すわんぷ・ガール!外伝!
無くした世界(上)
お父さんって、どんなんだろう。
お母さんって、どんなだったのかな?
私が生まれて嬉しかったのかなあ。
だっこしてくれたのかな。
頭を撫でてくれたのかな。
好きだって、言ってくれたのかな。
愛してるって、言ってくれたのかなあ。
なんで、どこかに行っちゃったんだろう。
私達が住む帝都の、レオン様の館。
そこから、歩いてだいたい一時間。上がったり下がったりしながら行くと、市場に着く。
最初は、誰かと一緒に来てたけど、今は一人でお使いも出来る。もちろん買う物が多かったら、誰かに頼らなきゃいけないんだけど、ほんのちょっとした物だったら私だけでも平気。
帝都の街並みは、結構入り組んでいて複雑で迷いやすいけど、二度ほど誰かと一緒に来た程度で覚えた。
お姉様は、今でも何処に何があるかわからないし同じような道ばっかりだ、なんて言ってたけど、そんなこと無い。
例えば、同じように見える交差点でも、そこから見える街並みの様相は全部違うし、ある辻は、おじいさんが何時も日向ぼっこしてる。
とにかく何かしらがちょっとずつ違うし、特徴を探せばいくらでもあって、特に注意深くして無くても、何時も何かが発見できる。
そんなことをしていたら、少なくとも御館の周り、結構な範囲を私は詳しくなっていた。それは、他のメイドと話していても、殆どついて行けないって言うことがないぐらい。
御館でのメイド生活も、結構慣れてきた。
最初は本当に色々あったけど、今はわけわかんなくなるほど一生懸命してなくても、大丈夫。少しだけ余裕が出てきた気がする。今日は何をしたら良いのか、明日は何をするべきなのか、少し考えるだけで予想が出来る。
メイド長に叱られる回数も、前と比べてかなり少なくなった。それでも少し、今でも叱られるけど。でも、何時も完璧すぎるメイド長からしたら、私達、何処か何か綻びがあって、しょうがないことなんじゃないかと思ったりする。でも、だからといってふてくされたら駄目だ。頑張って、頑張らなくちゃ。
―――ここは、頑張ったらちゃんと誰かが褒めてくれる。認めてくれる。喜んでくれる。
あまり思い出したくはないけど、前は、ううん、前の前はそうじゃなかった。何時もやって当たり前だったし、出来て当然だった。何をやっても、叱られて叱られて叱られて叱られて、どうしたら良いのかわかんなくて、自分で考えても無駄で、意味が無くて、だから私は何も考えないようにしてた。
だけど、ここは違う。
ちょっと気付いた事、少しだけ工夫してみたり。
そんな事も、許してくれて、そしてちゃんと評価してくれる。
要らないことをするなって、言われない。
それは、本当に嬉しくて。ともすれば、不安になるぐらい。
思い返すと、ここまで来るのに色んな事があったと思う。
あの村から奴隷として売られて、そしてお姉様に会った。
それから、レオン様に会って、旅をして、色んな物を見て、そして。
運命って、凄く不思議。
もし、あの時、お姉様に会わなかったら。会えなかったら。
奴隷として売られなかったら。
私は、ここには居なくて、こんな思いもしてなかっただろう。
それは私にとっては、幸運なんて言葉では追いつかないほどの、奇蹟。
ほんのちょっとの、すれ違い。わずかな、ズレ。もしそれらがあったとしたら、たったそれだけで、掴むことが出来なかった幸せ。
それを思うだけで、泣きそうになる。
暗くて昏い私の世界に、たった一条差し込んだ光。それを辿ってここまで来た。その光を、私は生涯、何があっても忘れたりはしないだろう。
お姉様。
パルミラ。
レオン様。
私は、絶対に忘れない。
御館の生活では、休みという不思議な日が七日に一度ある。
これは、何もしなくて良い日の事で、聞いてみると、六日頑張ったので頑張らなくて良い日がある、という事だった。
でも、御館での仕事は一日だってしないで良い日は無いので、順番に誰かが休んでいる状態にある。最初は、働いている人が居るのに、私だけ何もしないで良いということに戸惑いを覚えたけど、そうかといったら、つい何かやってるとメイド長に叱られたので、仕方なく休むようにしている。
とはいえ、自分一人することが無い、というのはちょっと不安だった。
そして何をしたらいいのか、わからない。
最初は、お姉様のところに行って何だかんだとしてたけど、最近は少しだけ、ほんの少しだけ意識的に距離を開けるようにしている。
私だって、何時もお姉様頼りっていうわけにはいかないし、きっと多分お姉様は気にしないって言うだろうけど、やっぱり主人とメイドなのだから、私からべたべたするのはおかしいと思う。逆は嬉しいけど。
でも、そうすると、休みの日は私一人で何かをしなければいけない。
ただ、実際自分のためだけに、何かをするというのがよくわからなかったりする。有り体に言うと、暇。そういえば、お姉様も同じような事を言っていた気がした。あんまり暇ヒマ言うから、暇なのはお姉様だけって言ったけど、今思えば酷い事を言ったような気もする。
暇なのは、実は辛い。
昔だったら思いもしなかった贅沢な悩みなのかもしれない。
でも、事実そうなのだから、仕方ない。何にしても、何かすることを考えなきゃいけなくて、色んな人に話を聞いた。
すると、「趣味を持ちなさい」と。
趣味って、趣味かぁ。と、聞いた時は、かなり妙な事を考えた。
勿論、趣味という言葉は知ってる。知ってるけど、じゃあ具体的になんなの?って言われると、よくわからない。
とにかくやって楽しいことというわけだった。ミーシェに聞いたら、「料理を食べに行ったりする」と驚くような事を言われた。何が驚いたかというと、どこかに食べに行くというのが私にとって凄すぎる事だったのと、案外ミーシェが行動的だったこと。
ともあれ、同じ厨房仲間同士だけに、それもありなのかなと真似しようとして気付く。
一人だと、それはちょっと難易度が高い。
御館でメイドし始めて、お金は給料っていうことで、少なくない、本当に少なくない金額を貰っている。これはこれでドキドキしたけど、それは別として、レストランとかに一人で入れないとなると、結局はお金があっても一緒だ。
思い出すと、あの港町でルーパートさんと一緒に行ったレストランが、私の初めてで、そして唯一だった。
その経験に縋ろうにも、思い出してみると私は結局何もして無くて、細かな部分では何をどうしたらいいのかわからない。そもそもメニューが読めるかどうかが怪しい。
気付いてみると。
結局私は、他の子に比べて物事をよく知らないということがわかった。
これはこれで悲しい現実ではあったけれど、だとするならば、やることがフッと思い立った。
散歩。
私は、この新しい世界を知らなすぎる。
だから、少しずつ覚えていけば良い。やり直せば良い。
時間は、あるのだから。
秋は巡って、初冬の季節。
この時期になったら、あの場所ではもう雪がちらついていた。ここは、日が照る日中はまだ少し暖かくて、それだけでここが別の場所なんだなって、気付かせてくれる。
最近ずっと着てばっかだったメイド服は、流石に休日の今日は着ていない。別に着ていてもいいのだけれど、カレンに休日ぐらいは違う服を着なさいと言われて、旅の最中に着ていた服に着替えた。その服は夏着で、そのままだと寒いので、ついでにカレンにコートを借りた。
散歩に行くなら、自分の服も買いなさい。
そんなアドバイス付きで。
それもいいかもしれない。
綺麗に舗装された街路を歩く。あまり適当に歩いて迷うと帰れなくなるので、取りあえず道順はわかっている市場へ向かった。
市場は楽しい。
ともすれば、私の村よりも大きなそこは、帝国の中心、帝都のそれだけに様々な物が集まってくる。それは私にとって見たことの無いものばかりで、特に何も買わず歩いてみているだけでも、十分に楽しい。
何時も何かしらのお使いの時でも、もう少し見ていたいと思ってたぐらいなので、今日いっぱいはずっとここにいても良いかもしれない。
市場は、大きな広場を間切るように、様々な露天商が軒を並べている。露天商は簡単なテントというか、屋根を設けた屋台で一杯で、売ってるものも、肉とか果物とか、それから簡単な料理とか、あとは、鞄とか、小物とか。とにかく何でもあるという印象で、その並びもバラバラ。そんなそれぞれの店が、客寄せの声を上げ、そして其処此処で店と客との値切ったりとかの声が上がっている。その喧噪が賑やかで、でも別段それが煩わしくない。
そんな露天を眺めながら、人混みの間をすり抜けるように歩く。
結構楽しい。見るもの全てが珍しく、そして一々興味を引いた。
でも、あんまり近くによって見てたら、店の人に捕まって面倒くさいので、微妙な距離を保つ。気を引くものがあったら買っても良いかもしれないけど、何となく無駄遣いするのも気が引けた。多分には、ここにあるものだったら、大体は買える程度にはお金を頂いてはいるのだけど、でも正直、そのお金をどう使って良いのか、素直にわからなかった。
そもそもメイドとして働くようになるまで、お金をもって何かを買った経験もない。個人的に、何かを買うなんて、それこそしたことが無くて。
だから、気になるようなものがあっても、自分自身にとか思うと、いきなり尻込みしてしまう。綺麗なブローチや、煌びやかなネックレスとか、自分で買うとか、烏滸がましいような気がして仕方が無いから。
「うーん……」
やっぱり、一人で来ずに、誰かと一緒に来た方が良かったかも。
次は、パルミラでも誘ってみようかな。パルミラがいるなら、お姉様も一緒でも良いかもしれない。
そこまでは、主人とメイドをわきまえてっていう話ではなくて、何かあったとき、私じゃ何も出来ないから。
一人で回るのも悪くないけど、ちょっとだけ物足りない。今日は我慢して、次は考えよう。
「?」
市場の中央まで来て、テラベランで見たそれよりも遙かに大きな噴水の側まで来たとき、ふと視界に入ったそれに、私は一瞬意識を奪われた。
それは、噴水の側で蹲る子供だった。歳は6歳ぐらい。女の子。
蹲るといっても、噴水の影に座っていて、それは別に、珍しい光景では無かった。
ただ、その表情が―――
「こんにちわ、お姉さん」
そんな考えは、横合いから呼びかけられた声に中断させられた。
気になる程度のそれは、直ぐに頭の片隅に追いやられ、その声の方を向く。
そこには、三人ほどの、若い男が立っていた。不思議なのは、三人とも全く面識が無い。三人とも、表情は笑って居るけれど、なんとなくニヤニヤというか、嫌な感じの笑みを浮かべている。
あまり清潔感は無い。ううん、それは私にとって贅沢な人物評価なのかな。でも、清潔感が、ない。
「はい、こんにちわ?」
一応、挨拶は返しておく。
ただ、その三人にはあまり関わりたくない。何となくな本能がそうつげていた。そしてその感じは、どこかで実際に見たことがある。
「お姉さん、一人でしょ。良かったらさぁ、俺たちと一緒に遊ぼうよ」
「はい?」
思いがけない言葉に、私はつい素で返す。
素直に、なぜ一人だったら知らないこの人たちと一緒に遊ばなければならないのか、という関連性が全然わからなかった。
そして私の中の警戒レベルが一つ上がる。その台詞はよく理解出来なかったけど、でもその話し口調や、雰囲気、表情は、かつてあの村で何度も目にしたことがある。
言ってみれば、意地悪な感じ。何か悪い事を、害を為そうと、企んでいる感じ。
「はい、だって。んじゃ、一緒に行こうよ」
「え?え?」
戸惑う私の言葉尻を捉えて、好意的というのか、恣意的というのか、とにかくそんな風に捉えた正面に居た男が、私の手を―――手首を掴む。
その強引な感じ。触られた感触。それが遠い、遠い記憶にリンクする。
嫌だ。嫌。嫌いや。
「……っ!」
掴まれた腕から、ぞわぞわとした悪寒が駆け上る。もの凄い嫌悪感。そして、恐怖。
だから、それを拒絶したいのに、でも、出来ない。声が出ない。体が―――動かない。
だって、抵抗したら、痛い。
「ありゃ、お姉さんちょっと震えてるー?」
「マジでー?何やってんだよお前、ひゃはは」
「でも可愛くない?怯えた顔でさー。ほらー、安心していいって」
口々に、勝手な事を言う彼ら。彼らの中では、そういうことになっている。
私の事なんか、聞いてない。彼らの中で、私は、完結している。
だから、何をしても、無駄だ。
「……っ!っ!」
当然のように、周りの、見てるはずのみんなも、私を助けない。
誰も、私を助けない。
タスケテは、くれな―――
『自分から助かろうとしない者は、助かったりなんか、しない』
―――!
「いやっ!嫌です!離して下さい!」
遠い記憶の、少し後。
その記憶が、私を守る。
連続する自分を隔絶する、その奇蹟が、私を強くする。
「うわ、急にどうしたのー?お姉さん」
「嫌っ!はーなーしーてー!」
イキナリの私の変貌に、今度は向こうが戸惑っている。
それでも、私の手は離さない。こういうことに、慣れているのかも知れない。
でも、抗う。一生懸命に、手を引っ張って、離れようと。そう、頑張る。手が離れたら、全力で逃げる。そして、御館で、こんな事があったんだって、笑って話すんだ。
あの場所に、戻るんだ。
「ああ、面倒くせえ!掠っていっちまおうぜ」
「クソが、黙ってついて来てればいいんだよ!」
あんまりにも抵抗する私に業を煮やしたのか、さっきまでの装いをかなぐり捨てて、かなり直接的な乱暴口調になる男達。
短絡に、過ぎる。考えが、無い。
相容れることは無い。
「いや!助けて!」
周りにも、助けを求める。叫んだ。
みんなきっと、怖いんだ。だから、そんな怖い人なんかに、関わりたくは無い。私みたいな、他人を助けるほどには、それは折り合わない。
だけど、助けて。私を、助けて。
「うぜえっ!黙ってついて―――」
「成る程。運がいい。そしてお前らは運が悪い。よもや俺の前で、機嫌の悪い俺の目の前で、そのような無体が、まかり通っているとはな」
その声は、その台詞は。
私は、振り返る前に、一人の存在を思い描く。傍若無人、凶暴、そして優しい。
それは。
「バイド?さん?」
「ああ、久しいな」
数瞬前までに、私の手首を掴んでいたはずの、男の手を捻り上げている男は、予想したルーパートさんではなくって、グレた、バイドさんだった。
というか、そういう風にしか見えなかった。薄手のシャツを着崩して、タバコをくわえ、無精髭。
あの軍服姿をビシッと決めて、言葉少なげで、慇懃な姿なんて、そこには全く無かった。
「いてててえ!離せ、おっさん!殺すぞ!」
「俺をあんまり喜ばせるな……嬉しくてやり過ぎそうになるだろうが」
ぼきゃ
「ぎゃあ!」
バイドさんは私の目の前で、信じられないようなことをあっさりとやってのけた。
殆ど無表情でそう言うと、一切何の警告も呵責も無く、男の腕をへし折った。片手で、捻り折った。
それは、あのギルドでの、ルーパートさんの凶行に似ていた。似ていたけれど、別だった。そこにあるのは怒りとかではなくって、まるでそうするのが当然ともいえるような暴力だった。
「な、なにをす―――ぐぼっ」
「はぎゃっ」
そのまま、残り二人も遠慮無く殴りつけた。一人は、お腹を、一人は顔面を。
それは、例えば、お仕置きとか、そういうのを全然越えていて、お腹を殴られた男は血反吐をまき散らしながら蹲っていたし、もう一人は血の吹き出す顎を押さえてガクガクと震えている。
「失せろ。命があっただけでも、良しとするんだな」
「ひ、ひいい」
何か汚いものを見るかのような視線で、バイドさんは平坦な声でそう言った。どうでもいい。そんな感じだった。その声に、三者三様、歩けないものは引き摺られるように、仲間に助けられながら逃げていく。
私も、殆ど全力で暴力を振るっていながら、命があっただけでもって言い放つバイドさんに純粋な恐怖を覚えて後ずさる。それでも逃げなかったのは、助けて貰ったという事実があるからで、そうでないなら今、周りの人がそうしているように出来るだけ離れるか、その場から立ち去るかしてたと思う。
「あ、ありがとうございました……」
怖ず怖ずと、礼を言う。
以前の姿とのあまりのギャップに、ひょっとして別人なのかもと思うけれど、そもそもそれはさっき確認している。バイドさんで間違いないみたい。
それは別に、全然安心材料にはならないのだけれど。
「ああ、別に気にしなくていい。ああいう手合いをどうにかするのも、戦士の勤めだからな。まさかアイラだとは思わなかったが」
どうもバイドさんの中では、そういうことになっているらしかった。
「でも、その、ちょっとやり過ぎなんじゃ……」
控えめに、ごく控えめに、言う。地面に転々と、多分というか間違いなくあの男達のだろう血だまりが残っている。それはちょっとしたというレベルを超えてて、ひょっとしたら無事で済んでないんじゃないかなとすら思えた。
「ああいう輩は、中途半端にしてはいけない。必ずまたどこかで害を為そうとする。容赦したりするのも駄目だ。もう二度と何があっても繰り返さない程には、痛めつけておいたほうがいい」
しれっと恐ろしいことを言われた気がする。
よくわからないけれど、多分、それがバイドさんにとっての『正しい』なんだろう。無理矢理に、納得することにする。
「そ……れにしても、こんなところで奇遇、ですね。よく市場には来るんですか?」
あんな事があったのに、当たり障りの無い日常的質問をする私。
というよりも、心を平行にするために、そうしていると、多分、思う。それは無意識的な私の守り方なのかもしれない。
「家が近いのでな。それに人を―――いや、ちょっと用事が、な」
そこまで言って、言い淀むバイドさん。
明らかに何かを言おうとして誤魔化した感じだった。ただ、そうかといってそれを追求しようとは思わなかった。助けられたとはいえ、さっきの凶行を見るに、あまり込み入った話に付き合いたいとは思わなかったから。
それに、バイドさんの言葉も、殆ど拒絶のそれだったし。
「そうなんですか」
なので、その返答もいよいよ当たり障りのない言葉になる。
「ああ、ではな。今のは運が悪い類いではあるが、あまり一人で出歩くのは推奨しない。日が落ちる前には帰った方がいい」
「はい、ありがとう。そうします。バイドさん」
頭を下げる。
頭を上げたら、もうバイドさんはどこかに行っていた。よくわからないけれど、用事が忙しかったのかも知れない。変な事に巻き込んで悪かったかなあと、申し訳なく思った。
さて、どうしよう。
市場巡りは楽しいけど、少しだけケチが付いたような気になった。
もう、今日は帰ってしまおうかとも思う。
「うーん」
とはいえ、まだお昼。屋敷に帰ったところで、特に何も無いし、勿体ない気もする。折角なのだから、何か一つぐらいは買ったりしたい。
それに、お腹も減ってきた。
其処此処から漂う、いいにおい。お肉を焼いている臭い。何かを蒸している甘いにおい。
買い食い。
それは、ちょっと憬れの行為でもある。
食べたいものを自分で選んで、食べたいだけ食べる。それは、私にはもの凄い贅沢な行為のような気がした。
たいていの場合は、食べたいものなんか選べない。出されたものを、食べるしか無い。
お姉様に―――レオン様に付いていくようになって出されたものっていうのが、もの凄く豪華になったから、考え方が変わってしまったけれど、でも、それ以前はただ食べれるものが与えられるというだけの話だった私は、選ぶという行為にどうしても尻込みしてしまう。
本当に、いいのかな?
そんな罪悪感を、理由も無く思ってしまう。
とはいえ、お腹がすいたのは確かだし、別段、屋台で何かを買うのは別に初めてでもない。大抵は食材のなにかだけれど、経験があるのは強い。
だとしたら、何を食べよう。屋台を見回してみる。
まず臭いに釣られて真っ先に目に入るのは、串焼きの肉。肉がなんなのか、さっぱりわからないけど取りあえず美味しそうな臭いはしている。
後は、えーっと焼いた肉をパンに挟んだ……ってアレって、お姉様のアレじゃなかったっけ?
ひょっとしたら人気なのかも知れない。けど、アレがデレデレに酔っ払った女の子によって作られたってことまで、知ってるのかなぁ。
他は……うーんと、何かの生地で挟んだ何か、とか、甘いにおいがするけど、よくわからない焼いたものとか。取りあえず肉以外、どんな味がするものなのか、そもそも何がどうなっているものなのかも、想像が付かないものばっかりで。
流石にそんなわからないものを食べる勇気も無ければ、万一失敗だったら勿体ないっていう気持ちもあって、結局、買ったのはクリスサンドと、果実のジュースだけだった。
だけど、甘い臭いがする何かが気になって、それも二つほど買ってみる。手のひらの大きさで、パンみたいで、でもデコボコ。店の人に、何ですかって聞いたら、ワッフルって言うらしい。
それらを両手で持って、どこか食べれる場所を探す。ちょっと調子に乗って買いすぎた気もする。キョロキョロと見回しながら歩いていると、さっきの噴水のある広場に出た。
あそこなら、座れそう。
持っているそれが冷める前にと、小走りで噴水脇に近寄って、その縁に腰掛ける。それぞれ脇に置いて、取りあえず紙で包まれたクリスサンドにかぶり付いた。
「ん、おいひ!」
思わず声が出た。ちょっと恥ずかしくなって、口元を抑える。
おいしい。それに懐かしい。前にそれを食べたのは、あの山間の街だった。竜の肉だっていうからちょっとおっかなびっくりだったんだけど、あれも美味しかった。
このパンに挟まっているのは、間違いなくその肉じゃ無いけど、でも何の肉かはわかんないけど、十分に美味しい。
考えてみると、こうやって空の下。何かを食べるっていうのも、久しぶりな気がする。
それは私の思い出の中で、色んな場面でそうしていたけど、今は、何もかも懐かしい気がしたし、それも悪くない気がした。
気分が良い。横に避けていた、ジュースに手を伸ばす。
そして気付いた。
さっき、同じ噴水の影で蹲っていた、女の子。
その子が、まだ同じところに居た。割と、すぐそば。
その時は、あんな事があったから、そのまま忘れてしまっていたけれど、さっきも見てふと気になっただけに、私はその子に改めて視線を送った。
金髪の髪を両方で結んで、フリフリの黄緑色の上着。それから、子供っぽいハーフパンツ。可愛らしいその姿は、きっとそれなりの家の子なんだろう。
でも。
そんな女の子は蹲ったまま、泣いていた。
大きな目に一杯の涙を溜めて、でも声も上げず口を真一文字に閉じて、どこか遠くを見ながら。
膝を抱えて、俯くわけでもなくて、そこには無い何かを見ている。
目が、離せなくなる。
それは、どこかで見たことのある光景だった。
―――ああそうか。
唐突に、私は気付いた。
それは、多分、私だった。あるいは、私達だった。
失ったもの、無くしてしまったもの、消え去ってしまったもの、手に入るはずだったもの。
それらを思い出したり、夢見たり、でも決して手に入らなくて、それがとてもかなしくて。
どうしてなんだろう。なぜなんだろうって考えながら、ずっと、ずっと、ああしてこの世の中のどこかにあったはずの世界を、見ている。
そんな、姿だった。
それに気付いて、私は息を吸い込んだ。眉間にツンと何かを感じて、唇を噛む。
放ってなんか、できない。あんな顔で、子供が泣くのはいけない。
何があったのかは、わからない。でも、あれは、あの姿は。
私はいたたまれなくなって、噴水の縁から腰を浮かし、その子に近付いた。
どう、声をかけようか。悩んでしまう。
でも、放ってはおけない。これは、私なのだ。私達だったから。
失ってしまって、無くして、それが何故なのかわからなくて、どうしようも無くて、自分を責めて、決して手が届かない何かを求める。それはささやかで、当たり前で、だけど自分たちだけは、それを手に入れられない。
それだけは、わかっている。何もかもがわからないけれど、それがどうにもならないことだけがわかる。だから、悲しいけど、声を上げて泣くことも出来ない。
私は、その子の近くまでいって、そしてその横に、しゃがみ込んだ。
女の子の視線は固定されたまま、こっちを見る事も無い。
「ねえ、お嬢ちゃん。どうしたのかな?何で泣いてるの?お姉さんに、教えて?」
出来るだけ、優しく声をかける。そんな台詞はもの凄く散文的な気がするけど、でもそれが私の精一杯の言葉だった。
ほんの少しだけ、女の子の視線がこちらに向く。でも、すぐに俯いてしまった。
私は、少しだけ吐息ついて、でも、その横に座った。殆ど肌が触れる距離。
「―――何かを無くしちゃったんだね。お姉さん、代わりにならないけど、横に居ていいかなあ?」
殆ど確信的に、柔らかく、微笑みながら、思ったことを女の子に言う。そして、女の子が見ていた何かを見ようとするように、視線を遠くに。
広場から、市場が見える。その向こうに、立ち並ぶ白亜の家々。対比して、青く済んだ空。
広場では、大勢の人たちが行き来していて、賑やかなまま。若い人も、歳がいった人も、子供も居る。
笑って居たり、無表情だったり、何かを話していたり、遊んでいたり。
それぞれが、それぞれの世界の中にあるのだろう。
そして、多分。
女の子が無くしてしまったのは、きっとそれなんだ。
お母さんって、どんなだったのかな?
私が生まれて嬉しかったのかなあ。
だっこしてくれたのかな。
頭を撫でてくれたのかな。
好きだって、言ってくれたのかな。
愛してるって、言ってくれたのかなあ。
なんで、どこかに行っちゃったんだろう。
私達が住む帝都の、レオン様の館。
そこから、歩いてだいたい一時間。上がったり下がったりしながら行くと、市場に着く。
最初は、誰かと一緒に来てたけど、今は一人でお使いも出来る。もちろん買う物が多かったら、誰かに頼らなきゃいけないんだけど、ほんのちょっとした物だったら私だけでも平気。
帝都の街並みは、結構入り組んでいて複雑で迷いやすいけど、二度ほど誰かと一緒に来た程度で覚えた。
お姉様は、今でも何処に何があるかわからないし同じような道ばっかりだ、なんて言ってたけど、そんなこと無い。
例えば、同じように見える交差点でも、そこから見える街並みの様相は全部違うし、ある辻は、おじいさんが何時も日向ぼっこしてる。
とにかく何かしらがちょっとずつ違うし、特徴を探せばいくらでもあって、特に注意深くして無くても、何時も何かが発見できる。
そんなことをしていたら、少なくとも御館の周り、結構な範囲を私は詳しくなっていた。それは、他のメイドと話していても、殆どついて行けないって言うことがないぐらい。
御館でのメイド生活も、結構慣れてきた。
最初は本当に色々あったけど、今はわけわかんなくなるほど一生懸命してなくても、大丈夫。少しだけ余裕が出てきた気がする。今日は何をしたら良いのか、明日は何をするべきなのか、少し考えるだけで予想が出来る。
メイド長に叱られる回数も、前と比べてかなり少なくなった。それでも少し、今でも叱られるけど。でも、何時も完璧すぎるメイド長からしたら、私達、何処か何か綻びがあって、しょうがないことなんじゃないかと思ったりする。でも、だからといってふてくされたら駄目だ。頑張って、頑張らなくちゃ。
―――ここは、頑張ったらちゃんと誰かが褒めてくれる。認めてくれる。喜んでくれる。
あまり思い出したくはないけど、前は、ううん、前の前はそうじゃなかった。何時もやって当たり前だったし、出来て当然だった。何をやっても、叱られて叱られて叱られて叱られて、どうしたら良いのかわかんなくて、自分で考えても無駄で、意味が無くて、だから私は何も考えないようにしてた。
だけど、ここは違う。
ちょっと気付いた事、少しだけ工夫してみたり。
そんな事も、許してくれて、そしてちゃんと評価してくれる。
要らないことをするなって、言われない。
それは、本当に嬉しくて。ともすれば、不安になるぐらい。
思い返すと、ここまで来るのに色んな事があったと思う。
あの村から奴隷として売られて、そしてお姉様に会った。
それから、レオン様に会って、旅をして、色んな物を見て、そして。
運命って、凄く不思議。
もし、あの時、お姉様に会わなかったら。会えなかったら。
奴隷として売られなかったら。
私は、ここには居なくて、こんな思いもしてなかっただろう。
それは私にとっては、幸運なんて言葉では追いつかないほどの、奇蹟。
ほんのちょっとの、すれ違い。わずかな、ズレ。もしそれらがあったとしたら、たったそれだけで、掴むことが出来なかった幸せ。
それを思うだけで、泣きそうになる。
暗くて昏い私の世界に、たった一条差し込んだ光。それを辿ってここまで来た。その光を、私は生涯、何があっても忘れたりはしないだろう。
お姉様。
パルミラ。
レオン様。
私は、絶対に忘れない。
御館の生活では、休みという不思議な日が七日に一度ある。
これは、何もしなくて良い日の事で、聞いてみると、六日頑張ったので頑張らなくて良い日がある、という事だった。
でも、御館での仕事は一日だってしないで良い日は無いので、順番に誰かが休んでいる状態にある。最初は、働いている人が居るのに、私だけ何もしないで良いということに戸惑いを覚えたけど、そうかといったら、つい何かやってるとメイド長に叱られたので、仕方なく休むようにしている。
とはいえ、自分一人することが無い、というのはちょっと不安だった。
そして何をしたらいいのか、わからない。
最初は、お姉様のところに行って何だかんだとしてたけど、最近は少しだけ、ほんの少しだけ意識的に距離を開けるようにしている。
私だって、何時もお姉様頼りっていうわけにはいかないし、きっと多分お姉様は気にしないって言うだろうけど、やっぱり主人とメイドなのだから、私からべたべたするのはおかしいと思う。逆は嬉しいけど。
でも、そうすると、休みの日は私一人で何かをしなければいけない。
ただ、実際自分のためだけに、何かをするというのがよくわからなかったりする。有り体に言うと、暇。そういえば、お姉様も同じような事を言っていた気がした。あんまり暇ヒマ言うから、暇なのはお姉様だけって言ったけど、今思えば酷い事を言ったような気もする。
暇なのは、実は辛い。
昔だったら思いもしなかった贅沢な悩みなのかもしれない。
でも、事実そうなのだから、仕方ない。何にしても、何かすることを考えなきゃいけなくて、色んな人に話を聞いた。
すると、「趣味を持ちなさい」と。
趣味って、趣味かぁ。と、聞いた時は、かなり妙な事を考えた。
勿論、趣味という言葉は知ってる。知ってるけど、じゃあ具体的になんなの?って言われると、よくわからない。
とにかくやって楽しいことというわけだった。ミーシェに聞いたら、「料理を食べに行ったりする」と驚くような事を言われた。何が驚いたかというと、どこかに食べに行くというのが私にとって凄すぎる事だったのと、案外ミーシェが行動的だったこと。
ともあれ、同じ厨房仲間同士だけに、それもありなのかなと真似しようとして気付く。
一人だと、それはちょっと難易度が高い。
御館でメイドし始めて、お金は給料っていうことで、少なくない、本当に少なくない金額を貰っている。これはこれでドキドキしたけど、それは別として、レストランとかに一人で入れないとなると、結局はお金があっても一緒だ。
思い出すと、あの港町でルーパートさんと一緒に行ったレストランが、私の初めてで、そして唯一だった。
その経験に縋ろうにも、思い出してみると私は結局何もして無くて、細かな部分では何をどうしたらいいのかわからない。そもそもメニューが読めるかどうかが怪しい。
気付いてみると。
結局私は、他の子に比べて物事をよく知らないということがわかった。
これはこれで悲しい現実ではあったけれど、だとするならば、やることがフッと思い立った。
散歩。
私は、この新しい世界を知らなすぎる。
だから、少しずつ覚えていけば良い。やり直せば良い。
時間は、あるのだから。
秋は巡って、初冬の季節。
この時期になったら、あの場所ではもう雪がちらついていた。ここは、日が照る日中はまだ少し暖かくて、それだけでここが別の場所なんだなって、気付かせてくれる。
最近ずっと着てばっかだったメイド服は、流石に休日の今日は着ていない。別に着ていてもいいのだけれど、カレンに休日ぐらいは違う服を着なさいと言われて、旅の最中に着ていた服に着替えた。その服は夏着で、そのままだと寒いので、ついでにカレンにコートを借りた。
散歩に行くなら、自分の服も買いなさい。
そんなアドバイス付きで。
それもいいかもしれない。
綺麗に舗装された街路を歩く。あまり適当に歩いて迷うと帰れなくなるので、取りあえず道順はわかっている市場へ向かった。
市場は楽しい。
ともすれば、私の村よりも大きなそこは、帝国の中心、帝都のそれだけに様々な物が集まってくる。それは私にとって見たことの無いものばかりで、特に何も買わず歩いてみているだけでも、十分に楽しい。
何時も何かしらのお使いの時でも、もう少し見ていたいと思ってたぐらいなので、今日いっぱいはずっとここにいても良いかもしれない。
市場は、大きな広場を間切るように、様々な露天商が軒を並べている。露天商は簡単なテントというか、屋根を設けた屋台で一杯で、売ってるものも、肉とか果物とか、それから簡単な料理とか、あとは、鞄とか、小物とか。とにかく何でもあるという印象で、その並びもバラバラ。そんなそれぞれの店が、客寄せの声を上げ、そして其処此処で店と客との値切ったりとかの声が上がっている。その喧噪が賑やかで、でも別段それが煩わしくない。
そんな露天を眺めながら、人混みの間をすり抜けるように歩く。
結構楽しい。見るもの全てが珍しく、そして一々興味を引いた。
でも、あんまり近くによって見てたら、店の人に捕まって面倒くさいので、微妙な距離を保つ。気を引くものがあったら買っても良いかもしれないけど、何となく無駄遣いするのも気が引けた。多分には、ここにあるものだったら、大体は買える程度にはお金を頂いてはいるのだけど、でも正直、そのお金をどう使って良いのか、素直にわからなかった。
そもそもメイドとして働くようになるまで、お金をもって何かを買った経験もない。個人的に、何かを買うなんて、それこそしたことが無くて。
だから、気になるようなものがあっても、自分自身にとか思うと、いきなり尻込みしてしまう。綺麗なブローチや、煌びやかなネックレスとか、自分で買うとか、烏滸がましいような気がして仕方が無いから。
「うーん……」
やっぱり、一人で来ずに、誰かと一緒に来た方が良かったかも。
次は、パルミラでも誘ってみようかな。パルミラがいるなら、お姉様も一緒でも良いかもしれない。
そこまでは、主人とメイドをわきまえてっていう話ではなくて、何かあったとき、私じゃ何も出来ないから。
一人で回るのも悪くないけど、ちょっとだけ物足りない。今日は我慢して、次は考えよう。
「?」
市場の中央まで来て、テラベランで見たそれよりも遙かに大きな噴水の側まで来たとき、ふと視界に入ったそれに、私は一瞬意識を奪われた。
それは、噴水の側で蹲る子供だった。歳は6歳ぐらい。女の子。
蹲るといっても、噴水の影に座っていて、それは別に、珍しい光景では無かった。
ただ、その表情が―――
「こんにちわ、お姉さん」
そんな考えは、横合いから呼びかけられた声に中断させられた。
気になる程度のそれは、直ぐに頭の片隅に追いやられ、その声の方を向く。
そこには、三人ほどの、若い男が立っていた。不思議なのは、三人とも全く面識が無い。三人とも、表情は笑って居るけれど、なんとなくニヤニヤというか、嫌な感じの笑みを浮かべている。
あまり清潔感は無い。ううん、それは私にとって贅沢な人物評価なのかな。でも、清潔感が、ない。
「はい、こんにちわ?」
一応、挨拶は返しておく。
ただ、その三人にはあまり関わりたくない。何となくな本能がそうつげていた。そしてその感じは、どこかで実際に見たことがある。
「お姉さん、一人でしょ。良かったらさぁ、俺たちと一緒に遊ぼうよ」
「はい?」
思いがけない言葉に、私はつい素で返す。
素直に、なぜ一人だったら知らないこの人たちと一緒に遊ばなければならないのか、という関連性が全然わからなかった。
そして私の中の警戒レベルが一つ上がる。その台詞はよく理解出来なかったけど、でもその話し口調や、雰囲気、表情は、かつてあの村で何度も目にしたことがある。
言ってみれば、意地悪な感じ。何か悪い事を、害を為そうと、企んでいる感じ。
「はい、だって。んじゃ、一緒に行こうよ」
「え?え?」
戸惑う私の言葉尻を捉えて、好意的というのか、恣意的というのか、とにかくそんな風に捉えた正面に居た男が、私の手を―――手首を掴む。
その強引な感じ。触られた感触。それが遠い、遠い記憶にリンクする。
嫌だ。嫌。嫌いや。
「……っ!」
掴まれた腕から、ぞわぞわとした悪寒が駆け上る。もの凄い嫌悪感。そして、恐怖。
だから、それを拒絶したいのに、でも、出来ない。声が出ない。体が―――動かない。
だって、抵抗したら、痛い。
「ありゃ、お姉さんちょっと震えてるー?」
「マジでー?何やってんだよお前、ひゃはは」
「でも可愛くない?怯えた顔でさー。ほらー、安心していいって」
口々に、勝手な事を言う彼ら。彼らの中では、そういうことになっている。
私の事なんか、聞いてない。彼らの中で、私は、完結している。
だから、何をしても、無駄だ。
「……っ!っ!」
当然のように、周りの、見てるはずのみんなも、私を助けない。
誰も、私を助けない。
タスケテは、くれな―――
『自分から助かろうとしない者は、助かったりなんか、しない』
―――!
「いやっ!嫌です!離して下さい!」
遠い記憶の、少し後。
その記憶が、私を守る。
連続する自分を隔絶する、その奇蹟が、私を強くする。
「うわ、急にどうしたのー?お姉さん」
「嫌っ!はーなーしーてー!」
イキナリの私の変貌に、今度は向こうが戸惑っている。
それでも、私の手は離さない。こういうことに、慣れているのかも知れない。
でも、抗う。一生懸命に、手を引っ張って、離れようと。そう、頑張る。手が離れたら、全力で逃げる。そして、御館で、こんな事があったんだって、笑って話すんだ。
あの場所に、戻るんだ。
「ああ、面倒くせえ!掠っていっちまおうぜ」
「クソが、黙ってついて来てればいいんだよ!」
あんまりにも抵抗する私に業を煮やしたのか、さっきまでの装いをかなぐり捨てて、かなり直接的な乱暴口調になる男達。
短絡に、過ぎる。考えが、無い。
相容れることは無い。
「いや!助けて!」
周りにも、助けを求める。叫んだ。
みんなきっと、怖いんだ。だから、そんな怖い人なんかに、関わりたくは無い。私みたいな、他人を助けるほどには、それは折り合わない。
だけど、助けて。私を、助けて。
「うぜえっ!黙ってついて―――」
「成る程。運がいい。そしてお前らは運が悪い。よもや俺の前で、機嫌の悪い俺の目の前で、そのような無体が、まかり通っているとはな」
その声は、その台詞は。
私は、振り返る前に、一人の存在を思い描く。傍若無人、凶暴、そして優しい。
それは。
「バイド?さん?」
「ああ、久しいな」
数瞬前までに、私の手首を掴んでいたはずの、男の手を捻り上げている男は、予想したルーパートさんではなくって、グレた、バイドさんだった。
というか、そういう風にしか見えなかった。薄手のシャツを着崩して、タバコをくわえ、無精髭。
あの軍服姿をビシッと決めて、言葉少なげで、慇懃な姿なんて、そこには全く無かった。
「いてててえ!離せ、おっさん!殺すぞ!」
「俺をあんまり喜ばせるな……嬉しくてやり過ぎそうになるだろうが」
ぼきゃ
「ぎゃあ!」
バイドさんは私の目の前で、信じられないようなことをあっさりとやってのけた。
殆ど無表情でそう言うと、一切何の警告も呵責も無く、男の腕をへし折った。片手で、捻り折った。
それは、あのギルドでの、ルーパートさんの凶行に似ていた。似ていたけれど、別だった。そこにあるのは怒りとかではなくって、まるでそうするのが当然ともいえるような暴力だった。
「な、なにをす―――ぐぼっ」
「はぎゃっ」
そのまま、残り二人も遠慮無く殴りつけた。一人は、お腹を、一人は顔面を。
それは、例えば、お仕置きとか、そういうのを全然越えていて、お腹を殴られた男は血反吐をまき散らしながら蹲っていたし、もう一人は血の吹き出す顎を押さえてガクガクと震えている。
「失せろ。命があっただけでも、良しとするんだな」
「ひ、ひいい」
何か汚いものを見るかのような視線で、バイドさんは平坦な声でそう言った。どうでもいい。そんな感じだった。その声に、三者三様、歩けないものは引き摺られるように、仲間に助けられながら逃げていく。
私も、殆ど全力で暴力を振るっていながら、命があっただけでもって言い放つバイドさんに純粋な恐怖を覚えて後ずさる。それでも逃げなかったのは、助けて貰ったという事実があるからで、そうでないなら今、周りの人がそうしているように出来るだけ離れるか、その場から立ち去るかしてたと思う。
「あ、ありがとうございました……」
怖ず怖ずと、礼を言う。
以前の姿とのあまりのギャップに、ひょっとして別人なのかもと思うけれど、そもそもそれはさっき確認している。バイドさんで間違いないみたい。
それは別に、全然安心材料にはならないのだけれど。
「ああ、別に気にしなくていい。ああいう手合いをどうにかするのも、戦士の勤めだからな。まさかアイラだとは思わなかったが」
どうもバイドさんの中では、そういうことになっているらしかった。
「でも、その、ちょっとやり過ぎなんじゃ……」
控えめに、ごく控えめに、言う。地面に転々と、多分というか間違いなくあの男達のだろう血だまりが残っている。それはちょっとしたというレベルを超えてて、ひょっとしたら無事で済んでないんじゃないかなとすら思えた。
「ああいう輩は、中途半端にしてはいけない。必ずまたどこかで害を為そうとする。容赦したりするのも駄目だ。もう二度と何があっても繰り返さない程には、痛めつけておいたほうがいい」
しれっと恐ろしいことを言われた気がする。
よくわからないけれど、多分、それがバイドさんにとっての『正しい』なんだろう。無理矢理に、納得することにする。
「そ……れにしても、こんなところで奇遇、ですね。よく市場には来るんですか?」
あんな事があったのに、当たり障りの無い日常的質問をする私。
というよりも、心を平行にするために、そうしていると、多分、思う。それは無意識的な私の守り方なのかもしれない。
「家が近いのでな。それに人を―――いや、ちょっと用事が、な」
そこまで言って、言い淀むバイドさん。
明らかに何かを言おうとして誤魔化した感じだった。ただ、そうかといってそれを追求しようとは思わなかった。助けられたとはいえ、さっきの凶行を見るに、あまり込み入った話に付き合いたいとは思わなかったから。
それに、バイドさんの言葉も、殆ど拒絶のそれだったし。
「そうなんですか」
なので、その返答もいよいよ当たり障りのない言葉になる。
「ああ、ではな。今のは運が悪い類いではあるが、あまり一人で出歩くのは推奨しない。日が落ちる前には帰った方がいい」
「はい、ありがとう。そうします。バイドさん」
頭を下げる。
頭を上げたら、もうバイドさんはどこかに行っていた。よくわからないけれど、用事が忙しかったのかも知れない。変な事に巻き込んで悪かったかなあと、申し訳なく思った。
さて、どうしよう。
市場巡りは楽しいけど、少しだけケチが付いたような気になった。
もう、今日は帰ってしまおうかとも思う。
「うーん」
とはいえ、まだお昼。屋敷に帰ったところで、特に何も無いし、勿体ない気もする。折角なのだから、何か一つぐらいは買ったりしたい。
それに、お腹も減ってきた。
其処此処から漂う、いいにおい。お肉を焼いている臭い。何かを蒸している甘いにおい。
買い食い。
それは、ちょっと憬れの行為でもある。
食べたいものを自分で選んで、食べたいだけ食べる。それは、私にはもの凄い贅沢な行為のような気がした。
たいていの場合は、食べたいものなんか選べない。出されたものを、食べるしか無い。
お姉様に―――レオン様に付いていくようになって出されたものっていうのが、もの凄く豪華になったから、考え方が変わってしまったけれど、でも、それ以前はただ食べれるものが与えられるというだけの話だった私は、選ぶという行為にどうしても尻込みしてしまう。
本当に、いいのかな?
そんな罪悪感を、理由も無く思ってしまう。
とはいえ、お腹がすいたのは確かだし、別段、屋台で何かを買うのは別に初めてでもない。大抵は食材のなにかだけれど、経験があるのは強い。
だとしたら、何を食べよう。屋台を見回してみる。
まず臭いに釣られて真っ先に目に入るのは、串焼きの肉。肉がなんなのか、さっぱりわからないけど取りあえず美味しそうな臭いはしている。
後は、えーっと焼いた肉をパンに挟んだ……ってアレって、お姉様のアレじゃなかったっけ?
ひょっとしたら人気なのかも知れない。けど、アレがデレデレに酔っ払った女の子によって作られたってことまで、知ってるのかなぁ。
他は……うーんと、何かの生地で挟んだ何か、とか、甘いにおいがするけど、よくわからない焼いたものとか。取りあえず肉以外、どんな味がするものなのか、そもそも何がどうなっているものなのかも、想像が付かないものばっかりで。
流石にそんなわからないものを食べる勇気も無ければ、万一失敗だったら勿体ないっていう気持ちもあって、結局、買ったのはクリスサンドと、果実のジュースだけだった。
だけど、甘い臭いがする何かが気になって、それも二つほど買ってみる。手のひらの大きさで、パンみたいで、でもデコボコ。店の人に、何ですかって聞いたら、ワッフルって言うらしい。
それらを両手で持って、どこか食べれる場所を探す。ちょっと調子に乗って買いすぎた気もする。キョロキョロと見回しながら歩いていると、さっきの噴水のある広場に出た。
あそこなら、座れそう。
持っているそれが冷める前にと、小走りで噴水脇に近寄って、その縁に腰掛ける。それぞれ脇に置いて、取りあえず紙で包まれたクリスサンドにかぶり付いた。
「ん、おいひ!」
思わず声が出た。ちょっと恥ずかしくなって、口元を抑える。
おいしい。それに懐かしい。前にそれを食べたのは、あの山間の街だった。竜の肉だっていうからちょっとおっかなびっくりだったんだけど、あれも美味しかった。
このパンに挟まっているのは、間違いなくその肉じゃ無いけど、でも何の肉かはわかんないけど、十分に美味しい。
考えてみると、こうやって空の下。何かを食べるっていうのも、久しぶりな気がする。
それは私の思い出の中で、色んな場面でそうしていたけど、今は、何もかも懐かしい気がしたし、それも悪くない気がした。
気分が良い。横に避けていた、ジュースに手を伸ばす。
そして気付いた。
さっき、同じ噴水の影で蹲っていた、女の子。
その子が、まだ同じところに居た。割と、すぐそば。
その時は、あんな事があったから、そのまま忘れてしまっていたけれど、さっきも見てふと気になっただけに、私はその子に改めて視線を送った。
金髪の髪を両方で結んで、フリフリの黄緑色の上着。それから、子供っぽいハーフパンツ。可愛らしいその姿は、きっとそれなりの家の子なんだろう。
でも。
そんな女の子は蹲ったまま、泣いていた。
大きな目に一杯の涙を溜めて、でも声も上げず口を真一文字に閉じて、どこか遠くを見ながら。
膝を抱えて、俯くわけでもなくて、そこには無い何かを見ている。
目が、離せなくなる。
それは、どこかで見たことのある光景だった。
―――ああそうか。
唐突に、私は気付いた。
それは、多分、私だった。あるいは、私達だった。
失ったもの、無くしてしまったもの、消え去ってしまったもの、手に入るはずだったもの。
それらを思い出したり、夢見たり、でも決して手に入らなくて、それがとてもかなしくて。
どうしてなんだろう。なぜなんだろうって考えながら、ずっと、ずっと、ああしてこの世の中のどこかにあったはずの世界を、見ている。
そんな、姿だった。
それに気付いて、私は息を吸い込んだ。眉間にツンと何かを感じて、唇を噛む。
放ってなんか、できない。あんな顔で、子供が泣くのはいけない。
何があったのかは、わからない。でも、あれは、あの姿は。
私はいたたまれなくなって、噴水の縁から腰を浮かし、その子に近付いた。
どう、声をかけようか。悩んでしまう。
でも、放ってはおけない。これは、私なのだ。私達だったから。
失ってしまって、無くして、それが何故なのかわからなくて、どうしようも無くて、自分を責めて、決して手が届かない何かを求める。それはささやかで、当たり前で、だけど自分たちだけは、それを手に入れられない。
それだけは、わかっている。何もかもがわからないけれど、それがどうにもならないことだけがわかる。だから、悲しいけど、声を上げて泣くことも出来ない。
私は、その子の近くまでいって、そしてその横に、しゃがみ込んだ。
女の子の視線は固定されたまま、こっちを見る事も無い。
「ねえ、お嬢ちゃん。どうしたのかな?何で泣いてるの?お姉さんに、教えて?」
出来るだけ、優しく声をかける。そんな台詞はもの凄く散文的な気がするけど、でもそれが私の精一杯の言葉だった。
ほんの少しだけ、女の子の視線がこちらに向く。でも、すぐに俯いてしまった。
私は、少しだけ吐息ついて、でも、その横に座った。殆ど肌が触れる距離。
「―――何かを無くしちゃったんだね。お姉さん、代わりにならないけど、横に居ていいかなあ?」
殆ど確信的に、柔らかく、微笑みながら、思ったことを女の子に言う。そして、女の子が見ていた何かを見ようとするように、視線を遠くに。
広場から、市場が見える。その向こうに、立ち並ぶ白亜の家々。対比して、青く済んだ空。
広場では、大勢の人たちが行き来していて、賑やかなまま。若い人も、歳がいった人も、子供も居る。
笑って居たり、無表情だったり、何かを話していたり、遊んでいたり。
それぞれが、それぞれの世界の中にあるのだろう。
そして、多分。
女の子が無くしてしまったのは、きっとそれなんだ。
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