メイドAは何も知らない。

みすみ蓮華

メイドの知らない約束事。 4

 
「家主は? 今、居るのか?」


 驚いた顔で固まるリリアに構わず、セスは空いた手で扉に手をかけ、警戒している様子でキョロキョロと、不躾に屋敷の中を覗き込む。
 訳も分からないままリリアが強張った顔で首を振ると、セスはリリアの腕を引っ張って、かなり乱暴に屋敷の中からリリアを引きずり出した。


「よし、なら今のうちに帰るぞ。可哀想に。もう大丈夫だからな」
「あ、あの……」


 帰るとはどういうことだろう?
 大体セスとは顔見知りではあっても、まともに話した事のある記憶はないし、親しい間柄、という訳でも勿論ない。何故彼はリリアを訪ねて来たのだろうか?
 リリアが足を縺れさせながら目を白黒とさせて引きずられている中、セスは憤慨した様子で何やらぶつぶつと独り言を呟いていた。


「だから反対だったんだ。こうなるんじゃないかって思ってたら案の定だ。花嫁修業どころか、これじゃただいい様に使われてるだけだ。城ならまだ我慢出来たが、こんな扱いはお前が受けるべきじゃない。準男爵も社長もどうかしてる。どうせお前は俺の所に嫁ぐ予定だったんだ。俺が全部面倒見てやるから先の事は何も心配する必要はない」
「えっ?」


 正に寝耳に水である。
 確かに自分は花嫁修業を兼ねて城に奉公へ上がったが、それはセスに嫁ぐ為の修業だったなんて話は、伯父のマルスも、従姉妹のユリアも一言も言っていなかった。
 大体二人とも、自分が典型的な船乗りの男が大の苦手だという事を知っている筈だ。
 それがどうしてこうなったのか、リリアには全く見当がつかない。


「あ、あのっ、私は、セスさんと……その……結婚……しなくてはいけないん、ですか?」


 両親がいなくなった今、一応のリリアの保護者はマルスとユリアだ。
 二人の決定ならどんなに嫌でも世話になっている手前、従わなくてはならないだろう。
 折角慣れてきた仕事も辞めなくてはいけないのかと思うと、リリアの声は自然と萎んでいった。


 セスの方もリリアの反応が予想外だった様で、外門を目前にしてピタリと足を止め、驚いた顔でリリアを振り返る。
「何言ってるんだ。俺がなんで船長目指してるのか、まさか知らないなんて言わないよな? 仲間内では皆知ってるし、そういう約束の筈だ。……お前、何も聞いてないのか?」


 訝しむセスに、リリアは真っ青な顔で首を振って答える。
 仲間内では皆知ってると言われても、リリアは船乗りではないし、船に近付こうとも思わないのだから知るわけがない。
 マルスはなんでリリアに内緒でそんな約束をしたのだろうか?
 いやもしかしたら、リリアを心配したユリアがセスとそういう約束をしたのかも知れない。
 ユリアはリリアが船乗りを苦手と思っている事を知っていても、海の男こそが頼れる男だと思っている節があるのだ。


 しゅんとして俯いてしまったリリアをどう思ったのか、セスはがっくりと肩を落とし、大きな溜息を吐き出す。
 その大袈裟な声にリリアがピクリと肩を揺らしたが、セスはその事に気付かない様子で、リリアの両肩をがっしりと掴んだ。


「まぁ、親父さん達も殆ど航海に出てたからな。あのな、俺はお前が船梯子から落ちた時からお前を嫁に貰うって決めてたんだ。あの時まだお前は小さかったからあんまり憶えてないんだろうけど、俺はお前を助けた時から、一生かけて守るって誓ったんだよ。親父さんは最低でも船長を任せられる男でないとリリアはやれないっていつも言ってたからな。副船長じゃまだ合格は貰えないんだろうけど、お前と釣り合うようになるまでそんな時間はかからないだろうし、親父さんがまだ生きてて、お前がこんな所で使いっ走りやらされてるなんて知ったら、俺の所に嫁にやる方がマシだって言ったに違いない。だからお前は……リリア?」


 胸元で両手を握りしめ、小刻みに震えるリリアに気付き、セスはリリアの顔を覗き込む。
 リリアの顔色はますます顔色を悪くし、茶色い瞳は焦点を見失っていた。


 憶えているかいないかと言われれば、よく憶えている。
 あれはリリア4歳の時、両親が久々に帰国した日のことだ。
 処女航海を終えたばかりの真新しいウォーレンス商会の商船は、当時の最新技術を惜しみなく駆使した大型貿易船として注目を浴びていた。
 その頃はまだリリアにも船への憧れがあったし、何より長旅を終えて帰ってくる両親に会えるのが楽しみで、前日になるとなかなか寝付けずに毎回乳母に怒られる程度には、活発な女の子だった様な気がする。


 その日はいつもより長い航海だった事もあって、特にはしゃいでいた。
 甲板から降りてくるを見るや否や両親に喜んで飛びつき、リリアはとても幸せだった。
 そして事故は起きてしまう。
 父と母が出迎え客や船員達と話をしている間、リリアはあまりに退屈で、ふと、あの船に乗ってみようと子供らしい好奇心で、荷運びで使われていた船梯子に駆け寄った。
 厚手の板を斜めに掛けただけの乗組員専用の細い船梯子は、恐る恐る一歩足を乗せてみると、陸地とは違って海の波と同じ様にゆらゆらと揺れる不思議な感覚がする。
 それがとても面白くて、リリアは無邪気にそこを行ったり来たりして遊んでいたのだ。
 丁度そこへ山程の積荷を抱えたガタイのいい船員の一人が、リリアと鉢合わせてしまった。
 不運にもその時、リリアは船梯子の上で膝を抱えて屈み込み、ゆらゆらと眼下で揺れる波に夢中になって、船員の存在に気付かなかったし、船員の方も視界が悪い状況で、小さな子供がまさかそんな所で遊んでいるなんて思ってもいなかったのだろう。


 船員が全体重を船梯子にかけたその瞬間、リリアはあっという間にバランスを崩し、背中から底の見えない水の中へと吸い寄せられた。
 落ちる瞬間見えたのは、荷を抱え、驚いた顔をしたガタイのいい若い船員。
 落ちた後は大量の塩水が口から入り、ただただ苦しくて必死にもがいていたのだが、リリアはそれ以外の事はよく憶えていない。
 その時リリアを助けたのは、まだ10歳にもなっていない、当時はまだ見習いのセスだった。
 それ以来、リリアは海も船乗りも苦手になってしまったのだから、憶えていない訳がない。


「あ、いたいた。リリアちゃん。台所に居ないと思ったら、表の方に出てたんだね。頼まれてたハムとか香辛料とか持ってきたんだけど、お客さん?」


 リリアがぼんやりと俯いていると、セスとはまた違った爽やかな男性の声が聞こえ、リリアとセスは弾かれた様に振り向く。
 声のした方向をみれば、紙袋を小脇に抱えた黒髪の青年が不思議そうに首を傾げて近づいてくるのが見えた。
「ラルフさんっ!」


 リリアは今にも泣き出しそうな声でそう叫ぶと、セスの手を振り切って、いつもの様に御用聞きにやってきたであろうラルフの元へと駆け出していく。
「えっ? わっわっ?!」


 何事かと目を白黒させるラルフの背中にリリアはそのままくるりと回り込む。
 唖然としてその様子を見ていたセスは、二人を交互に観察すると、やはり物凄い形相でラルフをギロリと睨みつけた。


「お前っ、リリアのなんだ!返答次第じゃただじゃおかねぇぞ!!」
「えっ? えぇえっ?! 何と言われても……えーっと、リリアちゃん、知り合い?」


 困った様子で後頭部を掻きながら、ラルフがリリアに振り向けば、その態度が気に入らなかったのか、リリアが返事を返す前に、セスがラルフの胸ぐらを掴む。
 セスよりもラルフの方が頭一つ分背が高いのだが、ラルフの両足は信じられないことに易々と地面から浮き上がっていた。


「ふざけんなよ。気安くリリアを呼ぶんじゃねぇ。こいつはな、こう見えても良いところのお嬢様なんだよ。お前みたいに得体の知れないやつがリリアの周りをうろちょろして、許されると思ってんのか?!」
「ぐ……」
「や、やめてっ!」


 今にも殴りかかりそうなセスに、リリアは蚊の鳴くような声で訴え、彼の太い腕に飛びつく。
 セスはラルフを睨みつけたまま舌打ちを一つ打つと、突き放す様にラルフを解放し、その手で再びリリアの腕を掴んで門の外へと歩き出す。


「付き人も無しでこんな所に一人でいるから変な男に引っかかるんだ! 後で家主には文句を言わなければ……さぁ、とっとと帰るぞ」


 青い顔のままよろめいたリリアは、背後で咳き込むラルフに振り返りかけて逡巡する。
 もしここでまたラルフに助けを求めようとすれば、今度こそラルフはセスに殴られてしまうかもしれない。
 自分の所為で関係ない人が傷つくのはいやだ。
 でも、このままセスについて行けばもう此処では暮らせなくなるし、結婚しなくてはいけない。
 ぐんぐんと進んでいこうとするセスの前方から、微かに潮の匂いがして、リリアは身を硬くする。


「やっ……」
「リリア?」


 抵抗された事に驚いて振り返ったセスの姿が、あの時の船乗りの姿と重なって、リリアの恐怖は限界に達し、リリアは反射的に口元を押さえる。


「リリア!!」
「リリアちゃん?!」


 込み上げる吐き気に耐え切れず、その場に崩れ落ちたリリアは、ラルフがナナリーを呼ぶまで潮の匂いに囚われ続けていた。

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