『 悲しい雨 』

Black Rain

続き③

   雨が降り続ける森の中、カウンターバーの二人はいよいよ話しの底が尽きて黙り凝る寸前という感じになっていた。
   「なぁ … 俺たちの今いる場所は、あっち … 所謂、そうだなぁ、例えば … お袋がいる場所からすると、何処ら辺りに在る場所なのかな … 」
   「おまえは、場所が、在ると思いたい。」
   「し … つこい … か …。」
   「まぁ … しかたねえよな。」
   「そう … なる … か … 。」
   「ん〜、… … そう、なるな。」
   「辿るも辿らねーもねえじゃん。」
   「あー、… … ねーよ。」
   「おめーは誰かに頼まれてそうしてんのか?そこで。」
   「わからねえ奴だなと言いたいとこだが、すべての奴が皆わからねえから、仕方ないが … 」
   「 … … … … 」
   「おめーに頼まれてるというより、おめーの独り言ってとこだよ。」
   「 ひ と り し ば い … 」
   男の目に映る景色の全てが滲み始めた。
   「辿るというか、彷徨ってみりればいいだろ。」
   「あん?」
   「有り体に言えば此処 … 的な場所 … 的な此処 … はは、要は、重なってんだから。前居た界隈では、船なり飛行機なりで海を渡る手間のある世界だったろ。今は乗り物なんか用無しだ。」
   「はぁ … なるほどね。」
   「思い浮かべりゃ行く。思った其処に行く。小馬鹿にされてる気にもなるかもな。人間だった頃に憧れてた自由ってのとよく似てる。ああ … 馬鹿にされてるような気にはなるかもな。」
   「今更、何とも思わねえよ。ざまぁ〜ねえな … 終わった奴のボヤキなんか。」





   様々な事に想いを馳せながら何となく帳尻を合わせて適当な宿に辿り着いた。小振りで素朴な和荘(※自組造語・わそうと読んで下さい。・意味は日本旧家風の宿と捉えて下さい。)だった。身の丈にまずまずという感触で逆に問題無し … 抵抗無く受け入れられた。8時半。番頭さんに部屋へ通してもらった後、軽く会釈を交わしてから番頭さんを見送った。
   通常そうした物なのだろうか … 部屋に入った時、西側の窓の障子が開け放たれていた。いや、本来なら客を招き入れる時は閉じているイメージがあったけど … まぁどちらにしても自分的には好感触だった。でも自分以外なら、あまり良い印象を懐かなかった思う … 時間的に、外は真っ暗だし都会でもなければ山岳地帯 … 街灯やネオンも皆無だ … 気持ち悪いと思う人も少なくないだろう … 。オカルト、怪談、幽霊、亡霊、自殺 … 日暮れ後にチェックインで外界の景色が即座に目に入る其処が、ただ真っ暗な景観となるとちょっとね … だが何故か、今の俺には調子の沿う瞬間だった。
   窓から見下ろすと間近に湖が確認出来た。水際には遊歩道が在り、僅かながらだが街灯も有った。其処を囲む様に雑木林が広がり、その中もきれいに舗装された遊歩道になっていた。その遊歩道にも僅かに街灯が有る。そう皆無でもなかった。でもひとっ風呂浴びた後、少し歩いて … 散歩でもしながら風に吹かれに行こうなんて気になる様な雰囲気ではないと思った。街灯から街灯の距離はパッと見20メートル置き。街灯の光の強さは不気味なほど弱くはないが、この宿同様、街?町 … 村かしら?まぁ古い地域だと思われる。付近に目立った観光スポットも無い辺鄙(※へんぴ・中心地から離れて開けていないこと。かたいなか。)な地域に相応しい平凡な緑地公園の街灯と街灯の隙間は、歩けば毎に真っ暗な一瞬が巡る。歩くなら日中だな … そういう雰囲気の雑木林だ。遊歩道の幅も大の大人なら横並び三人詰め。
   「ふぅ … 違う意味で日常を忘れられる。はは、気持ち悪りぃ。」
   はは … 結局気持ち悪くなった。好感触とか思いながら。
   八畳ほどの部屋の中心に年季の入った木彫り座卓がある。卓上には煎茶のティーパックと和菓子が二つ、盆に乗せられていた。年季こそ入っているが扱いがかなり良いのかピカピカに輝いている。窓から眼下の真っ暗な湖と雑木林を眺めるのに飽きて、お茶でも飲もうと振り返って卓上に手を伸ばした。ティーパックを一つ摘み上げて一瞬ジィーッと紙に記載された文字を見つめた。白い袋に薄黄緑色、コミカルチックな丸文字で 『 煎 茶 』と書かれていた。そそくさとシールを剥がして、〝 そうそう、こんな風に俺は何時も、ついせっかちで横着になっちゃうんだよな。〟と落胆して手が止まり、周りを見渡して湯沸かしポットを探した。無論即座に見つけられたが、道理的には先ず湯を沸かしてから湯呑み茶碗を探し、ティーパックを摘み上げてシールを剥がす … そうした隙に湯が温まり、スムーズに茶を煎れられるのに。こうした一つ一つが、所謂世の中のジワジワとこびり付いて行くストレスなんかともよく似ている。湯呑み茶碗は壁沿いに置かれた棚のガラス戸の中に有った。並べられていた二つの湯呑み茶碗の一つを手に取り、小脇に有った湯沸かしポットを見詰め、手に取り上げた湯呑み茶碗をまた棚に戻してポットの電源ソケットを外し、ポットを手に持ってドレッサーに向かった。ドレッサーの端に飲料水用の蛇口が有るのは何となく予測していた。本当に頭の良い人間と、そうでない人間の違いみたいなものを一瞬思った。頭の良さとは勘所だと思った。英会話と英語の違い、知恵と知識の違い … 偏差値、学力、成績とは謂わば記憶であり、叙情的な言い方をすれば所謂根性や根気であろう。それに引き換え、例えば発明とは、いつかのノーベル化学賞受賞者の名言である … 〝 情熱 〟。勘所、勘の良し悪しを分け隔てる要素、材料は、所謂、配慮であり、やさしさであり思い遣りだ。人が他人に対するそれなりの気兼ねであったりまた見返りを然りげ無く期待した強かな他者に請う自己援護誘導だ。俺は今、横着を纏っていたから、二度手間三度手間を繰り返した … というか日頃から俺は横着者だ。俺の頭は決して優れてはいない。頭の問題ではない。心が、心意気がショボいのだ。捨てに来た自分の中の一部を早速少し捨てられた気がした。
   やはりドレッサーの右端に飲料水用の蛇口があった。ポットに水を入れ、一瞬鏡の中の自分を見て、そしてサッと逃げる様に部屋の中心に飲料水を入れたポットを持って戻った。ポットに電源ソケットを繋いでから電気湯沸かし器にポットを置いた。
   「ふぅ。」
   再び湯呑み茶碗を棚から一つ取り出して、その中に先程シールを剥がした煎茶のティーパックを入れて電気湯沸かし器の横に並べて置いた。お茶を煎れる準備が整ったところで手が空いた為か今一度窓の外が気になった。顎から微かに移動する感じで顔を窓のある広縁の方に向けた。お湯が沸くまで少し時間があるし、ローチェアーに腰掛けようと思い窓の方へ向かった。
   「はぁー、疲れた。」
   ドカっと腰掛けた。窓の外を見下ろした。
   「風が出て来たか … 」
   つい先ほどまで静止画でも眺めてる様な気になる程、湖の湖面も闇中鏡(※造語・あんちゅうきょう・暗闇の中に鏡)の様に沿いの街灯を反転させて映していた。広がる雑木林の樹木も眠っている様だった。今は湖面も緑面も纏めて時化た海原の騒めきその物だ。
   「雨の予報なんか出てたかなぁ、まぁ宿に入ってからでよかった。さすがに一日目からびしょ濡れじゃ気を下げられる。ラッキーだった。」
   窓は閉まっていたが遠くの方から櫃(※ひつ・此処ではこめひつを著しています。)に米を流し込む様な音が微かに聞こえて来た。少しずつ音が大きく、そして響き渡って来た。
   「降り始めた … 」
   こうした静かな町で、遠くから近づいて来る雨の襲来に、無論経験など無い、人の話や記事から見聞きしただけの認識だが、戦時中の戦闘爆撃機の襲来に因る戦慄と少し似通った感覚なのかしらと微かに笑えながら僅かに首筋が冷えた。知らぬ土地、一人旅が初めてだからだろう…ただ、雨の降り始め…近づいて来る雨の降り始めというだけなのだ。有り体な言い方だがオーケストラの除幕の様でもある。見ている景観の手伝いもある。雷鳴でも付け加わればそれは丁度ティンパニーだが、其れは今は無い。真っ暗闇の窓の外を一人で眺めている中、ほんのりと楽しい気分を見つけた気がした。窓からの景色全体を埋めるみたいに眺めた。ガラスが濡れる前に雨粒を確認したい理由が自分でもわからなかったが、其れを探しているような気もした。
   「ん … 」
   高台の宿の階上窓から、目線真っ直ぐを向いていたが、眼中下方に移動する何かを感じた。雨雲はまだ付近に到達していなかった。気になって真下を見た。
   「ん … なんだあれ … 人?」
   ジィーっと見つめた。雑木林の樹と葉に覆われた合間に見える遊歩道に、尋常とは考え難い程、それこそ足を引き摺っているようにすら思えるゆっくりとした足取りで歩く … おそらく男性?と思しき(※ おぼしき・思われる。) … 背広姿の、ネクタイも締めた男性が歩いている。左手には黒いアタッシュケースを握っている。右手はポケットに入れている。
   〝 こんな遅い時間に… しかもこんな山奥に。通勤圏内とは言えないこんな地域にあんな格好して… 付近に民家だって無い … … … 都会ビジネスマンの自殺前か? まぁ … いいけど … 。〟
   雨がジワジワ近付いて来ていた。男性の処遇…いや、境遇は扨措き…よりも、このままでは雨でびしょびしょになってしまう。ずぶ濡れだ。そちらの方が心配になった。いや、心配なんかしてないな。気になるだけだ。気になるだけだが…まぁ気になる。
   …………… …… ……… …
   少し見入ってしまっている …
   「 ! 」
   立ち … 止まった …
   男性は誰かを、何かを、見つけた様に … ですらもなく、足を止め、右手にぶら下げたアタッシュケースの揺らめきも静止し、そして右手もポケットに入れた侭真っ直ぐ前を見据えた … そして一瞬後、ポケットから右手をそろりと抜き、やはり、ゆっくりと、その右手の掌を顔面中央の方に持ち上げるみたいに移動し、鼻の頭に在る眼鏡のブリッジに開いた手の中指で触れ、僅かに上方に向かって押した。そういえば男性は黒縁眼鏡をしていた。髪は真っ黒で白髪は見当たらない感じだ。首の後ろが隠れる程度のビジネスマンとしては少し髪の量が多い … 然し平凡な髪型だった。無意識にいつの間にか眼下のその男性に目が釘付けになっている。男性の所にも風が届き始めたらしい。髪と背広の裾が偶に微かに風に靡く。アタッシュケースも時折揺れる。男性は立ち尽くしている。立ち尽くした侭だ。
   どこかで … 見かけた … いや、気のせいか …
   男性が静かに下を見た。右手はポケットの中に戻していた。
   「ぅぅ …」
   益々気になって来た。
   男性は下を向いた侭立ち尽くしている。変わらず風が髪や衣服を揺らしている。
   … … … … … ……………
   男性の頭が動いた!
   戦慄が走った。ゆっくりだが、それは男性の頭がこちらに向かって動き始めたからだ。思わず怖くなって一瞬釘付けになっていた目線を外し、背後を振り返った。部屋の玄関を見た。誰も居る筈が無い侭、誰も居なかった。靴置き場の灯りは点けっ放しだった。靴も自分の靴だけ左右きれいに並べて左隅に置かれていた。番頭さんが帰る際に揃えたのだろう。馬鹿みたいだが胸を撫で下ろして、窓に向き直った … 下を見た …

   〝 ! ! ! ! ! ! ! 〟

   男性は、相変わらずアタッシュケースを左手に握ってぶら下げ、右手はポケットに入れた侭、吹く風に後ろ髪と背広の裾を揺らされながら、黒い縁の眼鏡のレンズの奥から … 真一文字に唇を閉じた侭 …

   … こっちを見上げていた …

                                目が、合ってしまった 。

   「 ぁ … 、はっ … はっ … はっ … はっ … はっ … はっ … 」

   体の全ての体温が一瞬で奪われたかの様に寒くなり、ブルブルと身震いがして止まらなくなった。男性はジィーッとこっちを見た侭動かない。叫びたい衝動をグッと抑えるだけで微動だに出来ない。
   「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、」
   目線を外す事すら出来ない。遣り様も無く固まっていると男性の口元が僅かに緩んだ。心臓が爆発しそうになりながら目の照準が男性の唇に合ってしまい … 何か言っている。喋り始めた。此方に言っているのか … 此方に何か伝えようとしているのか … 分からない侭、矢なり槍なり此方目掛けて飛んできそうな妄想に恫喝されながら動けずにいると男性は一言二言呟く様に唇を動かした後、再び唇を真一文字に結び、男性の方から目線を外し、そして下を向いた。一瞬間を置いて、居直す様にまた真っ直ぐ前を向き、歩き出して公園の遊歩道の先を辿り雑木林の影に消えて行ってしまった。
   「はぁー はぁー はぁー はぁー 」
   男性が居なくなって我に帰ると、全身汗びっしょりになっていた。
   〝 何だったのだろう … 聞いたり想像した事はあるが … 幽霊 ︎ まさか … いや別に驚く事もなかろう、辺鄙な山岳地帯の民宿だ。はは … こんなの普通だろ … ははは … はぁ … 。〟
   息を切らしながら自分に弁解したりしている。嫌いだったり不得意ではないつもり … 寧ろ得意なつもりだったが、いざ、身の上で直面するとかなり勝手が違った。窓の外はすっかり雨模様に変わっていた。ガラスにも無数に雨粒が叩き付けている。自分は宿内に居て雨を逃れているのに頭髪から足の裏までびっしょりだ。雨ではなく汗でだが。
   「ふぅ … 結局一日目からずぶ濡れだ。洗濯機あるかなぁ … どの道ひとっ風呂浴びよ。浴衣 … どこだっけなぁ〜。 」
   煎茶を飲もうとして沸かしたポットに一瞬目が行った。やれやれと項垂れながら浴衣、タオル、下着を抱えて勢いよく部屋を後にした。





   言われて… ではなかったか… 所謂、自問自答。カウンターバーを出た。

   そう言えば昔、友達のバイクを借りてツーリングに出た事があった。18歳の頃だったな。行き先を決めずに暮らしている街を飛び出してみたんだった。初めての一人旅だった。高速道路を使って。辿り着いたのは古い作りの和荘だった。適当な宿が見つかって泊まったんだよな…

   アイツ、バーテンダー… アイツって… アイツは、いないんだよな… いなかったんだよな。アイツは俺自身。アイツの、姿も言動も仕草も示唆もすべて俺の… 裏本能? … とでも言うのかな… 白と黒、YESとNO… いや、その中間かな… 或はミックスかな… 何れ其れ等全て以外ではないな。俺の内側内の想像範疇… 。

   それでもアイツ… バーテンダーのアイツは言ってた。俺の投げ捨ての跳ね返りが組み上がって亡霊と化したバーテンダーのアイツは言ってた…

   「 思い浮かべりゃ行く。思った其処に行く。」

   宿の広縁の窓から湖畔が見下ろせたんだよな。宿入したのは夜だった。雑木林、遊歩道。地べたの余る田舎の公園にしては細々しい遊歩道だった。三人並んで歩けば端の片足がはみ出る細幅だった。

   … そういえば、あの日 … あの時 … 誰だったんだろう … … … 黒縁メガネ、背広ネクタイ、アタッシュケース … 何、喋ってたんだろ … 

   幽霊みたいだった。目が合ったんだよな。憎しみというか、憎悪の漲っているような様ではなかった。ただ、静かに俺を見ていた。見ながら、何か喋ってた。其の、その時の唇も、何か文句を、ケチをつけるような尖った感じでもなく、そうだなぁ… 何かしら尋ねてくるような口元に似てた… 誰だったんだろう … … …

   男は静かに立ち止まった。真っ直ぐ前を見据えて立ち尽くした。
   「 … ったく、しつこい雨だ。俺か、ははは、しつこいのは。」
   風も強くなって来ていた。スーツの裾が偶に捲れる。パンツの膝下辺りがバサバサ音を立てる。ポケットに入れていた右手をゆっくりと抜き、顔に近付けてメガネを直した。
   〝 …………………… 〟
   何も無い或は、何もかもが無くなるという事を考え始めた。
   「思惟 … 〝 シイ 〟とか言うんだよな。」
   それも無くなる。此れ、もまた無くなる。死んでも魂は無くならない…が、無くなる…その、時が来る。来る時が来る。魂…。定義だよな…個々の、そいつコイツ其々の…其れのみが、遺る… のか… 。
   右手をポケットに戻して、左の顳顬(※こめかみ・耳と目の間にある、物をかむと動く部分。)辺りに僅かだが光を感じたのだが、どうせ雲間から覗く月灯りだろうと思ったが、どうせだから拝んでおこうと思い静かに顔を向けた。
   〝 雨の冷たさを抱いて見る白い月など寒々しいだけだが、これも俺の未練が無ければ小石の降るですらない。〟
   頭上左上の月に呟いた…
   「 おい、生きていた… それってなんだ… 死んで、今ってなんだ… 」



   落滴に、悪戯ばれつつ睨む月の清浄なる今宵。

   其れ此れも、無き在るもまた問うて虚しき清浄なる月。

   雨、滴。此れ、是れ等また、自らを欺う嘘か真実か。




          落滴(※〝らくてき〟と読んで下さい。本来は〝おちこぼれ〟と読む。此処では、個人的に、雨の滴を表したつもりの造意です。俗に言う〝落ちこぼれ〟とは意味は異なります。)

          悪戯ばれ(※〝あそばれ〟と読んで下さい。本来は〝いたずら〟と読みます。)

          欺う(※ 〝わらう〟と読んで下さい。)

          真実(※ 〝まこと〟と読んで下さい。)


   唇を、感触を確かめながらの如く真一文字に結び直し、そして俯いた。蹲み(※ 〝しゃがみ〟・しゃがむの意。)そうな気を渾身の覚悟で隠し、次いで素意(※ 〝そい〟・かねてからの願い。)の凡ゆるを慮えば崩散(※ 〝ほうさん〟と読んで下さい。造語です。崩れて散るの意。)の心を馳せては、其れを如何にして無とし、無き灼た(※〝あらた〟・はっきりと見える様。)を集め前を向き直した。
   「 …………… 。」
   男は歩き始めた。





   「ふぅー、よっこいしょ。」
   徹は大浴場の洗い場の風呂椅子に腰掛けた。鏡に映る自分と目が合う。
   「バタバタしてたけどやっとほっとしたなぁ…。」
   〝 バタバタ … してたけど … 〟… してたけど … そうなんだよな、いつからバタバタしてたんだろ。ははは…俺、未成年なんだよな未だ。小学3年生の時から月毎に親から貰っていた小遣いは使う時間が無くて放置してたらいつの間にか一端の纏まった金額になっていた。親父もお袋もヒーヒー言っていたのだから小遣い貰うのを拒否るだの返すだのしてもよかったんだが、特に親父の男気だか親心なのか金銭管理も大切な勉強の一つだと通帳を持たされ、其処には駆け出しのサラリーマンが覗き込めば少しヨダレが出るくらいの数の0(※ゼロ)の整列がイタリア兵人形みたいにきれいに並んでいた。それで今回の様なガキの生意気単身旅行という運びになったのだ。それにしてもさっきの…初っ端からレアジョーカーを引くとはね。まぁ幽霊じゃないんだろうけど…違うよなぁ〜まさか。大浴場には徹ひとりだった。

   ガチャ …

   男性が一人入って来た … 無論、女性が入って来たりはしない訳だが。徹はシャンプーを垂らした頭を両手でシェイクしていた。額から垂れて伝う泡を頬肉など畝らせながら避けて右目を瞑り、左目の目尻で、鏡に映ったその男性を確認した。男性は中肉中背の平凡な男性だった。まあ場所が場所だからであろうし、自分とその男性以外はいない閑散とした浴場内だからだろうが、背中にどっしりと疲れを纏った中年サラリーマンみたいな足取りで徹の後ろを白いタオルで前を隠しながらゆっくりと右から左に歩いて通り過ぎた。特に気に留まるところも無い平均的な男性との平凡な遭遇だが、徹からすれば恐らく歳上の男性らしく見えた。但し中高年という感じではない。23,4歳くらいに見えた。しかし何故男子、前を隠したがるものなのか… そんな風に見せぬ小笑はしたが、自分もそうなので、小笑した事を少々失敬な気になったりした。身体を洗い終えた徹は木桶の中に、タオルと、蛇口を開いて湯を落とし、石鹸が染み込んだタオルをそそくさと濯いだ。
   〝 ぁ〜、腹減ったなぁ… 〟
   宿に来る前に缶ビールを5,6本買い溜めして持ち込んだ。素泊り食事無しのつもりだったが逆にまどろっこしくなりそうだったので食事付きにしたが、今夜はコンビニ飯を適当に買って宿に来た。時間を気にしたくなかったのだ。濯いだタオルを硬く絞り、畳んで頭に乗せて湯船に向かった。先程の男性はタオルの端と端を持って後ろ手に回し、黙々と背中を洗っている。
   〝 一人で来たのかなぁ… 俺と同じ… お兄さん… 寂しい土地だけど… … … 〟
   先程見た、場に不似合いなビジネスマンを一瞬思い出した。学生… いや、落ち着いてるな。季節外れの平日というのが気になる… 但、うん… 友達と来て一人で風呂ってのは無いだろう… 恋人と来たのかなぁ… でも女性の好む雰囲気の土地とは考え難いけど。湯に浸かりながら暇潰しか場繋ぎかチラ見しながらいい感じに体が温まって来た。湯けむりにも微睡んだ。満足。納得した。
   「さっ … てっ … とっ … 」
   ポチョンポチョンと湯を僅かに揺らしながら静かに湯船を後にした。この茹蛸になった様な感覚が堪らない。心地良さを纏って徹は脱衣場に向かった。





   浴衣に着替えると徹は少し心細くなった。温まった身体と、その肩先からほんのりと立ち昇る湯気が細やかに勇気付けてくれた。古ぼけた宿だったが、一端のドレッサーが有り、ドライヤーやリキッド、トニック、保湿液等が並べられてあった。
   「 へぇ〜、繁華街の健康センターみたい。」
   小脇にあった扇風機の首を自分の方に向けて、少し涼む序でに、滅多に使わないドライヤーで髪でも乾かしてみるかと竹細工の椅子に腰掛けてドレッサーの鏡に向かった。
   ドライヤーのスイッチを先ず真っ先にコールドに入れて顔面に浴びさせた。
   〝 はぁーっ、堪んねえ、気持ちいーっ。〟
   湯船の温度が高めだったので顔がポッポしてた。2分間程冷たい風を顔に浴びせ続けて、スイッチをホットに切り替えた。鏡の中の自分を見つめながら …
   〝 ははは … ガァキィ。〟
   心の中でそう小さく呟いて笑って、髪の毛をシャカシャカ乾かし始めた。

   … ミシ … ペタ … ペタ … ペタ … ミシ …

   一瞬ドキッとしたが、さっきのお兄さんだった。脱浴(※ だつよくと読んで下さい。・風呂をあがる事。・造語です。実際にはこんな熟語はないみたいですが。)して来た様子だ。賑わっている騒々しい宿の脱衣場だったり今回の様な初めての一人旅でもなければそんな事もないのだろうが何となく人と遭遇すると一々気になる。決して嫌悪感を懐いてる訳ではない。まあ寂しいのかも知れない。偶にチラチラ横目で確認したり、耳を澄ませて動向を伺ったりしてしまう。お兄さんは今、頭を拭いている。慌てる感じではなく、落ち着いてゆっくりと。慣れた感じだ。徹は相変わらずブゥォーン、ブゥォーンという音を立てながらドライヤーで頭を乾かしている。
   お兄さんが近付いて来た。
   浴場内の洗い場の時同様、鏡に向かう徹の背後を、無論、徹を一見すらせず凡速で行き過ぎた … そして右隣の席を一つ空けたその隣の椅子に座った。

   … ミシッ …

   男性は静かに座った。真っ直ぐ鏡を覗き込んでいる。まるで鏡の中の自分と見つめ合っているみたいに。僅かながらではあるが意識が釣られてる事を悟られないように、徹は、仕草に句読点を入れないようにでもするかの様に、変わらずドライヤーの騒音を同じ様に起て続けた。男性は暫く鏡の中を真っ直ぐ眺めている。両手両腕を膝の上に乗せすらせず真っ直ぐ、ぶらぁーっと肩から真下に吊り下ろしているかのようにしながらぼぉーっと鏡の中を眺めている。徹も気にしてないみたいに前髪にドライヤーを当て続ける。死んでいる…人形の様に思えるまではあと僅か…そんな感じで、未だ、戦慄を覚えるまでには至っていない…が、あと、未だこの後この侭だと、〝 だ、大丈夫ですか?体調が優れないとか … 平気ですか? 〟とか話しかけない訳にもいかないかしらという警戒心は生まれて来た。未だ動かない … 未だ眺めてる … … … ぅ … ぁ、ぁぁ … ぅー … …
   「ハァー。」

   ブゥオーン   ブゥオーン

                              ブゥオーン      ブゥオーン

                                             ブゥオーン          ブゥオーン

   男性は極めて小さい、そしてほんの一瞬という感じの素速い溜息を吐いた直後に両手両腕を一斉に上げ、ドレッサーの台の上のトニックの瓶に左手を伸ばし、手に取り、胸元近くまで寄せて右手の人差し指と親指で蓋を外し、其れを台の上に置いて、左手に握ったトニックの瓶を逆さまに傾けて、その隙に構えた右手は杓子の様に窪ませた(※窪む・くぼむ・一部分が落ちこんだ状態になる。そこだけまわりよりも低くなる。)その掌に数滴垂らし、左手で握っているトニックの瓶を台上に戻し、先に頭髪の中で既に弧を描いている右手に、やっと親兄弟の群れの隊列に追いついた遅れ子鴨みたいな感じで右手同様左手も頭髪の中で弧を描き始めた。トニックの瓶を中心に両手両腕を右往左往させていた最中の目線は終始俯き加減の伏し目がちで全てを把握していた感じだった。今再び鏡の中を眺めているが、先程より、少しだけ精悍(※精悍・せいかん・〝 動作や顔だちが 〟荒々しく鋭いさま。)な目に変わっていた。シャカシャカとシェイクして、髪全体にトニックが染み渡って来た辺りでまた、目は少しトロントして来た。左右の手の動きも次第にスローリーになった。… 手が止まる。男性の左手がドライヤーに伸びた。
   「 あの、すいません … 」
   男性の全身がフリーズしたみたいに停止し、首から顔と視線だけが左側の徹を向いた。
   「 はい … 」
   話しかけておきながら続く言葉が見つからなかった。言葉が見つからなくなる事を徹は想定してなかった。想定せずに話しかけてしまった事を後悔しながら焦り始める自分を感じた。男性の目は徹を見た侭、徹の次の言葉を待っている。
   「 自分 … いや、僕 … 未だ18で、ひとりでバイクで来たんですけど … えーっと … えーっと … 」
   「 … ああ … なるほどね。」
   「 ぇ … 」
   無意識にドライヤーのスイッチをオフにしていたた事を今になって思い出した … 話しかける直前に意識無く消した事を。〝 なるほど …  〟。男性の顔は笑顔とも顰めっ面(※顰める・しかめる・〝 不快・不機嫌などのため 〟顔・額の皮をちぢめて、しわを寄せる。)とも、また、それでいて穏やかとも言えない、然し静かな表情をして呟いた。
   「 やたらめったら(※本来、滅多矢鱈・めったやたら・〝 やたら 〟を強調した言い方。 または〝 滅多矢鱈・めったやたら 〟の転。〝 やたら 〟は節度なくめちゃくちゃであるさまなどを意味する表現。/ 鱈*漢字で大口魚とも書くように口の大きい魚で、魚の中でも特に大食漢として知られています。 〝 たら腹食う 〟の語源にもなっています。)話しかけるのは若い頃の特権みたいなものだけど … うん … いや失礼。なんだろう … どうぞ、何かな。」
   微かに、嫌な言い方だなぁと思ったが … そりゃそうだよなとも、同時に思った。
   「 … いや … その … … なんていうか … … … … 」
   蹴り込んでおいて困惑してしまった俺を見兼ねてか、男性が繋げた。
   「 要するに自分探し。要するに一人旅 … は、初めてかな?あなたは … 。… で、気になった … 僕の事が。GWが終わって、梅雨入りを待つ、来る夏もまだ遠い水平線の端の米粒みたいに見える貨物船の如し。人気の有る無しどころではない辺鄙な村の忘れ去られそうな古宿に自分と似たような一人、男。」
   「 ぁ、… 」
   「 然も平日だしね。」
   自分が18歳で、男性を23,4歳と予想したが言葉を交わしたら想像を遥かに超える大人の雰囲気を感じた。逆に言えば老けた空気とも思えた。
   「 お幾つな … ぁ、すいません … 」
   1秒に満たないくらいの一瞬、男性は唇を強く一文字にして、その後更にへの字口になったが … 其れを直すみたいに口元を緩め微かに笑みを作り …
   「 ああ、はは、27歳だよ。」
   「 ………………… 」
   「 まだあれこれ、訊きたそうだけど … やめておいた方がいい。」
   男性は俯いて、そして伏し目がちな目をしてぽつりと告げた。一瞬間を置いて男性は手に取ったドライヤーのスイッチを入れた。ブゥオーンという騒音がまた鳴り響き始めた。徹は少しの間呆然としていたが、男性に続いて徹も再びドライヤーのスイッチを入れた。スイッチを入れたドライヤーを髪に当てる前にほんの僅かの間、スイッチの入ったドライヤーを手にした侭、髪には当てずに鏡の中の自分を覗き込んだ。心の中で隣に座る男性と自分を少し較べて見るような気持ちになった。

   〝 高野豆腐みてえ。〟

   白い痩せた自分の顔を見ながらそう思った。出会った27歳の男性も白くほっそりした顔をしているが、草に寝転んでいるようなソフトな野性味が醸し出されている様な気がした。タイミングかも知れない … 。呆然としたし … たった今。目が、点になっている。男性は鏡の中を眺めながら、左手で握ったドライヤーからの風を髪に当てながら、右手の五本櫛(※櫛・くし・髪の毛を溶かすブラシ。)で大雑把に髪を乾かしている。
   「 御法度だが … 18かぁ … 酒は飲んだ事あるの? 」
   男性が髪を乾かしながらこちらを見ずに、鏡の中を覗き込んだまま話しかけて来た。
   「 ぁ … はい。実は此処に来る前に5,6本ビール買って来ました。」
   「 はっはっは。……… 少しは話せそうだな。はは。じゃあ風呂上がったら俺の部屋で一緒に飲もうか。」
   「 えっ? 」
   思わずドライヤーのスイッチをオフにして男性の方を向いた。男性は変わらず髪を乾かしている。手の動きも変わらない。鏡を見ている。
   「 はは。ホモでもなけりゃ変質者でもねえよ。そんな立派な奴さんじゃない。だがこんな食わせどころの無い土地の平凡な宿に … 気になったんでしょ … 俺が。更に勇気を出して話しかけて来た。俺もその勇気と … まぁ、この時節の此処に20歳前の君 … 面白そうだとは正直思ったよ。ああ気になる。」
   「 あ … あははは … そうでしたか。なんだぁ … ビックリしたぁ。」
   「 さて終わり。」
   男性は鏡を真っ直ぐ見つめながらドライヤーのスイッチをオフにして、鏡を見つめた侭、左右の手を台上に下ろした。
   「 さ … て … 君は、終わった? 」
   男性が流し目をするみたいにそろりと左に座る徹を向いて、微笑を浮かべながら云った。
   「 ぁ … はい … 終わりました。」
   「 じゃ行こうか。」
   男性と徹はドレッサーの大きな鏡の前からスクッと立ち上がってロッカーの方へ向かった。徹は一瞬、目尻でドレッサーの鏡に映る去り際の自分と男性に目が行った。見ず知らずの男性の後ろを歩く自分 … 。徹は人生初の一人旅での出遭いに、此れは未体験ゾーン突入という思いに駆られてワクワクしながら、風呂道具を小脇に抱え男性の後に続いて暖簾を潜り、大浴場を後にした。男性は黙ってスタスタと歩くが、その歩速は決して急ぐ感じではない。迷い無く、それでいてのんびりとした速さで徹の前を歩き出した。





   男性の部屋は徹と同じ階の二つ部屋を跨いだ所にあった。徹の部屋のドアを左手に見ながら通過して、男性は自分の部屋の前に着くと慣れた手付きで鍵を差込みドアを引いた。
   男性から中に入って室内灯のスイッチをパチっと点けると、
   「 適当に座ってて。メシはもう食べたの? 」
   「 いや、これからですが、今日ここに来たんですが今日は途中で買って持ち込みで来ました。」
   「 空きっ腹か … まぁいっか。」
   部屋の真ん中にある座卓の、右手に西側の窓を置く感じで徹は胡座を掻いて座った。男性は部屋に入ると少し離れたところで皮の黒い旅行鞄の中をガサゴソやっていたが、いずれ少しして、備え付けのテレビの近くにある冷蔵庫の中から缶ビールとスパークリングワインの小瓶を其々2つ持って、徹の向かい側に座卓を挟んで、卓上に其れ等をコトンコトンという音を立てながら置いて身体を屈めながら回り込むみたいに徹の向かい側に徹同様胡座を掻いて座った。
   「 並べるんだよ。飲みゃしないんだけど … あ、飲んでもいいんだよ。ただ、飾るっていうか、置くんだよ。……… … … 立ち合い人みたいなもんかな。」
   ちょっと、目を白黒させていた俺に男性は説明をした。
   「 あの … いつ 」
   「 いつもじゃないよ。でもこうするのは多いかな。」
   気が付かなかったが、男性は右手にもう一つ酒の瓶の様な物を握っていた。
   「 さて。よっこいしょ。」
   ビールやスパークリングワインを、男性は卓の端に突っ立たせるみたいに並べたわけだが、男性は、そして卓の中心あたりに、白いラベルに毛筆の黒くて太い、そして勇ましい文字で 『 南 』 と書かれた瓶を、ドンッ … と置いた。
   「 お酒、大好きなんです … か … ? 」
   少し横を向いて、ニヤリと男性が笑った。鼻から微かに息を出して小さく笑った。
   「 話し相手だから。大好きって感じ … とは違うと言いたいところだな。ごめんね … だから、君は … 今日、俺にとっての君は … 合いの手みたいな感じだな。 」
   「 合いの手? 」
   「 ああ。見下したり揶揄ってるわけではないんだけどね。気に召さなかったかな? 」
   「 いえ。なんか、面白そうです。 」
   「 うん。はは。そうでしょ。」
   「 ええ。でも … 結構話しますよ … 僕も。 」
   「 うん … それでいいんだよ … はは … 。それだから、合いの手は。 」
   「 酒が話し相手って … なんか … 気になります … 。 」
   「 … んんまぁ … 有り体に、自分以外に言わせれば … ただ人の話を聞かない、聞けない奴って … それだけの事なのかなぁ。自分でも思うし。」
   男性は南と書かれた瓶の首を右手で強く握り、左手で蓋をキュルキュル音を立てながら回し始めた。
   「 あ、コップ忘れた。」
   「 ああ、僕持ってきます。 」
   「 ああ悪いね。」
   スクッと立ち上がり、男性の背後の棚からコップを2つ取り上げて、ドレッサーに行って水道で一応洗浄してから卓のところに持ち帰り、再び胡座を掻いて座った。
   「 いいねえ。」
   男性が、この時初めて、クッキリと此方を直視した。腰を下ろした位置からの、立っている此方を少し見上げる感じで。
   「ああ、いやいや。」
   「 うん、訊かないあたりが。黙ってグラス、2つ持ってくるあたり。」
   「 あっ … 」
   「うん、当然って言やあ当然なんだけど、それがいい。それでいいんだ。」
   「 す … すいません … 」
   「 あはは、それはだめ。ははは、まあいい。気にしないで。」 
   男性が南の瓶の口を向けて来たので、両手で掴んで、グラスを差し出した。サッと、徹のグラスの6分目辺りまで、男性は一気に注いだ。注ぎ返そうと、南の瓶を受け取ろうとした …
   「 うん、ああ、いい。」
   男性は手酌で自分のグラスに注いだ。
   「 これはこだわり。まぁ、今日の、今夜の、拘りかなぁ … 。」
   酒を注いでいる時の男性の顔に、寂しさのような翳りを一瞬感じた。
   「 缶ビール買って持ち込んだって話してたけど、酒は飲んだ事あるの? 」
   男性が尋ねた。尋ねて返事を待たずに、男性はグイッと煽った。
   「 酒って … ビ … あ、日本酒ですか。日本酒は、七五三の時と、正月のお屠蘇とか … 親父が御祝いだからって未成年だけどとかって … 。」
   男性はグラスを顎の下まで戻して小さく笑った。男性が。伏し目がちに。
   「 苦汁。苦味。具体的だよね。若い頃。」
   「 日本酒も苦いですよね … 一応。」
   そう言ってから小さく声にしないいただきますを心中で呟きながら微かに会釈し、軽く口に含んだ。
   「 物足りないだろ。」
   「 え? 」
   「 うん … ドスが効いてない感覚に気が付かない。若いってのを小馬鹿にしてるわけじゃ無い。そうしたものだよ。ビール。酒は … 日本酒は、苦味を浮かぶ絵に喩えるなら、材木の板目を舐める様な感じだな、俺に言わせれば。だが重い。喉を潜ると、重い。さらりとした感触で始まる。そして重い。思わずにやりとして、気が付いたら腰が抜けてたりする。酔っ払って。」
   「 深いですね。」
   そう返して二口目を飲んだ。
   「 馬鹿にされながら、笑みを絶やさずに頭下げて、結局騙されて大損したりして、不貞腐れて八方当たり散らして跳ねっ返されて … 最後は身包み剥がされてズタボロにされたりしながら … ああ … ごめんごめん … 君は … 学生さん? 」
   「 徹って言います。今年高校卒業した後はフラフラしてます。」
   一瞬表情を曇らせた。男性のその表情を確認して、徹はグラスの残りを一気に煽った。
   「 ま … 遊んでるみたいには見えないが … 。」
   目を伏せた侭、前頭葉辺りに目があるみたいに、そしてその前頭葉辺りの目で睨みつけられてるような雰囲気を感じた。
   「 遊んでます。」
   男性の顔が緩んだ。
   「 フフ … ほっとした。」
   「 えっ? 」
   小さく驚いた目をして男性を見た。男性も徹を見た。
   「 ふざけてる男の顔じゃないな。遊んでる。でも、少し違うな。ふざけてはいない。」
   反旗を掲げるようなつもりではないが、偽りたくはないという気概で静かに〝 遊んでます 〟と口にしたが、その返しはやわらかかった。
   「 ええまあ、中途半端な気持ちでやたらに飛び込んで、関わる他人の足を引っ張るのも … ちょっと違う気がしています。」
   「 自分を、探してるんだもんな … 徹君は。」
   「 はい。」
   「 煙草、吸ってもいいかな? 」
   男性が訊いてきた。
   「 あ、はい。」
   男性は小さく頷くと、立ち上がって鞄に向かい、サイドのポケットからタバコとライターを取って戻って来た。
   「 あれ … そう言えば、メシ食ってなかったんだよなぁ?腹減ってんだろ? 」
   男性は再び立ち上がるとスタスタと冷蔵庫に向かい中から何かを取り出し、そして割箸二つ持って来た。
   「 コンビニ弁当か何か知らないがそれは後で自室で食べなよ。今はこれで勘弁してくれ。」
   鯖の水煮缶詰二つと鰯の缶詰を一つ、男性は座卓の上に置いた。
   「 酒のつまみにピッタリなんだよな。」
   野暮な仕切りだが、手際の良さに徹は目を白黒させた。
   「 あ、すいません。」

   カプッ … クチャッ … クシャッ …

   人差し指を穴に入れて引っ張るタイプの缶詰をお互い一つずつ其々開けた。鯖の缶詰だ。
   「 村井だ。名前は圭一。俺の名前ね。」
   「 あ、井田です … ですので井田 徹です。」
   「 ですのでって … ハハ … あ、いや、ごめんごめん。」
   箸で鯖を摘んで口に持っていきながら村井は小笑い気味に呟いた。
   「 あの … 村井さん … あ、圭一さんと呼んだ方がいいですか? 」
   「 ああ、そうだね。その方が距離を感じない。」
   「 あ、はい。じゃあ … 圭一さん … は … その … どんな人なんですか? 」
   少し回ってきた酔いにも手伝わせて思い切って訊いてみた。
   「 ふぅーん。はは。愈々来たか。」
   「 ………… 」
   「 いや … このタイミングにその質問てのがベタだなと。まあベタでいいタイミングなんだろうけど。ははは。」
   村井の表情が静かに凍り付いた。
   「 自分の記憶が蘇らない場所を探してたらここに辿り着いた。」
   「 … どういう意味ですか … ? 」
   村井は卓上に置いた煙草の箱を手に取り、中から一本取り出し … 唇に近付けて手を止めた。
   「 何処へ行っても被る。重なる。夕陽一つ美しければそれで蘇る。如何にも覧映りの良い景色また観光スポット、其れが無くも人の他愛も無い笑顔 … それだけであの頃この頃と温もりを纏って思い出のシネマは転がり始めてしまう。」
   「 思い出したくない事が、… 沢山 … あるんですか … ? 」
   村井は右手の人差し指と中指の間に挟んでいた煙草を静かに卓上に置いた。
   「 忘れたくない事で、忘れられない事で、忘れられたらそれ以上楽になれる事は無いだろうなぁなんて思いながら … 忘るようとしてるのか、どっぷり浸ってるのか、わからなくなったまんま、其れを考えるのもやめようとかやめられなかったりとか … 色々だよ。」
   村井は再び先程置いた煙草を、今度はあっさりと手早く口に咥えライターで火を灯した。
   「 身近な人が … 何かあったんですか? 」
   「 ああ死んだ。うん、死んだんだよ。嫁と息子が。」
   今度は軽くリズミカルな口調で村井は徹に伝えた。火を灯した煙草を勢いよく吸い込んで、その直後、幼児番組に出てくる妖怪みたいに、煙草の煙を思い切り細長く吐き出してから。
   「 … 遊園地で死んだんだよ。夕焼けが油絵の名画のように美しかった。ポップコーンとソフトクリームを買いに行って、手を振りながら戻ってくる最中だった … 。もうすぐ冬本番っていう少し手前の十一月中旬だった。息子の誕生日だったんだ。にこにこしながら、嫁の手を引っ張りながら、嫁は、待って待ってと急く息子に引っ張られて … 俺も、嫁も、息子も、夕陽に染められた橙色の顔が満面の笑みで … 翌年は小学校入学だった。」
   「 それで … どうして … 」
   「 


            運 命    っ …          て …



                           」
   「 … 運  … 命 … 」
   瞼に皺が寄るほど強く村井は目を強く瞑っていた。
   「 観覧車のゴンドラが落下してきたんだよ。」
   「 えっ … ! 」
   「 野球帽を被ってた息子と長く美しいロングヘアーの、左手と右手を繋いで、笑顔で小走りする二人の脳天にゴンドラの床が激突する一瞬が、未だに何千回何万回リフレインする。コンクリートの地面に叩きつけられてゴンドラに押し潰された二人は、まるで暴漢に襲われて殺されたみたいな、信じられないっていう感じのぱっちり見開いた目をした侭、小さく震えた後二度と微動だにしなかった。」
   「 即死 … で 」
   「 即死だった。」
   障子がパチンッ!と閉じるような空耳を感じた。徹は凍った。
   「 ふぅ … もう六年も経つ。あんな事が無ければ、小学校5年生だな。何を見ても何処にいても憶い出す。未練たらしいって言われりゃ、もう口答え出来ないよ。男だし、六年も経ってるんだからなぁ。」
   「 いや … あ … いや … そりゃ … そりゃ無理でしょ … そりゃ … 」
   村井が手にしている煙草の先の灰が落ちた。
   「 いやね … フ … 生きている … 男だから … 俺は、未だ … 。」
   「 ぁ … でも … それにしても27歳じゃ … 」
   村井は苦笑いをした。
   「 34だよ … 本当は。俺の時計は止まってるんだ。27歳の侭 … 隆志の … パパどうして? … 鳴り止まないんだ … 。」
   「 隆志君て … 名前だったんですね … 。」
   「 いや、すまん … だった … じゃなくて、隆志なんだ。ごめんね。」
   「 いや、すいません … 僕の方こそ … 。」

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