マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第二十五話

 手が、足が、頭が、燃えるように熱い。息もできぬほど、鼓動さえむせ返るほど、胸が苦しい。喉を掻き毟るほどの慟哭さえも、その痛苦には届かない。もはや、何週間と寝ていないだろうか。目眩なのか、夢なのか、はたまた幻覚なのか。世界が歪んで見える、葉叢が教典に描かれた悪魔のように見える。木々のざわめきが、まるで俺に呪詛を吐きかけているかのよう。昼夜を問わずのたうち回る俺を心配するように、グレートヒェンが鼻を近づける。やめろ、今はお前さえ、奇怪な魔物に見えてしまうんだ。誰も、誰も、俺の目の前から失せろ。何もかもが、俺を呪う悪魔に見えてしまうんだ。やめろ、やめてくれ、もうこれ以上、俺に構わないでくれ。闇も、光も、何もかも、俺を呪うんだ……。

     *

 追手の追撃は、いよいよ苛烈になった。数も多い、どの方角を目指したって、必ず一度は相見えた。

 だけど、俺が剣を抜くのは、追い払うためだけだ。その喉元に、切先を向けることはない。ティルと出会い、語らい、助けられ、再び俺はフリアエの意志を貫く覚悟を決めた。約束を守るだけじゃ、あの人の本懐は遂げられないから。だから俺はこれからも、決して人の命を奪うことだけはしない。それは、俺が人であり続けられる証でもあるんだから。

 後悔はない、でも、それがあまりにも困難な道だということは、すぐに理解させられた。殺してしまえば、追手の数は減る。各個撃破を試みようと思えば、誰もが難なく薙ぎ伏せられる連中ばかりだ。数は多いが、その実、新米の騎士ばかり。当然だろう、同期のトマソンが率いているんだ、まだ年若い若輩者に、腕利きの玄人が付き従うことはない。現地で雇われた狩人だってそうだ。兎や猪を狩るのはお手の物かもしれない。だけど、相手が人間となれば話は別だ。その上、曲がりなりにも狩猟の知識を持つ俺だ、奴らの手口を掻い潜ることもできよう。ならば、近接戦闘で騎士が劣るはずもなく、こちらが狩る側に回ることになるだろうさ。

 だけど、それができない、してはならない。己に課した誓いを破れば、不慮の死が訪れるよりも、無念を残すだろう。これはまるで、魔法の手法にある《呪縛ギアス》だな。通常であれば相手に掛けて行動を制限する呪詛の類に当たるのだが、これをあえて自らに設けることで、魔法の効力が高まったり、特別な恩恵を得られたりするのだとか。まあ、俺にそんな恩恵あるはずもなく、報われるのは俺の信念だけ、という話でしかないけれど。

 だから俺は、必死に逃げた。西に、ただ兎に角、西に。ノワールの村はロギヴェルノの封土の中でも、西端に位置している。なら、更に西へと向かえば、恐らくは大海原に出るはずだ。行ったところで、何がある? 確証は全くない、ないに等しい。だけど、きっと、何かがあるんじゃないかと、そう信じて俺は突き進む。悪いな、トマソン。わざわざお前が導いてくれた逃げ道を辿るのは、もう少し先になりそうだ。それまでに、俺が生きていればいいんだけどな。

 その矢先だった。手元が狂ったか、対処が遅れたか。恐らく、疲労も溜まっていたんだろう。もはや日常的に咒術を用いて、随分と風の精シルフの世話になっていたわけだが、突風を巻き起こして迫り来る追手や弓矢を退ける――そこに隙が生じた。俺の肩口には、再び弓矢が突き刺さり、骨を砕かれた。焦りはなかったはず、だけどその日を境に、この身を穿たれる頻度が高まった。いやむしろ、日に一度は矢を受けたか。満足な治療もできない、周囲には水辺もない。次第に傷口が膿んでいき、激しい痛みと、高熱を生じた。

 日中でさえ朦朧とする、視界が霞み、手は震える。吐き気がして、折角捕らえた猪でさえ、戻してしまう有様だ。それでも、追手の追跡が収まることなどない。もはや昼夜を徹しての進行より他に、手はなかった。

 すまないグレートヒェン、お前にも悔しいほど世話を掛けてしまう。追手を視認すれば、甲冑を纏った俺を乗せて、全速力で疾駆する。夜間も休まず、《発火の魔石》で熾した小さな灯火を頼りに、木々を避けて進み続ける。俺なんかよりも、ずっと疲労が溜まっているはずだろうに、お前はいつだって飄々としてくれている。それだけが、俺の励みになる。いい馬に出会えたよ、本当に。

 だけど、いつ頃からか、俺は立てなくなっていた。全身を鉄縄で雁字搦めにされたかのような、氷の棺に入れられたかのような、肉体のあらゆる機構が、動くことを拒絶していた。指先さえも、痺れて動かない。脳裏さえも、熱に浮かされて思考が途切れる。もはや腹の中には何もないはずなのに、嗚咽が止まらない。血も流しすぎた。身体中に巻いた包帯は、塞き止めきれない流血で真っ赤に染まっている。次第に俺は、全身の感覚さえも失ってきていた。

 駄目だ。もう俺は、これ以上動けない。いずれここに倒れた俺を、追手は必ず見つけ出す。決して逃れられない死が訪れる。いや、それまでに俺が生きている保証さえない。

 きっと、俺が目指した大海原は、空に舞う鳥たちから見れば、目と鼻の先にあるんだろう。二月は逃げ延びたんだ、随分といい線までいったと思う。もしかしたら、随分と遠回りをしていただけかもしれないけど。

 だけどじゃあ、こんな体たらくで辿り着いて、何が待っているというんだ? この世のあらゆる傷や病、果ては死者をも蘇らせるという霊薬にでも巡り会えるとでも? 馬鹿な、そうそう奇跡は起きない。だから俺は今こうやって、死を待つだけの生ける屍となっているんじゃないか。きっともう俺は、助からない。

 俺は、身体に残存する全ての魔力を顕在させ、無理矢理に、悶える身体を起こし、震える足で立ち上がる。そして、グレートヒェンと大木を繋ぐ綱を外した。続いて、くらを外し、頭絡を外した。

 これで、お前は自由だ。俺と運命を共にする必要などないだろう。お前は俺に、本当に尽くしてくれた。だから、これで最後だ。俺の末路を、お前に見せたくはない。お前だけは、生きろ――グレートヒェン。

 その身は自由となり、すかさず走り出した、と思いきや、立ち止まる。そして、俺の方を振り返った。また走り出し、それでもまた、振り返った。大木にもたれ掛かり、あいつの去って行く姿を見つめていたけど……最後の最後まで、グレートヒェンは俺に、振り返ってくれた。だけどきっと、俺の気持ちを汲んでくれたんじゃないかな。次第にその姿は、森の奥深くへと、消え失せた。

 嗚呼……一人になった。全くの一人に、なってしまった。思うと、この逃避行を続ける中で、完全な孤独など、味わったことがなかった。それは、同じような境遇の者がいるとしたなら、幸運な方なんだろう。本当なら、道連れとする者などあってはいけない境遇なはずなんだ。誰も、俺の犯した罪の飛び火など、受けてはいけないんだから。この罪は、そういう罪だったはずだ。だから、むしろこれが、正しい在り方なんだ。

 今やもう、何も考える力など残っていない、病む精神さえ残っていない、はずなのに、俺の眼からは、涙が零れていた。顔を歪める力も残ってはいない、だけど、涙だけが、溢れてくる。

 この旅路の中で、沢山の温もりを貰った。沢山の贈り物を貰った。かつて見失っていたものさえも、拾い上げることができた。その思いの全てが、この腐臭を纏う胸に、星屑のように瞬いて去来する。それは、何物にも代えがたい、なんと美しいものか。誰もが得られるわけじゃない。きっと、この逃避行がなければ、俺も得られはしなかったはずの数々。

 こんな、今際の際になって、気付くんだもんな。本当に……俺の……悪い……癖だな……フリアエ…………。

 意識は、消えゆく。それは、夢に落ちていく感覚にも似た、だけど、似て非なる感覚。全てがそぎ落とされていくような、全てが漂白されていくような、終わりの感覚。何だろう、心地悪い気はしない。だけど、気分のいいものでもない。俺の中に在った、ありとあらゆるものが、失われていく。どうにもならない最期が、白んでいく景色の彼方から、迫ってくる。

 それが、我が世の、終わり。俺の、終焉。何も、残らない、全ての、終わり…………。

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