国語教員の視点で見るネット小説

すかい@小説家になろう

国語教員の視点で見るネット小説

 生徒に物語文を教えるとき、「主題・テーマ」を登場人物たちを使って伝えているのが文学的文章だ、と言っています。太宰治の『走れメロス』などと、いま小説家になろうで流行っている異世界ものなどの物語で大きく異なるのは、「主題」に重きを置いているかと、「面白さ」に重きを置いているかの違いかと考えます。
 とはいえ自分はネット小説やライトノベルも、文学といって良いと考えています。理由は単純で、もともと文学は人がある程度「面白い」と思わなければ残ってこなかったと考えているからです。
 たとえば『竹取物語』、『源氏物語』、『平家物語』などを想像してもらえるとわかるかと思います。国語の授業として、古典としてこれらを扱った場合には、堅苦しく、苦痛の伴うイメージが先行しますが、普通に読み物として考えるなら話は面白いものが多いです。
 今の我々のように、翻訳を伴い、むしろその作業がメインとなってしまうからこそ堅苦しく感じるのであって、当時の人々にとってこれらの物語は純粋に「面白い」から受け入れられたのではないかと考えています。『ハリー・ポッター』シリーズだって、原文を翻訳しながら読んでいれば、面白さを感じる以前に翻訳作業が大変になってしまい、物語としての魅力は感じ取れないのではないかと思います。
 手塚治虫さんレベルであれば、漫画作品でも最近は教科書に載っています。私が確認できたものでは、『竹取物語』の項目で、月に関連する物語として『宇宙兄弟』の一コマが紹介されている教科書もありました。
 教科書に載れば文学作品、というわけではありませんが、一つの指標になるのではないかと考えています。漫画もこうして文学に近い立ち位置にたって語られることも出てきたことを考えると、ライトノベルやネット小説も近い将来にはそうなるのではないでしょうか。映画作品などもそうですが、ジブリ作品や『君の名は。』などいった作品は、十分文学として鑑賞できるものでしょう。
 こうして考えるなら、ネット小説も文学作品であるといえるでしょう。純文学とライトノベルなど、ジャンルの違いでしかないのです。
  
 逆に考えれば、ライトノベルやネット小説以外の作品を読む機会を持つことが、いま小説家になろうで書かれている作品に生かされることも、思いの外多くなるように感じます。
 作品のだめな部分を上げていけば、切りがありません。読む時代が違う、読ませようとしている対象と違う、その他様々な理由で、合う作品と合わない作品があるでしょう。ですが、今こうして作品を作る側に立つとわかりますが、書籍化され、我々の目に留まるところにある作品というのは、それだけでそれなりの理由があります。
 その理由、つまり良い部分をどれだけ見抜き、考え、生かしていけるかという視点に立ち、様々な作品と向き合っていく重要性を感じるこの頃です。

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