やがて忘却の川岸で

作者 ピヨピヨ

始まりの記憶


気の遠くなるような闇が続いていた。



黒く、まるで手をかざせばそのまま溶けていきそうなぐらい、濃度の高い闇。

その次に音。
水の流れる音が聞こえた。これは…たぶん川だな…、結構でかい川。

そして感覚。
揺れる感覚。浮いているって言った方がいいかもな…この木の感じとかすかに伝わる波の感触…、船だな、小舟って感じだ。

試しに自分を触ってみた、肌がある、服がある、足があり、三つ編みの髪がある。
でも鏡があるわけじゃないし、これは俺には見えないな。
はあ、困ったな……なんか困った。
光がないから場所がわからない…これって結構不安だ。
あっち向いても、こっち向いても、何も見えないし、聞こえるのは水の音ばかり…。


なんで、俺、こんなところに生まれたんだろう…?

そう思って、俺は半ば絶望した。
でも、割とポジティブだったんだよ。
だって次の瞬間には鼻歌歌いながら、オールで漕いでたし…というかオール初めて使ったけど、まるでずっと使ってたみたいに手に馴染んできたし、うまく使えた。
ともかく歌いながらずっと泳いでたんだよね。
行くあてもなければ、することもなかったし、漕いでいれば人に会えるかななんて思いながら、俺は漕ぎ続けた。

するとさ…聞こえたわけ。

水の音……といっても流れる音じゃない、水滴が水面に落ちる音、と言ったほうがいいなこれは。
ポタン…ポタン……って静かな音だった。
音のする方に向かってみたら、何かぼんやりと見えた。

それは光だった。

明るい、不思議な感じの青い光。
ちらほらちらほら蛍みたいに光るそれは、綺麗だったよ。
もっと見たいと思ってすーっと音も立てずそこに近寄ってみたら、誰かが水の中にいるんだよ。
ぼーっと立ってるわけ。
腹のところまで水につかりながら、何もしないでぼーっとしてるの。
ちょっと薄気味悪いよね。

でも気になってさ、俺結構勇気を出して声かけたんだよ。

「なぁ、そこで何してるの?」

ここで俺は初めて俺が声を出せることを知った、結構通る声だったよ。
だから聞こえたと思うんだけど、そいつは振り返りもしなかった。
だからもっと近づいて、もう一度大きな声で言ったら、やっと振り返った。

そいつの外見は、ちょっと人とは違ったな。
灰色っぽい白髪に、白雪姫みたいな白い肌、だるそうな薄い月色の目。
あと全体的にすごく不気味。
でも、なんだか嫌いじゃなかった。

「……待ってるんだ。」

薄く空いた口から、空気みたいな声が流れた。
低く、消え入りそうな位小さな声なのに、すごくよく聞こえるんだ。
その声も割と嫌いじゃなかった。

「ふーん…じゃあ、なんで泣いてるの?」

喋ってる間にも、止めどなくあいつの目から流れる涙は、水面に波紋を広げ、溶けていく。

「わからない…たぶん忘れてしまったんだよ……もう随分、長い間川に浸かっていたから。」
「忘れたのは川のせい?それとも自分のせい?」
「たぶん…川のせい、この川普通の川と違うから、触ったり飲んだりすると、ものを忘れてしまうんだ。」
「ふむふむ、それは大変だな。」

その時はそんな会話をした。
ひらひらと舞う蝶々が綺麗だったよ、そいつの周りだけに漂う蛍みたいに光る青い蝶々。
そいつの体から出てくるらしい。
あんまり綺麗なものだから、ずっと見惚れてると、不意にそいつが口を開いた。

「でもこれだけ覚えてる、僕はここでずっと人を待っていたんだ……結構長い間。ただ待っていた。」

そしてそこで目をゆっくり閉じた。

「でもそれが誰だったのかわからない、でも誰かを待っていたことは覚えてる。だから待ってた。今までは…ね。」

なんだか不思議なやつだったな…話すことも曖昧だし、よくわからない。
でも話し方好きだったな。

「でも、もう待つ事はやめるよ、今からやめる。」
「どうして?」
「なんだか、めんどくさくなったから…」

そう言って目を開き、あいつは岸に上がった。
びちゃびちゃと濡れた服が、彼がどのくらい水につかっていたかを教えてくれた。

「なぁ、お前名前はなんて言うんだよ?」

彼はジロリとこちらを見ながら、

「ルーア…」

と静かに言う。

「じゃあ、ルーアさん、生まれたばかりの俺に名前をくれよ。ちょっと面倒臭いかもしれないけどさ、俺今ここで生まれたばっかりなんだよ、だから名前がないと不便なんだ。適当に思いついたのでいいからさ。」

と俺が言うと、ルーアは前を向き直りながらこう言った。

「……エリーサ。」

「あー、いいじゃんいいじゃん、俺それ気に入った。…でもなんで女性名?」
「適当に思いついたのでいいんでしょ?…じゃあ僕は仕事をするよ、君はそこで待ってて、今から連れてくるから。」
「まてよ、仕事ってなんだよ誰を連れてくるんだ?」

困惑する俺に、ルーアはため息まじりに

「死んだ人を連れてくるよ、僕は案内人だから。…そして君は橋渡し役、それを川の向こうに運ぶんだ、それだけでいい仕事、とっても簡単で、とってもめんどくさい仕事。」

と言った。
あぁ、なるほどね。
なんか、納得した。
死神…みたいなもんなのかな、俺って。

「じゃあ、ルーアさんはもうどこかに行っちゃうんだ。」

それは純粋に寂しかった。
また一人になるのは、怖かったし、嫌だった。
だからちょっとした引き止めというか…なんというか、とにかくもうちょい一緒にいて欲しかったんだよな。
そんな俺の心中を知ってか、ルーアは落ち着いた声でこう諭した。

「…すぐ、戻ってくるから。」

その言葉には、意思があった。
ちゃんと戻ってくる…絶対に何があっても戻ってくるからという、安心感と確定された何かがあった。

「う〜ん……わかった。」

だからなんだか安心した。
ルーアの体から、青いひかる蝶がまた出てきた。
やっぱ、生えてくるのかな?あれ。
死神って面白い体してるな。

「あと、ルーアさんはやだ。ルーアでいい。」

ルーアはそう言うと、そのまま乾ききらない服から雫を落としながら、歩いていく。
蝶々もそれにひらひらついていく。
だからあたりはまた、暗くなった。
また何も見えなくなった。

でも、さっきとは違う。

今度は人が来てくれる、あいつがまた来てくれる。
だから、平気だった。
俺は静かに目を閉じて、その時を待つことにした。

ただ静かに…




それが初めてルーアに出会った記憶だ。

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