マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第二十一話

 濃厚で深みある茶の色を湛えた、湿潤なる沃土に、すきを入れる。深鍋の底に沈殿した旨味を掬い上げるように、地中から肥えた土を掘り起こしていく。同時に、春の訪れに誘われて、青々と伸びてきた雑草を根から摘み、土壌の一部へと変えていく。それを何度も何度も繰り返していくと、大地が波打つかのような、一筋に伸びるうねができた。

 すきを地面に着けて、柄にもたれ掛かる。腰はズキンと痛み、腕もじんわりと疲労感が滲み、額から滝のような汗が流れる。慣れない仕事だからか、騎士時代に毎日昼夜を舎かずやってきた、馬の世話や剣舞なんかよりも、余程疲れる。獣の狩猟や木の実の採取ってのは小さい頃からやってきたから勝手が分かるけど、農耕ってのはかなり身近なものなのに、案外触れてこなかったな。

 だけど、不思議とそこには、甲斐なるものが生まれていた。土に触れ、土を耕し、命を育み、命を頂く、それが農耕か。なるほど、フランクの言っていた、『貴人である前に、土に生かされ、土に眠りゆくのが人間』って言葉が、少しだけ分かった気がする。土に塗れてみて、初めて実感できた気がする。俺は、土の上に生きているんだなと。

 大地を駆ける春風が、火照った身体に清涼を届けてくれる。天を仰ぐと、白い綿毛のような雲が点々と浮かんでいた。ふわふわとした毛並みを靡かせ、気持ち良さそうに風に流されていく綿雲の群れ。そんな青く澄んだ大空を見上げていると、天と地の狭間に立つ俺という人間など、とてもちっぽけな存在なんだと気づかせてくれる。凝り固まった自我を解き放って、客観から己と向き合わせてくれる。いつからここは、あったんだろうか。いつからここに、俺たちは生まれたんだろうか。ほんの僅かな時しか刻めぬ定命なる人間には想像もつかない、悠久の時を刻み続けてきた天地なるものは、言い表すのもおこがましいほどに偉大だ。

 ――海に行こう。あれは現か幻か、熱に浮かされて見せられた、不思議な夢の続きを。

 唐突に、俺は思い立った。母なる自然の大いなるを噛み締めて、心に宿った回帰の念。なんだ、まるで本当に、遍歴しているようじゃないか。

 人生は長い、この世界は広い。どのみち、この命尽きるまでは、逃げ続けなければならないんだ。せっかくなら、この世界の色んな姿を、この目に焼き付けよう。

「何ぼーっと突っ立ってんだよ! サボってんじゃねぇぞー!」

 ふと、見渡す限りの畑にあって、豆粒のように小さく見えるティルの声が木霊こだまする。すまない、随分と物思いに耽っていたようだ。手を挙げて、承知の合図を送る。再びすきを握って、柔らかな沃土を掘り起こしていく。

 これ、意外と加減が難しいんだよな。すきを握る腕に魔力を込め過ぎれば、うねが吹き飛ぶ。かといって一切魔力を込めないと、筋肉に余計な負担が掛かってくる。作業を長く続けていくためには、それら力の消耗にも気をつけなければならない。すきの歯を地面に差し込む角度と深度も効率性には重要だ。下手にすきを入れてしまえば、一度掘り起こせばいいところを、二度手間、三度手間となりかねないし、浅すぎたり深すぎたりしてしまう。

 だけどこの仕事、地味ながら案外俺向きかもしれないな。うねの具合を、運動効率を、すきを入れる精度を、少しずつ突き詰めていく根気の仕事。まあ、とは言うものの、そう難しい話でもない。すきを振りかぶり、地面へと振り下ろし、土を掘り起こす、その一連の動作を、一回ずつ、一回ずつ、正解へと近づけていく。そうすると次第に、脳裏に描いた理想の動きができてくる。野良仕事に限らず、何であれその繰り返しだ。剣も弓も馬も、何度だって繰り返すしかない。肉体が状況に合わせた最適解を自然と導くまで、経験を擦り込んでいくしかない。

 ……と、熱中しているうちに、陽の光が真上から照りつけてきた。もう正午になるか。

「レフ君、ご苦労様だ。流石は大人族ヴァンダルの騎士、君のお陰で随分とうね立てが進んだ」

「良かったじゃねぇか、レフ! 一々幅だけ取るその馬鹿でかい図体がようやく有効利用されたな!」

「ティルはすきに振り回されなかったか? そのうち土に埋もれて見えなくなるんじゃないかと、ヒヤヒヤしていたんだ」

「馬鹿野郎、血を流す道具でなけりゃオレの方が一枚も二枚も上手だっつうの!」

「はっはっは! いいコンビだ、その調子で頼むぞ。では、飯にしようじゃないか」

 いい汗を流した後は、腹が減るな。今のうちに、たらふくご馳走になっておくとしよう。

     *

 アリアネお手製のポトフを食して、俺の腹はご満悦だ。黒胡椒とハーブの芳しさに包まれた甘く柔らかな人参や玉葱が舌で蕩け、マスタードの舌と鼻を仄かに突く心地よい刺激とともに、出汁を良く吸って旨味を湛えた肉を食べる。はぁ……この甘美なるひとときに、溜息が漏れてしまう。

「美味しかったですか? レフさん」

「いや、美味いなんてもんじゃない。満腹になるのが、食べきってしまうのが、惜しいとさえ思うよ」

 セレビア辺境伯の城に勤めていた騎士の時代でさえ、これほど美味い飯にありつけたことなど、数える程じゃなかっただろうか。アリアネ、君は良き妻になるよ。

「ふふっ、やっぱり口上がお上手ですね。まるで詩みたい」

「そーいう洒落臭ぇのだけはペラペラ出てくんだもんなぁ。無自覚なタラシってのが一番タチ悪いや」

 馬鹿を言え、こういう時は本音しか語らないタチだ、不味ければ不味いと言うさ。

「時に、レフ君。少しいいかな」

「え? あ、ああ。構わない」

 神妙な面持ちで席を立つフランク。それに続いて、俺も立ち上がった。

「お、おいレフ、まさかお前……」

「どうだろうな。まあ、少し話をしてくるよ」

 恐らく、ティルの危惧する事態が、目前に迫っている、その辺りの話だろう。団欒とした食卓からわざわざ席を外した、なら十中八九間違いないだろう。

 左右の書棚一杯に書物が敷き詰められたフランクの書斎に入ると、彼は静かに椅子に座り、素朴な造りをしたテーブルの引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには記されていたのは、『手配書』の文字。

「もはや察しはついているだろうが、我がノワールの村にも、君の名で手配書が回ってきた」

 そう言うとフランクは、引き出しからもう一つ、砕けた封蝋が目立つ亜麻紙を取り出した。そこには、トマソンの署名が記されている。恐らくは書簡か。

「我が息子トマソンが部隊を引き連れて、こちらに向かっているとの書簡が届いた。君がこの村にいることを感づいて、というわけではないだろうが、君にとっては最悪の事態と言えるだろう」

 そうか、トマソン……遂に、刃を交えることになりそうだな。剣の腕で負ける気はしないが……気の良い奴だった。いつでも陽気に振る舞い、笑顔を絶やさない男だ。あいつがいるだけで、場が和む。出来ることなら――ご家族のためにも、斬りたくはない。

「俺がノワールの村にいるとまでは知らないだろうけど、逃亡した方面は見当がついているんだろうさ。だからトマソンは、わざわざ部隊を編制してまで、こっちに向かっているんだ」

「恐らくは、そうなのだろう。レフ君、すぐに逃げたまえ。息子と争う姿を、私は見たくない。私にとっては君もティル君も、息子同然なのだ。我が子たちが血で血を洗うなど、私には耐えられん……」

 ……すまない、俺という人間が現れたばかりに、貴方のような善良なる者を傷つけてしまった。俺さえ関わらなければ、息子の里帰りを、大手を振って迎えられたのに。

「本当に、何もかも、すまない。責任を持って、必ず逃げ果せる。トマソンとも争わずにいられるように」

 また、新たな誓いが生まれてしまったな。フリアエとの約束を守るだけでも手一杯だというのに、本当に俺は愚かだよ。でも、誓った以上は守り切る。それを破ってしまったら、俺はもう、人ですらなくなってしまう。

「ありがとう、レフ君。君が負い目を感じる必要はない。私は君たちに出会えて、本当に良かったと思っているのだ。人は、人との繋がりの中で生きていく生き物だ。君たちという存在が、私達の生きる張り合いとなる。あんなに賑やかな食卓は久しぶりだった。アリアネも君たちが来てから、いつも腕によりをかけて料理を作っていたんだよ」

 そう言ってくれると、心が救われる。俺という不幸しか振り撒かない咎人にも、恩を返せる当てがあったのかと思うと、それだけでも自分を信じられる。

「決して君は、悪じゃない。たとえ悪を背負う立場に甘んじても、それに蝕まれることのない、美しき正義を持っている。それだけは、忘れないでくれ。君こそは、真の聖人だ」

 そんな、大層なものじゃないよ。それでも、有り難い言葉だ。貴方の期待に背かぬよう、俺は決して誓いを破らない。フリアエとの約束を反故ほごにはしない。だから、頭の片隅に置いておいてくれないか? 時折、思い出してくれるだけでいい。

 重傷を負って、迷惑を掛けた男がいたんだと。我が友とともに、いつも五月蠅く賑やかな男がいたんだと。わざわざ退路を断つような誓いを立てることでしか、己を表現できない、不器用な男がいたんだと。

 俺も貴方のことは、決して忘れない。いつも遠くで微笑んでくれる、もう一人の――お父さん。

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