マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第十四話

「ヤベェ……しまった……! うっかりしてた……!」

 背後から聞こえる、ティルの怯えた声。おい、嘘だろ。お前まさか、俺を……?

「…………クッ!」

 考えている、疑っている、悔いている、暇なんてない。俺は逃げ切らなきゃならないんだ、生き延びなきゃならないんだ。辛酸を舐めてでも、泥水を啜ってでも。

「なあ、レフ……いや、言い訳はよすさ。あぁ違ぇねぇ、アンタのご推察通りだ。オレが悪い……」

 今、こいつを見殺しにすれば、多分、堕ちちゃいけないところに、堕ちる気がして。嵌められたとか、裏切られたとか、そういう信用問題はこの際、問わないよ。俺はこいつを、一度でも好きだと思った。初めてフリアエが、正しいと思えた、そう感じさせてくれた。

 だからティル、多少乗り心地は悪いだろうけど、それくらい我慢しろよ。俺を謀った罰だ。

「……え? レ、レフ、オマエ何してんだ……」

 観念した表情のティルを拾い上げる。なにぶん小人族、小脇で抱えられるほどの体格だ。俺は奴を抱えたまま、片方の手を床に着け、前傾姿勢をとる。そのままの体勢から、一気に魔力を身体の隅々へと行き渡らせた。神経に稲妻が走るかのような感覚、その直後には、溢れんばかりの力が滾る。

 もはや、視界を覆い尽くした、眩いほどの火影。けやき造りのベッドが、繊細な曲線で植物模様が彫られた櫃が、まだたんまりと葡萄酒が入った樽が、火の手に侵されていく様を横目に惜しみつつ、脆くも崩れ去る寸前の床を、全身全霊で蹴立てた。

「――うわああああッ!?」

 蹴り上げた木の床板が炸裂する、吹き乱れる疾風を纏い、迫り来る炎を切り裂いて、瞬く間に加速していく。俺の目の前に立ちはだかるは、燃え盛る枝葉連理の壁――邪魔だ、そこをどけ。腕で顔を覆い、小脇に抱えたティルを庇いながら、無理矢理に突っ切った。

 炎の壁を突き抜けた先で、この身は宙に投げ出された。天に瞬くは、大空を衝く高木の葉叢を掻き分け、大地を照らす蒼き清浄の月影。だが、その大地にさんざめくは、乱れ揺らめく松明に浮かび上がる、血走った人影。騎士やら狩人やらが総勢で十人は居るか。俺一人に小隊編制とは大仰なことで。

 宙に舞う俺を認めるや、連中はその手に携えた弓と弩を空に向け、次々と撃ち放つ。まるで大地から茨が伸びてくるかのように、放物線上から逸れることのできない俺を、その鋭利な矢尻で突き穿つ。腕に、腹に、足に、幾つもの矢が肉に突き刺さる。弧を描いて落下する軌跡に沿って、血潮が宙に舞い上がる。

「お、おい! レフ、死ぬぞ!」

 気にするな、ティル。俺はまだ死なない。死んでいられない。だから、この窮地を切り抜けるぞ。

 轟音を響かせて、土埃を巻き上げて、俺は地に足を着けた。身に纏った魔力によって、高台からの落下の衝撃をも耐え切るだけの強靱さが、俺の身体には備わっている。だけど、矢傷だけはそうはいかない。まるで押し潰された革水筒のように、傷口から血飛沫を上げる。まずいな、早くも目が眩んできたか。

 着地から間髪を入れず、俺は一直線に走り出した。木々を縫って向かう先に、小さなボロ小屋を認める。ティルの勧めから、念のためグレートヒェンを匿っておいて良かった。追手の手は及んじゃいない。

 懐から掌に収まるほどの、丁寧に磨かれた石を取り出す。それに己の魔力を握り込めると、たちまち鬼火のような浮遊する火が出現した。これこそが火打ち石を不要とする、《発火の魔石》だ。その灯火を頼りに、ボロ小屋の中に入ると、やはり飄々と敷き藁を食む我が愛馬。小脇に抱えたティルをグレートヒェンの背に放り投げ、小屋の隅に置いた段平を背負う。纏めておいた鎧をくらの後部に括り付け、俺もその背に飛び乗った。

 遠方から聞こえる蹄の音、次第に小屋の方へと近づいてくる。悠長にしている暇はない、俺は手綱を引いて、グレートヒェンを急かした。小屋から躍り出た矢先、風を切る甲高い音が闇夜に轟く、直後、左肩に穿刺痛が走った。

「チィッ! クソッ……!」

 肩の骨が砕けたか、手に力が入らない、持っていた魔石を取り落とした。それを――ティルが手に取る。

「オレが火を絶やしゃしねぇから、走れ!」

 そうか、己の哲学を確固として抱くお前に、そこまでさせてしまったか。

「すまない、恩に着る……!」

 ティルが掲げた灯火を頼りに、暗夜を駆けろ、グレートヒェン。お前だけは、背後を案じるな。俺が二人の盾となる。

「とこしえの大空を舞い、蒼き草原に謳い、嬰児の雫を拭う、順風を運びし風の精シルフよ。此度は刃となりて、力を貸せ。その息吹は矢弾となり、その翅は利剣となり、我が難敵を退けろ」

 肩越しに段平を引き抜き、額に白刃を当てがい、切なる祈りを唱える。俺の声に呼応するように、刀身は微光を帯びていく。剣に風の精シルフの加護が宿るにつれて、俺の焦げた頬を涼風が撫でる。今日は反応が早いな、俺の焦りが届いたか?

「なんだよそれ、呪文か?」

「咒術に定型呪文は存在しない。気持ちさえ込もっていればいい自由律。つまり創作だよ」

「ヘッ! 毎度毎度、洒落臭ぇこって」

 それもそうだな。実際これは、声に出さなくたっていいものだ。風の精シルフと俺とを繋ぐ軌条ゲマトリアは、フリアエの秘跡サクラメントが施された、この段平が担っている。想いさえ整っていれば、勝手に向こうから来てくれるものだ。

 それでも、やっぱり声に出した方がいい。気持ちが乗る、想いが通じる、祈りが実る。そして俺の悪癖を、見事に解消してくれる手段だ。そうだな、フリアエ。

 ――勢いよく体を捻り、背後を薙ぎ払う。突風が吹き荒び、颶風が巻き上がる。落ち葉が舞い、木々が騒めく。背後から高速で飛来してきた弓矢を、まさに風の障壁でもって弾き返した。

 これが概念を再現する咒術、これが風を司る精霊の力。まさに、驚異的な力だ。

 咒術とは、誰もが会得できる魔法ではなく、たとえ会得できたとしても、定型化された魔術とは異なり、皆一様の事象には決してならないと、フリアエは言った。咒術とはそういうもの、人に依るもの、魂に依るもの。未だに体系化の目処が立たない一番の理由は、個人差が大き過ぎるからだとか。

「やっぱバケモンだなオマエ……なんてモン隠し持ってんだよ……」

 そう、たまたま俺のように、魔術に興味も適性もなくたって、咒術に開花する者もいる。現象を器用に紐解く者がいれば、概念にこよなく愛される者だっている、フリアエは俺にそう説いた。

 ほら今だって、微光を帯びる刀身から、浮かび上がって現れた一匹の風の精シルフが、剣を伝って俺の腕に登り、遂には肩口に腰掛けてしまったじゃないか。随分と懐かれたもんだ。

「ゲェッ!? なんだソイツ、小人か!? 妖人族フェアリーだってもうちっと立端あんだろ!」

 ティルの言う通り、それはまるで、掌ほどの背丈をした有翅ゆうしの少年を思わせる。こいつは俺たちの焦燥なぞどこ吹く風、耳元で雀のさえずりのような口笛を吹いてやがる。全く、俺の相棒はそんな連中ばかりか。

「いや、んなこたぁどうでもいいっ! このまま放っといたらテメェの身が危ねぇ! 西に向かえ!」

 ああ、そうだな……考えないようにしていたけど、実は次第に、意識が薄らいでいくのを感じていた。血を流し過ぎているんだろう、全身は酷い悪寒に蝕まれている。もはや末端の手足は、半ば氷漬けにされたみたいだ。悪いなグレートヒェン、お前の誇る艶やかな毛並みを汚しちまって。

「……ま、ずい……ッ!」

 激しい耳鳴りが脳裏に響く、その中に――微かだが、風を切る音を捉える。再び身を翻して、背後に迫る弓矢に対して、風の精シルフの加護を宿した段平で振り払う。月影に閃いた刃が描く軌跡に沿って、気を抜けば己が吹き飛ばされるほどの突風が生じる。もはや追手には随分と距離を開けたか、すでに俺の手前で失速していた矢は、風の障壁を前に、いとも簡単に弾かれた。

 だけど、問題は俺だ。一撃目と比べ、俺の咒術もかなり弱化している。そもそも、視界は白み、耳は遠く、身体には力が入らない。くそ、駄目だ……もう意識を保っていられない。

「……レフ、もういい、オレの背中にもたれ掛かれ。気絶する前に、さっさと剣は仕舞っとけ。グレートヒェンは利口だ、オレでも何とか出来る。だから寝とけ、後はオレが何とかすっから。これは、罪滅ぼしじゃねぇ――友として、オマエの命に責任を持つ。それだけだ」

「ティル、お前……」

「馬鹿野郎! だからもう喋んじゃねぇ、さっさと寝てろ! んなとこでくたばる玉じゃねぇだろ!?」

 ……ありがとう、ティル。その小さな背中が、今は大きく見えるよ。お前の言葉に、今だけは甘えさせてくれ。次に目が覚めたなら……ちゃんと……礼を……言わせて……くれ……。

 その背中にこの身を預け、重くのし掛かる瞼を閉じると、間を置かず、そのまま意識を失った。

 俺を運ぶ蹄の音が遠退いていく。息をするのも苦しかった痛みが失われていく。次に目覚める目処も立たないまま、安息なる微睡みへと、静かに落ちていく。

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