すわんぷ・ガール!外伝!
無くした世界(下)
じっと、何も言わず女の子の横に座る。
女の子は、俯いたまま何も喋らない。私もあえて声を掛けたりはしない。
ただ、一緒に居てあげる。
多分きっと、何もかもなんて、わかってあげれないけれど、だけど無くした世界を儚んで一人で泣くよりは、誰かが側に居てあげた方が良い。
無くしたものが大きすぎて、きっと彼女はいま、独りぼっちなんだろう。なのに見える景色は相変わらずに見えて、それなのに、世界に自分がたった独りだけのように思える。
そんな思いは、しちゃいけないんだ。
だから、ねえ。
私が一緒に居てあげるよ。独りじゃ無いんだって、教えてあげたい。
自分から助かろうとしない者は助かったりなんかしないけれど、でも、助かりたいと思う意思を、助けることは出来ると思うんだ。
くぅ
それは、女の子のお腹の音だった。女の子の結んだ髪が、僅かに揺れる。
私はそれに気付かないふりをしながら、でも、横に寄せてあった紙袋から、それを二つ、取り出した。
ワッフル、もう冷めてる。でも、僅かに甘い香り。
「食べる?」
そう声を掛けると、再び結んだ髪がぴくんと震えて、そしてその頭がゆっくりとこちらを向く。その沈んで弱い視線が合うと、私は用意していた思いっきりの笑顔を見せた。
「お腹空いてるでしょ?甘いし、美味しいよ?」
本当は、よく知らない。多分、甘くて美味しいはずだ。
にこにこと笑いながら、その手に持ったワッフルを顔の前に持って行く。そしたら、さっとそっぽを向かれた。
ありゃ、強引すぎたかな。
くぅ
でも、再び女の子のお腹が可愛い音を立てた。
「ほら、お腹空いてる。食べて」
再び女の子の顔がこっちを向いて、そして怖ず怖ずと手が伸ばされる。それに私はワッフルをのせてあげる。
「んふ」
そしたら、私は、残ったもう一個のワッフルを口にした。
……甘い。すごい、美味しい。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
それを見てか、女の子も恐る恐るという体で、ゆっくりと手に持ったワッフルにかぶり付いた。
「あ……」
「おいしい?」
囓って、驚いた顔になった女の子に再び声をかける。そうすると、急にパクパクと結構な勢いでそれを食べ始めた。
やっぱりお腹がすいていたんだ。
喉に詰まったのか、えふえふと咳き込む女の子に、ジュースを飲ませて、そしてちょっとだけ囓った私のワッフルもあげる。
「ふ、う、うう、えうう」
女の子は、それを囓りながら、ぼろぼろと涙を流し始めた。
ようやく、彼女の世界がこちら側に戻ってきた。
「あううう、あう、もぐ、ううえええ、ああああ」
食べる手は止めずに、でも泣き続ける女の子。
私はその体を優しく抱きしめた。
女の子の名前はノルン。
食べ終わって、泣き止んで、そして落ち着いたあとに、ノルンは名前を教えてくれて、それから、彼女が一体何を無くしてしまったのかを、私に教えてくれた。
彼女が無くしてしまったのは、父親。
優しい、でも、あまり家に帰ってこない父親だったらしい。でもそれは、父親のお仕事の関係で、仕方ないってノルンは思っていた。
ある日、久方ぶりに戻ってきた父親は、暫くは家に居たのだけれど、一週間ほどして家から慌ただしく出て行って―――
そしてそのまま還ってこなかった。
「おと、う、さん」
私はノルンを慰めながら、複雑な思いを抱いていた。
私は、少なくとも父親の顔も、母親の顔も、全く知らない。
それがどんなだったかも、よくわからない。
でも、だからこそ、その手に入らないものの夢を見る。
今、私の家族は、お姉様やパルミラって言えるけど、でもやっぱり父親や母親って特別で、だから居たはずのその存在を妄想する。
それは簡単すぎる話だった。なぜなら、普通だったらみんなお父さんお母さんが居るから。
何時でも何処でも、そうした光景は目に入ってくる。
今でもそう。
広場では、普通に子供の手を引く母親らしき姿が目に入るし、子供を肩車する父親っぽい人も見る事が出来る。
これが当たり前の世界。当然、そうであるべきこの世界。
私が、私達が、そして今やノルンが無くしてしまった世界。
ノルンを抱きしめる。
かつて私達がそうだったように、自ら世界から孤立してしまわないように。そうして見える全てを恨んでしまわないように。
「おと……う……さ……」
気付けばノルンは寝てしまっていた。
この小さな体は、きっと沢山の事を溜め込んで、ずっと我慢してきたのだろう。そうして無くした世界の残滓をどこかに探して、見つけられなくて、声を殺して泣いていたんだ。
無くしたものは、戻ってこない。
どんなに探しても、どんなに夢を見ても、でも決してもう取り戻せない。
でも、私がそうだったように、きっと大切な何かをまた見つけることが出来る。
独りなんかじゃ無い。
世界は、多分、あなたが思い描いているよりも全然ひろく、大きい。
だから、何時か会える。
直ぐにはわからなくても、何時かきっとわかる気が来るよ。
少なくとも今は、私が一緒にいてあげるから。
「あ」
ノルンを抱いて、どれだけ経っただろう。
日はゆっくりと傾いていって、少しだけ既に赤みがかかり始めた。
少しだけ、広場の往来も人が減ってきて、露天の幾つかはたたみ始めているのが見える。
疎らな往来に、知り合いを発見した。
というか、朝に会ったバイドさんだった。少しだけ疲れた顔で、こっちが見つけたと同時に、向こうもこちらを見つけたようで、ハッとした顔になり、そしてこっちに向かってきた。
え、え?
わりと早歩きな凄い勢いに、何かしちゃっただろうかって、動揺する。
特に、心当たりが無い。ただ、動揺して動いた際に、ノルンを揺らしてしまったみたいで、むずがる声を上げた後、目を覚ました。
そのまま、ちょっとはれぼったい目をこすりながら、でも上手く今の状態が認識出来ないみたいでキョロキョロと周りを見回す。
「よく寝たね。おはようー」
「ノルン!」
私がそう声をかけるのと、バイドさんが、ノルンに声をかけるのは、殆ど同時だった。
っていうか、知り合い?
てっきり自分に用事だとか思ってた私は、思いがけないバイドさんの声に驚く。
「おじさん!」
驚く私を後にして、ノルンがバイドを見て、声を上げた。
とにかく、知り合いみたい。バイドさんの様子を見るに、朝、用事とか言っていたのは、ノルンを探していたのかもしれないと、予想を立ててみる。
だとしたら、あれからずーっと探していたのだろうか。
ノルンが私の腕から抜け出して、近付くバイドさんに走って行く。それを受けて、バイドさんはしゃがみ込み、そして駆け寄るノルンを受け止めた。
「探したんだぞ……」
「ごめん、なさい」
その姿を見た時の私の心情は、殆どが安心というか、良かったねっていう気持ちだった。バイドさんの立ち位置が全然わからないけど、でも、迎えてくれる人が居て、そしてそれを受け入れられるなら、それは独りなんかじゃない。
良かった。本当に。
ただ、そうして思いながらも、どうしても心の片隅に、ほんの少しだけ、何かが残った。
それは、嫉妬。誤魔化しようのない、黒い感情だった。
それでも、私は受け入れる。
それは確かに大人げなくて、そして卑しい気持ちなのだろう。
多分、そう思ってしまうのは、仕方ない事なんだと思う。
でも、そうやって受け入れて、流してしまおう。
私は噴水の縁から立ち上がる。少しふらついた。ずっと座ってたから、痺れたのかも知れない。
そのまま、二人の側に近付いていく。
正直、もうそのままほおっておいたほうがいいのかなと、思ったりもするけど、ここまできたら、最後まで居てもいいはずだから。
「アイラか……正直驚いた。まさか一緒に居るとは思わなかった」
「はい、バイドさんはノルンちゃんを探していたんですか?」
「ああ、まあ、な」
そう言って、バイドさんはフイと横を向いた。
何なんだろと思ったけれど、ひょっとしたら朝何となく誤魔化したのでバツが悪いのかもしれないと思い至る。じゃあ、なんで朝誤魔化したの?って思ったら、それは多分、恥ずかしかったから。
なのかなあ。結局のところ、バイドさんの事がよくわからない。
その他人との壁を作るスタイルは、無意識なんだろうか。
「とにかく、助かった。ずっとノルンと居たんだろう?―――ありがとう」
それでも不器用ながら、バイドさんははにかみながら、私に頭を下げた。
その仕草に、不覚にもグッときてしまう私。
「と、とりあえず、私、そろそろ帰らなきゃいけないから、戻りますね」
そんなことをしている間に、どんどんと空は茜色に染まっていく。
冬は日が落ちるのが早い。バイドさんにも言われてた事だし、早く館に帰ろう。晩ご飯は無くていいなんて、言ってないし。
ノルンの事は気にはなるけど、バイドさんにあれだけべったりだったら、そんなに気にしないでいいだろう……。
「お姉ちゃん、帰っちゃうの?」
とか思ってたら、バイドさんにしがみついていたノルンが、ばっと私を振り向いて、そう言ってきた。その目は、ちょっと縋るようで、そうだよなんて、言いにくい。
「いや、送ろう。御館までなら着く前に日が没してしまうのだろうし。俺の家も近い―――それにそのほうがノルンも喜ぶ」
「え、と、じゃ、じゃあ、お願いします?」
事の成り行きに、疑問符を付けて返してしまう私。
それでも、ノルンはその言葉に、嬉しそうな顔を作った。
しょうがないな。そんな顔をされちゃったら、断る理由なんか無い。
「うん、おねえちゃん。一緒に、帰ろうよ。おじさんも」
「そうだね、一緒に帰ろうっか」
もちろん、無くした世界の事を思わないわけじゃ無い。
でも、少しずつ、それはきっと、遠い思い出になっていくんだろう。
決して消えたりはしないその世界。だけど偶に振り返って、その残滓を見つめ、また先へと進み出す。
新しい世界へと、至るために。
後で聞いた話によると、ノルンのお父さんは親衛隊で、テトラ騒ぎの前日に、亡くなったんだそう。戦死っていうことになるんだろうか。
それは、一日中ごたごたしていた中での出来事。ただ、当事者ともいえる私としては、少しだけいたたまれない気持ちになった。
お父さんはバイドさんの部下で、その死の間際、娘を託されたって言ってた。不幸にも色々あって片親だったノルンは一人になってしまって、だからこそ、後を託されたバイドさんは不器用ながらに、色々と世話を焼きながら、どうしたものかと悩んでいたらしい。
そんなノルンは、本気で近かったバイドさんの家を抜け出して、最近は私に会いに、よく館に来る。
嬉しいけれど、下っ端メイドだけに、それはそれで困ったけれど、事情を聞いていたお姉様が、メイド長にちゃんと話を通してくれた。
その結果、今日もノルンは館に来ていて、メイドの真似をしながら遊んでいる。
夕方になったら、恐縮しきったバイドさんが連れ戻しに来るけど、レオン様もレオン様だから、それを受け入れてくれている。
あの日、声を押し殺して泣いていた子供は、もう居ない。
時折、遠い目をして何かを見ている事はあったとしても。
無くした世界を思い出して、想像して、切なくなったとしても。
私達は、新しい世界を、そうやって生きていくんだろう。
お父さんって、どんなんだろう。
お母さんって、どんなだったのかな?
私が生まれて嬉しかったのかなあ。
だっこしてくれたのかな。
頭を撫でてくれたのかな。
好きだって、言ってくれたのかな。
愛してるって、言ってくれたのかなあ。
振り返ればそこに見える、無くした世界。
それは幻想。
だから私はその世界を、優しくて美しいままにしておこう。
きっと、いつかこの世界を去るその日まで、笑っていられると思うから。
女の子は、俯いたまま何も喋らない。私もあえて声を掛けたりはしない。
ただ、一緒に居てあげる。
多分きっと、何もかもなんて、わかってあげれないけれど、だけど無くした世界を儚んで一人で泣くよりは、誰かが側に居てあげた方が良い。
無くしたものが大きすぎて、きっと彼女はいま、独りぼっちなんだろう。なのに見える景色は相変わらずに見えて、それなのに、世界に自分がたった独りだけのように思える。
そんな思いは、しちゃいけないんだ。
だから、ねえ。
私が一緒に居てあげるよ。独りじゃ無いんだって、教えてあげたい。
自分から助かろうとしない者は助かったりなんかしないけれど、でも、助かりたいと思う意思を、助けることは出来ると思うんだ。
くぅ
それは、女の子のお腹の音だった。女の子の結んだ髪が、僅かに揺れる。
私はそれに気付かないふりをしながら、でも、横に寄せてあった紙袋から、それを二つ、取り出した。
ワッフル、もう冷めてる。でも、僅かに甘い香り。
「食べる?」
そう声を掛けると、再び結んだ髪がぴくんと震えて、そしてその頭がゆっくりとこちらを向く。その沈んで弱い視線が合うと、私は用意していた思いっきりの笑顔を見せた。
「お腹空いてるでしょ?甘いし、美味しいよ?」
本当は、よく知らない。多分、甘くて美味しいはずだ。
にこにこと笑いながら、その手に持ったワッフルを顔の前に持って行く。そしたら、さっとそっぽを向かれた。
ありゃ、強引すぎたかな。
くぅ
でも、再び女の子のお腹が可愛い音を立てた。
「ほら、お腹空いてる。食べて」
再び女の子の顔がこっちを向いて、そして怖ず怖ずと手が伸ばされる。それに私はワッフルをのせてあげる。
「んふ」
そしたら、私は、残ったもう一個のワッフルを口にした。
……甘い。すごい、美味しい。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
それを見てか、女の子も恐る恐るという体で、ゆっくりと手に持ったワッフルにかぶり付いた。
「あ……」
「おいしい?」
囓って、驚いた顔になった女の子に再び声をかける。そうすると、急にパクパクと結構な勢いでそれを食べ始めた。
やっぱりお腹がすいていたんだ。
喉に詰まったのか、えふえふと咳き込む女の子に、ジュースを飲ませて、そしてちょっとだけ囓った私のワッフルもあげる。
「ふ、う、うう、えうう」
女の子は、それを囓りながら、ぼろぼろと涙を流し始めた。
ようやく、彼女の世界がこちら側に戻ってきた。
「あううう、あう、もぐ、ううえええ、ああああ」
食べる手は止めずに、でも泣き続ける女の子。
私はその体を優しく抱きしめた。
女の子の名前はノルン。
食べ終わって、泣き止んで、そして落ち着いたあとに、ノルンは名前を教えてくれて、それから、彼女が一体何を無くしてしまったのかを、私に教えてくれた。
彼女が無くしてしまったのは、父親。
優しい、でも、あまり家に帰ってこない父親だったらしい。でもそれは、父親のお仕事の関係で、仕方ないってノルンは思っていた。
ある日、久方ぶりに戻ってきた父親は、暫くは家に居たのだけれど、一週間ほどして家から慌ただしく出て行って―――
そしてそのまま還ってこなかった。
「おと、う、さん」
私はノルンを慰めながら、複雑な思いを抱いていた。
私は、少なくとも父親の顔も、母親の顔も、全く知らない。
それがどんなだったかも、よくわからない。
でも、だからこそ、その手に入らないものの夢を見る。
今、私の家族は、お姉様やパルミラって言えるけど、でもやっぱり父親や母親って特別で、だから居たはずのその存在を妄想する。
それは簡単すぎる話だった。なぜなら、普通だったらみんなお父さんお母さんが居るから。
何時でも何処でも、そうした光景は目に入ってくる。
今でもそう。
広場では、普通に子供の手を引く母親らしき姿が目に入るし、子供を肩車する父親っぽい人も見る事が出来る。
これが当たり前の世界。当然、そうであるべきこの世界。
私が、私達が、そして今やノルンが無くしてしまった世界。
ノルンを抱きしめる。
かつて私達がそうだったように、自ら世界から孤立してしまわないように。そうして見える全てを恨んでしまわないように。
「おと……う……さ……」
気付けばノルンは寝てしまっていた。
この小さな体は、きっと沢山の事を溜め込んで、ずっと我慢してきたのだろう。そうして無くした世界の残滓をどこかに探して、見つけられなくて、声を殺して泣いていたんだ。
無くしたものは、戻ってこない。
どんなに探しても、どんなに夢を見ても、でも決してもう取り戻せない。
でも、私がそうだったように、きっと大切な何かをまた見つけることが出来る。
独りなんかじゃ無い。
世界は、多分、あなたが思い描いているよりも全然ひろく、大きい。
だから、何時か会える。
直ぐにはわからなくても、何時かきっとわかる気が来るよ。
少なくとも今は、私が一緒にいてあげるから。
「あ」
ノルンを抱いて、どれだけ経っただろう。
日はゆっくりと傾いていって、少しだけ既に赤みがかかり始めた。
少しだけ、広場の往来も人が減ってきて、露天の幾つかはたたみ始めているのが見える。
疎らな往来に、知り合いを発見した。
というか、朝に会ったバイドさんだった。少しだけ疲れた顔で、こっちが見つけたと同時に、向こうもこちらを見つけたようで、ハッとした顔になり、そしてこっちに向かってきた。
え、え?
わりと早歩きな凄い勢いに、何かしちゃっただろうかって、動揺する。
特に、心当たりが無い。ただ、動揺して動いた際に、ノルンを揺らしてしまったみたいで、むずがる声を上げた後、目を覚ました。
そのまま、ちょっとはれぼったい目をこすりながら、でも上手く今の状態が認識出来ないみたいでキョロキョロと周りを見回す。
「よく寝たね。おはようー」
「ノルン!」
私がそう声をかけるのと、バイドさんが、ノルンに声をかけるのは、殆ど同時だった。
っていうか、知り合い?
てっきり自分に用事だとか思ってた私は、思いがけないバイドさんの声に驚く。
「おじさん!」
驚く私を後にして、ノルンがバイドを見て、声を上げた。
とにかく、知り合いみたい。バイドさんの様子を見るに、朝、用事とか言っていたのは、ノルンを探していたのかもしれないと、予想を立ててみる。
だとしたら、あれからずーっと探していたのだろうか。
ノルンが私の腕から抜け出して、近付くバイドさんに走って行く。それを受けて、バイドさんはしゃがみ込み、そして駆け寄るノルンを受け止めた。
「探したんだぞ……」
「ごめん、なさい」
その姿を見た時の私の心情は、殆どが安心というか、良かったねっていう気持ちだった。バイドさんの立ち位置が全然わからないけど、でも、迎えてくれる人が居て、そしてそれを受け入れられるなら、それは独りなんかじゃない。
良かった。本当に。
ただ、そうして思いながらも、どうしても心の片隅に、ほんの少しだけ、何かが残った。
それは、嫉妬。誤魔化しようのない、黒い感情だった。
それでも、私は受け入れる。
それは確かに大人げなくて、そして卑しい気持ちなのだろう。
多分、そう思ってしまうのは、仕方ない事なんだと思う。
でも、そうやって受け入れて、流してしまおう。
私は噴水の縁から立ち上がる。少しふらついた。ずっと座ってたから、痺れたのかも知れない。
そのまま、二人の側に近付いていく。
正直、もうそのままほおっておいたほうがいいのかなと、思ったりもするけど、ここまできたら、最後まで居てもいいはずだから。
「アイラか……正直驚いた。まさか一緒に居るとは思わなかった」
「はい、バイドさんはノルンちゃんを探していたんですか?」
「ああ、まあ、な」
そう言って、バイドさんはフイと横を向いた。
何なんだろと思ったけれど、ひょっとしたら朝何となく誤魔化したのでバツが悪いのかもしれないと思い至る。じゃあ、なんで朝誤魔化したの?って思ったら、それは多分、恥ずかしかったから。
なのかなあ。結局のところ、バイドさんの事がよくわからない。
その他人との壁を作るスタイルは、無意識なんだろうか。
「とにかく、助かった。ずっとノルンと居たんだろう?―――ありがとう」
それでも不器用ながら、バイドさんははにかみながら、私に頭を下げた。
その仕草に、不覚にもグッときてしまう私。
「と、とりあえず、私、そろそろ帰らなきゃいけないから、戻りますね」
そんなことをしている間に、どんどんと空は茜色に染まっていく。
冬は日が落ちるのが早い。バイドさんにも言われてた事だし、早く館に帰ろう。晩ご飯は無くていいなんて、言ってないし。
ノルンの事は気にはなるけど、バイドさんにあれだけべったりだったら、そんなに気にしないでいいだろう……。
「お姉ちゃん、帰っちゃうの?」
とか思ってたら、バイドさんにしがみついていたノルンが、ばっと私を振り向いて、そう言ってきた。その目は、ちょっと縋るようで、そうだよなんて、言いにくい。
「いや、送ろう。御館までなら着く前に日が没してしまうのだろうし。俺の家も近い―――それにそのほうがノルンも喜ぶ」
「え、と、じゃ、じゃあ、お願いします?」
事の成り行きに、疑問符を付けて返してしまう私。
それでも、ノルンはその言葉に、嬉しそうな顔を作った。
しょうがないな。そんな顔をされちゃったら、断る理由なんか無い。
「うん、おねえちゃん。一緒に、帰ろうよ。おじさんも」
「そうだね、一緒に帰ろうっか」
もちろん、無くした世界の事を思わないわけじゃ無い。
でも、少しずつ、それはきっと、遠い思い出になっていくんだろう。
決して消えたりはしないその世界。だけど偶に振り返って、その残滓を見つめ、また先へと進み出す。
新しい世界へと、至るために。
後で聞いた話によると、ノルンのお父さんは親衛隊で、テトラ騒ぎの前日に、亡くなったんだそう。戦死っていうことになるんだろうか。
それは、一日中ごたごたしていた中での出来事。ただ、当事者ともいえる私としては、少しだけいたたまれない気持ちになった。
お父さんはバイドさんの部下で、その死の間際、娘を託されたって言ってた。不幸にも色々あって片親だったノルンは一人になってしまって、だからこそ、後を託されたバイドさんは不器用ながらに、色々と世話を焼きながら、どうしたものかと悩んでいたらしい。
そんなノルンは、本気で近かったバイドさんの家を抜け出して、最近は私に会いに、よく館に来る。
嬉しいけれど、下っ端メイドだけに、それはそれで困ったけれど、事情を聞いていたお姉様が、メイド長にちゃんと話を通してくれた。
その結果、今日もノルンは館に来ていて、メイドの真似をしながら遊んでいる。
夕方になったら、恐縮しきったバイドさんが連れ戻しに来るけど、レオン様もレオン様だから、それを受け入れてくれている。
あの日、声を押し殺して泣いていた子供は、もう居ない。
時折、遠い目をして何かを見ている事はあったとしても。
無くした世界を思い出して、想像して、切なくなったとしても。
私達は、新しい世界を、そうやって生きていくんだろう。
お父さんって、どんなんだろう。
お母さんって、どんなだったのかな?
私が生まれて嬉しかったのかなあ。
だっこしてくれたのかな。
頭を撫でてくれたのかな。
好きだって、言ってくれたのかな。
愛してるって、言ってくれたのかなあ。
振り返ればそこに見える、無くした世界。
それは幻想。
だから私はその世界を、優しくて美しいままにしておこう。
きっと、いつかこの世界を去るその日まで、笑っていられると思うから。
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