メイドAは何も知らない。

みすみ蓮華

メイドの知らない恋する感情。 1

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「んっ……えっ、朝!?」


 カーテンの隙間から差し込む日差しを受けて、リリアはギョッとして目を見開く。
 朝食の準備をしなきゃいけないのにと、慌てて飛び起きようとすると、額からスルリとなにか生暖かいものが滑り落ちた。
 振り向けば、湿った手巾と水の入った氷のうが吊り道具と共に枕の上に転がっているのが目に入る。
 何故こんなものが?
 リリアが首を傾げていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
 反射的にリリアが返事を返そうとした矢先、中の反応を伺うことなく部屋に入ってきたトレイを抱えたナナリーが、一瞬目を瞠った後、ホッとした様にリリアに微笑んだ。


「あらっ、ごめんなさい。起きていたのね。具合はどうかしら? 熱は下がった?」
「えっと、は、い……?」


 ナナリーが部屋に入ってくるこの状況と、された質問の意味が判らず、リリアはぎこちなく返事を返し、曖昧に頷く。
 熱と言われればほんの少し身体が怠い様な気がする。
 体調は悪くなかった筈なのに、何でだろう?
 その前に自分はいつ眠ったのだろうか?
 夕飯の支度をしていた筈だけど……


「あっ……」


 だんだん前日の状況を思い出してきて、リリアは思わず辺りを見渡す。
 セスが強引に邸から連れ出そうとした所までは思い出せたが、その後のことがよく思い出せない。
 部屋の中を見る限り、セスの家でも、伯父の家に帰ったわけでもないみたいだけど、あの後一体どうなったのだろうか。


 困惑してキョロキョロとするリリアを見て、ナナリーが困った様に微苦笑する。
 食事の乗ったトレイをリリアに渡し、ナナリーはリリアの額に触れると、「うん」とひとつ頷いた。


「熱は下がったみたいね。よかったよかった。私、今来たばかりなのよ。旦那様に頼まれてね。それ、旦那様があなたに食べさせて欲しいって。食欲はどう? 昨日の夜から何も食べてないでしょ?無理にでも少し何か入れておいたほうが良いわ」
「えっ?! あの、だ、旦那様って……」
「このお屋敷の家主様。随分若い方なのね? リリアちゃんより少し上くらいなのかしら? もっとお年を召した方かと思っていたからビックリしたわ」
「え……えぇっ?!」


 手渡された食事とナナリーを交互に見つめ、リリアは目を白黒とさせる。
 具合が悪くなった後、何がどうなってこうなっているのかまるで理解できないが、ただひとつわかったのは、雇い主に心配をかけた上に食事の用意までさせてしまったらしいということだけだった。
 メイドが寝坊した上に主人に食事の用意までさせてしまうとは大失態もいいところだ。
 いや、その前に私情でとんでもない騒ぎを起こしてしまった。


「どうしよう……旦那様になんてお詫びを……」


 リリアの噂も気にかけず拾ってくれた上に、かなり良くして貰っているのに、こんな恩を仇で返すような事をして、どんなに温厚な旦那様でも看過できないだろう。
 クビになるだけで済むなら良いが、信頼を失ってしまったのではと思うと、リリアの目に自然と熱いものがこみ上げてくる。
 リリアのしゅんと落ち込んだ様を見て、ナナリーが慌ててリリアの背中に優しく触れた。


「あぁ! ごめんなさい。説明するのが先だったわね。大丈夫よ。リリアちゃんの事怒ってたりしてなかったわ。それどころか貴女一人に任せっきりで、危険な目に合わせて申し訳ないことをしたって、かなり落ち込んでいたわね。ラルフ君が私を呼びに来た後、セス君って言ったかしら? あの子達にはとりあえず帰ってもらって、アミリスさんも呼んで、二人で看病してたんだけど、暫くして家主さんが帰ってきてね。貴女が倒れたことを知って、酷く狼狽えていたのよ? 貴女一人に仕事を任せる様な人だから、どんな偏屈ジジイかと思ってたんだけど、案外似た者同士だったってことかしら?」
「似た者同士?」


 誰と誰が?と、首を傾げたリリアを見て、ナナリーは「ふふふ」と目を細める。


「なんでもないわ。でも、しっかりした方でもあったわね。リリアちゃんがここで働き出す前はお料理は自分でしていたみたいだし、今朝私を呼びに来るまでは、家主さんがリリアちゃんを見ていてくれたみたいよ?」


 そう言ってナナリーは、リリアの後ろに落ちていた氷のうをつまみ上げて掲げてみせる。
 中は全て水に変わってしまっていたが、元は氷が入っていた筈だ。
 それが意味するところに気がついて、リリアは驚いて氷のうを見た後、手元の料理に視線を移す。


「そんな、じゃあこれ……」


 トレイに乗っているのは、リリアが作るスクランブルエッグなんかと比べ物にならない。
 綺麗な半月型のオムレツに、トロトロになるまで煮込んだ芋のポタージュ、それに塩を振って焼いたトマトとハムが一切れに、蜂蜜付きのパンまで用意してある。


 種類の多さもさることながら、こんなに完璧で豪華な朝食はいつぶりだろうか?
 少なくともリリアがここで働き始めてお目にかかった事はない。


(旦那様の方がちゃんとした料理をご用意出来るなんて……)


 ボロボロのスクランブルエッグに、既製品のニシン漬けを文句も言わず毎回残さず食べてくれる主人にどうお詫びすればいいと言うのだろうか。
 試しにスープを一口、口にしてみれば、芋の微かな甘みと、ポタージュ特有の繊細な舌触りが口の中で広がり、リリアは益々落ち込んだ。
 そんなリリアの心情を慮って、ナナリーがまた苦笑する。


「今日は何もしなくていいからゆっくり休みなさいって。昨日のセス君? あの子がまた今日来るかもしれないし、それまでは私もここにいる様にって頼まれたから安心してね。」
「そんな、色々とご迷惑をお掛けしてすみません。あの、私はもう大丈夫ですから、ナナリーさんは、お店に戻って下さい。後は自分で……」
「あら、ダメよ。昨日は本当に大変だったんだから。あんな事があった後で貴女を一人残して戻るなんて、気になって仕事にならないわ。あとね、もう一つ。お手紙を預かってて、これは色々落ち着いてから読んでほしいって仰っていたわ」


 そう言ってナナリーはエプロンのポケットから封筒を一つ取り出し、サイドテーブルにそれを置く。
 主人の几帳面な性格が現れているかの様に綺麗に押されていた封蝋印は、トラステン伯爵家の紋章とは少し違う様な気がして、リリアは「あれ?」と瞬く。
 リリアは貴族ではないが、家庭教師はちゃんといた為、有名な貴族様のお名前や紋章は小さい頃から憶えさせられていた。
 使用人契約に使われていた書類の紋章もちゃんと確認をしていたので、見間違うはずはない。


(もしかして、傍系に当たられる方なのかな?)


 流石にそこまできちんと憶えてなかった為、リリアはあれでもないこれでもないと必死で記憶を手繰り寄せる。
 顔を絶対に合わせないというのが条件だったし、総責任はトラステン伯爵にあった為信頼出来るとマルスも言っていたし、彼方にも何か事情がある様だったので、本来の家主に関してはリリアも詮索しない様に勤めていたので伯爵のご親族という事以外は詳しく知らない。
 首を捻るリリアの横で、リリアの心情を知ってか知らずかナナリーも困った様子で首を傾げていた。


「それを預かった時、なんだかとても思い詰めた顔をなさっていたわ。きっとリリアちゃんが嫌な思いをするだろうから側にいてあげて欲しいって。もし不快になる様なら燃やして貰っても構わないとまでおっしゃて。私はご事情を存じ上げないからなんとも言えないんだけど、何か心当たりとかある?」
「まさか! 直接お話しをした事はないですし、それなのに、こんなに気を使って頂いて、申し訳ないくらいで……や、やっぱりクビに……」


 考えられるのはやはりそれくらいしかない。
 そこまで長い期間ではなかったが、これまで何も言われずに働かせて貰っていた事の方がおかしいのだ。
 手紙を呆然と眺めながら絶望に打ちひしがれるリリアを見て、ナナリーが「それはないと思うけど……」と、眉を寄せる。


「どっちにしても、その様子だと、やっぱりセス君って子の事を解決してからの方が良いんじゃないかしら? 相談が必要ならお姉さんが幾らでも乗ってあげるから何でも話しなさい? あ、でもその前にご飯はちゃんと食べましょうね」


 にっこりと微笑むナナリーを見て、そうだったとリリアは更に泣きそうになる。
 励ましてくれるナナリーの気遣いとは裏腹に、失態ばかりで何も出来ない自分に嫌悪しながら、リリアは主人が用意してくれた朝食をちびちびと咀嚼した。

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