『 悲しい雨 』

Black Rain


   ……………………………………………………

   二人、黙ってしまった。静寂が流れる。

   「 こんな風についさっきまで見ず知らずだった君に、己の人生の、結構大きな分岐点だった過去を話してる今って … どんな時間なんだろうね … 。」
   目前で揺れながら昇る煙草の煙を見ずに俯いた侭、目を伏せて村井がぽつりと口にした。
   「 わかりません … わかりませんが … この話を聴くのが、僕の人生の一部だったというのも事実だったという事ではあると思います。」
   村井が手にしている煙草はフィルター近くまで短くなっていた。
   「 でも、すいません … 遊園地のゴンドラが落ちるって … 」
   村井が、侘しそうな、それでも、その気を隠すみたいに精一杯の穏やかさで装って見せている様な、そんな微かな笑みを作って徹を見た。
   「 うん … 後の実況見分だとか様々な取り調べだとか色々あったけどね … 遊園地側の日頃の整備や点検の様相、詳細、またゴンドラやゴンドラとワイヤーを繋ぐジョイントやローラーの製作会社や販売業者、使用している金属の種類、出所、流通ルート、そうした経緯の隙に違法金銭授受等の有無を調べるだの金属疲労またその検査会社の内訳、詳細、会社設立時の資本金また創業者社長の出身地、経歴等々 … あれこれ … なんでそんなとこまで自分が聞かされたり関わらなきゃならないのかって … 警察官や検察官の … そんな熱意に満ちた目で語りかけて来る姿と対峙すればする程、悲しみだの虚しさだのを感じる余裕など更々失せて、次から次へと、まるで人海戦術で働かされ続ける引っ越し屋の運び士にされてしまった様な気分になったり、結局この人達は、己等が正々堂々と使命を全うしているという誇りを守る為の … 俺自身やこの事故は、そんな彼等の生甲斐を顕示する格好なネタって事だけだったりしたりもするだとか … そうやって、俺自身の内側だけに留まらず、世の中ってのはどうしてこう … 狐と狸の化かし合いみたいな事の繰り返しの中で、何が愛だ … 何が思い遣りだって何もかもが馬鹿馬鹿しく感じて来てさ。最後は、いいから … 捜査は適当に貴方方の都合の良い様に、示談なら示談で早く終わらせて下さいって … そう申し出たんだよ。」
   徹は黙って聞いていた。踵を返す気にならない … 重い話だ … と、茶化す気にもならない。村井は短くなった煙草を灰皿で揉み消し、俯いて黙った。
   「 酒の小瓶を並べて、話の立会をさせるのは … 圭一さん … もしかして … 」
   「 ん? … ああ、いや … 昔からだよ。」
   我に帰ったみたいにキョトンした目で徹を見返して村井が答えた。
   「 人、ひとりひとり、同じ空間に居てして、実は違ったりするもんだ。」
   「 …………… 。」
   「 運転免許センター、行った事あるでしょ? 」
   少し驚いた目をして徹が村井を見た。
   「 あ、はい。取得試験の時に … ですけど … 。」
   村井が小さく笑った。
   「 ふ … 未だ一回だよね、18歳じゃ。」
   「 はい … 。」
   「 違反してるしてないでよりけりだけど、免許の更新で数年毎に誰もが足を運ぶ … かなりの無差別で、見ず知らずの沢山の人間が一つの教室に集って肩を並べる。」
   「 ええ … そうですね … 。」
   「 県、地域 … まぁ、街に因って異なるんだろうけど … 不思議な空間なんだよ。」
   「 ……………… 。」
   「 集う人々の共通点は運転免許を持っている … 或は取得する為という事だけ … あ、あと返納もあるか。その共通点だけで多種多様な人が一箇所に集まって、まあ、自動車運転に因んでという事に限ってではあるけど … じっと椅子に腰掛けて講話を聴きながら … 何の共感も無い。自己紹介も無ければ気に留める隙も興味も生まれない。当たり前と言えば当たり前だが … あ、互いに無関心という共感は在るか。」
   徹が少し間を置いてから小さな笑みを浮かべて言った …
   「 あ … 早く終わらないかなぁ〜という共感も有りますよ … 多分。ふふ。」
   「 そうだねぇ … ははは、忘れてた。そうだそうだ! 」
   村井が楽しそうに返した。二人して一瞬笑った後、村井が静かに続けた。
   「 蓋をした顔をしてるんだよ。世の中にそういう場所って、他に無いよな。あんまり無い。病院の待合室 … 待合所って言うのかなぁ … あの診察を待つ長椅子が15脚20脚並べてある場所 … これがさぁ … この場所と診察を終えて会計を待っている人が座ってる場所とで微妙に空気が違うんだよ。また、病院の中に薬局がある病院なんかで薬が出来上がるのを待っている場所はまた更に少し空気が異なる。」
   「 ああ、わかりますわかります! 」
   「 うん、薬局で待っている人は診療の会計が終わった後の更なる待たされでイラついてる人が多いんだよ。二度手間を喰わされた的イラつき。」
   「 はいはいはいはい!凄くわかります! 」
   当初徹は、村井の話の流し方に僅かな疑問を懐いたが、今となってはさすが大人だなぁ … 上手いなぁ、乗せられてると感心していた。
   「 で、言いたいのはさぁ … あ、ごめんね … 免許センターに話を戻すけど … … … 」
   「 はい、… 」
   「 3年 … 4年 … まぁそのくらいのスパンで免許センターに … 次第にね、戻って来るというか、帰って来た … そんな感覚になって来るんだよ。」
   「 ………… 」
   「 3,4年置きに、要するに数年置きに … 格好付ける言い方をしようとする訳ではないんだが … その間に起きた事を、様々な事を纏って、所謂背負って … でね、滑稽なくらい、其れ等を露呈する隙が穏やかに全く無い空間である事にシュールな不気味さを心地良く感じるんだ。」
   「 心地良い … ですか … 」
   村井は小さく笑った。
   「 そう、そこなんだよ … 。心地良いんだ。心地良いのが … そしてまた気持ち悪かったりもするんだよ。」
   「 そうですよね!何となく、何となくですがその感覚分ります! 」
   徹は … 自分自身ですら、何故なんだろう … と思いながら驚いたみたいに目を丸くして返した。村井もそんな徹を見てほくそ笑んだ。
   「 コレはさぁ … いや、それってさぁ … … … ちょっと極端に比喩るけど … 敢えて … 」
   「 はい、」
   徹は喋る村井の口元に食い入るみたいに注視し、続く言葉に迫る勢いの体勢になった。
   村井は俯いて、告げる様に呟いた …
   「 自分を含めて、其処に集う、所謂、免許センターに集まる沢山の人々が … まるで、深夜の闇に包まれて包囲された … 公園なんかに集まる幽体 … 亡霊というイメージとは違うんだよね。亡霊という物のイメージは、本当は違うのかも知れないけど … 其処に出現するにあたって、僅かながらにでも意志や意味や価値を携持( ※ けいじ:身につけて持つ事。)している感触がしてならないんだよ。本当は、幽体や幽霊という呼称の方が悩ましい物としての意味らしいんだけど … 逆に謂えば、様々な経験を経て … 謙り … じゃないか、何というか … 逆にね … 怨念とか、遺恨とか … そうした物が無いのに幽出して来るという意味で亡霊の方が、実は魂の底の底、裏の裏に隠制 ( ※ 造語:いんせい。)しているという気が在る様で不気味だし、ある種の重力を感じる。抜け殻を目にして得る重量感。そんな方向性、引力の無い幽体。陽の光の注ぐ昼間に、自分らが、そうした幽体に、其処に集まる時だけ変貌してしまうような … … … 」
   徹は、この村井という、つい小一時間前に知り合った一回り以上歳上の男性の饒舌に、一瞬、痛々しさを覚えた。一瞬 … というか、覚えた … 感触した  … というか、その痛々しさに、今、やっと気が付いたという感じだった。
   「 圭一さん … いや、村井さん … 」
   村井は少し驚いたように目を丸くして、
   「 ん? 」
   目を伏せる様にしていた村井は我に帰ったみたいに徹を見た。
   「 ほじくり返すみたいで申し訳ないんですが … 人が死んだという事は、僕は、この地球上の何処をどう歩き回っても、隅から隅まで巡っても … もう其の人はいないって事だと思ってます … 。」
   村井は再び表情を凍らせて目を伏せたが、その直後に、今度は吐き捨てる様に小さく笑った。徹が見る初めての村井の表情 … 顔だった。
   「 ふっ … はは。わかってるよ。知ってるよ … でも、なかなか良い相槌をするもんだ。18歳だよなぁ。18年。俺は34年。大した … 徒者じゃないな … 君は。」
   「 ぇ … いや … いや徒者です。… 徒者ですよ、勿論。」
   先程浮かべた笑みの侭村井は返した。
   「 そうかなぁ … ふっ … そうは思えないなぁ … 俺には。少なくとも … 俺なりにだが … 俺なりのこの世で34年間息を吸って吐いて来た俺には、徒者とは思えんなぁ … はは … 君は。」
   村井が … 徹を見た侭、笑みだけを落として続けた。
   「 でも … ね … 、世界中隅々、何処まで探し回っても居ないという事は … … … … 逆に、何処にでも居る … 何処に行っても … 居る … 何処に居る時、行く時でも … 常にそばに、くっ付いて居続けてるって事でもあるんだよ … … … 此れは、此の事は … 愛する人、愛した人が死んでしまった … 遺された、置いてかれてしまった人間にしか分からないと思う … 。」
   〝 … 置いて … … … 枯れて … … … 〟ふと、徹はそんな事を思った。
   「 ぁ … それからもう一つ … 僅かながらだけど、遠い、知らぬ頃程の遠い昔にタイムスリップした気持ちになるんだよ。気持ちじゃない。気分ですらない。確実にタイムスリップした。」
   「 タイムスリップ? … ですか? 」
   「 はぁー。」
   村井は分かり易い感じの溜息を吐いて小笑みに戻りながら目を伏せて俯き、そして卓上の煙草の箱を左手で静かに摘み上げて箱の中を覗き込んだ後、上下に一振り二振りして顔を出した1本を直接左の口尻辺りに咥えた。
   煙草を咥えた侭火を灯けずに村井は続けた。
   「 嫁と息子と出逢う前 … いや、嫁と出逢う前か … いや違う、要するに極端にというか、はっきり言ってしまえば、息子を産んだ嫁がこの世に未だ居なかった頃 … この世に上 ( ※ 天 ) から降りて来る前の … 空気 … 匂いを感じた。」
   「 …………… … … 」
   「 この歳になった俺の口が云う以上どうしても情けない頃的な言い方しか出来ないが … 男のくせに恋焦がれていたりだとか … ははは … 妙に女の裸だとか所謂白い柔肌だとか、そうした温もりだとか … そんな事ばかり頭の中で渦巻いていたりだとか … 将又不用意に人や世の中だとか社会だとかに反抗的だった頃。そんな頃に感触してた空気に、匂いに包囲された。まぁ一時だけどね。」
   村井が咥えていた煙草に火を灯けた。部屋の中なのに村井は火を灯ける時は風を避けるみたいに両手を翳す。煙草の先を包む様な仕草が徹には印象的だった。
   「 村井さん … 村井さんは、明日はどんな風に過ごすんですか? 」
   喋り通した後の脱力感みたいな … そんな雰囲気で煙を吐き出す村井に尋ねた。白い歯を少し覗かせてニヤリとした村井が返した。
   「 君は … 徹君はどう過ごすの? … 明日 … 。」
   時計を見たいような気に押されたがグッと堪えた。村井という男に対しては、其れが剰りに失敬な仕草であるような気がした。
   「 考えてませんが、兎に角ぼんやり過ごしたい気分です。」
   村井は仕切り直すみたいに再び小さく笑った。
   「 俺は … どうしようかなぁ … 。」
   「村井さん … 今際の際って … どうも自分には、チャラチャラした物に感じられてならんのです … 。」
   村井が徹を睨み付けた。
   「 本当に18歳か? …   」
   村井が言った後、引き続き徹を見つめた侭、飲み干されるのを待っていたみたいなコップの南を一気に飲み干した。
   黙っている徹に村井は続けた。
   「 君が言わんとする事が伝わって来た。今の … チャラチャラしてるっていうのを聴いて。」
   徹もジィーッと村井を見つめて … そして一気に南を呷った。
   「 村井さん … 僕は18歳です … 。所謂18年です … この世に降りて来て … 。勉強ばっかりして来たんです。僕は、常々、机の上という小さな港に居ました。テキストや参考書に記されている文字が、言葉が、時々鴎 ( ※ カモメ ) の鳴き声に感じたりしました。」
   「 …………… 」
   「 僕は経験がありません。僕には、経験が足りません。ただ、考えていたのだと思います。問題を解きながら、テキストのページを進めながら、考えていたのだと思います … 。ずーっと。」
   「 … うん … 。」
   「 物語の、人の、人間の長い長い物語 … その生命の火の滅するその瞬間である今際の際は … 剰りにも呆気ない一瞬である様な気がしてならないのです … 其れが仮にその際、長時間病苦で悶え、堪える情景で在ったとしても … 。」
   一瞬、二人を静寂が包んで … その静寂を、音を立てずに和紙を千切るみたいに村井が静かに返し始めた。
   「 君の、徹君の此れ迄の人生は、18年間は … 痛々しいくらい遊びが無かったんだろうねぇ … 。いや馬鹿にしてるんじゃない。遊びの無いハンドルの様な … という意味での遊び。君がさっき、明日の予定を … 兎に角ぼんやりしたいと言ったのがとてもよく解る。」
   忘れていた右手のタバコの灰を、村井は灰皿の中に落とした。
   「 死んでしまったら … 呑む食べる … 味の、味覚の共感すら無くなっちまうんだもんなぁ … 。それどころか、声もしない、聴けない … 帰って来ない … 仮に棺に、行ってらっしゃいを云えたとしても云っても、お帰りなさいを言う事は無い。存在してた証は、俺の記憶と、一緒に、共に生きてたから受けた影響で変わった俺自身の、精々資質また仕草か … 。」
   灰皿に手にした煙草でぽんぽんと2回小さく叩いて村井は灰を落としてから咥えて深く煙草を吸い込んだ。
   「 地球平面説のへた … 滑り落ちる滝の、水も飛沫も … 其れ等に意味も価値も無いを知る哀しさまた虚しさ … 膨らむ物のないエンドロール … 穴の空いた風船程すらも無い。未だその方が訴える物がある … 。」
   村井は煙草を揉み消して南を注ぎ足し、そして一気に飲み干した。
   「 6年でしたよね … 。」
   「 うん … 6年前。」
   徹は村井の小脇の南を掴んで自分のコップに勢いよく注いだ。
   「 村井さん! … 呑みましょう! …… 忘れるんじゃなくて、その平面な地球のへたから滑り落ちる滝の水の飛沫になりましょう! … 今夜は! 」
   徹は一気飲みをした。そして缶の中の鯖を大き目に箸で切り取り摘み上げて丸く開いた自分の口の中に放り込んだ。
   村井はびっくりした表情をして笑った。
   「 … ちっ! … 本当に18歳かよ! … やるなぁー、若僧っ! 」
   「 負けませんよっ!やるときゃあやります!呑むときゃ呑みます!未成年だって!ははは!未成年の意地です! 」
   「 わっはっはっはっはっ! 」
   村井と徹は明け方近くまで南を酌み交わした侭村井の部屋でいつの間にか眠ってしまった。2人が雑魚寝する村井の部屋は朝焼けのやわらかい朱色に染まっていた。そして2人の寝息、時計の秒針音と鳥の囀りで夜明けのカルテットを奏でていた。





   「 ママーっ、あれパパじゃない? 」

   「 パパかなぁ … パパかも知れないねぇ … 行ってみようか … 。」

   「 パパだよーっ!じぇったいパパだぁっ!ママ、早く行こう!早くーっ! 」

   「 あっ、たかしくん … ママ転んじゃうよ、待ってぇ … ほら、待ってよたかし … … … 」





   男はベンチに腰掛けて朝焼けの湖を眺めていた。小雨が降っていた。太陽が顔を出しても眺めている男の頭上からは僅かながらではあるが水滴が落ちて来ていた。
   「 はぁ 。」
   ぼぉーっと湖面を眺めている男の左目尻辺りに近付いて来る人影が映った。
   「 ママ! … 早く! … ママ! … ママ! … ママ! …早く早く! … ママ! 」
   幼い子供だ。男児の様だ。
   「 ん … 」
   痩せた髪の長い女性と一緒だ。男児は女性の手を引っ張っている。男児は右手にソフトクリームを持っている。女性の左手には箱詰めのポップコーン … かなり側まで来ている。




   ぱぱぁ …   ぱぱ、ぱぱぁ …   ぱぱ …   ぱ …     あ …    れ …    ぱ ぱ …      あ れ      ぇ …



   う …   ん …      ごめんね …        … たかしくん …      ごめん …   ね …




   ぱぱじゃなかったね …      ごめんね …      ほんと、      ごめんね …





   ごめんなさい …      ほんとう …      ごめんなさい …




   たかし … … … …





   ベンチに座っていた男は痩せた髪の長い見てくれ30歳前後の女性と野球帽を被った幼い男児の方へ首を回して … 見上げた。
   「 … … … … 」
   女性は静かに微笑みを浮かべながら男を見つめた。男児は、目を大きく見開いて食い入る様に男の目を見つめた。
   「 …… … ぁ …… ぁぁ … ぁ ぁ … 」
   女性は表情を変えない侭、男を見つめ続けた。男は、男の目を見つめる女性と男児の顔を交互に繰り返しゆっくりと見た。
   「 …… おじしゃん、ぼくのパパ知らない?ねえぼくのパパ知らない?いなくなっちゃったんだ! 」
   男は尋ねる男児の目をジィーっと見つめた。男児は相変わらずの食い入る様な、それでいて責め立てるとも見受けられる様な目で男の目を見ていた。
   「 … ぁ、 … パパさがしてるのか … 」
   男児の右側に立つ、微笑んで直立不動の女性の左目からスゥーっと透明な線が下りた。男の瞳孔が一瞬、女性の目に向いた。
   「 … ぁぁ、さっき … 向こうのほうに歩いて行ったよ … トイレにでも行ったんじゃないかな … 」
   男は二人が向かって来た方とは逆側を右手の親指で指して云った。唇を尖らせていた男児の顔が一瞬で笑顔に変わった。
   「 ママっ!パパ、トイレだって!もぉーっ待ってるって言ってたのにぃーっ! ……… ママっ!行こっ!早く行こっ!もぉパパったらっ!しょーがないなぁーっ! 」
   男児は話しながら笑顔で女性の顔を見上げた。女性も笑顔で頷いて左目の下頬辺りを左手で拭った。繋いだ女性の手を引いて走り出そうとした男児の手を、女性は引っ張り返して、
   「 あ、ほら … おじちゃんにお礼は? 」
   「 あ、エヘ … あ、ありがとうおじしゃん! 」
   男は小さく笑みを拵えて小さく頷いた。
   「 あ、ほら待ってたかし! … ぁ、ありがとうございました! …… 」
   勢いよく走り出した男児の手に引っ張られて女性の体が激しく揺らいだ。
   もうあっという間に走り去って行った … 母親とその息子だったのだろう … 女性の長く白いスカートが靡いていた。男児の野球帽を被った小さな頭が揺れている。左側から射す朝焼けが、男には夕焼けに見えてならなかった。男児も、母親も左半身だけが朱色に染まっていた。湖面も朱色に染められている。そういえば親子と話していた時は雨が止んでいた。今はもう男の肩に、頭に、再び雨が降り注いでいる。… とその時 … 、もう男児に遅れて繋いでいた手が離れていた女性が突然急ブレーキをかけたみたいに立ち止まった。振り返って見送る男の方を向いた … 。
   〝 … …… …… 〟
   微かに風に髪が揺れている。見つめている。男も女性を見つめ返した。離れていたが、女性の目が濡れているは確認出来た。… … 女性は両掌を膝の上辺りで重ねて、男に勢いよく頭を下げた … … … 。男は、この一瞬は微笑まなかった … … … 。女性は下げた頭を上げて男を見た。女性の両方の目から涙が溢れ返っていた … … … 。

コメント

  • ノベルバユーザー362629

    小説家さんになってください。

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