『 悲しい雨 』

Black Rain

『 悲しい雨 』

   深い森の奥にカウンターバーがある。簡単な廂にディアウォール、背凭れの無い丸椅子十脚。口髭のバーテンダーがひとりウイスキーグラスを磨いている。時折額の辺りに翳し、拭き残しが無いように確認したりしている。バーテンダーの背後には5,60種程のボトルが並べられていた。丸椅子に座している客はいない。徐に続けるバーテンダーを向いて500メートル程離れた辺りから一直線に歩いてくる男がいる。右手にアタッシュケースをゆらゆらさせながらでこぼこした森の中を進んでくる。黒縁メガネをかけた色白短髪シチサンの、そして紺色のビジネススーツを着ている。時折、左の拳を口元に持ってゆき、軽い咳払いをしながらちょろちょろ左右を気にするみたいに足早ともゆっくりとも言えぬ中途半端な速度でカウンターバーに向かって来る。雨が降っていた。土砂降りという程でもなければ霧雨また横殴りという雨ではなく、ただ真っ直ぐと降る極普通の駄雨だ。バーテンダーは向かって来る男に気がついていないみたいな感じだ。男もこれっぽっちもバーテンダーを見ない。ただ一歩一歩カウンターバーに近付いている。バーテンダーもグラスを磨き続けている。
   「おひさしぶり。」
   丸椅子に腰掛けずに男は唇だけを動かすみたいに呟いた。
   「ああ。」
   応えたのはバーテンダーしかいないわけだが、男に気が付いていたみたいだ。翳したグラスを斜めに見上げたまま応えた。
   「あいかわらずだな。」
   言ってから、アタッシュケースを左手に持ち替え右の人差し指で丸椅子を時計回りにクルッと軽回ししてから座り、男はアタッシュケースをカウンターの上に無造作に置いた。
   「ん… みたいだな。」
   男はこの時少しだけバーテンダーを見たがすぐに視線を横置きしたアタッシュケースへ落とし両手の親指でロックを外しケースを開いた。
   「まぁ順調といえば順調なんだが…今回も本命は見つからなかった。」
   アタッシュケースの中にぎっしりと枯れ葉が入っている。
   「なんでもいいか?」
   バーテンダーが尋ねた。
   「ああ。ただあまりガツンと来ないやつにしてくれ。今日は。」
   「ん。」
   バーテンダーは振り返り並んだボトルを一瞬眺め、一本手に取って再び男を向いた。選んだボトルを男に確認させる事なく、男の前にグラスを置いて、静かに注いだ。
   「どうするよ。」
   注ぎながらバーテンダーが尋ねた。
   「さあな。」
   サッと返して、男はグラスの中身を煽った。喉を晒すみたいに天を向きながら1/3程をゴクッと流した。
   「日没間際の影を見つけた。滅多な事じゃないから叫んださ!〝おまえの帰り道に扉は在るか!〟掴み合いに持ち込めそうだった。もうちょいってとこで月を見つけちまった。」
   男は勢いよくカウンターにグラスを置いた。
   「はは。そんなに慌てんなって。逃げねえよ…時はもう。」
   バーテンダーが俯いたまま笑って続けた。
   「おまえは覚えてるか?」
   「ん?」
   「雨だよ… これ、この雨だよ。」
   バーテンダーは右手の人差し指で小さく天を指した。
   「知るかよ、そんなの。俺と何の関係もねえじゃん。」
   「おら… おら… だぁからダメなんだよおまえは。おまえはいつもそうだ。だからおまえは納得出来ない。いつまでも。いつまで経っても。おまえじゃ無理だ。今のおまえじゃ。」
   男は溜めた息を微かに鼻から出し、視線を泳がせた。
   「ぁ… のさぁ…   何年くらい前だったっけ…  ここ来たの… 俺…。」
   バーテンダーがボソリと応えた。
   「うん…1時間前だよ。」





   井田 徹は五月晴れの公園を歩いていた。雨季の晴天が街の中をキラキラさせている。激しい雨の多いこの季節は、その度に街中の埃を洗い流してくれるからだ。顧客先から顧客先への移動の途中に公園の中を通り抜けるのが近道となっていて、彼はこの公園の噴水の横を週二、三回歩いている。高校を卒業してからの製造業の営業マンはもう19年目を迎えていた。社長との出会いは深夜のラーメン屋だった。
   高校を卒業した後…在学中から進学はもとより、就職活動も笑いながらの手付かずは、決して余裕のある家庭に育ったからでもなく、むしろ、良い意味でも虚しい意味でも、世間一般に比べて少し低いところに位置する家庭に暮らしていたからであるような気もしている。親父は直向きだった。自分に与えられた時間の略全てを家族の為に費やしていた。私が目覚める時間には既に姿は無く、また、床に就く際も親父の姿は無かった。夢の中ですら会わぬ親父を日曜日の朝10時過ぎ頃にリビングで見ればいつも眠そうな目をしてソファーに腰掛け、右手に珈琲カップを持ちながら気がつくと目を閉じていた。眠ったまま、右手で胸の辺りに携えたカップを落とさず、微動だにすらしない、そんな親父の頑固一徹な姿を背後から目の当たりにする毎に、なんともやるせない気持ちに胸が締め付けられたりしていた。親父は優しい親父だった。何でも話しかければ穏やかに笑みを浮かべ、じっくりと話に耳を傾けてくれた。しかも真剣に。親父が一番嫌いな事は、誤魔化すという事だった。だから親父は、必ず、こちらの問いかけ以上に、深く、広い解答を投げ返してくれた。そんな親父の無理が祟ってか、私が25歳の時に呆気なくこの世を去った。親父は働き者だったが決して裕福ではなかった。賢くはなかったのだ…そう、要するに、誤魔化すのが何よりも嫌いだった親父は、ライバルを出し抜く所謂ズル賢さに、餘りにも無縁だったのだ。毒も持たなければ持たされた牙すらも敢えて棄てる…そんな親父だった。頭がおかしくなりそうなほど、だらだらと共存について、親父なりの持論を聞かされた事も屡々在った。
   社長とラーメン屋で出会ったのは、仲間と夜の街を二輪車で走り回ってる最中の出来事だった。腹が減ったので一旦地元に帰ってきて行きつけのラーメン屋に入ったのだった。腹拵えしたらもう一発カマシに行こうなんてゲラゲラ談笑しながらペラッペラに薄くなって色褪せた赤暖簾を腕押しして店に入った時、一人、太くて短い首をすぼめてレンゲのスープを啜る小太りなスーツ姿の中年ジジイが居た。頭も、額から見事に禿げ上がってた。時節完当だっけ…世阿弥の。思わず吹いた。似合い過ぎで。もう深夜1時を回るか回らないかという時間だったかな。
   「オッサン、おれ味噌ね。」
   「コッチは塩。チャーシュー2枚。忘れないでね。」
   「あ!おれもチャーシュー2枚!ヨロシク。」
   1台のバイクに二人乗りで来てた。多人数で連むのが面倒だった互いなので毎度の事。俺達はこのラーメン屋の常連だった。ラーメン屋のオヤジが他の客に頼まれた餃子の焼き目を伺いながらチラリと目線だけで俺らを確認し、
   「あい、ミソッカス シオッカス 了解!」
   フッ… 毎回だからもう慣れた。最初は客に向かってってな感じでカチンと来たが、まぁ、すぐに、このオヤジなりの優しさなんだろうって感じでどうでもよくなった。
   「社長、餃子…あい、お待たせ。」
   ラーメン屋のオヤジの声が左手側5メートルくらい離れたところでボソリと響いた。さっきオヤジが焼いてた餃子を頼んだのは禿げ上がったジジイだったらしい。店内を見渡したら元来気にしない性質なので気にしないから気がつかなかったのだが客は俺らとハゲ社長だけだった。社長と呼んでた。やはり常連なんだろうか。これまでに遭った記憶は無い気がする。
   「店長ビール追加。」
   「あい毎度。」
   ハゲ社長、深夜のラーメン屋にてジョッキビール追加の巻。
   「さっきの赤信号でチラ見した時、先頭車両の茶色のクラウン、高齢者だったろ。あれぁ流石にヤバいな。」
   「ヤバかったな。」
   「心臓麻痺で意識不明なんて事になったらさすがに責任感じるしな。」
  「助手席の婆さんと談笑してた。真横ガラス一枚、ノーヘル、直管でいきなり吹かしまくったもんなぁ。アハハハハハ!」
   「バーババ、バーババ、バンバンヴゥオ〜ン!だよな。アハハハハハ!」
   「食い終わったら県境超えてみようぜ。」
   「そりゃヤベェだろ、2人だぜ。地元の奴に見つかったらフクロだ。」
   「逃げりゃいいじゃん。」
   「逃げられるかよ。」
   「なら逆にやっちまうか!」
   「だから2人なんだっつうのコッチ。」
   「関係ねぇーよ!アハハハハハ!」
   「ほれ、味噌兄ィ、塩兄ィ… 向こうさんからだ。食っとけ。ちゃんと礼言えよ。」
   店長オヤジが餃子一枚差し出した。カウンターの隅に腰かけたハゲ社長の奢りらしい。
   「え… … … 」
   スゥーっと視線を恐る恐る向けるとハゲ社長がニッコリ笑っていた。2人揃って小さく会釈をした。
   「 す…すいません。ありがとうございます… いただきます…。」
   〝ぉぃ、なんだよ… ジジイ、粋がるガキに愛の手をって感じか!?〟
   〝シィッ!バカ、声がデケぇよ!どの道好意だ!ありがたく食おうぜ!〟
   バレないようにチラチラ偶に流し目でハゲ社長の様子を確認しながら不器用な手つきでハゲ社長ゴチの餃子を2人で食べた。ハゲ社長は相変わらずの犬食いで、首を竦めながら左手はジョッキの取っ手を握りしめたまま右手の箸で餃子を挟み切り刻んでいる。
   「今何時だ?」
   「もう2時か。」
   少し上を向いたところの時計を見た。学校の教室にありそうなシュールな時計だ。中途半端な油汚れだけがラーメン屋ぽい。
   「食ったら帰るか。」
   「ああ、眠くなってきた。」
   「おまえんち今日親居る?」
   「妹が居る筈だけど彼ピんちに行ってる可能性もある。」
   「おまえんちでいい?」
   「ああ平気だろ…仮に居ても。仮にムフフタイムカマしてても知ったこたあねえだろ。互いに捌けてる。勝手にヤってろってな感じだよ。コチとら寝るだけだし。即、寝落ち爆睡。」
   一枚で7個の餃子を3つずつ、残りの1つを箸で分けて平らげた。
   さて帰るべく、モッサリと立ち上がった。意識を晒すみたいに左を見た。
   「おじさん、餃子、ごちそうさまでした。」
   「ごちそうさまでした。」
   先に俺がお辞儀して礼を言い、あとから仲間が続いた。
   「うん、どういたしまして。若いってぇのは羨ましいねぇ。オートバイ、気をつけて帰ってね。」
   ハゲ社長は赤ら顔だった。一瞬親父の事を思い出した。親父の頭は禿げてはいなかったが、豊富に白髪混じりというところで似たような片鱗を感じさせた。俺は、高校は卒業した所謂プー太郎。ツレは自動車板金屋で働く中卒の勤労青年。奴とは中3の時のクラスメートだった。基本授業中とはお昼寝タイム。1日の中での奴にとってのアグレッシブタイムは放課後だった。メカいじり…それだけが奴の生き甲斐だった。奴の近所に自分の所有するスポーツカーを分解改造して深夜の首都高速を走り回る所謂ストリートレーサーがいたのだ。小学生だった奴はあっという間に影響され、そのストリートレーサーから譲り受けた自動車修理工のバイブル、『自動車工学』を片っ端から読み漁り、中2の夏休みは自動車解体屋から再利用不可となったエンジンをいじらせてもらい夢中になってオーバーホールの練習ばかりしていた。気が付けば夏休みは終わり、誰もが夏期講習などを経て、来たる受験戦争という戦慄の中へ努力という武装を携えて学校という本陣へ帰って来たわけだが、奴の頭の中にはメカの構造だけがギッチリと詰め込まれていた。想像するまでにも及ばず学び舎の中ではすんなりと孤立していった。奴にとってのメカいじりだって努力という範疇を逸脱するものではなかった。しかし奴以外の連中が向いている方角とは少々異なるのは確かだった。奴にとってのメカいじりは遊びの延長線上であり、愉しさの頂だった訳だが、寧ろ奴にとってのメカいじりは奴以外の連中が駆る受験勉強に優っていた要素があった。麻薬的要素、極めて夢中になっていたのだ。狂っていたと言っても過言ではない。奴の部屋はフォーミュラーマシンやらGTカー、サーキットコースマップなどのポスターから、エンジン、タービン、トランスミッション、ショックサスペンション等の構造図解まで車関連の全てという全てが所狭しと張り巡らされていた。しかし愉快なのがプラモデルなんかは一つも無いのだ。奴なりの本気だったのだ。玩具は要らない。だが奴にとっての神秘が、何故か俺には容易に理解する事が出来たのだ。俺の育った家庭環境は世間的に鑑みると少々教育熱過剰気味家庭だった気がする。夏休みはもとより年がら年中塾や自宅の机に齧りつかされていた。夏の詩人である太陽よりもデスクの蛍光灯の薄白い光の方が苦く親しみがあったし、月を見る時折には、其れを怠け者と微かに嘲笑った。清浄なる月をだ。今振り返れば病気だ。だからであろう…奴の興味は、アグレッシブは、常にNowという補語を要求し続けたし、糠味噌に漬けられっ放しだった俺には国数理社の如何に仰々しく打算、絶対零度よりも虚しい凡そなる常温、その悲しさを嫌という程痛感していた。親父は優しかった。そして働き者だった。死に物狂いの。そして武器は全て棄てた。親父は殺し合わずに、所謂、討ち消し合わずに勝ち続ける力を俺に携えさせようとしたのだ。そしてだからか、俺は一瞬一瞬の風の指標を見落とさんとする奴の姿勢に惹かれたのだ。
   「ノーヘルで帰りてえなぁ…」
   「やめとけよ。お開きなんだぜ。寝る前に面倒はごめんだ。」
   奴は冷静なんだ。当たり前といえば当たり前なのだが。8歳に見つけたトキメキをもう10年抱きしめてる。俺とは違い、ガキではないのだ。
   「徹、おまえどうすんだよ。」
   「変なタイミングで変な事訊くなぁ〜、まぁいいけど。」
   「キモいから、心配なんかしてねえけど、気になる。」
   「積み上がっちまったもんはお釣りが多過ぎる。図に乗ってるつもりはないが、今はぼんやりさせて欲しいかなぁって感じだ。」
   「偏差値70超の使い道ってか。」
   「…………」
   「俺はおまえのそういうの面白くてしかたねえ。」
   「はぁ?」
   「旨いもの、美味しいものに、飛びつく前にまず疑い、ガン飛ばして否定してサッサと背を向けるとこだよ。」
   「それはおまえだろ。はは。」
   「俺は機械いじりが楽しくて仕方ねえ。要するに美味いものなんだよ。飛び付いて飛び付きっぱなしじゃん。」
   「ああ、まぁそういう意味なら…まぁ…なら俺は、食いたくねえもんばっかし口の中に放り込まれ続けたせいで食う事自体に敵意を懐くようになっちまったって事なのかもな。」
   「…………」
   「学校の成績、偏差値、これうめぇぞうめぇぞって呪文みたいに耳元で囁かれてポンポン口に放り込まれて…」
   「ははは…巧いな…さすが成績トップ。」
   俺たちはノロノロ走った。深夜だし、結局奴に言われキチンとてヘルメットをしてたし。何より虚しかな、急ぐ理由が無い。バイクの前席に跨ってアクセルに掌を乗っけてるのは俺だった。奴のバイクだが、奴は板金屋。肉体労働で疲れてるから奴と会う時はいつも俺が運転だった。5月中旬の土曜だった。GW最終日だった。日曜日、奴は仕事が無い。はは、俺は毎日仕事が無い。無いのは仕事だけじゃなかったか。夢はあるのかもしれないが、何が夢だったか忘れちまったし、ただ不思議だな、夢が何だったのか完全に忘れたのに、自分の中のどこかにあるような確信がまだある。
   世の中散財しまくった直後だからだろうか、深夜2時とはいえ大通りも餘りに閑散としている気がする。日曜日とは言え…。まぁ気のせいだろ。呑気なのは俺くらいだ。みんな1週間レベルで思考停止した後の職場復帰に備えてるのと同時に、家族サービスやらレジャー歯車大回転後で疲れてるんだ。バタンキューも無理無い。俺の浮世感は雨に打たれた後の乾いたクシャクシャの千円札みたいに縮れてる。奴はよく付き合ってるよ、俺なんかと。まぁ彼女もいなけりゃ興味も無い、あるのは油まみれの情に流される事は決して無いメカと肉眼でブレる圧巻のスピード。加速。逆に言えば人間的パッションは徹底的に其処に隠す。委ねる。今はノロノロ走ってる。ハハハハハ。はぁ、俺何やってんだろ…。20mおきに頭上で行き過ぎる街灯に窘められているような感覚の中、このままこの状況下で失神でもしねぇかなぁ俺。妙な期待を懐きながら笑った。
   〝キキィーッ〟
   「ありがとうございました。お忘れ物ございませんか?」
   「ぁ、はいはい、うん、ありがとね。運転気をつけてね。お疲れ様、ありがとう、おやすみなさい…。」
   〝ん?〟
   奴の家まであと500mというところで停車するタクシーがいた。小太り、短首、ハゲ頭。
   「アレ…」
   ハゲ社長だった。ハゲ社長もこちらに気付いたみたいだ。
   「ぁ…   ど、どうも…   」
   俺が呟くと、俺の背中で鼾をかいていたダチが目を覚ましたみたいで、
   「ん…  ナァニ。」
   「餃子奢ってくれたおじさんだよ。ホレ…   アレ…   」
   指差した。
   「やぁ、キミらココイらかぁ…。」
   「ぁ、はい。さっきはどーも。」
   「なぁ〜んだ、ご近所さんかい。」
   いい感じのほろ酔い加減で笑いながらハゲ社長が返した。
   「………… ぁ… はい…。」
   ハゲ社長は穏やかに笑みを浮かべていた。返す言葉が他に見つけられなかった間に、ハゲ社長は「じゃぁ。」そう軽く右手で合図してこちらに背を向けた。ハゲ社長の家はまだ真新し目に見える外壁の白い極平均的な一軒家だった。深夜2時を回っていたわけだが2階に明かりが灯っていた。階段辺りだろうか、透かしガラスの向こう側に暖色の灯りが見えた。
   「行こうぜ。ふぅぁ〜、眠ぅ。」
   ダチが呟いた。
   奴の家は両親共働きだった。夕方から働いて朝6時過ぎに帰宅。午後2時頃起床し、午後4時からまた同じ様に働き通しだ。奴の家も一軒家だったがデザインも作りも少々古く、玄関などもガタがきている年季の入った家だ。妹はやはり彼氏を連れ込んでいるみたいだったが物音も話し声も全くしない。熟睡しているみたいだ。奴は無造作に玄関の鍵を開けて中に入ったが、俺は幾分足音に気を付けて続いた。家の中に入ると玄関の内側は電気が点いていた。家の中に入ってからは俺も奴もそそくさと靴を脱いでそのまま奴の部屋に向かった。奴はそうとう眠かったらしく、部屋に入るなりエアコンと加湿器のスイッチを素早くポチポチ押すと即行で薄い絨毯の床に倒れ、2分後には寝息を立てて眠りに入った。奴に連られるように俺も意識が遠のき、あっという間に眠りに入った。





   「理由を探してる。誰もが理由を探してる。死んでしまうかも知れない程の…命懸けなら理由を探す。たった一度っきりの人生、誰かの為に命懸けで戦いたいものだ。一度途絶えてしまえば二度と再生しない命の使い方とはそうしたものだと俺は思っている。理由が必要だ…どうしても。だから必死に探すんだ。見つかるまで探す。そしてだから残念な事に、理由が見つかるまでは戦えないんだ、俺はね。殺す理由も無いのに殺すわけにはいかないんだ。理由も無く殺すなら、殺したなら、それは神と正義への冒涜、そして聖域を焼き払うような行為だ。しかし理由を見つけたら、見つけてしまったら、案外あっさり献上してしまったりするもんだ、命ってやつを。それを、〝あっさり〟というのが正しいかどうかは実のところイマイチわからない。それを、〝案外〟と言っていいのかどうかほとほとわからない。それでも何故か、この理由という物を誰もが急ぎ足で探している。その意味が分かった時、地獄の淵に叩き落とされたような気持ちになったよ俺は。要は様々な事が起きる中で、其れを、其れ等を含めたすべてを、可能な限り早く終わりたい、終わらせたいという事なんだよな。うん、ああ、ただ…そう、これは多分、男の話だ。女は違う。少し異なる。これは男の話だと思う。俺は。」
   「早く終わらせたいのはその終わる一瞬に、絶命する瞬間に、脅える感覚が面倒臭いからだろ。ダラダラとでも生きてるってのは結構楽しいもんだ。ただ、誰かと喋ったり関わったりしてるのは、様々な事を話しているようで起きて起こしてるようでいて、実はケリがつくまでの、つけるまでの互いの距離を測ったり比べたりする見せ合いっこをしてるに過ぎなかったりする。それは俺にもわかる気がする、今はな。」
   雨は降り続いている。
   カウンターに勢いよく置いたウイスキーグラスを固く握った侭バーテンダーと話していた。
   「珈琲ある?」
   またグラスを磨き始めたバーテンダーは手を休めずに一瞬こちらを見た。
   「あるよ。」
   バーテンダーは応えたままグラスを磨き続けた。
   「… そんなに磨き続ける必要あんのか?」
   訊いてみた。
   「あるよ。グラスは空気で汚れる。汚れ…じゃないな。空気じゃないな。グラスはカウンターの上で人の思いを吸う。拭き続けて、拭い去ってしまう俺はそんな残忍な輩でもないつもりだが…なんだろな、職業病みたいなもんだな。」
   「珈琲、なんであんの?」
   「そういうもんだろ。」
   「そういうもんて、どういうもんだよ。」
   「おまえ何で珈琲あるか尋ねた?」
   「 … … … … 」
   「酒ってのは、逃げる逃がす、要は気を、撒き散らして払い除ける時に使う道具だよ。それに反して、珈琲ってのは真剣に向き合う時に内臓に流す物だ。」
   「此処、酒飲むとこだろ。」
   「飲むなら出すが、どうする。」
   「 … … 淹れてくれ。」
   バーテンダーはグラスを拭いていた手を止めて振り返り、背後にあるディアウォールにグラスを置いた。再び男を向くとしゃがみ込み、カウンターの下から珈琲カップを出した。
   「水で入れてくれ。インスタントみたいなの無いかな。常温がいい。」
   バーテンダーは何も言わず珈琲を入れ始めた。
   「はいよ。」
   バーテンダーは男の前に珈琲を置いた。
   「ああ。ありがと。」
   男はクリーム色の珈琲カップの柄を右手で持ち口元に運んだ。
   「おまえの命日、雨だったよな。」
   「あん?」
   「こっち来た日、おまえが死んだ日だよ。」
   寝耳に飛来する蚊の羽音のようにバーテンダーが言った。
   「 … … … な ぁ … 」
   「あん?」
   「土砂降りの雨だったよなぁあの日。」
   男が喋り始めた。
   「 ………… 」
   「面白そうだったんだよ。」
   「 … … … … 」
   「すっげぇー土砂降りだった!ふははははははっ!感動したんだよ!
   ……………………………………………………………………………………
   フロントガラス、まるで誰彼数人でバケツの水を右から左から勢い任せにぶっかけられているみたいでよおっ!腹抱えて笑ったさ!何十年振りだろ?生まれて初めてかな?って思うほど笑った!夜中の3時!午前3時半くらいだよ!いい大人が人里離れた山奥の崖っぷちで… 」
   「お代わり、飲むだろ…もう一杯…珈琲。」
   「 … … … … ああ。」
   男の言葉を斬るようにバーテンダーが2杯目を誘った。
   「後悔や痛恨なんてのは無い。そんな誇り高くない。ただあの夜、あの時、奇襲のような雨がフロントガラスに叩き付けてるのを見てたらなんか俺の代わりに復讐してくれてるような、或いは泣き叫んでくれてるような、そんな風に感じたんだよ。幾らかデキる男みたいに見られながら生きてたが味方なんかひとりもいなかったし、バカみたいに嬉しくなっちゃったんだよ。」
   バーテンダーは2杯目の珈琲を入れながら返した。
   「嬉しくなって自殺か。」
   「 ………… 」
   「 ………… 」
   「面白いよな魂って。本能。煩悩。嫌に前向きな一瞬の爽快感、コレがヤバいはは。頭の隅っこで結構徹底的に計算してるんだよ。裏本能とでも言うのかな。肉眼で見映ってる現実の景観が精神にとっては幻になる。そして瞼が開いた侭、頭の中の眼球が現実には存在しない何処かの広い砂漠を眺めてる…いや、眺めてた。視界いっぱい入り切らない広さ。そして其処には、その砂漠には、千にも万にも及ぶシーソーが置き放たれてた。ゆらゆら揺れてた。ギーコギーコ音を鳴らしてた。全てのシーソーが揺れてたからそれは大変な大音量だった訳だが、俺の心が既に死んでたからなのかも知れないが、其れ等を煩いとは感じなかったんだ。有り体な言い方だがレクイエムみたいにすら聞こえた。静寂の情景の中の、微かなレクイエムみたいな…そんな風に俺には感じた。」
   バーテンダー再びグラス磨く。
   「なぁ… 自殺ってなんだろな。妙に悲し気な響きがあるけど…実のところそうでもないよなぁ。身勝手。軽薄。意気地無し。行き着く果てにゃギャグまたコミック。あははははははは。」
   「当人はな。周りは過酷だよ。後始末だとか、まぁやはり、遺された側の募る想い。還らない日々。」
   「48歳だった。100年て根拠無く思い浮かべると半分も来てない。」
   「 ………… 」
   「自殺じゃない。他殺でもない。ノリノリの乗り気大炸裂って感じで思いっきりアクセル全開にしたよ。車の床が抜けるんじゃないかと思ったくらいに。ケツや背中、シートからの押される感覚にホッとした。その直後にフワッとした…〝 ワァオ! オーイェイ! 〟浮遊感が堪らなく気持ちよかった。その時、雨って邪魔臭いよなぁって感覚も久し振りに思い出したりした。元来、雨、大っ嫌いなんだよね本当は。ついさっきフロントガラスに打ち付ける大雨に歓喜したのに…それから、うん、ふっ… 所謂、身体が下がっていく、要するに落ちていく感覚に次第に変わったわけだけど…悲壮感など微塵も無かったし、ただぁ…〝へぇ〜 。〟気が付いたら… 」
   気が付いたらカウンターの向こう側にバーテンダーの姿は消えていた。





   午後2時過ぎに目が覚めた。時折聞こえる物音はダチの両親だと思われる。
   「ぉぁょ…コンコン。 」
   軽く肩を叩いた。
   「ン…ぁ、ぉぁょ。オヤジ達起きたか。徹メシ食ってくだろ。」
   「ん、いいや。腹減ってないし。」
   「ん〜、そか、わかった。じゃ気をつけて帰れよ。」
   「おう。」
   短い廊下を辿って玄関で靴を履いた。一つ欠伸が出た。
   「お邪魔しました。」
   「あら?徹君ご飯食べていきなさいよ。」
   2階のキッチンからヤツのお母さんの声がした。
   「ぁぁ、いや、今度ご馳走になります。お邪魔しました。」
   昨晩軒先に置いた自転車に跨りヤツの家を後にした。
   テレっと自転車を漕いでとりあえずコンビニで缶コーヒーでも飲もうと思った。日曜の午後の閑散とした住宅街を風に撫でられながら走る。出来るだけ遠くを眺める癖がついていた。カラカラと自分の自転車のチェーンの回る音が虚ろいを茶化すみたいに小さく轟く。足元で輝く真っ白なペイントが幾つもの住宅や交差点を突き抜けて遥か遠くまで延びるのを見つめると、本当は此処が天国なのではないかという錯覚を懐かせた。光と影。光の、太陽の下に在る光と影のように、抑も照らされて存在を映し出されている白線の白とアスファルトの鼠色に想いを馳せたりした。昨日の夜、訊かれたから答えた俺の返事は 〝 今はボンヤリさせてほしいかな…。 〟空を見上げれば夏までの時間を距離のように感じられた。
   「お!よく会うね!今日は1人かい?」
   「ぁ… こんにちわ。昨日はご馳走様でした。」
   「うーん、いやねぇ、白々しいかなぁとは思ったんだが、自分の若い頃思い出してね。」
   「はぁい…」
   「いや懐かしいなぁ。君は…18、19…まぁハタチ前くらいだろ?」
   「ぁ、はい、18っす。」
   「うんうん、そうだろ、そうだろ。わぁっかいなぁ〜。」
   昨晩ラーメン屋で餃子を奢ってくれたハゲ社長だった。ラフな半袖のカジュアルシャツは薄ピンク色、ベージュのチノパンに若草色のニューバランスを履いていた。使い古した感じの茶色いリードを手にした先には成熟した頃合いのハスキー犬が静かにオスワリをしていた。
   「飼ってるんですか…オスですか?」
   「うん、オス。丁度10歳だね。」
   「羨ましいですねぇ。」
   しゃがみ込んでニッコリ笑って見つめてみた。
   「可愛い。触ってもいいですか?」
   「うん。噛まないから平気だよ。首なんか撫でると大喜びするよ。ハハハハ。」
   「何て名前なんですか?」
   「フゥン、ハハ。ハスキーでハスキン。コイツには悪いが簡単に付けちゃったよ。ハハハハ。」
   「ハスキンですか!でも精悍な名前ですよ!似合ってる!」
   「ハスキン!よぉーしよぉーし!」
   言われた通り耳の後ろ辺りから両手で何度も首回りを摩ると悦に耐えられないみたいに呻いた。
   〝 ゥゥウ〜 ワンッ ワンッ 〟
   「わはははは!」
   揺れたハゲ社長の額が5月の太陽に照らされて閃光を放った。
   「カァーワイーですねーっ!」
   「うーん、ありがとう!」
   笑みを返した。
   「丁度犬の散歩でね、出て来たとこなんだよ。」
   「そうなんですか。僕のうちは、猫は飼ってるんですが、犬は飼った事ないので…。猫も可愛い事は可愛いんですが、犬みたいに帰ってきた時の毎回の大歓迎みたいなのは無いから、羨ましいなぁ。」
   「いいじゃないか、猫がいるなら。動物はなんでも可愛いよね。…ゴキブリは苦手だけど。ふふ。」
   ハゲ社長のおじさんは、典型的ないいオヤジさんタイプだった。
   「僕もゴキブリだけは苦手です。ハハハ。これも一つの差別だとは思いつつ。」
   「うんうん!想像しただけでも怖い!」
   「ハハハハハハハハハハ!」
   二人して笑った。
   「あの…」
   「ん?」
   「あのラーメン屋、あんなに遅い時間、よく行くんですか?」
   何となく尋ねてみた。
   「うん、たまあにね。週2回くらいかなぁ。あんなに遅い時間てのはなかなか無いけど、仕事で遅くなったりするとね…まぁ事前に女房に電話で伝えておいてね、遅く帰って食事並べさせるのも悪いし、折角作ってくれたのを冷めてからってのもちょっとね。まぁレンジで温められるんだけど、序でに私の分も無ければ女房の定休日に出来るから。」
   「や、やさしいんすね。」
   「いやははは、歳だよ歳。人間弱くなれば助け合い無しじゃ生きて行けないなんて情け無い悟りを開く。ははは。誰だって。」
   「お子さん居ないんですか?」
   「ああいるよ。ただもう独立っていうか、一人で暮らしてるけどね。」
   「娘さん…ですか?」
   「ほお、鋭いねぇ。一人娘。」
   「さ、さみしくないっすか?あ、生意気言ってすいません…。」
   ハゲ社長は目を細めて微笑みながら返事をした。
   「ああ、いいさ。君も先々知る事だけど、家を出て行ったあと、娘がいない家の中をうろちょろ笑いながら、ちょこちょこ走りまわったり、テレビを観ながら床に寝っ転がってお腹抱えて笑い転げてる、幼少の頃の娘ばかりを思い出すんだよ。それが、懐かしくもあり、まぁホロ寂しくもあり、またそんな頃を女房と静かに語り合ったりというのがまたこれはこれで結構楽しいんだよ。そして偶には娘も帰って来る。そしてまた都会へ戻っていく。我々夫婦も、いやぁ思いの外、遠くへ来たもんだねぇなんて話しながらさ。」
   ハゲ社長はとっても嬉しそうに話していた。ばったり道端での立ち話で長くなってしまったが俺的にはボンヤるというタイマー無しな上にこの手の年増トークは嫌いじゃなかった。寧ろ好んで興味も有ったのだが、付き合わせてしまったかなと思い始めた頃、真っ黄色な陽が少し豊潤なオレンジ色に向かい始めた。一人娘を語る生真面目な父親の語り口にピッタリはまるロケーションだ。
   「ああ、ああ…ごめんね、若い子に何青臭く語り入れしちゃったよ、ごめんごめん。へへ。」
   微笑んで返事をした。
   「いえ。昨晩、っていうか今日か…夜一緒に居たアイツと、僕らもあのラーメン屋、結構行くんですよ。悪い事ばっかしててダラしないんすけどその後に。あ、でも、何か盗んだり、女の子傷付けたりは絶対してません。これは神に誓えます。俺も一人っ子なんす。ラーメン屋でおじさん見かけた時、ちょっと自分の親父思い出しました。未だ勿論、自宅に住んでますが、昨日みたいにあのダチん家に泊まったりって親に心配ばっかかけてます。話…聴けて良かったです。ありがとうございました。」
   途中頭を掻いたりしながら最後は深く頭を下げた。
   「ああそう?それなら良かったけど…抜けねぇからなぁおじさん、いい歳して。いや面目無い。」
   「いえいえ… そんなそんな…。」
   社長はニッコリ笑って小さく会釈した。
   「それじゃ、ありがとうございました!失礼します!」
   もう一度深くお辞儀をして、ハスキー犬のハスキンとその場を後にするハゲ社長を見送った。
   5月はもう陽が長くなっていたが、夕方3時半を回る頃になっていた。
   さて、コンビニで缶コーヒーを飲んで帰るべく俺も自転車を漕ぎ始めた。

   コンビニに着いて駐輪場に自転車を置いた。店内に入ると休日の午後持て余し的な客が4,5人居た。本棚では誌面に穴が開きそうなほど週刊誌のスクープネタを見つめて凝固する銀縁眼鏡、高身長、太めの男性、化粧品コーナーでは乳液を物色する若い休日風OL、艶々した栗毛色のヨークシャテリアを抱きかかえて目を白黒させながら缶入りのウェットフードの成分表示を確認し続ける主婦に、道路工事のガードマンは無精髭と指先まで真っ黒に日焼けしたその右手の甲、掌にはオニギリを握り、左手には缶コーヒー2本、親指、人差し指、中指を器用に使って持っている。レジでは黒縁眼鏡の店長らしきが在庫チェックをしながら精算客を待っている。俺はホットにするかコールドにするか迷っていた。どうしてコンビニには常温の珈琲が無いのか考えたりした。温めてあるか冷やしてあるか。珈琲は常温が一番好ましいと俺は思っている。しかしもてなすというのはそういう事である。考えるだけバカバカしいわけである。こんな時、改めて自分の抜けている部位を見つけて確認してはホッとしたりする。〝 偏差値70超の使い道ってか… 〟。偏差値70超の使い道なんか無い。偏差値70超の使い道を、考え、そして使うのは俺じゃない。俺以外の、それは、社会であったり、要するに、俺で一儲けしたい人の範疇であろうし、その人等にとっての俺は大切なアイテムになるのであろうし、戦闘員になるのであろうとは思う。〝 人生はゲーム 〟このセリフは申し開きなのだろうか、それとも堂々たる正解なのだろうか。だが社会は、掘り進め、そして登り詰めた岳に確固たる報酬を用意してくれていたりする事実はある。それはわかる。報酬… 夢… 自由… 少しだけズレている。少しずつズレて行く。今は虚ろいという自由の中にいる。空洞に閉じていた羽を広げて夢は大きく弧を描きながら飛び回る。報酬で出来る事がある。報酬で出来ない事もある。飛行機に乗れば大空へ羽ばたき雲の上を飛ぶ事も出来る、それでも雲の上に立ち、そして歩き回る事は出来なかったりする。飛行機に乗って、必要に押されて移動手段として航空機の窓から雲を見下ろす。それで何となく納得する。所詮現実はそれ以上は無理。心という入り口から入り、魂も其れで手を打つ。折れる。魂が新品だった頃は、雲の上を歩きたかったのに…。現代の鳥は自ら等が何故背に羽が生え、飛べるようになったのかを知ってるのだろうか…理由が齎され、神が応えた。天敵より身を守る致し方無し、その究極の術とし魔法をかけた。神の思いという物は難解にして深いものだ。人が神に頼みを重ね過ぎぬよう、怠け堕ちせぬよう、科学、化学また物理を齎せた。神の力を隠すその便宜を図る為に。
   俺はコンビニで購入した缶コーヒーを手に店の外の喫煙スペース近くの壁に寄りかかって飲んだ。人一人分のスペースを空けて灰皿のすぐ側では中年サラリーマンが左手の指に煙草を挟みながら耳に当てた右手の携帯電話で真剣な目をして会話をしている。日曜出勤だろうか。商談みたいな雰囲気が漂っている。鼠色のスーツにネクタイ姿だ。
   「ぁ、もしもしママ… うん、今近くのコンビニに居るの。もうすぐ行くね。うんうん、はぁーい。」
   若い女が店内に入って行った。マロンカラーの髪、ペンダントネックレス、真っ白いトップス、ミントグリーンのパンツ、シルバーパンプスで携帯電話を耳に当てながらゆっくりとした足取りで俺の前を行き過ぎた。缶コーヒーの真っ赤なラベルに目線を戻した。一瞬女に目を奪われたが、そういう瞬間の自分が嫌いだった。女嫌いという訳でもないつもりの女嫌いなのだと思う。だからといって無論同性愛好家ではないが女性特有の母性と嫋やかさの延長線上で許される曖昧さといい加減さに僅かながらだが敵意を携えていた。女はATMの前で立ち止まり画面を覗き込んでいた。お金を下ろしているようだ。さっき話していたあのハゲ社長の一人娘もこんな感じなのだろうか…。
   「さて帰ろ。」
   缶コーヒーを飲み終えて空虚の息も吐いたか呑んだか取敢えず今日分の憂鬱は体内に流れたカフェインに滲ませて捨て去る事が出来たような気がしていた。
   〝 … … … … 〟
   〝 はぁ? 〟
   何なのだろう。昨夜初めて遭ったハゲ社長と、ダチの家で爆睡し一晩明けたら道端で再会し思いの丈を交換したのはついさっき…そして三度、再々会。
   「あららららら、面白いねぇ…こんな事あるんだねぇ。」
   ハゲ社長が気付いた。
   「ぁ… ぃゃ… すいません何度も。」
   「ハハ… 君が謝る事じゃないよ。しかし、相当縁があるんだねぇ。」
   「ぁぁ… ぃゃ、すいません…。」
   なんとなく、邪魔をしているような罪悪感を感じた。
   コツコツと近付いて来る靴音が聞こえた。
   「ん?」
   先程、一瞬目を奪われた若い女だった。
   「あれ?パパ迎えに来てくれたの?」
   「うん、いや… 犬、散歩してたんだよ。」
   女と一瞬目が合った。
   「 ……… 」
   「 ……… 」
   「ぁ、じゃあ失礼します。」
   「ああ、うん、じゃあまたね。」
   「失礼します。」
   ハゲ社長の娘…だったらしい。何故か…逃げるかのように立ち去って来た。びっくりした。びっくりしたのは、剰りにもタイムリーだったので。自転車を漕ぐ足が猛烈に急いでいるのを自分で感じた。
   「ふぅー、バカバカしい。」
   一瞬目を奪われた若い女にハゲ社長の娘を想像したらドンピシャだったから。それに自分が女に気を取られた事に嫌悪感を懐いた。ハゲ社長に縁があると言われたのも歯が浮いた。そういう岐路に連れて来られるほど素直じゃない。いやバカバカしいバカバカしい。

   「パパごめんね、父の日繰り上げで。やっぱり休み取れなかった。」
   「ああいーよいーよ。今時、律儀に父の日を覚えといてくれただけでも有難いよ。」
   「ハスキンも元気そうだね。」

   ハゲ社長とその一人娘…コンビニからの帰り道…

   一瞬足を止めてしゃがみ込み頭を撫でた。
   〝 クゥ〜ン クゥ〜ン クゥ〜ン クゥ〜ン … ワンッ!ワンッ!ワンッ!ワンッ! 〟
   尻尾を振り回して再会にはしゃいでいる。
   「ハスキン元気だったぁ。ん〜ヨシヨシ。」
   「あ、そうだ、ママも元気?」
   「うん。家で葵(※あおい)の大好きな豚のトマトソテー用意しながら首長くして待ってるよ。」
   「わぁー!さすがママ!パパ!早く帰ろ!早く早く!」
   「あははは、そんな慌てなさんな。ハスキンもビックリしちゃうだろ。ハハハハ。」
   「そう言えばパパ、さっきの子、知り合い?近所の人?」
   「ああさっきの男の子かい?」
   「うん、見た事あるような無いような…」
   「うん… 昨晩ね、ラーメン屋で初めて会ったんだよ。もう…そうだな…深夜2時にもなる頃だったんだけど、今居なかったけど友達と二人でね…。なぁ〜んか、ハハハ…若さっていうのかなぁ、どうやらオートバイで夜の街を吹かして走り回ってたみたいだよ。」
   「あら、フフ、暴走族ね。」
   「うん、まあな、そんな感じだろ。見えなかったろ?目、そんな感じに…。」
   「うん… マジメ君な目ぇしてた。」
   「少しは騒がしくラーメン屋に入って来たけど、悪意というか殺意というか…そういうの、感じなかったんだよ。」
   「いつものあのラーメン屋?」
   「うん。」
   「 ………… 」
   「だから餃子ご馳走した… ハハハハハ。」
   「ウフフフ。パパ好きだから… そういうの。昔から変わらないね。」
   「男にはロマンがある。ああ女には理解出来ないであろうくっだらない拘りが。それに一番振り回される年頃だよ彼は。18って言ってたなぁ。」
   「ちゃんといただきますごちそうさま言った?あの子。」
   「ああ。礼儀正しいもんだよ。やりたい事をやる。其れを、臆する事なく全うしてこそ誇りが生まれる。だから当たり前の事が出来ない侭では居られなくなる。いただきます…ごちそうさま…ありがとう… … … しかしこの 〝 ごめんなさい 〟… これを悟り、自らの物とするのが…はははは…なかなか難しいもんなんだよな。はははははは。」
   「はいはい。本当パパ相変わらずね。」





   「ただいま。」
   「おかえり。」
   家に帰ると親父がいつものようにリビングのソファで寛いでいた。
   「おかえりなさい。何か食べる?何も食べてないでしょ?」
   「うん…。」
   お袋が微笑を浮かべながら尋ねてきた。親父は相変わらずこういう時は無表情だ。
   「スパゲッティじゃ重いかしら?」
   「いや、スパゲッティでいい。」
   最近俺は粗食なので、スパゲッティでも重いと感じたのかも知れない。栄養バランスを考えると、重いからとかではなく、摂取しなければならない分はあるわけだが、並べても俺が食べないから訊くようになった。俺はキッチンに向かい珈琲カップを食器棚から一つ取り出して自分で珈琲を淹れた。
   「徹君、最近珈琲多いね。飲みすぎじゃない?身体に悪いよ。」
   さっきもコンビニで微糖の珈琲を飲んだばかりだったが、家で自分で淹れる珈琲にはミルクも砂糖も入れない。カップに粉末インスタントを入れて水道水を注いでスプーンでグルグルかき混ぜるだけ。
   「落ち着くんだよ。」
   「珈琲も中毒性があるのよ。気を付けてね。」
   「うん。気を付ける。」
   お袋が心配した。
   「あ、中島君元気だったか?」
   「ああ、いつもと一緒だよ。」
   「立派だよな。高校なんか出てなくたって、彼は将来出世するぞ。」
   「うん、俺もそう思う。あいつ夢中になった事、飽きにくいんだよ… それが羨ましい。」
   「徹は…どうだ?最近は。」
   親父が中島の事を尋ねてきた流れで俺の話に繋いだ。俺は親父が好きだったから訊かれて嫌な気はしなかった。
   「親父…親父はいつからそんな直向きだったの?昔から?」
   「ハハハハ… なんだ突然。」
   「俺さぁ、同じ場所に寝て起きてって所謂一緒に暮らしてる親父と、なんで毎日会えないのか不思議でしょうがなかった。日曜日会えたと思えば、そうやってソファ腰掛けていつのまにか目を閉じてる。それなのに手に持ったカップを落としたとこなんか一度も見た事ない。なんかまるで植物みたいだなぁって。そういながらにして、話しかければ瞑っていた目をパチって開けて俺の話を真剣に聴いてくれる。それは嬉しかったけど… 親父の、この人の、安らぎの場所って、そういう時って、一体何処にあるのかなぁって。家族の為、子供の為っていうのもわからなくはないんだけど… 俺自身此処まで、それまで塾だ予備校だって時間に追われながらそれなりに積み上げて来て、いよいよ高校も最終学年で進学だ就職だ専門学校だって周りもざわつき始めた中、おまえは優秀だからあすこを狙える…バラ色の人生が約束されてる…とか…金だブランドだって、そんな後のステータスシンボルばかり見据えて目をキラキラさせてる。メカいじりを一つ覚え二つ覚えその度にはしゃいで目をキラキラさせる中島と同じような目をしてそんな、見栄の張り合いみたいな話をしてるクラスメートを傍観しながら、一体自分が、この分かれ道のどれに向かったら最良なのかわからなくなっちゃったんだよ。………… 日曜日…ソファで目を閉じてる親父は、そんな俺の脳ミソの中にあるデッカい天秤の真ん中にある支柱の様に感じた。」
   「 … … … … 」
   「いつまでもフラつきみたいな事してて悪いんだけどさ… 。」
   親父は真っ直ぐ前を見た侭、瞳孔すら動かさなかった。黙って、俺の話を聴いていた。
   親父が口を開いた。
「自分の目に、唯一映らない物は、自分自身だけなんだよな。」
   「 ………… え ? 」
   「産まれたばかりの赤ん坊だってそうさ。徹もそうだった。パパもママも世の中の全ての人が皆同じように… 笑う、泣く、叫ぶ… 日々繰り広げられ、続いている一喜一憂は、自分の目で、世界中で自分一人だけを除いた所謂自分以外の一切、その動向を見て、感じ、嬉しくなったり悲しくなったりする。そうしながら、価値観や、概念… 性質とでも言うのかなぁ… 性格ではない性質… 所謂、魂を形成していくのだと思う。だから一人で、自分だけがコソコソ喜んでいるのは、誰の幸せも齎せないし、そして、そんな一人ぼっちの中の嬉しい人は、実は必ず、背中に身動きをし難くさせる十字架を背負っているかのように苦しんでいたりする… 何も罪を犯してなんかいないのに。学生時代というのは、いや、若い頃というのは、皆、巨大な迷路の中に閉じ込められている。いや、実は若者達だけじゃなくて、人間死ぬまで、永久に迷路の中だな。パパやママだってそうさ。ただ、若者達と違うのは、若者達は、勇んで急いて、迷路から出る事を考える。自由になりたい。巨大な迷路の上空高く飛ぶ鷹を恨めしそうに眺めながら、羽ばたきたい、どこか知らない遠い所へ飛んで行きたい… そう、急くんだ。でもね、段々変わってくるんだ。巨大な迷路は実のところこの世界そのもので、要するに、膨大な数の人々が歩いている。そうした中でやはり、沢山の関わりや、衝突もあればその衝突を乗り越えた末の友情や絆や、そして、恋もしたりする。愛する人との間に子供まで生まれてしまう。抜け出したかったこの迷路の中で、涙が溢れて止まらなくなるほどの幸せが大きく大きく膨らんでしまったりするんだ。いつか、死んで終わる… 幕が降りてしまうこの物語の経過を、進行を、恨めしいと感じるようになってくるんだ。なんとか、なんとかして、時の流れを止める事が出来ないだろうか… まだ一緒にいたい、ずぅーっと一緒にいたい… そして、だから、要するに…この迷路が愛しい故郷になり、ずぅーっとこの迷路の中にいたい!この迷路から追い出されないようにみんなと上手くやりたい!この世界がどうして、こんな迷路みたいになっていたのかを、それを理解出来た時、背中に生える羽よりも、もっともっと自由にしてくれる、心の羽がはえるんだよ。魂の羽が生えるんだよ。分かれ道…根拠無き自信て解るか?自信とは、根拠が有るなら、それを自信とは言わないんだよ。それは、その根拠に阿ているのであって、自分を信じる事が出来ているのとは違う。根拠の胸ぐらを掴み、〝 俺はこんなに努力した!こんなに頑張った!なんで!どうして届かない! 〟そんな風に、御門違いな訴えを、シュプレヒコールを揚げているようなものだ。自分を信じたければ、最良だと考慮出来る判断材料を探したりはせず全身全霊の直感で道を選びなさい。根拠無き自信こそ、いや、其れのみが、たったひとつの本当の自信なんだ。」
   「 … … … … 」
   「パパは徹が生まれた時、誓ったんだ。立派な凡人に育て上げると。」
   「凡 … 人 … ?」
   真っ直ぐ前を見つめて、俺を見ない親父を一瞬見た。
   親父の視線は動かなかった。その侭親父は続けた。
   「そうだ。凡人だ。しかし立派な、凡人だ。」
   「 ……… 」
   「凡人に… 凡人には… なかなか、そう簡単には、なかなかなれないもんなんだ。」
   「 …………… 」
   この時、初めて親父は俺を一瞬見た。ただ直視ではなく、本当に微かに瞳孔を動かす程度、目尻で視界に少しだけ侵入させたという程度だった。
   「ママ、珈琲、おかわり淹れてもらっていいかな。」
   「はぁい。」
   キッチンで俺のスパゲッティを作ってくれているお袋に親父が頼んだ。
   「パパも食べるでしょスパゲッティ?」
   「うん食べる。ありがと。」
   「みんなで食べましょう。ふふ。」
   いい大人二人が午下り、公園で紙ひこうき飛ばしてはしゃいでるような雰囲気…親父とお袋はいつもそんな感じだった。親と子である俺との空気は違うが、親父とお袋、二人の間の空気はいつもそうだった。仲の悪い揉め事三昧の両親よりはマシだし妙な疎外感を懐いた事は無かった。ただ仲が良過ぎるのを呆れた事は何度もあったが。
   「凡… 人て、親父… 」
   「ムカついたか。」
   「ぁ… ぃゃ… ただ、」
   「人に理解出来る事が自分に理解出来ない… 劣等感というやつだな。それは実のところ裏を返せば個性の種。所謂、実体は個性の発芽だ。単純に議題に価値を見出せないから其処に注視出来ず他を見る。例えば窓際の生徒が眼下の光り輝く校庭を見下ろすみたいに。教壇で教義を展開し続ける教師の目に一瞬視点が戻る。吹聴の様に回り続けるその教師の口元、唇を眺めながら葉の裏の白さの様なあらたかさの無さに項垂れる。〝 それがどうかしたのかよ 〟そう思い得ても仕方無いほど、窓の外は、風景は、〝 今 〟という解釈を閃光の如く眩く伝え放って来る。さてどちらが重要か…。先を見据え安堵を探し結論は巷を見下ろしていたいという隠された魂胆に甘んじないそうした窓の外を眺める魂 … … … … ふむ、それは詭弁だが、そして誰もが後の身を案じてばかりとは限らないが、少なくとも、窓際の学生は自らなりに極めて時の流れを、極めて本当の意味で、一瞬一秒たりとも無駄にはしたくない鬼神の魂とも見方によっては判定出来たりもする。… … … … 個性的である事を悪いとは言わない。個性を無駄に色鮮やかなペンキだとは決して断定しない。だからこそ、勤勉である事を徹底させたのは然し其処にある。しけた海の船上で顳顬(※こめかみ)一つ動かさない決定的な冷静さを徹に身に付けさせる為に。それでも、徹に抑制を促す事柄を極力少なくしながら、此れを推し進めるのはとても難しかった。」
   「努力し続ける事に対しての…」
   「そうだ。勤勉であり続ける事に対しての憎しみを懐かせては元も子もない。」
   「……」
   「やりたい事をやらせる。やりたくない事は押し付けない。しかし、やりたいと思い込んでいる事が本当にやりたい事であるか否かを、自分自身で厳粛に判断出来る力を身に付けさせる為に必要な事は…」
   「 ………… 」
   「何故、パパが、徹に話す時、徹を見ないか解るか?」
   「 … わ … からない … 」
   「人と話す時は人の目を見ろと言うよな。学校の先生だって、世の中の大人達の殆どは皆そう言うだろ。ケースバイケースだが、いや、特異な考え方かも知れない。そして正しいかどうかも不明だ。いや、恐らく間違いだろ。不正解。」
   「 ……… 」
   「きっと徹の目を見て話せば、聞けば、きっと徹の今の、心の温度を知る事は出来るだろ。でも徹の、心の、立っている場所、居場所は逆に見定められなくなるんだよ。」
   「親父 … それって … 」
   「人の心を揺らすのは、また動かすのは、対峙また遭遇する、人間のみではないんだよ。風向き、風の強さ、足元の地べたの広さ、気温また季節…。そいつこいつで其々心を、魂を包囲してる風景は違うものだ。それは徹にも解るだろ。誰にでも解る。特別な事じゃない。ただ、其れを、徹底的に確認しに、一歩一歩近付いて行く者は…こういう言い方もまた誰が口にしても偉そうで嫌なのだが、なかなかいないと思う。でもそれをしないと、人を守る事は、心を守る事は絶対に出来ない。」
   「 … … … … 」
   「 〝 おまえの気持ちはよくわかる。 〟こうした言い回しを、セリフを、徹もこれまでに聞いた事、幾度となく有ったろうし、徹自身、友達や仲間に言った事が有ると思う。パパだって有る。でも本当はね… 〝 わかったわかった、わかったからもういい加減にしてくれ。〟腹の中の本音はこうだったりするのが殆どだと思う。産声を上げながらこの世に生まれて来て、一分一秒とズレなく時を重ね合う者など一人も居ない。心は、魂は、一瞬一秒で曲がる。曲がる時はな。それを、人の気持ちなど、解ったような気になれたりしても、実は解り得ない… だから… わからないからこそ、よーく話を聞く。一生懸命追いかける。心を。」
   「相手の目を見ずに話して、いや、見ない方が相手の事がより理解できるというのが解らない…。」
   「目の輝きには〝 今 〟が映るんだよ。そしてその〝 今 〟に重なって見え難くなってしまうんだ。〝 過去 〟という二文字にしてしまうと収まりきらない気がする。仮に、例えば涙とは、〝 悲しみ 〟を、受け入れないと、溢れて来ない物なんだ。誰か愛しい人が死んだとする。不慮の事故でも病気でもいい、要は想定外の早い時期に遠い世界に去って行ってしまう… 諦める事が出来ない… こんな時、涙は流れない。しかし面白くもまた、世界が上手く出来ているのは、嬉しい時の涙は少し異なっていて、想定外の幸せが舞い降りて来たと同時に、突発的に溢れ出したりする。」
   「 ……… 」
   「やりたいと思い込んでいる事が本当にやりたい事かを見極める厳粛な判断力…それを身に付けさせる為には… 其れをして、徹が、興奮してる時…所謂、ときめいている時だ…そしてはしゃいでる時…その瞬間のみ、笑って見守ってあげる事だよ。」
   「 … … … 」
   「徹はしっかりしているが、それはそれでしっかり者なりにパパとママの顔色を確認している。うん… これは徹の、責任感だな。責任感の範疇だと思う。」
   お袋がアロエ柄のお盆にスパゲッティを盛った皿を三つ乗せてキッチンからやれやれという笑みを浮かべながら近づいて来た。
   「はいはい、ママ特製の美味しいスパゲッティが出来上がりましたよ。」
   親父は俺の目を見つめて小さく笑った。





   バーテンダーが消えたカウンターバーで一人佇んでいた。話の途中だったが突然消えた。
   「はぁ…」
   男はカウンターの上に両肘を着き、顔の前で左右の手の指をクロスさせ、ぼんやりと真っ直ぐ前を見詰めていた。
   「意外と大した事なかったな。いや、大した事ないとは薄々思っていたが、本当に大した事なかった。」
   ボソリと零した。
   向こうに居た頃、期待していた事も、ある程度覚悟していた事も両方無かった。ただやはり、時の流れが好都合にも不都合にもかなり違っていた。逢いたい人にもすぐ逢えると思っていた。
   「 … 」
   真っ直ぐ前を見つめていた目を閉じた。
   後悔は無い。
   「 … … … … … 」
   開け放った侭にしてあるアタッシュケースの中の枯葉を見た。
   「ん?」
   バーテンダーが立っていた。
   「いつ戻って来たんだよ。なんで消えたんだよ。」
   何もせず、ただ突っ立っていたバーテンダーに訊いた。
   「おまえの話が範疇を逸脱したからだよ。此処に、無いものは無い。其れにおまえが触れようとしたからだよ。そうすると俺は消える。消されると言った方が正しいかな。はは。」
   「この雨はやまないのか?」
   「やまない。」
   「永久に?」
   「永久にやまない。此処はな。」
   「なんで?」
   「この場所に降るこの雨は永久にやまない。」
   「なんでなんだよ。」
   「おまえうざったいのか?この雨…。」
   「雨はうざったいだろ、誰にとっても。」
   「ふぅ〜ん、うざったいんだぁ。ははは。」
   「 ……… 」
   「この雨は、此処におまえが居る限り永久に止まねえよ。」





   「お袋、粉チーズとタバスコ…」
   「あ、ごめんなさい!はいはい、今持ってくる!」
   「辛い物は食欲が増すんだよなぁ。」
   親父は無言で食べていた。
   「ママ、でもこの時間食べて中途半端だなぁ。夕食どうしよう…。」
   親父がお袋に言った。
   「そうねえ、… … … ねえ!レイトショー行かない?なんかいい映画やってないかしら…。家族三人で映画なんて久し振りだし!映画って意外とお腹空くでしょ。」
   自宅から車で15分も走れば大型ショッピングモールがあるのだが、その中に映画館もB級グルメスポットも備えられている。
   「徹、どうする?」
   「行ってもいいけど、観たい映画が無いなぁ。」
   「なによぉ… 確かに10本あれば1本ハズレって事はあるけど、最近の人はジャッジが厳しいからハズレ以外は皆どれも面白いのよぉ。そのあとの外食だって家族三人なんて久々じゃない!ね!行こう行こう!行こうよ徹君!」
   「… 行ってみようか、徹。」
   「うん、分かった。」
   夕方5時を過ぎた頃だった。結局お袋の提案で家族三人での久々の外出をする事になった。お袋が言い出したら親父は何が何でもお袋の願いを叶えようとする。親父はお袋が大好きなのだ。レイトショーなんてお袋は言っていたが親父は明日も仕事だ。18時20分から始まる映画を予約した。映画館に問い合わせして、上映している映画を確かめ、親父とお袋と三人でスパゲッティを食べながら話し合った。『幾つもの果て達』という映画を観る事になった。家族で観る映画という事でラブストーリーは無し。アクションも気乗りしない。ホラーやオカルトで無駄に浮き沈みしたくない。結論は、〝 シュールな人生観 〟。他にも病死物、青春物、コメディ物等あったが、結局うちの風味だと、スカスカどっしり、最後はサラッと…で、映画館を出る間際辺りでジワァー… … … … 映画を観終わったらそんな感じだった。
   「変わった映画だったな。」
   親父がボソリと言った。
   「変な映画だった。」
   俺が言った。
   「ぇえーっ!素敵な映画だったわよ!」
   お袋が鼻の穴を大きくして小さく叫んだ。
   映画館を後にしてレストランエリアに向かいながら話していた。21時を回るところだった。ビュッフェ…中華ビュッフェ、洋ビュッフェ、それか寿司或は海鮮物にするか迷っていた。カレー、カツ丼…パスタはついさっき食べたばかりだし蕎麦、うどんの提案も無かった。映画の後の夕食…食べる物が観た映画に因って変わったりするのが映画鑑賞の面白いところでもある。海賊物なんかを見た後はカレーか海鮮物なんかをがっつきたくなりそうだが、今日は…結論は中華ビュッフェだった。中華の店は2,3軒あったがやはりその中のビュッフェ形式の店を選んだ。時間も時間だったので人気店だったが並ばずすんなりと入れた。お袋は少しウキウキしているみたいだった。親父は相変わらず寡黙。俺は取敢えず腹を一杯にしようととか考えていた。日頃の俺は粗食だが、外食時は躊躇しない。そう決めていた。理由は外食だから。外食だと何故躊躇しないのかと尋ねられると、〝 外食だから 〟…それ以外は無い。
   「ママ先に行っていい?」
   「行ってらっしゃい。」
   「行ってらっしゃい。」
   親父が応えて俺が続いた。
   席に着くとお袋が真っ先に料理を取りに行った。
   「冒頭の… 〝 砂丘にバス停を置いて、僕は、君か神の裁きを待っている… 〟」
   「うん… 何もかもを失ってしまったと嘆く時はあるが、自分を失う事は無い。実は無い。自分を見失う事はあっても、失う事は無い。…死んだ時かな…その時くらいだ。今日観た映画の主人公は、自分を失ったという話だったと思う。自分が死んでいるのか生きているのか自分自身で判別付かない侭に…。…変な映画だった。」
   お袋が中華料理を物色している間に、親父と今日観た映画の内容についての会話が、なんとなく始まった。
   「場面は砂漠からだったよな。」
   親父が続けた。
   「徹、安部公房の砂の女って読んだ事あるか?」
   「ん?名前は聞いたことあるけどその本は知らない。」
   「中年大学教授の主人公が新種の昆虫を捜しに休暇を使ってとある海沿いの部落へ旅する物語だよ。」
   「ふぅーん。」
   「海岸の、水際、砂浜に住居って、想像出来るか?」
   「砂浜に家が建ってるの?木造でも、まぁ鉄筋でも錆びるし、木なら尚更すぐ腐りそうだけど。潮風。」
   「併し若し其処で生まれ育ってしまったら、故郷なら、守りたいだろ。」
   俺は顔が歪んだ。
   「どうだろ。維持出来ないでしょ。」
   「己の魂の生まれて、育った土地だ。」
   「そういう物語なの?」
   「そういう物語だ。」
   「 ……… 」
   「海岸に深い穴を掘り、縄梯子で穴の下に降り、其処を住居として暮らす。居住食に必要な物資は基本配給。まぁ部落は漁が生業の主としているわけだがな、そこへハンミョウという虫を採取しに来た末にこの部落の存続の為に監禁されてしまうという話だ。」
   「部落の、所謂土地の人に?」
   「そうだ。」
   「今日の幾つもの果て達と…」
   「うん、似てないが、似てる。砂の女を書いた安部公房と、今日観た幾つもの果て達の作者…誰だっけ?」
   「忘れた。」
   「作品自体は似てないが、作品が醸し出している色と空気が、似てるというよりほぼ同じだ。少なくとも、両方の作者が見ている景色、いや、同じ景観を眺める時、その景観の中の、特に何処に最もな注意を払うかが酷似している気がする。機会があったら…」
   「今度読んでみるよ。」
   「お待たせぇ〜。一杯取って来ちゃった。海老チリぃ、小籠包ぉ、フカヒレすぅ〜ぷぅ。酢豚、八宝菜、茄子豚四川風炒め、青椒肉絲ぅ〜。」
   お袋が戻って来た。女の人の男とは異なる利点は、過ぎた事終わった事を延々と考え続けないところだ。済ませられる。質の違いだ。なので惹かれ合える時があるし、人類も継続する。
   「おかえり。じゃ徹、行くか。」
   「うん。」
   親父と俺は料理を運んで戻って来たお袋と入れ替わるように席を立った。
   「徹は常識に対する憎しみって無いか?」
   麻婆茄子をトングで挟み、取り上げながら親父が訊いてきた。
   「常識に対する憎しみ?」
   「そか。少し安心した。」
   「 … … … … 」
   「パパにはある… いや、正確に言えば、在った… だな。
    …
    … …
    … … …
    … … … …
    … … … … … 大体オンナが口にする。殆ど浮かばれてる奴が口にする。真っ直ぐ歩いて来た奴が口にする。親や家系の器量というか面目に培われて、謂うなれば、まるで舗装された道を歩いて来た或いは、5ミリとズレのないよく調えられた芝の上ばかりで戯ばされて来た人間が好んで口にしたがる所謂 〝 常識 〟という言葉だ。」
   移動して俺が黒胡麻麻婆豆腐をお玉杓子で掬っていた。
   「努力し続ける事に対しての憎しみを懐かせないように努めて来たと話したが、常識に対する憎しみを携える事の是非は、詳解させる事が出来なかった。」
   「親父はお袋が大好きだよね。」
   「男と女は違う動物だ。パパはママが大好きだ。ああ、人間だと思ってない。神様だとさえ思っている。口論をした事が無いわけじゃない。だから、揉めた時には必ず言われた…〝 私の事を二度と女神だなんて言わないで! 〟と。もう…5年くらい喧嘩なんかしてないな。徹に見せた事無いから、喧嘩なんかした事無いと思っていたかも知れないが、長年連れ添って、一度も喧嘩した事が無い夫婦なんてのも、逆にちょっと気持ち悪いものだと思う。」
   俺は親父の話が昔から好きだった。親父の話を聴いていたらカレーの香りを一瞬憶い出したが、店内に充満している中華料理の香辛料の匂いで即座に消し去られた。カレーの香りと中華料理の香辛料の匂いには分かり易い違いがひとつだけある。カレーには甘い香りが僅かに混ざっているのだ。中華の匂いには其れが無い。覚悟…親父はこんな言葉も口癖だったりした。〝 根性より覚悟 〟。親父の持論は、〝 根性という言葉には勢いというものを必要とする匂いがプンプンする。逆説的に考えれば怯えが起因となっているわけだ。そうした意味で言えば覚悟には存在しない弱さと、〝 時としては逃げる 〟という手段も用意されている事が同時に見透かせる。今更ながら見返す、〝 人が生きて行くを人生 〟と端的に纏め、其処には様々な目的を発見する起因となる出来事が次から次へと有難くも巡って来る。だがその目的へ向かう最中の足枷となる物、また、自らが〝 邪魔 〟と判断してしまう物者への攻撃を企てたりする。目的を成し遂げる為に必要な攻撃として。隔てたる壁を粉砕壊滅する為に。しかし〝 邪魔 〟…なんという無礼な言葉だろうか。邪に魔…魔とは辞書を開けば〝 修行をさまたげ、善事を害する悪神 〟…この世に齎されている凡そながらにでも何かを指して高々生身の人間である徒が口にして善しとは云えぬ言葉だ。邪…正しくないとされるが、物事の全てに於ける正否を断定する力を有するのは神のみだ。さしずめ全容を鑑みて神の示唆を辿れば、目的を達する事が主ではなく、道程にて得る覚りこそが、してそれは、それこそが、それ自体が、天神(※あまつかみ)からの最重要な凡そなる各々に送られる有難い貢ぎ物だ。仕掛ける強さなど無い。逃げない強さ、受け止めよう為に凡ゆるを開いて待つ覚悟、これこそが、そしてこれのみが、真の強さだ。〟そして親父はこう繋げる。〝 逃げる道理は無い。刃を振り下ろす腐敗の怨念に呪縛されし者と遭い向き合わば、殺られてしまえばいい。それこそ最もな修行だ。正義は曲げるな。いや、正義とは曲がらぬ物だ。真っ直ぐ行け…それが正解だ。〟
   少しこんな事を思う。カレーとは、なんか、大人の離乳食のように感じる。引き締めたい時、喉にその味覚を流したくなる。母乳も甘々しい。まぁ赤ん坊の離乳食が辛いわけではないが。但し、幼い子供がカレーを好み、そして食す事が出来ても、中華料理を好んだり、食す事は殆ど無い。中華料理の辛味は厳格なのだ。カレーの、微かなる甘味が秘められた辛さは冒険を脳裏に炙り出す。親父の物言いは、俺には、海賊の其れ等に似つかわしく思えた。今日の映画『幾つもの果て達』は、〝 生と死 〟ではなく〝 生とか、死とか… 〟そんな感じだった。親父は極め付ける…〝 歯向かわない、そして決して逃げない。〟そう言えばガンジーも同じような事を云い、そして後の最期は、自らの言葉通りの如くピストルで撃ち殺された。アインシュタインはこのガンジーの事を、〝 後世の人類は挙って驚愕するであろう、こんな人間が現実にこの世に居た事を。〟こう言い遺している。
   「ママは、常識という言葉を口にしない人だったんだよ。だから大好きだという事でもないのだけど… パパに言わせれば、常識とは、在ってして実は無い物、時代背景如何で変わるし、また、この世の中の薄鈍というのは、法律と倫理、強さと弱さ…その最中に生きる人間という徒の中の誰に常識など語れるものか。そして序でに告げずにはいられなくなる〝 正義だけは変わらない 〟という事だ。パパはそう考えている。」
   「それで常識に対する憎しみ… 」
   「今は無い。特にはな。ママと知り合って… どうでもよくなった。」
   「お袋って… 凄いんだなぁ。」
   「ああ、お前の母親は、凄い人なんだよ。」
   親父は麻婆茄子の他にチンゲン菜のニンニク炒めや揚げ餃子を大量に盛ってテーブルに向かった。俺も一緒に戻った。
   「おかえりなさ〜い。お先に頂いてま〜す。」
   お袋が箸で摘んだ八宝菜にフゥフゥ息を吹きかけて冷ましながら機嫌良さそうに言った。
   「ただいま。」
   「ただいま。」
   … … … … … … … … … …
   胃袋の中で龍が火を噴いている…そんな気分だった。多分親父とお袋も同じだと思う。俺達家族は中華料理を鱈腹食べた後会計を済ませて、駐車場へ向かって歩いていた。
   「っぷぁーっ、食った食った。」
   俺が呻いた。
   「さて帰るかぁ。」
   親父が唸った。
   「そぉねぇー、あー楽しかったぁ。」
   兄弟がいない事を寂しいと思った事が何度もあった。親父とお袋は記憶に残る限り幼い頃から俺の事をよく見てくれた。お袋との口論や喧嘩を、俺に見せた事は無いと親父は話していたが、さすがに親父がお袋に手を挙げたりという事は無かったが、幼少だった俺が原因で言い合いになったところなんかは、実は何度も目の当たりにしている。遠い昔の事なので親父は覚えていないか、或は俺に気兼ねして忘れたふりをしているだけなのかも知れない。鬼の化身となる親父。お袋の涙。浮世に来て間もない幼児だった俺にしてみれば当然想像にすら持ち合わせない地獄絵図だった。鮮明な記憶となって蘇る事も滅多にはないが偶にある。これも悲しさを分け合う兄弟がいない一人っ子の特徴だろうか。何もかもが壊れて崩れ去っていく情景。夏のひまわり畑に突然の雷鳴と共に真っ黒い雨が降り始めてしまったような悲しさ。こんな時、率先して親父とお袋の間に割って入り、真っ先に喧嘩を止めようとしてくれる兄、また、何とかしようと強請む弟、大丈夫だよと抱きしめてくれる姉、泣きついてくる妹でもいてくれたらどれ程心が救われただろうとその都度思った。男の割には情けないが、一人涙で枕を濡らす夜も有った。但、喧嘩の原因が常に自分だったので、何も言えず俯くばかりだった。だからかも知れない、18歳にもなって親と一緒に映画だ外食だなんてのは剰り聞かない。スカしてるみたいにしていても内心ショボい照れ隠し気半分で、こんな風に家族水入らずで出かけるのが実は結構嬉しかった。
   「そぉだぁ、そういえば、徹君は彼女とかいないのかなぁ〜まだぁ?」
   おふざけ混じりみたいにお袋が訊いてきた。
   「いねーよ、興味ねーし。」
   「あらぁごめんねぇ、ママ美人だもんねぇ。なかなかママ以上は見つからないもんねぇ〜。」
   「はははは。」
   親父が笑った。
   「うるさいなぁ…今は興味が無いだけだよ。女って結構面倒臭ぇーし。はは、お袋と親父見てりゃわかるよ。はははは。」
   「まぁ徹は今、恋人より自分を見つけたいんだろ…なぁママ。」
   親父が言った。
   「そぉかぁ、そぉねぇ。ママがあんまり美人だから若い女の子なんて興味湧かないもんねぇ。ウフフ。」
   「だから違うって!」
   「はははははははは。」
   お袋は確かに美人かも知れない。でもそれ以上に親父の英知と志しを刈り取って自らの内に植える事の方が今の俺には大事だった。しかし頑なが過ぎて浮世離れしていた親父に空の青さを思い出させたのはお袋だったのだろう。〝 ねえ、紙ひこうき飛ばしましょ 〟と誘うみたいに。





   「おまえが一番会いたかったのって誰だよ。」
   「ん?そんな事言ったか?俺…」
   「此処は向こうとは違う。腹に据えた思いは全部筒抜けで聴こえてるよ。」
   「そうなのか?」
   「そりゃそうだよ。」
   「じゃなんで訊いたんだよ。」
   「おまえの口から言わせる為だよ。」
   「 …………… 」
   「おまえの葬式は見事だった。… … … 罪悪感、のしかかるだろ。」
   「辛そうだったよな… みんな… 。」
   「後の今に甘えた事言ってんじゃねえよ。終わらせた事だ。おまえが自分で。自分で終わらせた。終わりにした。」
   「〝 自分 〟てなんだろうな。欲や葛藤に、悪い意味ですらそう揺らされる風じゃなかった、特に最期の方は。何かに対する嫌気に押されて景色を消したわけじゃない。疲れ果てて鉄の扉を落としたつもりもない。幕引きを飾れるタイミングなんか量ってない。」
   「おまえは、笑いながら … 逝った … はは、いや … 来たんだよな。」
   「ふぅ。ああ。そうだ。」
   男は、どうして死んでも魂が無にならないのかを念った。同時に、バーテンダーのコイツが一体何者なのか少し気になり始めた。
   「なぁ、おまえはいつ来たんだよ…こっちに。」
   男がバーテンダーに尋ねた。
   「おまえ、俺の事が気になるのか。はははははは。」
   「此処ってなんだろうな。知らないおまえと馴染みみたいに話すのが全く気にならなかった。」
   「死ぬと、魂は過ぎた時の本当を知るからな。」
   「ん?」
   「過去ってのは、今は、もう何も無いっていう事だよ。それを知る。それを感触として明確に得る。」
   男は何かを、軽くあきらめるみたいに目を閉じた。そして少し黙ってから、また目を開いた。
   「なぁ… 」
   続ける前にバーテンダーが言った。
   「辿ってみりゃいいじゃん。」
   訝しげに尋ねた。
   「どうやって。」
   「さあな。こんな風におまえと話してても俺は仙人じゃない。辿れるんじゃねえかなって、かもなって、適当に思っただけだよ。」
   「俺 … 親父と会いてぇんだよ。」
   「会ってどうするんだよ。」
   「会って、訊きたい事がある … 沢山。」
   「その訊きたい事を訊いて、訊いた後、納得した後、納得出来た後、どうなるんだよ。」
   「どうなるって… どうにもならねえよ。訊きたいだけだ。」
   「ほら、そんなこったろうと思ったよ。」
   「あん?何がいけないんだよ。」
   「突然死んだおまえの親父… 裏切りのように突然消えたおまえの親父… おまえが原因じゃなくても、それじゃ親父には会えねえよ。言ったろ、此処は向こうとは違うんだ。」
   「どういう意味だ。」
   「おまえの親父は、おまえの、元親父なんだよ。そしておまえも、元おまえ自身なんだよ。おまえは死んでる。おまえの親父も死んでる。要するに終わった事なんだ。既に幕を閉じた時間なんだ。此処と向こうは違う。そういう事だ。」
   「じゃあ … やっぱりもう会えないって事か?」
   「フ… 会えるよ。… いや、会えるんじゃねえかな。はは。」
   「おまえ俺をからかってるのか。」
   「だって会いたいんだろ。」
   「あん?」
   「戒律とはなんだ。」
   「  ……… … 宗教の話か?」
   「向こう界隈での言い方みたいになるが自然界の戒律ってのがあったろ。戒律ってもんには猶予なんか微塵も無い。向こうに在った科学だ化学だっていう神力隠しの口実… まぁこっちから眺めるところの必死な悪足掻きというやつだな。突き詰めてる途中としてはソコソコ的外れでもないが、蟻の軌跡の5キロ半てとこだな。」
   「何が言いたいんだよ、まどろっこしいなぁ。一言で言えよ。」
   「理由だよ。」
   「理由?」
   「理由。」
   「なんだよ理由って?」
   「理由 … 物事がそのようになった、わけ。筋道。また、それをそう判断した、よりどころになる、またはする事柄 … フフ、向こうの文献じゃこんな事書いてあったろ。だが 〝 本当 〟真実なんてものはそんな説明じゃ足りない。理由ってのは、〝 理りが発破して弾け飛び、バラバラに分解されて、自由になった時のみ、初めて成立する。〝 よりどころ 〟ってのだけスレスレ正解を掠めてるかな。しかし拠り所ってなった途端に忘れ去られたりするのも理由の特徴だな。向こうじゃ簡単に言ってた理由だが、理由ってのは、理由ってのもまた、深く、難解なんだよ。理りが自由になれなければ〝 理由 〟には成らない。〟… という事だよ。」
   「   ……………  ………   」
   「理由ってのは、理りを自由にした後ゼロにならなければならない。即ち、理由とは、それ自体の存在が、存在や寸法が明確になった瞬間に過去となり、言い訳という呼ばれ方に変わらなければならないという事だ。」
   「 …………… 」
   「おまえが此処に居る限り、此処に降る雨が永久に止まないのと同じ。」
   「 …  …  …  …  」
   「この雨も此処も、そして、今おまえと向き合っている俺も、おまえの念いが拵えているすべての中の一端て事だよ。」





   井田 徹治は会社からの帰宅電車の中だった。22時半過ぎ、終電間際の車内は帰宅ラッシュのピークから外れた過労気味サラリーマンの徹治にとっては不幸中の幸い的憩いの場だった。吊革を右手で、左手はズボンのポッケに入れ、見飽きた車窓からの夜の街を眺めながら今日の終わりと明日の始まりまでの隙間を苦く心地良く彷徨うひと時を過ごしていた。憂鬱を濃くする為に徹治は会社を出るとすぐにあるコンビニで180ミリのパック酒を買いストローで一気飲みする。飲みながら歩いて10分も行くと駅に着く。100円もしないパック酒を空きっ腹に流し込み、1時間も電車に揺られれば、何処で寄り道したのかと自負出来る程度のほろ酔い加減になる。徹治は 〝 フフフ 〟と笑みを浮かべて、可愛い家族の為に働いて得るなけなしの稼ぎを椅子と夜の蝶に渡さず重ねて来た長年を振り返りながら、今宵も上機嫌で立ち尽くしている。徹治は電車の車内でも椅子には腰掛けないと決めていた。理由は三つあった。座ると寝過ごして降車駅を過ぎる可能性がある。最も大切な時間を無駄にしてしまう。そして運動不足解消の為。動かなくても、立っているだけで座っているよりは運動になる。そして三つ目は、座りたい人に空けておく為だ。妊婦、老人、子供連れ、それに身体の不自由な人。若い頃徹治は、些細な事を切っ掛けに知り合った車椅子の女の子が口にした 〝 朝起きて、自宅を出てから一番最初に発する言葉は、毎日、「すいません」なんです。 〟その女の子は照れ臭そうに、それでも毎日生きている事の幸せを噛みしめてるみたいな眩しい笑顔で徹治に話していた。その情景が、柔らかく徹治の脳裏に染み込んでいたからだ。徹治は一瞬苦笑いを浮かべて小さく俯いた。そのあと、以前テレビのニュースで、大勢の観衆が見守る中、引退する旧式の列車がプラットホームからラストラン発車をするシーンを見た事を徹治はふと思い出した。観衆が口々に叫んでいた。〝 ありがとう! 〟〝 お疲れ様! 〟〝 ゆっくり休んでくれ!ありがとう! 〟。徹治はテレビの画面を見ながら思わず涙ぐんだのだった。生身の人間じゃない。体温の有る犬猫でも無い。動物また生物ですらない。勿論植物でもない鉄の塊だ。しかし、沢山の人間が想い想いを馳せて、そしてそうした中、鉄の塊だからこそ、この必ずしも何もかもが上手くいくわけではないそして誰もが誰とでも分かり合えるわけではない世の中と人生の紆余曲折の中で、決して語りかけてくるわけでもなく必ず同じ様に毎日同じ場所で迎えに来てくれて送り届けてくれる、この列車という鉄の塊に、そして決して家族をはじめとする愛する者達を裏切らない、裏切れない自分自分を投影し、そんな同志との別れという想いに掻き立てられるのであろう。朝の通勤では仕事が始まる前だったり、どっぷり通勤ラッシュなので虚ろいと戯れる余裕など無いが、だからこんな帰り道の一瞬が堪らなく徹治は好きだったのだ。
   金曜日だった。路線を変える乗り換えの際に一旦駅前ロータリーを掠める一瞬がある。若者を中心とした賑わいが群鳥のように徹治には映った。彼方此方から奇声が上がる。中高年ビジネスマンやキャリアウーマンも金曜夜ならではな笑みが無数に散らばっている。赤ら顔になった七福神みたいだ。其れ等以外にも、デートエンドを惜しむカップル。頭を抱きしめる彼の胸に顔を埋める彼女、将又、唇を尖らせて彼氏にお説教している彼女に、手の皺と皺を合わせたら、それ幸せじゃなくて皺寄せだろと言いたそうに平謝りを繰り返す彼氏。そして別離の情景。賑わいの夏の夜の駅に冬を置く男女。様々な風が流れている。その合間合間を縫うように固く表情を仕舞い、足早に行き過ぎる人々がいる。徹治もその中の一人だ。徹治は付き合いの悪い中年ビジネスマンだったが酒や宴が嫌いだったわけではない。ただ、徹治はそれよりも家族が好きだったのだ。他人介入の場には、それが気心知れた会社の同僚や友達、所謂仲間でも、僅かながらとは言え有り体な駆け引きが在る。個々の社会性とはそんな空間の中で育まれていく物だったりするのだが、徹治はあまり好まなかった。僅かながらの駆け引きも、徹治はどうしても好きにはなれなかったのだ。
   徹治の家族は、世帯主の徹治、妻の小百合、息子の徹の三人家族だった。徹治は大手造船会社のエンジニアだった。大手と付くと、さもエリートだ金持ちだと思われがちだが、徹治に言わせれば、〝 誇りだけは自分次第だが磨けば磨くだけ光り輝く。大金持ちになりたい奴がやる仕事じゃない。それがエンジニアだ。〟徹治は良い意味でも悪い意味でも自分主義者だった。自分より優秀と評価される者を妬むも奉るも無くまた、自分より劣等と見做される(※みなされる)者を、蔑むも、そして慰撫する等は絶対に無かった。徹治は、自分が認める自分自身を志しているわけで、絶対的に負けたくない敵とは、己の内に燻る怠惰心のみと確信していた。他者がする他者の評価、他者がする徹治の評価、何れに於いても全く興味を示さなかった。〝 風は好きだ。真っ青な夏の空が好きだ。そこに訪れる真っ白い雲も、そして悠然と聳え立つ入道雲も大好きだ。でも鼠色の雲、雨雲、雨は嫌いだ。称賛も酷評も、所謂批評は私に言わせれば全てその暗雲に同じ。私が褒められる姿を見て陰に影を隠す者が出る。私が扱き下ろされれば、私以外の秀逸な賢者を悪戯天狗に化けさせてしまう。私は真っ青な空だけを見つめる。雨雲に用は無い。〟我々の生きる糧の主である農作物は雨の恵みから成るのを徹治だって当然理解しているし絶えぬ感謝を携えている。だからこそ、そんな矛盾の中だからこそ、永久に図に乗らずに居られるという事らしい。
   「悪いねママ… 毎日毎日。」
   毎日毎日、徹治は同じこのセリフを同じ場所、同じタイミングで口にしている。妻の小百合が駅前ロータリー内の、もう終バスも過ぎたバス停で徹治が改札から出て来るのを自家用車の車内で待っていた。
   「パパお疲れ様。」
   後部座席のドアを開けて運転席と対角線の座席に座った徹治に小百合が返した。
   「居た堪れないよ。こんな甲斐性無しの亭主に毎日送り迎えなんて。況してやママはこの広い大宇宙一の美女だ。神様に叱られちゃうよ。」
   「もぉー、パパったら毎日毎日同じ褒め言葉。わざとらしいわよ!」
   言いながらにして小百合の頬っぺは丸々と変形し耳に近づくみたいに釣り上がる。
   「わざとらしくなんかないよ本当だよ!パパは世界一の、いや、宇宙一の幸せを一人占めしてしまっている!はぁー、もっと稼がなきゃなぁ…。」
   「もぅ… パパったら…。」
   徹治と小百合は結婚20年。出逢ってからは23年になる。ちょっとしたバカップルならぬバカ夫婦だった。
   小百合の運転で駅から自宅までは僅か7分弱だった。毎日迎えで顔を合わすとこの遣り取りから始まる。徹治は、愛らしい小百合に、23年間夢中なのだ。徹治は自分に妙な決め事というか、縛りも作っていた。〝 2秒目を合わせない。〟小百合以外の女性と、2秒経つ前に必ず一旦目線を外して、必要な場合は、その後再び目を見る。そしてまた2秒経つ前にまた視線を外す。これも徹治は小百合と出逢ってからの23年間欠かさず貫いているのだ。もう本能的に染み付いていて身体というか瞳孔は自動に移動してくれるようになっている。徹治には… 徹治にも… 恋の沙汰に因る古い傷みたいな過去はあった…。19歳の時に初めて彼女が出来た。。無論、27歳で小百合と出逢った時、その時の彼女との恋が散った痛恨を小百合は出逢った瞬間に壊滅させてくれたわけだが、それまではどっぷり引きずり続けていた程の惚れ様だった。小百合と出会えるまでの間に数人、凡一定期間に渉る恋を踏んだが、その19ページは頭髪に隠される耳の後ろのホクロの様に居続け、傷縫いの痕は、時折赤色灯のように痛みを放った。その彼女とは、交際丸1年を過ぎようとしていた間際に、10歳年上の男性に寝取られてしまったわけだが、それ以前の交際の最中でその娘は、徹治が一瞬でも他の女の子に目移りしようものなら、また、二人でテレビを見ている時でも、ジィーっと徹治が画面に映し出されている女性タレントでも見つめようものなら、いつの間にか静かに泣き出しているような娘だった。しかし最期、別れを告げる際、徹治に言ったセリフは、〝 徹治君は浮気するから。他の女の子を見つめたらそれは浮気だよ。私、やっと見つけたの。徹治君じゃなくても私を愛してくれる人を。〟キッとした睨みつけるような目をして言い放ったのだ。徹治にとってその一言は、まるで頭の天辺から刀で股下まで真っ二つに斬られたような錯覚までをも醸し出す程の強烈さだった。なので徹治は、しかし決してそれがトラウマなのではなく、きっと、この子以上以外は有り得ないと思っていた徹治の19ページに刻まれた娘を完全に忘却させてくれた女性という意味でも、究極の真心を小百合に手向けたいというのがこの縛りの真意だった気が徹治はしていた。
   「パパお風呂入っちゃって、ご飯用意しておくから。」
   「うん、ありがとう。」
   自宅の駐車場に車を入れ、一瞬家の前の住宅道路を我が家の壁沿いに10歩ほど歩いて玄関先で小百合が言った。玄関を開けると徹治は靴を脱いで揃えた後、真っ直ぐ数歩廊下を伝った先の脱衣場に向かった。もう午前零時を回るか回らないかという時間だった…まぁ毎日だが。徹治自身の疲労もあるが、徹治は小百合が心配だった。〝 男はいい。男は死に物狂いに働いて死ねばいい。女はだめだ。女は咲いていなければならない。それも出来るだけ永く。可能なら永遠に咲いていなければならない。そしてキラキラ輝き、眩しさを放ち続けなければならない。〟小百合は夫である徹治の言い付けで専業主婦をしている。子供が帰宅して玄関を開けた時、其処に母親の笑顔が常に咲いていなければならないという徹治の方針だった。徹治に言わせれば専業主婦とは、皿回しの様であり、また、巨大な水風船を頭上に上げて持ち続ける様なもので、決して楽なんかではなく、それどころか、会社で働く自分なんぞの比ではない程の大変さだと確信している。先ず労働の場に子供は居ない。〝 え〜、だって、やだ、面倒臭い… 〟こんなセリフは存在しないのだ。しかし家庭や教育、子育てという事柄を主とする専業主婦の現場には、この鶏を追いかけて捕まえるような過酷さが其処あそこに散乱する。その他に炊事、洗濯、掃除、所謂家庭内のルーティーンがある。食材の買出しもある。何を作って出す、その為に必要な食材の選択また分量。日頃通して家族に摂取させている食事との折り合い、バランスも考えながらだ。そして其れ等は私が家庭に齎す収益というバリケード内で収めなければならない。潤沢な資産を家庭に流し込める優秀な世帯主なら論無用なのだろうが、我が家は私の不甲斐無さの所為で文字通りの庶民だ。崖の上である。この、資産、財産等の事柄を考えると、これを崖の上に喩えて絵が頭に浮かぶ。見晴らしの良い、また稜線、尾根の並ぶ澄んだ空気の中、岩の中途に突き出た、また或は頂の、野草の敷く其れが庭となる小ぶりな赤い屋根の家。仮に犬が跳ね、子供がはしゃぎ、そして甘くも苦くもないただ深く透き通る景観に恍惚を得る女がこの高台を守る男の意中の女神である。そうなのだ。家庭とは、家族とは、人生とは、全ての人にとってこの崖の高台の如し夢であり、幻なのだ。勿論、犬も走り間違えれば崖から転落する。子も然り。捨身で其れを助けよう女、所謂母親も同じだ。その一つ一つの端折りを作り出してしまうか否かが…要するに男の、世帯主の器量というやつであろう。男が無謀な賭けをして富を得て持ち帰るを続ければ、我が子にも遺伝し、それが危険な戯びに手を伸ばす性の芽を生み出す。犬もその危うい戯びをしたがる子に合わせんとする。転落のスパイラルはジリジリとその瞬間に滲み寄って行く。そんな手描き油絵も巧かれ下手かれ、決して休む事の無い時の潮に押されて進行し、守る男は自らの危惧に従い賭けの手を控えては飢えと貧困が襲い、いずれは憂鬱の末に自棄停止が思浮し黴の決断、自殺などを思い描いたりしてしまう。徹治は、小百合が、本当に大好きだった。
   徹治はハンドルを回してシャワーを閉栓した。
   「ふぅー。」
   バスタオルで髪の毛をシェイクしながらドレッサーに立った。手を止めて、一瞬、鏡の中の自分を眺める。明日の事を考える自分を感じた。
   〝 最近はいつもそう 〟
   若い頃、鏡を覗き込む時は自分を見ていた。15年も前くらいからだろうか…鏡に映るのは常に明日だ。鏡の中の自分が見れる余裕など男には要らない。甘露は、愛しさ止まぬ妻と子に降ればいい。自らの自信や誇りの分まで、其れに注ぐ甘露に代わってしまえばいいのに…。
   「パパお疲れ様。」
   食卓に夕食を並べ終えた小百合が改めて投げてくれた。
   「うん、ありがとう。」
   テーブルクロスには6つ7つにも及ぶお皿小皿が並べられている。毎晩の事だ。繰り返す有難いこの一瞬、徹治には並べられた小百合の手料理が、小百合の笑顔にしか見えなくなるようになって数年来だった。





   「悪いな中島、んじゃ来週には返すから。」
   「ああ。返すのはいつでもいいから。それより事故しないようにな。バイクが壊れんのは構わないけど、死ぬなよ。」
   「ははは、おいおい恐ろしい事言うなよ。ただ遠くにツーリングしに行くだけだし。討ち入りに行くわけじゃねえんだから。はははははは。」
   良い天気だった。火曜日の午前11時過ぎ。中島の勤める板金工場に居た。前日月曜日の夜に、何となく突然思い立って中島に電話した。一人で遠くに行ってみたくなったのだ。電話をかける前に週間予報を調べた。一週間晴天が続く。
   「タイヤ換えたばっかだから溝は平気だな。マフラーも純正のを付けたから捕まる心配も無し。雨合羽は?徹、持ってたっけ?無きゃそれも貸すぞ。」
   「ありがと。でも合羽はいいよ。雨なら濡れて走りたい。それも今回は愉しみに含めてる。」
   「甘いなぁ。」
   「フハハ、うん、甘いんだよ、俺。」
   「ふぅ。まぁ徹のやる事だからな、わからなくはないが。」
   「 …………… 」
   「アタマはアるんだからさぁ徹ちゃん、何処行くんだか知らないけど高原辺りでイカした姉ぇちゃん見つけて、使える頭使って早よ幸せになれや。ハハハハ。」
   「平日平日、エーンド興味なしオンナ!Just Now!ハハハハ!」
   中島に借りたバイクに跨ってヘルメットの顎紐を締めながら話していた。今日も街は輝いていた。見上げる。今日は神様が地球の青さをアピールする日だったみたいだ。青い。濃く深く青い。乱れる雲の千切れ目は海岸の寄せる白波のようでもあり、また、こんもりと膨れ上がった真っ白い頂は、元気な真冬のゲレンデも憶い浮かばせる。巨大なフォトグラフの様な空の下で俺はエンジンを始動した。
   「じゃ行くわ。」
   「おう、気をつけろよ!」
   実は何処に行くか決めてない。煮え切らない自分と代わり映えのない毎日が、街から出て行けとお尻を蹴飛ばした気がしただけだった。本当なら、普通なら尋常なら、彫って埋め込んだ頭脳回路を利用して適当に鱈腹稼げる基地…はは、会社か…其処に潜って金で遊べばいい…今更になって、不思議と自分探しのツーリングなんかに出ようとする寸前に、自分に向けて思ったりする。特別だったんだろうな。孤独だったんだろうな。同じくらい勉強した奴等とデスク並べて或は同じキャンパス歩いて、ケラケラ笑いながら〝 俺ら勝ち組、さぁハイグレードな遊びで楽しもうぜ! 〟。それが、〝 気に入らねえなあ 〟俺の内側が貧乏臭いんだよな。俺に云う。偏差値が突出していた事じゃない。其れに拠って湧出し、俺を包囲した黴の様な白さの孤独が、其れに尻込みせずに向かい合って得たストイックが、いや其れから、どうしても離れられなかったのだ。自分の内側から湧いた憎しみにさえ懐かしさを覚える。自分探しじゃない、捨てに行くのだ。
   東南西北(※トウナンシャーペイ)あ、これは麻雀だったか。東西南北。こういう時、どっちの方角に向かうべきなのか。〝 東方に宝あり 〟。文献じゃない。酒のテレビCMだったなコレは、はは。ちょっと自論だ。しかしこの〝 東方に宝あり 〟はダテじゃないなと思った記憶がある。東京。古い言い方なら江戸だが確かに、歴史との絡みがあるとは言っても、これまた神の成したシナリオ隠しが歴史ってもんだ。なかなかどうして、宝は確かに東に集まり易い。宝に集まる優秀な人材がまた東を目指し更なる宝を生み出し盛られ続けている。今の俺には宝に興味は無い。では逆向きの西。晒すとは日に西と書くが西と酉はよく似ている。太陽を目がけて飛ぶ鳥を思い浮かべる。いいねえ。イメージが近い。今の俺に。南。南無という言葉を思い出す。語源はサンスクリット語だらしいが、簡潔に言えば仏教の帰依、また帰命…だがね、俺はこの南無に関しても勝手な自論が在るのだ。俺は、俺の自論を最優先する。俺は勝手だ。勝手な人間なんだ。ただそれ以前に、アテに出来ないんだよ。物事の、極致、底の底まで掘り下げて考えれば、人間が人間の話など信用し切れないだろ。それでも信じる。その意味の〝 信じる 〟は思い遣りだ。其れは持たなきゃいけない。今俺は一人だ。だから自論だけを信じる。南無だけど、仏教の経は必ず南無から始まる。それは、そのまま〝 南、無し 〟と俺は感じる。南と言って、見て、直ぐに俺が思い浮かべるのは楽園だ。仏教でしょ…釈迦如来でしょ…南、無し… … … 考えなくても一目瞭然だと実は最初から思った。〝 楽園、そんな物は無い。〟そこから、当然そこから始まるのが仏教でしょ。今いる此処が、楽園と思えるまで、確信が持てるまで、辛くても、苦しくても、その修行を止めない。腕に火の灯った蝋を立て、蝋は溶け、肉肌に滴り激痛が走り、してしかし、その蝋燭の炎の滅するまで、無とは何ぞかを悟れるまで…仮に此れは昔何処かで聞いた事のある仏教の苦行の中の一つであるが、要するに、移動して、行ける楽園など無いという事だ。楽園という、〝 場所 〟など無いという事だ。そして北。北に関しては、ちょっと俺に関しては根拠が無いのだが、何となく、〝 戻る 〟というイメージがある。時間的逆行。例えば故郷というと、俺は、俺はだが、北をイメージするんだよな。南じゃなく北。南が故郷の思浮する一番に来ない原因の中に先ほどの南無の自論が含まれたりする。しかしイメージは大切だ。少なくとも俺個人にとっては、イメージとはただの印象ではなく…というか、じゃあ、何の根拠も無くイメージという物は出来上がらないわけで。たかがイメージでも、辿って掘り下げればやはり嵌りたい深みに嵌れるものだ… … … 。さて、何方に向かおうか…。
   中島に借りたバイクはホンダのCBXだった。400cc。日本列島を横断するようなつもりはないから充分だ。結構中島と二人で深夜の街中を吹かしまくってたからエンジンを心配してたけど、あいつこっそりレストア染みた事もしてくれていたらしい。かなり調子がいい。燃調だとかタペット調整なんかもやってるっぽいな。気持ち良くフケる。
   今取敢えず向いてる方角は南だと思う…。
   〝 は。逃げてるんだな気持ちが。〟
   まあいい。少し気の向くまま転がしてみよう。この間まで黄緑色だった新緑が、逞しく濃厚な深緑になっている。薄鼠色のアスファルトが不敵に笑っている。
   〝 見つけに行くぜ。すべてを捨てながら。〟





   「地球平面説って、よく知らないんだけど…」
   おかわりを繰り返した。もう何杯目だろうか。珈琲を流し込みながら話を続けている。
   「今度はソレか。案外、気長だな。」
   バーテンダーも付き合っている。
   「だって時は逃げないんだろ。あんたが言ったろ。」
   「ん。死んでるからな。」
   変わらない雨と雨音が、サシで向き合う二人とカウンターバーを、変わらず包囲していた。
   「俺は、相当未練たらしい奴みたいだな。この雨。」
   「同じようなもんだろ、誰も。」
   ポチョンポチョンという滴が弾ける雨音だけが際立って耳に付くような気がして来ていた。
   「あんたに言われて、少しシラけちまった気分だ。」
   「ぇ へ?盛り上がってたのか?何かに?」
   「フン、笑うか。」
   「はは、いや、いいけど。」
   「なんだよ、あんたが、いいけどって、なんだよ。はは。」
   「…………」
   「地球が平面なら…」
   「平面なら…?」
   「辿る先の、辿った先の、崖…海水なんかが落ちる、滴る…崖…」
   「ん。で。?」
   「平面な地球の断面と… 」
   「うん。」
   「時間の … 断 … 面 … 。」
   「フフフフフハハハハハ。」
   「笑…うか。」
   「馬鹿にしてるわけじゃない。予想通りだったから。言い出すんじゃないかなって、おまえが。いずれ。」
   少し強い風が吹いた。
   「地球平面説…おまえが口にした時、実はピンと来たよ。」
   「地球平面説…その、説自体は、実はどうでもいいんだよ。いや、どうでもよくない嬉しい事は一つはある。地球が、平面なんじゃないかって、想像して、期待しちゃいけない妙な期待感…いや、期待なんか出来ないもんなんだけど、一瞬ワクれる。ワクワクする嬉しい妄想が見れる。でも地球平面説自体は、やっぱりどうでもいいんだよ。」
   「… …… ……… … 」
   「量子力学、一般相対性理論、特殊相対性理論、万有引力…古典物理学、現代物理学…そういう事じゃないんだよね。そうした話じゃないんだよ。学問は徒の怠け落ち抑止の為の神通力、括って神学、含む死学、生学それらを密として隠しておく為の口実だ。決して近付けない。距離を縮める事は出来ない。徒に、縮められそうな気にさせるのもまた意図した神の仕掛けだ。偉大なる口実であり嘘だ。嘘…なんとミステリアスな響きだろ。ミステリアス…mysterious…ミス、照らす、明日…。は。まぁジョークだ。(※ミスは嘘…ではないが。嘘(うそ)とは、事実ではないこと。 人間をだますために言う、事実とは異なる言葉。 偽りとも。)」
   「要は、」
   「親父、元親父に、」
   「会いたい…だろ。」
   「そういう事だ。」
   バーテンダーは一瞬目を閉じて俯き、そして再び顔を上げ静かに瞼を開いて呟いた。
   「上手いジョークだな。美しいジョークだ。だが、明日は無い。明日だけじゃない、明後日も明々後日も、そして今この瞬間すらお前には無い…本当は。在るのは、お前の記憶のみだ。勿論、さっきも話したように、過去ってのは、今は、もう何も無いという事に変わりはない。繰り返すが在るのはお前の記憶だけだ。そして、お前自体も、元お前自身。」
   「自覚 … 。なかなかしない、出来ないもんだな。」
   「まぁそういうもんだがな。」
   「なぁコレって、今の、今此処に在る全てっつうか、例えば俺個人、俺一人が、今感触してる一切全ては、全部俺の記憶の範疇って事か?」
   バーテンダーの姿が一瞬モザイクでも掛かり始めたみたいに滲んでボヤけた気がしたが、直ぐにくっきりと見えるように戻った。
   「お前の記憶が創ってる景観であり情景だが、過去とは些か異なるな。いや、フフ…全く異なるとも言えるかな。元お前自身になってしまったお前が、終わりたくなくて、終わらせたくなくて、それで、終わる前までに経験した事、覚えた事、悟った事…そうした凡ゆる事柄をバラバラに分解して、未来とは言えないもんなんだけど、所謂、其の続きをバラバラにした部位や部分を、部品と見立てて組み直してるみたいなもんだな。強引に、怨念というセメダイン、接着剤でくっつけて組み立てて、でも未来には成れない、未来とはさせられない妄景…幻だな。」
   「この雨も… か… ?」
   「そうだよ…ああ。」
   「ちゃんと冷たいぞ。」
   「集中して、目を閉じてちゃんと感じてみろ。冷たいと感じる時間が若干、して然し、しっかりと短いだろ。」
   「… …… 確かに … 。」
   「お前の記憶だよ。終わりたくないお前の記憶の中の、雨の雫は、冷たかった… という記憶、その遺された情報に従って、お前は、冷たいと感じていると、お前自身に、元お前自身に命令してるんだよ。」
   男は目を閉じた。そして、黙った。… 意を決したように再び口を開いた。
   「親父と、元親父と、会っても…なんにもならないっていうの… … 」
   「ん? … ああ … 」
   「わかった気が、したけど、… 」
   「う ん、… ああ…。」
   「じゃあ、… 俺はこの後、どうすりゃ…いいんだよ…。」
   耳から遠去かっていた雨音が少しずつボリュームのツマミを回すみたいに耳に付いてきた。
   シトシト … シトシト … サァー サァー …
   「生まれて来て間もない赤ん坊が寝つく時、まるで暗い穴に落とされる恐怖に取り囲まれるみたいな形相をして泣き喚いたりするのを、お前、知ってるか?」
   「ああ、知ってる。」
   「それから、若気の至り尽せりって話じゃ済ませられないのが本当ってやつで、これも誰彼の話ってわけではないが、中絶すると、天(※うえ)から降りて来る…まぁ、今、此方側に居る俺等が話している以上、降りて行くって云わないと可笑しいか…兎に角その、人間の赤ん坊として生まれて行く筈だった子、魂は、泣きながら帰って来る…いや、引き返してくる。こっちに来て、其れを俺が目の当たりにした事はまだ無いがな。」
   「なんとなく、あんたが俺に云おうとしてる事がどんな事なのか判るような気がする。」
   「自分。自。己という意識すら、なくなるという事に対する怖さとでもいうのかな。」
   「点となり、いずれその点としての自らも縮み、そして消える…。」
   「赤ん坊の寝入りの際、赤子の顔に、相応しさの伴わない大人びた焦りの形相は其処に通ずる。癇癪(※かんしゃく)もまぁ同様だ。」
   死んだという事の、夥しい(※おびただしい)程の無様さ、虚しさ、或は汚らわしさまでをも男は感触してしまっている気がした。
   「親父は、もうバラけた…かなぁ。」
   「怖いか。」
   「知ってるのか?」
   「フ。知らんよ。知るわけないだろ … だが、息子のお前と会う前にバラけないだろ。たった、一人の息子のお前と会わずに。」
   「 ………… ……… … 」
   男は、深い溜息を、ゆっくりと吐いた。
   「終るという事が、こういう事… なんだよなって… 今、感じてるよ。」
   「何を以って終りとするか … 。」
   バーテンダーが言った。
   「何度も言って、繰り返して悪いが、お前が終りにした。自分で。」
   「うん。」
   「終りは始まりとも言うが、お前は、何が終わって、何が始まったのかな。」
   「何も終わってない気もするし、何も始まってない気もする。」
   「だが現実には終わった。終わってる。そして始まっている。」
   「始まる前にはバラバラになるんだろ?」
   「普通に考えればな。」
   「じゃあやっぱり親父は既にバラけてる筈だよな。」
   「どうだかな。俺が何かを知っているわけではないが、どうだかな。」
   「そういえば親父は親父が自分で決めていた2秒ルールに関してこんな事も話してた。今、憶い出したよ。」
   「ん?」
   「お袋以外の女性と2秒以上目を合わせ続けないのを死ぬまで全う出来たら… 」
   「出来たら?」
   「こっちに来てからも必ず逢える。そして、また伴侶となる事を神様に許してもらえる…ような気がしている…だからママ以外とは絶対に2秒以上目を合わせない。合わせるわけにはいかない。そう話してた。」
   「お前の母親は確かまだ…」
   「うん、下というか、まだあっち。うん、まだ人間 … … バラけてないよな … まだ … 親父 … 」
   「終り。始まり。バラけてなきゃいいな。祈っててやるよ。」
   「 … フ … ハァ、ありがと。」
   男は俯いて目を閉じた。





   「来てよかったぁ、ありがとう。」
   葵(※あおい)は丘陵地帯を一望出来る高原のテラスに居た。
   「こういう所、葵、来たがってたよな。俺もこういう場所が大好きだ。立ち去りたりたくなくなる。いつまでも永遠に眺めていたい。ずっと此処に居続けたくなる。」
   「うん、本当だね。」
   恋人の哲(※さとし)と二人で来ていた。天候にも恵まれた山々の上空は、真っ青な空と陽光に映えて目前の緑が巨大なブロッコリーを憶わせる。来たる夏に備える元気の収穫にはピッタリの風景だった。
   この高原テラスに葵と哲が訪れたのは初めてだったが、二人を夏が迎えに来るのは四回目だった。
   「きっと葵も、この高原と同じように、いつまでもキラキラ輝いてるんだろうな。」
   「ぇえ?なぁ〜にそれ、突然。フフ。」
   「アイシテル…の告白、だったりする…ハハ。」

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