マギアルサーガ~惡の化身~
第十九話
この身を包む穏やかな暖気と、小鳥のさえずる音とともに、目が覚めた。
上体を起こすと、痛みは走るものの、昨日とは違い、随分と回復しているようだ。傷口はすでに塞がっている、腕を上げられる程度には肩も治った。上げたその腕で、横にある鎧戸を開けると、春の陽気が頬を撫でる。眩い陽の光に手をかざして目を細める。外ではすでに、鍬を握り、畑を耕す人影があった。
「あら、ご機嫌よう。今日は身体を起こしても大丈夫なのですか?」
外の景色を望む俺の背後から、女の声が聞こえてくる。振り返ると、そこには水桶を携えたアリアネが立っていた。俺が起床する前には野良仕事をしていたのか、頬や麻衣には微かに泥汚れが付いている。
「面倒を掛けた。完治はしていないけど、身体を動かす分には支障ない。せめて何か手伝わせてもらえないだろうか」
こんな年端もいかない少女だけに、身の回りの世話をさせるわけにはいかない。客人とはいえ、転がり込んだ居候のような身だ。仕事で返礼させてもらおう。
「ええ、そうですね。ここノワールでは、働かざる者食うべからず、がモットーですから。身体が動くなら、働いてもらいましょうか」
無邪気な笑顔を向けるアリアネ。負傷者に一切の容赦はないが、その方がこっちも気楽だ。
「ではでは、朝食の用意を手伝ってもらいましょうか。居間まで来て下さいね」
そう言ってアリアネは踵を返す。俺もベッドから立ち上がる。足腰も問題なさそうだな、身体は鈍っちゃいるけど、大した痛みもない。皺ができた衣服を正して部屋を出た。
居間に足を運ぶと、竈にはすでに火が焚かれていた。グツグツと沸騰する鍋からは、牛乳の甘やかな匂いとともに、胡椒やセージといった香辛料の薫りが鼻をくすぐる。
「ファウストさん、お皿をテーブルに並べて下さるかしら。貴方がたを入れて、五人分お願いしますね」
竈の前でお玉を持ったアリアネに命じられる形で、壁棚から深皿を手に取り、テーブルへと並べていく。でも意外だな、俺たちを除いたら、この家にはたった三人しか住んでいなかったのか? 子孫に引き継がれる種族の優先権を持っている女が家を継ぐのは勿論だけど。
「アリアネ、君のご家族は? 父と母だけなのか?」
「いいえ、兄が一人いますわ。もう婿に行ってしまって帰ってくることもありませんけれど。あ、でもファウストさんと同じく、お城勤めの騎士の身なんですよ」
「へえ、騎士か。もしかしたら、知っているかもしれないな。名前は何と?」
「兄ですか? トマソンと申します」
――なに? 今、トマソンって言ったか? その名は、我が友の名だ。奴は早くに婿入りして、姓が変わっていたから知らなかったが……そうか、旧姓をノワールというのか。だけどまさか、ここで奴の名を聞くことになるとは。皮肉な邂逅だ、もはや顔を合わせれば、刃を交えなければいけない間柄だというのに。
「ファウストさん? 手が止まってますよ? もしかして、まだお身体がよろしくないのでは?」
「――あ、いや、何でもない。トマソンという名前に憶えがなかったかと、少し振り返っていたんだ。でも残念ながら、記憶にないな」
「仕方ありませんよ。ティルさんから伺いましたけど、ファウストさんは首都ヴァルヘインのお城に勤めておられたのでしょう? 私の兄の勤め先はセレビア辺境伯様のお城ですから、面識がないのも当然ですよ」
ティル、お前はどこまで俺の素性を誤魔化しているんだ。しまったな、昨晩の語らいで、奴の出任せを一通り聞いておくべきだったか。仕方ない、何とか話を合わせよう。
「ああ、セレビアの騎士か。行ったことはないけど、綺麗な町だとは聞いたことがあるな」
「ええ、兄からもそう伺っております。綺麗な小川が町を通る、色鮮やかな家々が象徴的だとか」
「一度は行ってみたいところだ。俺も遍歴の過程で立ち寄ろうかな」
「その際は是非、兄を訪ねてみて下さいね。きっとセレビアを案内してくれると思いますよ」
アリアネの話に相槌を打ちながら、テーブルに深皿と匙を置き終える。手持ち無沙汰になってしまったな。
「アリアネ、次はなにをしたらいい?」
「あ、では棚の壺からザワークラウトを大皿によそって下さる? そろそろ漬けあがる頃なので」
俺はアリアネに言われた通り、大皿をテーブルの中央に置いて、壺の中から塩と白葡萄酒で漬けられたキャベツを取り出し、大皿に盛り付けた。酸味を思わせる薫りが鼻を突くと、自然と唾液が溢れてきた。
そうこうしているうちに、アリアネの作るシチューも出来上がると、玄関扉が開いた。野良仕事から帰ってきたのは、手伝いをしていたティルの他に、壮年の男と女。二人とも額に角を生やした角人族だ。その風貌から、アリアネの両親だろうことが窺える。
「お帰りなさい、お父さんお母さん」
「今帰った。おお、ファウスト君! もう身体は大丈夫かね? 無理は禁物だぞ」
「ノワール卿、大変お世話になりました。ティルのように器用な身ではございませんが、このご恩は、一先ず労働で返させて頂ければと存じます。」
「はっはっは! ノワール卿とな。もう久しく呼ばれていなかった敬称だ。気遣いは無用だよ、ファウスト君。気軽にフランクと呼んでくれ」
そう言って、フランクはすかさず、俺に手を差し伸べる。俺はその手を諸手で取り、固く握手をした。その手は岩のように硬く、嘘や方便で鍬を携える人間じゃないことを証明していた。
「ふふ、夫に貴族の礼式は不要ですよ。なんせ、根っからの農夫ですからね」
アリアネの母らしく、粛々とした物腰の中に、慈悲深き母性を思わせる夫人。フランクと同様に固く握手をすると、微笑みを湛えながらアンナと名乗った。
「ったく堅っ苦しいなぁファウスト! オマエはもうちっと肩の力を抜くってことを覚えろ!」
「ティルさんはもう少し礼儀を覚えてはいかがかしら?」
「ア、アリアネの嬢ちゃん、そいつはキツいお灸だぜ……」
二人の滑稽なやり取りに、一同には笑みが溢れる。なるほど、久しく忘れていた、闘争のない、穏やかな雰囲気だ。こんな団欒とした時間が、茨の道にも一時くらいあってもいいよな、フリアエ。
上体を起こすと、痛みは走るものの、昨日とは違い、随分と回復しているようだ。傷口はすでに塞がっている、腕を上げられる程度には肩も治った。上げたその腕で、横にある鎧戸を開けると、春の陽気が頬を撫でる。眩い陽の光に手をかざして目を細める。外ではすでに、鍬を握り、畑を耕す人影があった。
「あら、ご機嫌よう。今日は身体を起こしても大丈夫なのですか?」
外の景色を望む俺の背後から、女の声が聞こえてくる。振り返ると、そこには水桶を携えたアリアネが立っていた。俺が起床する前には野良仕事をしていたのか、頬や麻衣には微かに泥汚れが付いている。
「面倒を掛けた。完治はしていないけど、身体を動かす分には支障ない。せめて何か手伝わせてもらえないだろうか」
こんな年端もいかない少女だけに、身の回りの世話をさせるわけにはいかない。客人とはいえ、転がり込んだ居候のような身だ。仕事で返礼させてもらおう。
「ええ、そうですね。ここノワールでは、働かざる者食うべからず、がモットーですから。身体が動くなら、働いてもらいましょうか」
無邪気な笑顔を向けるアリアネ。負傷者に一切の容赦はないが、その方がこっちも気楽だ。
「ではでは、朝食の用意を手伝ってもらいましょうか。居間まで来て下さいね」
そう言ってアリアネは踵を返す。俺もベッドから立ち上がる。足腰も問題なさそうだな、身体は鈍っちゃいるけど、大した痛みもない。皺ができた衣服を正して部屋を出た。
居間に足を運ぶと、竈にはすでに火が焚かれていた。グツグツと沸騰する鍋からは、牛乳の甘やかな匂いとともに、胡椒やセージといった香辛料の薫りが鼻をくすぐる。
「ファウストさん、お皿をテーブルに並べて下さるかしら。貴方がたを入れて、五人分お願いしますね」
竈の前でお玉を持ったアリアネに命じられる形で、壁棚から深皿を手に取り、テーブルへと並べていく。でも意外だな、俺たちを除いたら、この家にはたった三人しか住んでいなかったのか? 子孫に引き継がれる種族の優先権を持っている女が家を継ぐのは勿論だけど。
「アリアネ、君のご家族は? 父と母だけなのか?」
「いいえ、兄が一人いますわ。もう婿に行ってしまって帰ってくることもありませんけれど。あ、でもファウストさんと同じく、お城勤めの騎士の身なんですよ」
「へえ、騎士か。もしかしたら、知っているかもしれないな。名前は何と?」
「兄ですか? トマソンと申します」
――なに? 今、トマソンって言ったか? その名は、我が友の名だ。奴は早くに婿入りして、姓が変わっていたから知らなかったが……そうか、旧姓をノワールというのか。だけどまさか、ここで奴の名を聞くことになるとは。皮肉な邂逅だ、もはや顔を合わせれば、刃を交えなければいけない間柄だというのに。
「ファウストさん? 手が止まってますよ? もしかして、まだお身体がよろしくないのでは?」
「――あ、いや、何でもない。トマソンという名前に憶えがなかったかと、少し振り返っていたんだ。でも残念ながら、記憶にないな」
「仕方ありませんよ。ティルさんから伺いましたけど、ファウストさんは首都ヴァルヘインのお城に勤めておられたのでしょう? 私の兄の勤め先はセレビア辺境伯様のお城ですから、面識がないのも当然ですよ」
ティル、お前はどこまで俺の素性を誤魔化しているんだ。しまったな、昨晩の語らいで、奴の出任せを一通り聞いておくべきだったか。仕方ない、何とか話を合わせよう。
「ああ、セレビアの騎士か。行ったことはないけど、綺麗な町だとは聞いたことがあるな」
「ええ、兄からもそう伺っております。綺麗な小川が町を通る、色鮮やかな家々が象徴的だとか」
「一度は行ってみたいところだ。俺も遍歴の過程で立ち寄ろうかな」
「その際は是非、兄を訪ねてみて下さいね。きっとセレビアを案内してくれると思いますよ」
アリアネの話に相槌を打ちながら、テーブルに深皿と匙を置き終える。手持ち無沙汰になってしまったな。
「アリアネ、次はなにをしたらいい?」
「あ、では棚の壺からザワークラウトを大皿によそって下さる? そろそろ漬けあがる頃なので」
俺はアリアネに言われた通り、大皿をテーブルの中央に置いて、壺の中から塩と白葡萄酒で漬けられたキャベツを取り出し、大皿に盛り付けた。酸味を思わせる薫りが鼻を突くと、自然と唾液が溢れてきた。
そうこうしているうちに、アリアネの作るシチューも出来上がると、玄関扉が開いた。野良仕事から帰ってきたのは、手伝いをしていたティルの他に、壮年の男と女。二人とも額に角を生やした角人族だ。その風貌から、アリアネの両親だろうことが窺える。
「お帰りなさい、お父さんお母さん」
「今帰った。おお、ファウスト君! もう身体は大丈夫かね? 無理は禁物だぞ」
「ノワール卿、大変お世話になりました。ティルのように器用な身ではございませんが、このご恩は、一先ず労働で返させて頂ければと存じます。」
「はっはっは! ノワール卿とな。もう久しく呼ばれていなかった敬称だ。気遣いは無用だよ、ファウスト君。気軽にフランクと呼んでくれ」
そう言って、フランクはすかさず、俺に手を差し伸べる。俺はその手を諸手で取り、固く握手をした。その手は岩のように硬く、嘘や方便で鍬を携える人間じゃないことを証明していた。
「ふふ、夫に貴族の礼式は不要ですよ。なんせ、根っからの農夫ですからね」
アリアネの母らしく、粛々とした物腰の中に、慈悲深き母性を思わせる夫人。フランクと同様に固く握手をすると、微笑みを湛えながらアンナと名乗った。
「ったく堅っ苦しいなぁファウスト! オマエはもうちっと肩の力を抜くってことを覚えろ!」
「ティルさんはもう少し礼儀を覚えてはいかがかしら?」
「ア、アリアネの嬢ちゃん、そいつはキツいお灸だぜ……」
二人の滑稽なやり取りに、一同には笑みが溢れる。なるほど、久しく忘れていた、闘争のない、穏やかな雰囲気だ。こんな団欒とした時間が、茨の道にも一時くらいあってもいいよな、フリアエ。
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