俺の描く理想のヒロイン像は少なくともお前じゃない
Ⅷ.母と義母
「あれは私が7歳の頃。ある日、家に啓音さんがやって来た。そして、その日を境に私の生活は一変した」
そこから紫陽花坂は語り始めた。ただ淡々と、いつもの様に。
彼女は語る。
週に11の習い事を始めることになったこと。そして、毎日、家に帰ってから寝るまで家庭教師の人と勉強。
プライベートな時間なんて無かったこと。
この9年間、彼女は義母の言付け通りに行動した。運動も勉強も常にトップをキープした。
だが、やっとできた友人は勉学の妨げになると言って義母によって遠ざけられた。
しかし、彼女はそんな生活から逃げなかった。逃げ出せなかった。
逃げ出そうものなら義母の紫陽花坂へのしつけが2倍にも3倍にも過酷なものになるかもしれないから。
その恐怖は俺には計り知れない。
そして、いつしか紫陽花坂は義母の言葉なしに何か行動を起こそうと思うことがなくなっていたらしい。そのことに紫陽花坂は最近になって気づいたのだとか。
ある日、義母が珍しく他の子供を話の引き合いに出したことがあったと言う。
その話に出てきた子供というのは前夫との間に生まれた男の子のことだったらしい。
前夫の息子は前夫に似てとにかく言うことを聞かず、何もやらせてもすぐに駄々をこねる。そして、前夫が勝手に習い事をやめさせる。欠点だらけの家族だった、と。
紫陽花坂は子供ながらにその前夫の息子である少年をこう思った。可哀想だと。そして、その反面、親近感を覚え嬉さがこみ上げてきたと彼女は言った。
それから紫陽花坂は度々、その少年のことを義母に聞いた。そのせいで義母が機嫌を悪くし一時期はしつけが厳しくなったこともあった様だが、それでも彼女は聞き続けた。
彼女にとって“義母に嫌われた子供”という共通点を持つ俺の存在を感じたかった。彼女はそう言った。その存在が自分を底知れぬ孤独感から守ってくれたのだと。
そして、彼女は行動を起こした。高校に入学してすぐのことだ。
父がここ巳魂町へ転勤することになった。その町の名前を以前、俺についての会話で聞いたことがあったのを覚えていた。母は仕事があるため転勤には付き添わない意を示した。しかし、彼女は言った。
『私も一緒に行かせてほしい』
紫陽花坂の人生で初めての義母へのワガママ。
そのワガママはあっけなく了承された。皮肉にも、今までの義母への従順さが築いた信頼が功を奏したのだ。
「俺がまだ居るかもわからないのに、思い切ったことするな」
「賭けだったわ。半分は諦めていたもの。いつだったか、啓音さんの隙をついて彼女のスマホの電話帳を開いたの。そして露葉奈の文字を見つけた」
まじか。
「そして、その電話番号に思い切って電話をしてみたの。もちろん、自分のスマホでね。そしたら、あなたのお父さんが出た。事情を説明すると、何となく察したらしくてね、色々と教えてくれたの」
「父さんが!?そうだったのか…。でも、本当に俺に会いたかっただけなのか?」
「…そうね。本当の事を言ってしまうのなら、ただ……逃げたかったのよ、啓音さんから。情けない話でしょ?本当に…情けない」
弱々しい声。
俺はそんな声に驚いて思わず紫陽花坂の方を見る。
彼女は…..泣いていた。
涙を流さず、声も出さず。
美術の時間の時に感じた不思議な感覚だ。
彼女は彼女なりに泣いているんだ。
「紫陽花坂……」
しばらくすると、彼女はいつもどこか奥ゆかし気な、しかし無味乾燥とした、そんな矛盾を孕んだ無表情を取り戻した。
「ごめんなさい。少し、取り乱したわ」
「気にすんなよ。……俺さ、母さんのこと正直よく覚えてないんだ。でも、ふと夢に出てくることがあった。狂気に歪んだ女の人。それをどっかで母親だって分かってた。唯一、鮮明に覚えてることがあるんだ」
俺は髪をかき分け後頭部の頭皮を紫陽花坂に見せる。
「それは…」
「これさ、俺が5歳くらいの時に母さんと喧嘩して突き飛ばされて、それで階段から転げ落ちた時にできた傷。俺が覚えてるのはそれだけ」
俺は髪をクシャクシャっとして元の体勢に戻る。
「お母さんのこと、恨んでる?」
紫陽花坂は聞く。真っ直ぐに俺の方を見て。感情の読めない表情で。
「恨んでは…ない、と思う。そもそもあんまり覚えてないからさ。恨むも何もないし。ただ、今更母親に会いたいとか戻ってきてほしいとかは思わないけどな」
「……そう」
俺の返答にどこか安心したような返答をする紫陽花坂。
「紫陽花坂は…どうなんだ?」
「どう、なのかしらね…。よく分からないわ。今の私は彼女によって作り上げられた。彼女のお陰で今の私はここのいる。今さら恨むなんて、私にはできない」
彼女は迷っていた。
絶対的な存在に牙をむく。それにも等しい感情を抱いてもいいのか。ただ、少なくとも“恨んでいない”と彼女は明言しなかった。
それが今の彼女の答えなのだろう。
「そうか」
それしか言えなかった。俺には分からないから。彼女の生い立ちも葛藤も何もかもが俺は想像することしかできないから。
少しの間、俺たちは公園をただ眺めていた。
公園の時計の針は5:32を指している。
日は依然として燦々と照っている。
嫌味の様に広がる青空が俺たちを見下ろしている。
「あなたに話せてよかった、露葉奈君」
今まで“あなた”としか呼ばれていなかったせいか、俺は少し驚いて彼女の方を見た。
彼女のその凛とした横顔は、優しく微笑んでいた。
呼び方もその表情も何か違和感だらけだけど、でもなんかこっちの方が自然体って感じだな。
「詩乃でいいよ。こんなディープな話しておいて今さら他人行儀ってのも変だろ?」
「そうね。なら私も恋でいいわ」
初めて会った時、恋のことを“人形みたいなやつ”と思った。それはあながち間違えではなかったのかもしれない。
義母の意のままに動く操り人形。その操り糸はまだ切れていないのだろう。1度や2度の行動で切れるぐらいの糸なら彼女がこんなに悩み苦しむこともない。
所詮は憶測だけど、母親のいない俺には分からないけど、それでも彼女の苦悩は痛いほど伝わった。
「そろそろ行きましょうか。どう?これが私が詩乃に近づいた理由。納得していただけたかしら?」
ブランコから立ち上がり、どこか遠くを見ながら言う紫陽花坂。
「理解がまだ追いついてない部分はあるけど、納得はした」
俺は答えた。
「そう。それなら私はもうあなたには近づかない様にするわ」
「えっ?!今の流れでどうしてそうなった!?」
「もともと、そんな過度に接触するつもりもなかったし、私のワガママにずっと付き合わされるのも迷惑だもの」
さも当たり前のように言う彼女に俺はやれやれと言った感じで言う。
「最初にも言っただろ。別に関わるなって意図でこの話をし始めたんじゃない。これからも友達でいるためにはお互いモヤモヤした部分がない方がいいだろ?だから聞いたんだ」
「つまり…」
彼女の大きな瞳がさらに大きく見開かれる。俺の返答に本気で驚いたらしいな。
「つまり、俺はお前とこれからも友達でいたい、以上。何か質問はあるか?」
彼女は目を見開き反射的に両手で口元を押さえる。
「…本当に?」
「はぁ、クドイぞ。俺だって何度も言うのは恥ずかしいんだ」
俺は熱くなった顔の下半分を片手で覆うように隠す。
ったく、今になって恥ずかしくなってどうするんだよ。思い返してみれば、クサイセリフとかそこそこ言ってるじゃん、俺。
「ふふ、冗談よ」
そう言うと紫陽花坂はふわりとターンをして俺の方に向き直る。
刹那、彼女の髪が宙を泳ぐ。ただ柔らかく、なめらかな流線を描きながら泳ぐ。
糸飴のように透明感のある彼女のミルク色のそれは、まだ白い日の光に当てられ純白の光を帯びている。
そこから覗く彼女の美しい顔に俺は不覚にも胸をときめかせてしまった。いや、“顔に”と言うと語弊があるな。
そう。彼女の表情に胸をときめかせてしまったんだ。
彼女の微笑みに。
それはいつか見た目の死んだ微笑みとは明らかに違った。彼女の瞳には確かに光があった。無邪気な光が。
「…ありがとう、詩乃。それじゃあ….これからも、よろしく!」
「お、おう。よろしくな、恋」
辿々しい返事に頬がさらに熱くなるのを感じた。
そして、俺たちはそれぞれの帰路に着いた。
今日はベールに包まれた謎の美少女、紫陽花坂 恋の真の姿の一端を知ることができた訳だ。
俺は初めて恋と出会った日のことを道すがら、思い出していた。
『私はあなたを昔から知っている。あなたは私をこれから知っていく』
これから知っていく…か。そうだな。これから沢山沢山、紫陽花坂 恋という女の子のことを知っていこう。
そこから紫陽花坂は語り始めた。ただ淡々と、いつもの様に。
彼女は語る。
週に11の習い事を始めることになったこと。そして、毎日、家に帰ってから寝るまで家庭教師の人と勉強。
プライベートな時間なんて無かったこと。
この9年間、彼女は義母の言付け通りに行動した。運動も勉強も常にトップをキープした。
だが、やっとできた友人は勉学の妨げになると言って義母によって遠ざけられた。
しかし、彼女はそんな生活から逃げなかった。逃げ出せなかった。
逃げ出そうものなら義母の紫陽花坂へのしつけが2倍にも3倍にも過酷なものになるかもしれないから。
その恐怖は俺には計り知れない。
そして、いつしか紫陽花坂は義母の言葉なしに何か行動を起こそうと思うことがなくなっていたらしい。そのことに紫陽花坂は最近になって気づいたのだとか。
ある日、義母が珍しく他の子供を話の引き合いに出したことがあったと言う。
その話に出てきた子供というのは前夫との間に生まれた男の子のことだったらしい。
前夫の息子は前夫に似てとにかく言うことを聞かず、何もやらせてもすぐに駄々をこねる。そして、前夫が勝手に習い事をやめさせる。欠点だらけの家族だった、と。
紫陽花坂は子供ながらにその前夫の息子である少年をこう思った。可哀想だと。そして、その反面、親近感を覚え嬉さがこみ上げてきたと彼女は言った。
それから紫陽花坂は度々、その少年のことを義母に聞いた。そのせいで義母が機嫌を悪くし一時期はしつけが厳しくなったこともあった様だが、それでも彼女は聞き続けた。
彼女にとって“義母に嫌われた子供”という共通点を持つ俺の存在を感じたかった。彼女はそう言った。その存在が自分を底知れぬ孤独感から守ってくれたのだと。
そして、彼女は行動を起こした。高校に入学してすぐのことだ。
父がここ巳魂町へ転勤することになった。その町の名前を以前、俺についての会話で聞いたことがあったのを覚えていた。母は仕事があるため転勤には付き添わない意を示した。しかし、彼女は言った。
『私も一緒に行かせてほしい』
紫陽花坂の人生で初めての義母へのワガママ。
そのワガママはあっけなく了承された。皮肉にも、今までの義母への従順さが築いた信頼が功を奏したのだ。
「俺がまだ居るかもわからないのに、思い切ったことするな」
「賭けだったわ。半分は諦めていたもの。いつだったか、啓音さんの隙をついて彼女のスマホの電話帳を開いたの。そして露葉奈の文字を見つけた」
まじか。
「そして、その電話番号に思い切って電話をしてみたの。もちろん、自分のスマホでね。そしたら、あなたのお父さんが出た。事情を説明すると、何となく察したらしくてね、色々と教えてくれたの」
「父さんが!?そうだったのか…。でも、本当に俺に会いたかっただけなのか?」
「…そうね。本当の事を言ってしまうのなら、ただ……逃げたかったのよ、啓音さんから。情けない話でしょ?本当に…情けない」
弱々しい声。
俺はそんな声に驚いて思わず紫陽花坂の方を見る。
彼女は…..泣いていた。
涙を流さず、声も出さず。
美術の時間の時に感じた不思議な感覚だ。
彼女は彼女なりに泣いているんだ。
「紫陽花坂……」
しばらくすると、彼女はいつもどこか奥ゆかし気な、しかし無味乾燥とした、そんな矛盾を孕んだ無表情を取り戻した。
「ごめんなさい。少し、取り乱したわ」
「気にすんなよ。……俺さ、母さんのこと正直よく覚えてないんだ。でも、ふと夢に出てくることがあった。狂気に歪んだ女の人。それをどっかで母親だって分かってた。唯一、鮮明に覚えてることがあるんだ」
俺は髪をかき分け後頭部の頭皮を紫陽花坂に見せる。
「それは…」
「これさ、俺が5歳くらいの時に母さんと喧嘩して突き飛ばされて、それで階段から転げ落ちた時にできた傷。俺が覚えてるのはそれだけ」
俺は髪をクシャクシャっとして元の体勢に戻る。
「お母さんのこと、恨んでる?」
紫陽花坂は聞く。真っ直ぐに俺の方を見て。感情の読めない表情で。
「恨んでは…ない、と思う。そもそもあんまり覚えてないからさ。恨むも何もないし。ただ、今更母親に会いたいとか戻ってきてほしいとかは思わないけどな」
「……そう」
俺の返答にどこか安心したような返答をする紫陽花坂。
「紫陽花坂は…どうなんだ?」
「どう、なのかしらね…。よく分からないわ。今の私は彼女によって作り上げられた。彼女のお陰で今の私はここのいる。今さら恨むなんて、私にはできない」
彼女は迷っていた。
絶対的な存在に牙をむく。それにも等しい感情を抱いてもいいのか。ただ、少なくとも“恨んでいない”と彼女は明言しなかった。
それが今の彼女の答えなのだろう。
「そうか」
それしか言えなかった。俺には分からないから。彼女の生い立ちも葛藤も何もかもが俺は想像することしかできないから。
少しの間、俺たちは公園をただ眺めていた。
公園の時計の針は5:32を指している。
日は依然として燦々と照っている。
嫌味の様に広がる青空が俺たちを見下ろしている。
「あなたに話せてよかった、露葉奈君」
今まで“あなた”としか呼ばれていなかったせいか、俺は少し驚いて彼女の方を見た。
彼女のその凛とした横顔は、優しく微笑んでいた。
呼び方もその表情も何か違和感だらけだけど、でもなんかこっちの方が自然体って感じだな。
「詩乃でいいよ。こんなディープな話しておいて今さら他人行儀ってのも変だろ?」
「そうね。なら私も恋でいいわ」
初めて会った時、恋のことを“人形みたいなやつ”と思った。それはあながち間違えではなかったのかもしれない。
義母の意のままに動く操り人形。その操り糸はまだ切れていないのだろう。1度や2度の行動で切れるぐらいの糸なら彼女がこんなに悩み苦しむこともない。
所詮は憶測だけど、母親のいない俺には分からないけど、それでも彼女の苦悩は痛いほど伝わった。
「そろそろ行きましょうか。どう?これが私が詩乃に近づいた理由。納得していただけたかしら?」
ブランコから立ち上がり、どこか遠くを見ながら言う紫陽花坂。
「理解がまだ追いついてない部分はあるけど、納得はした」
俺は答えた。
「そう。それなら私はもうあなたには近づかない様にするわ」
「えっ?!今の流れでどうしてそうなった!?」
「もともと、そんな過度に接触するつもりもなかったし、私のワガママにずっと付き合わされるのも迷惑だもの」
さも当たり前のように言う彼女に俺はやれやれと言った感じで言う。
「最初にも言っただろ。別に関わるなって意図でこの話をし始めたんじゃない。これからも友達でいるためにはお互いモヤモヤした部分がない方がいいだろ?だから聞いたんだ」
「つまり…」
彼女の大きな瞳がさらに大きく見開かれる。俺の返答に本気で驚いたらしいな。
「つまり、俺はお前とこれからも友達でいたい、以上。何か質問はあるか?」
彼女は目を見開き反射的に両手で口元を押さえる。
「…本当に?」
「はぁ、クドイぞ。俺だって何度も言うのは恥ずかしいんだ」
俺は熱くなった顔の下半分を片手で覆うように隠す。
ったく、今になって恥ずかしくなってどうするんだよ。思い返してみれば、クサイセリフとかそこそこ言ってるじゃん、俺。
「ふふ、冗談よ」
そう言うと紫陽花坂はふわりとターンをして俺の方に向き直る。
刹那、彼女の髪が宙を泳ぐ。ただ柔らかく、なめらかな流線を描きながら泳ぐ。
糸飴のように透明感のある彼女のミルク色のそれは、まだ白い日の光に当てられ純白の光を帯びている。
そこから覗く彼女の美しい顔に俺は不覚にも胸をときめかせてしまった。いや、“顔に”と言うと語弊があるな。
そう。彼女の表情に胸をときめかせてしまったんだ。
彼女の微笑みに。
それはいつか見た目の死んだ微笑みとは明らかに違った。彼女の瞳には確かに光があった。無邪気な光が。
「…ありがとう、詩乃。それじゃあ….これからも、よろしく!」
「お、おう。よろしくな、恋」
辿々しい返事に頬がさらに熱くなるのを感じた。
そして、俺たちはそれぞれの帰路に着いた。
今日はベールに包まれた謎の美少女、紫陽花坂 恋の真の姿の一端を知ることができた訳だ。
俺は初めて恋と出会った日のことを道すがら、思い出していた。
『私はあなたを昔から知っている。あなたは私をこれから知っていく』
これから知っていく…か。そうだな。これから沢山沢山、紫陽花坂 恋という女の子のことを知っていこう。
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