巡り物語

観楽

異世界に続く階段


 私、階段が苦手なんです。あ、いえ、えっと、怖い話の「怪談」じゃなくて、その、上ったり下りたりする、ええ、そうです、その「階段」です。はい、ですよね、階段が怖いって意味がわかりませんよね。でも、階段を前にすると、私、どうしても足が震えるんですよ。だから、ひとりの時はできるだけエレベーターを使うようにしています。いえ、落ちるのが怖い、というわけではないんです。子どもの頃、上に上る階段の先が暗くて、ちょっと怖くなったことって、ありませんか。下からは見ることができないその階段の先は、一体どこに通じているんだろうって。そんなことを考えるたびに、私はぞっとするんです。そう思うようになったのは、きっと、私が小学生の頃に体験したことが原因なんでしょうね。

 私が通っていた小学校で、屋上からひとりの男の子が飛び下りた事件がありました。男の子は即死、発見したのは学校の用務員でした。警察は事故死として処理したそうです。この事件は大きな騒ぎになって、屋上は閉鎖されました。万が一の場合の安全のために、落下防止用の鉄柵も設置されたらしいです。あの時期、校長先生はしきりに学校集会で「危険なところには近づかないように」と繰り返していましたね。でも、私、その男の子の死は本当に事故だったのかなって思うんです。実はその子の死んだ後で、ある噂があったんです。その男の子が自殺したっていう噂。その子、いじめられていたそうなんです。ただ、いじめの主犯の親が地元でも有力な名家だったから、世間から批判を受けることを怖れた教師たちと手を組んで、いじめの事実を揉み消した、なんて。真実かどうかはわかりません。でも、生徒たちの間ではそれが本当のことであるかのように囁かれていました。私は当時、半信半疑でした。先生たちがそんなことをするとは思えなかったからです。でも、今では、真実だったんだろうなって、思っています。

 それは、ある夏の日のことでした。雨が上がったばかりで、蒸し暑かったのをよく覚えています。私はその日、生まれて初めて夜の学校に忍び込むっていうことをしたんです。ふ、不良って、いや、そういうわけじゃなくて。実はその日、どうしてもやらなければいけない宿題があったんですけれど、私、うっかり持って帰るのを忘れちゃったんですよね。それで、どうしようかと悩んだ末に、学校に忘れ物を取りに行くことにしたんです。暗い中で見上げた校舎は、昼に通ったところとはまるで違う、魔物の住む城のように感じました。蒸し暑い夜だったはずなのに、冷たい風が玄関に吸い込まれて唸り声のような音を響かせていたんです。ただ、それは私の、見つかったら警察に捕まるのかなという恐怖心と、夜の学校に忍び込むという背徳感が見せた幻なのかもしれません。ともあれ、私は人目を忍びながら入り口を乗り越えて、学校の敷地内に足を踏み入れました。

 最近の学校ではセキュリティがしっかりしていて、とてもじゃないけれど侵入できないらしいですね。防犯システムが取り付けられて、戸締りもしっかりしている、とか。ええ、そうですね、尾崎豊の「卒業」みたいなことは、もうできないでしょう。ですが、その当時はまだそこまでセキュリティが備えられてなくて、田舎の学校だったから戸締りも随分と適当だったんです。でも、見回りの先生とかはいたはずなのに、今にして思えばぞっとするほど静かで、何の気配もありませんでした。怯えていた私はその当時、気づく余裕はありませんでしたけどね。侵入に成功した私は、一寸先すら見えないほど暗い中、持ってきた懐中電灯の明かりで足元を照らしながら、音をたてないように、おそるおそる階段を上がりました。私の教室は三階。そこに忘れ物もあるはずです。はい、見つけましたよ。教室に辿り着くまでは、何事もありませんでした。あとは帰るだけ。私はほっとして、そのまま二階に続く下り階段を下りて、帰ろうとしました。けれど、そこで異変に気付いたのです。

 階段が終わらない。目的を果たして気が緩んだのか、私がそのことに気づいたのは、しばらく階段を下りてからのことでした。先ほども言ったように、廊下や階段は一寸先も見えないほど暗かったんです。階段の踊り場は懐中電灯ですら照らせない本当の暗闇でした。とはいえ、階段の段数なんてせいぜい十一か、二くらいの段数しかないはずです。それなのに、私はずっと階段を下り続けていました。いえ、進んでいないわけじゃないんです。間違いなく私は階段を下りていました。それなのに、いつまで下りていっても踊り場が見えないんです。そのことに気が付いた瞬間、私はぞっとしました。だって、ちょっと下りたら小学生がジャンプで飛び下りれるくらいの階段なんですよ。いえいえ、しませんでした、もちろん。暗かったというのもありますが、飛び下りてしまえばその暗闇に呑み込まれてしまいそうで、怖かったんです。とはいえ、階段を下りることができなければ家に帰ることもできません。考えた末に、私はもとの三階にひとまず戻ることにしたんです。ただの気のせいだと思いましたし、落ち着くためにも。上るのは、あっという間でした。

 上階の床を踏んで、懐中電灯で前を照らした私は愕然としました。左手に図書室が見えました。図書室があるのは、二階なんです。つまり、私は三階に上る階段を上ったはずなのに、二階に辿り着いたんです。実は下りていた、とか。そんなはずはありません。だって、私は三階と二階をつなぐ階段の間の踊り場を見ていないって、断言ができますから。もう怖くてどうしようもなくなった私は、慌てて三階への階段を上ろうとしました。そこで階段を下りることを試さなかったのは、やっぱり気が動転していたからでしょうね。踊り場を抜けて、上階に辿り着いた私は、思わず目を見開きました。一階にあるはずの職員室が、目の前にあったからです。外に繋がっているはずの玄関が消えていて、代わりに今まさに私が上ってきた下りの階段があるんです。いよいよ恐怖と動揺に駆られて、私は一階を離れようとして上ってきたばかりの階段を脇目も振らずに下りました。今度はちゃんと踊り場に辿り着いて、階段を下りきることができました。けれど、辿り着いたのは三階。最初にいた場所だったんです。私は、下りてきた階段を懐中電灯で照らしてみました。階段の先にあるのは、ただただ濃密な暗闇。私という存在が吸い込まれそうなほどの。私はその時、たしかに呼ばれた気がしたんです。

 けれど、結局、私は階段を下りました。三階から二階へと下りる階段ですね。ええ、すぐに踊り場が見えて、続いて二階に下りることができました。一階に下りる時も何事もなく。一階に階段なんてあるわけもなく、そこには私が来るときに通ってきた玄関がありました。そのまま、私は家に帰ったんです。

 あの時、私が体験したのは本当にあったことなのか、それはわかりません。もしかしたら、ただの夢だったのかも。けれど、私はその時以来、階段が怖くなりました。階段の続く先が、私の知っている世界ではないのかもしれないということを、知ってしまったからです。今でも、あの時に私を呼んだ声のことを覚えています。哀しげな、男の子の声。誰もいない屋上で、きっと、彼も寂しかったんでしょうね。

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