ベア・サモナー

青蘭(あおらぎ)

32.時を経た再会 -最強召喚士の過ちー

   ***


『スカイベート』

 涼しく心地よい旋律の響きに似た声。どんなに悪夢にうなされようと、心に温かさが芽生えて寝覚めを助けてくれる。
 赤い皮膚と裏側にいくほど白くなる皮膚のグラデショーンを優しく撫でられ、その長い首に巻かれるように体を預けた金髪の女性を、赤い竜はその大きな真紅の瞳で見た。

『どうした?』

 低音の低い声を女もまた、心地よさげに聞いていた。

『私は、幸せ者だな』
『なんだ? 急に』

 女は目を閉じ、赤い竜の首を抱くように身を寄せた。いつもとは違う哀愁の陰りを見せる主に、赤竜は身じろぎして話を聞く体勢を作る。
 女は一つに結った長い髪を揺らし、柔らかな竜の皮膚に額を押しつけ、俯く。

『短い時間だったけど、お前たちと出会えてよかった。初めはこの体を蝕み続ける彩流を和らげるために、召喚を試みたんだ。そんな理由でお前たちを召喚したこと、許してほしい』

 今さら何を言っているのかと竜は疑問に思ったが、主の様子がやはり少し変なので、黙っていた。しかしいくら次の言葉を待っても、主は何も言わなかった。代わりに、咳をいつもより多くしている。

『クリス?』

 咳が止まると、女は自嘲して少し笑った。その後についてくる鉄の臭い。
 竜はそれが血の臭いであることを知っていた。
 動揺する赤竜に、女は素直に自分の置かれた状況を、ルビー玉のような赤い瞳に映してやった。
 掌に広がる赤黒い血の跡が、竜をさらに動揺させる。

『お前……そんなに悪かったのか?』

 確かに主は初めに会った時より咳をするようになっていた。主があまりに気丈だったので、病気は病気でもここまで悪いとは思っていなかった。
 首を持ち上げ、懐にいられては見えない主を確認しようとしたが、女は腕に力を込めてそれを阻んだ。

『今動かれると支えがなくなる。このままで聞いて』

 竜は動けない自分に代わって、もう一匹の竜に見てもらうために声をかけようとしたが、それも止められた。

『ランザードルクには言わないで』
『どうして』
『知らないままで、いてほしいから……』

 女のもう一匹の随従者である青竜が、どれほど自分のことを慕ってくれているか知っているからこそ、女は秘密にしてほしいと言った。青竜は気遣えば気遣い返す若くて優しい思考の持ち主だ。それが、女には悲しくなるほど切なかった。

『死ぬ……つもりか?』

 赤竜はさっきとは違う冷静さで訊いた。本当は頭の中などパニックになっていてもおかしくない。大切な人が死にそうな時に混乱しない方がおかしい。しかし赤竜は混乱して今、事を大きくするのを望まない主の意思を尊重した。赤竜は主の意思に応えてやりたかった。
 それが分かって、女も安堵したように深く身を預け、礼を言った。また咳をし、喀血する。

『私の病気は六会の日を迎える度に徐々に悪化していてな。これからさらに悪くなっていけば、ゆくゆくは死ぬだろう。そんな現状を今ランザーに言ったら、この、残されたお前たちとの時間が台無しだ』
『私には言ってもいいのか?』
『スカイベートは解ってくれると思った。すまない、つらい思いをさせる』

 主は何もかも分かっている。赤竜はそれ以上追求しなかった。主が思うままに振舞うことをすでに決意できていたから。

 ――それから程なくして訪れる最悪の事態。

 顕著に現れた主の衰弱の仕方と喀血に、青い竜は女を問い詰めた。どんなに言っても口を割らなかった女は、この日が最後だと確信したかのように話し始めたのだ。

『ごめん、二人とも。もっとずっと一緒にいたかったのに……。一緒にいてあげられなくて、ごめんね』

 話し終わって、やるせない涙が流れる。辛い思いで見届けようとする赤竜に対して、今、真実を聞かされ納得のいかない青竜は、興奮して叫んでいた。

『だめだ、俺は許さないぞ! クリスが死ぬなんて絶対に認めない!』
『ランザー……』

 何も知らされていなかった竜の怒号を、赤竜は自分に重ねて見ていた。もし今、青竜と同じ立場に立たされていたら、自分もこんなふうに主に思いをぶつけられただろうか。必死に、覆らない状況を変えようとして、叫べただろうか。

『本当は生きたいんだろ! ずっと生きていたいんだろ、クリス』
『もう、いいんだ。……もう』

 オッドアイの女はすでに目を閉じ、二匹とともにいる時間を諦めていた。

『よくない! 一緒に生きるんだ!』

 生きる気力を取り戻させようと青竜は必死だった。

『まだ行ってない所はたくさんあるんだ。全世界を見るのがクリスの夢なんだろ! 本当はもっといろんな世界見たいんだろ!』
『見たいさ、見たいけどっ……どうにもならないじゃないか』

 涙が止まらなかった。悔しさと理不尽さとやるせなさと青竜の愛情に、女は涙が止められなかった。
 すべてが終わりに近づいている現実が怖かった。
 何もかもを諦めても、死ぬのは嫌だった。

『私だって、死にたく……』

 大きな咳に言葉を持っていかれる。血まみれの口内が、さらに別れが近いことを告げていた。
 女の朱色の唇から、赤く鮮やかな線がこぼれていく。とめどなく。女の生命が終わりを告げようとしている。

『嫌だ! 俺は離れたくない! クリス!』

 掴みかかろうとした大きな手を赤竜は阻み、主の運命を受け入れたように首をゆっくり振った。

『肉体の別れは生命に等しく訪れる理だ。それが早まっただけのこと。甘受しろ』
『なんでお前はそんなに冷静でいられるんだよ! クリスが目の前で苦しんでるのに、なんでお前は!』
『私だって助けたい。思いは同じだ』

 深淵の赤いマグマ色の瞳と、深海の青い海色の瞳が交錯する。強い者がお互いの強い瞳を見て、その眼光が何を意味するのか、分からないはずがなかった。
 青竜は短い首をもたげ、人間のように脱力し、俯いた。
 主が強大な魔力を持って生まれてきた時から、こうなることは避けられなかったのだ。
 万策などない。もう尽きたのだ。

『まだ、ある』

 俯いたままで、青竜がふっと笑ったような気がした。その不気味な笑みが、赤竜には邪悪なものに感じられた。

『俺の中で、生き続ければいい』

 赤竜は露骨に嫌悪を露にした。それは、食うという行為に他ならない言葉だからだ。

『何を言っている? 自分が何を言っているのか、分かっているのか?』
『分かってるよ』

 青竜が女のぐったりした体を食い入るように見つめた。崩れていく愛する者と一つになることを、青竜は望んでいた。
 女の儚い美しさに引き寄せられるように青竜は一歩近づく。欲情するように引きつった顔が、青竜の理性が狂い始めたことを物語っている。

『ランザー』
『どけ、スカイベート。クリスだってそれを望んでる』
『ランザードルク!』

 女と青竜の間に割って入る。巨体が二匹、睨み合って対峙した。

『そこをどけ。早くしないとクリスが死んでしまう』
『やらせん』

 首の長い赤竜が睨み合ったまま屈んだ姿勢を取る。背筋を伸ばし、強固な意志を貫き通すために相棒と戦おうとも、友に罪を犯させるわけにはいかない。主に罪を着せるわけにはいかない。
 いや、そんなのは建前だ。クリスを渡したくない。そんな、もっと単純な争いだったのかもしれない。
 二匹は距離を取ると、地獄の業火と現世の鬼火色が宿った炎をぶつけ合った。


   ***

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品