て、そこで止まれ」
「え? あ、はいっ」


 チェイスの座る場所まであと半分というところでチェイスが立ち上がり、リリアをその場に留まらせる。
 何か不備があっただろうかと不安顔を覗かせたリリアに構わず、チェイスはいとも簡単に壺をリリアから取り上げ、小脇に抱えて自分の皿にスープを装った。


「あ、あの、私が」
「無理はしなくていい。この壺は元々男性給仕が晩餐で使っていた物だから、少しばかり大きいんだ。君の手には余るだろう。あと、量もこんなに沢山は必要ない。まぁ、今日はグレンも居るから食べるとは思うが……前に適量を頼むと言わなかったか?」
「ご、ごめんなさい……」


 また失態を犯してしまった。と、リリアは耳まで朱を走らせ、俯く。
 なにせ亡くなった父や伯父のマルスを含め、リリアの周りに居た男性は皆、信じられないくらいの量の食事を口にしていた。
 だからチェイスに "適量" と指摘され、量が足りなかったのかと、リリアは勝手に思い込んでいたのだ。


 使用する道具も、チェイスが食す食事の量も、きちんと確認を取っていればこんな事にはならなかったのに。
 リリアはエプロンの裾を握りしめ、目端にじわりと涙を浮かべる。
 今の一言でリリアが泣き出しそうだと気付いたチェイスは、テーブルの上にスープ壺を置くと、慌ててリリアの元へと駆け寄り、「違う!」と、声を上げた。


「責めてるわけじゃなくってだな……その、俺も色々説明不足ではあったし、次から気を付けてくれればいいから」
「はい……」


 なるべく諭すようにと、ぶっきらぼうに言ったつもりはなかったのにと、チェイスはリリアがますます身を縮めてしまったのを見て、溜息を吐き出す。
 その溜息で、ますます項垂れるリリアの小さな両手を、掬うようにして右手に取ると、チェイスは左手で彼女の手を包み込んだ。


「本当に、責めたいわけじゃない。指導する人間もいない中、君は一人でよくやってくれていると思う。ここまで邸を守ってくれて、君にどれだけ感謝しても足りないくらいだ。だからこそ無理はしてほしくないんだ。元々一人でやってきてた俺のツケを、君に背負わせる形になってしまっていて、本当に申し訳ない。ここを引き払うまでは、俺も自分で出来る事はなるべく自分でするし、君の手に余るような仕事ならちゃんと考える。だから遠慮したり、一人で抱え込んだりしないでくれ」
「……えっ? お引越し、なさるんですか……?」


 初めて聞く事実に、驚きのあまりリリアは浮かびかけていた涙を引っ込める。
 そんなことは、あの手紙だって書いてなかった。
 もしかして泥棒からこの邸を守りきれなかった所為で、気味が悪くなってしまったのだろうか?


「私が、泥棒から守れなかったから……」
「そうじゃない! ……そうじゃないんだ。確かに先日の侵入者がきっかけにはなったかもしれないけど、泥棒自体は……恥ずかしい話、うちでは今に始まったことじゃないんだ。だからこそ、ここを離れたほうがいいと判断した。昨日は君も無事で済んだかもしれない。だけどこの先がそうであるとは限らない。特に俺は常に危険と隣り合わせの仕事をしているから、邸に君が一人で居て、昨日と違い襲われるような事になりでもしたら、取り返しのつかない事になりかねない。これ以上君を俺の都合に巻き込むのは心苦しい。……君の次の勤め先は、もう決してこのような事がないように、責任を持って良い場所を探すつもりだ」
「……私、クビ、なんですか?」


 やっぱりそうなのか……と、リリアはチェイスに握られた両手をぼんやりと見下ろす。
 仕方がない。あの手紙を読む前からある程度は覚悟だってしていた筈だ。
 なのにどうしてだろう。実際にこうやって断られてしまうと、城を辞めた時や、伯爵家から追い出された時とは比べられないくらい胸が苦しい。
 働いていた期間は決して長いとは言えないのに、思い浮かぶのはナナリーやアミリスといった近所の人達。それにチェイスのいつでもリリアを気遣ってくれていた、あの優しげで綺麗な筆記ばかりだ。


 堪えきれず、リリアのセピア色の瞳から白く輝く真珠のような大粒の雫が、チェイスのゴツゴツとした大きな手の甲に吸い込まれていく。
 唇を歪め、声もなく涙するリリアの姿に、チェイスは思わず手を離し、戸惑いを露わにした。


「そんな風に泣かないでくれ。君も、俺の所で働くなんて嫌だろう? それとも、触れられるのが嫌だったのか? また俺は、君を怖がらせてしまったのか……ごめん。もう触れないから、泣き止んでくれないか? 君に泣かれると俺は……どうしていいかわからなくなる」


 ほとほと困り果てた声でチェイスが額を抑えると、リリアは何も言えないまま力一杯首を横に振る。
 怖いなんてもう殆ど感じていない。何も出来ずにこのままここを去るのが嫌だ。
 やっと弱虫なだけの自分から変われそうな気がしたのに、失態を残しただけで終わるなんて辛すぎる。
 なによりこれでお別れだなんて、そんなのはあんまりだ。


「……たい、です」


 震え、掠れて上手く動かない口と喉をなんとか動かそうと、リリアは一度唾を飲み込む。
 上手く聞き取れなかったチェイスが、怪訝そうに膝を折り、リリアの顔を覗き込むと、リリアはポツポツと言葉を漏らした。


「私……ここが好き、です。ここに、居たいです。ここで……ブル様の……お帰りを……待ち、したい……です……ど、泥棒、は……もう……来ない、よに……が、頑張ります、から。だ、だから……っ」


 どうか……と、消え入りそうなリリアの言葉の続きは、衝動的に動いてしまったチェイスの腕の中に掻き消える。
 突然の事に驚いて、リリアの喉からひゅうっと空気の抜ける音が漏れ、ほんの一瞬、息が止まる。
 自分の身に起きた事が分からず、目を見開いて硬直するリリアを他所に、チェイスはその腕に力を込めた。


「ごめんっ!! 俺が浅はかだった! 君がどう考えてるのか、話も聞かずに決める事じゃなかった。引っ越さなくていい方法を考えるから、どうかもう泣かないでくれ」


 苦しい上に、驚きすぎて、涙などもうとっくに渇いてしまっているとも言えず、リリアは瞬きも忘れて硬直する。
 耳元で聞こえる心音が、果たしてどちらのものなのか、もはやわからない位身体中に反響していた。


 伯父以外の男性から慰められるのは勿論、こんな風に抱きしめられるのも当然初めてだ。
 見た目は細いのに、リリアが身動ぎをしようとしてもビクともしない体躯は、セスのときのように怖いとは感じないが、顔の方にばかり血が巡っていく。


 そうして各々が自分の思考でいっぱいいっぱいになっている所に、図ったような絶妙なタイミングで、唐突に明後日の方向から間延びした声が二人の間に割って入った。


「チェイス君、チェイス君。君がそんなに情熱的な男だったのはとても意外で見てて凄く面白いし、とても素晴らしい事だけど、リリアちゃん、すごく苦しそうだし、僕もそろそろ落ち着いてご飯が食べたいから、出来ればご飯の後でゆっくり、いちゃついてくれないかなぁ?」
「「っ!!!?」」


 いつの間に食堂にいたのか、リリアとチェイスが声が聞こえてきた方向を振り向けば、グレンがテーブルに肘をつきながらニヤニヤとこちらを眺め、口の中に何かを頬張り、モグモグと動かしていた。
 それを見たチェイスが、頭が真っ白になって硬直したままのリリアから慌てて離れ、グレンをキッと睨みつける。
 よくよくグレンの皿を見れば、パンもサラダも殆どからになっていた上に、チェイスがリリアから取り上げた壺の中のスープも半分以上もかさが減っていた。


「…………いつから見てた」
 地を這うような声でチェイスがグレンに問えば、グレンは手にしたスプーンで、スープ壺の側面をコツコツと叩いて楽しそうに首を傾げる。
「ん〜〜? 君が、違う! って、叫んだあたりからかなぁ? あ、リリアちゃん、このパンおかわりってないかな? 美味しいからもうちょっと食べたいんだけ……どっ?!」


 太々しくも飄々としてグレンが言えば、チェイスにしては珍しく、見た事もないくらい顔を真っ赤にして手近にあったフォークを掴み、グレンに投げる。


「ちょ、ちょっと待った!! 僕、伯爵っ! 君、子爵っ!!」
「知るかっ! 黙れっ!!」


 激怒したチェイスの手により、手当たり次第に宙を舞う銀食器から、グレンが慌てて逃げ出す中、リリアは、あまりの恥ずかしさから顔を両手で覆い隠して、「はい……」と、小さくグレンに返事を返していた。

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