マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

第五話

 藪を微かに揺らす音、漂う空気の微妙、そこはかとなく漏れ出した殺気。そのいずれも、俺を付け狙って潜んでいたものが顕われた時に感じるものだ。いる……どこかに……。屈んだ体勢のまま、まるで藁紐を解くのに梃子摺っているかのような仕草で、周囲に厳戒を敷く。視界の届くところにはいない。殺気に当てられると、すぐに肌感覚が訴えてくるから、嫌でも分かる。それは、引っ張られてるような、抓られているような、押し付けられているような。なら、その感覚が最も明瞭に現れている身体の部位はどこか。

 ――背後ッ! 瞬時に体を捻り、振り返る。間髪を入れず再び抜刀、いや遅い、間に合わない。俺の視線上に射線がぶつかる、藪から頭を出した弩。矢が放たれるのを今か今かと待ち焦がれるように弦を張る。ほんの指一つ分、引き金に力を加えれば、俺の身体のどこかに小さな風穴ができるだろう。いや、待てよ……。あれは、違う、まさか。あの弩は、俺を狙ってるんじゃない、俺の背後を狙っているんだッ!

 そうか、狙いはグレートヒェンか! 奴らめ、俺の首を外堀から討ち取りにきやがったか! おいお前、今や家畜とはいえ、人間よりかは野生の名残を留めているだろうに。己に対する殺気ぐらいは気付くなり、主人たる俺に伝えるなりしてくれ……!

 ……うん? あれ、なんで俺、一瞬でこんなに思考が巡っているんだ……?

 今、俺は立ち上がって、身を挺してグレートヒェンを弩から護ろうとしている。そう思い立ってから、俺の身体は、確実にその目的に向かって動いていた。だけど、その動きが、あまりにも、遅い、鈍い、緩い……。あたかも、全身が泥濘に沈んでいるような――最期にフリアエと対峙した、あの時のような。ほんの一瞬が、遥か彼方に小さく見える、そんな感覚。

 そんな、俺の身に起こった摩訶不思議に気を取られていると、しまった、弩から矢が放たれた!

 どれほど時間の流れが緩慢であろうと、俺の動作が完了するよりも早く、矢が俺に辿り着くという結果は決して変わらない。寧ろ、普段では味わえぬ矢の極めて鋭いこと、更に、意識はついて行くのに身体がついて行かないもどかしさが、より恐怖を助長させる。

 全身が粟立つ、息が詰まる、筋肉が強張る、《魔力》を励起させる時間はない。もはや目前にまで差し迫った矢を前に、俺は左手で射線を遮った。先鋭なる矢尻が、少しずつ俺の肉を引き裂いていく。極度の集中からか、手の甲から皮膚を引き裂いて現れる地に塗れた矢尻、という凄惨な光景に反して、痛みは薄い。それよりも、このまま矢の勢いが衰えなければ、次に貫かれるのは、その射線上にある、頭蓋。それだけは避けなければ。指の感覚さえ失いかけたその手を、俺は全身全霊を傾けて握り締める、貫かれた風穴から血潮が噴き出した、傷口は更に広がっていく、遅れ馳せながら俺の《魔力》が左腕に収斂していった。

 撓み軋んだ血染めの矢柄が、手の甲から伸びてくる。流したばかりの血潮の温みが、汗する額に熱を伝える。そして、俺の眉間から、紙一重の隔たりで――矢は止まった。安堵する、と同時に、俺は駆け出した。一歩、また一歩と、藪に身を隠した射手に近づいていく。その気迫を湛えた歩調に併せて、胸の奥から頭の天辺にかけて燃え広がっていく闘志と、呼応するように漲る《魔力》の蠕動が、俺を奮い立たせた。

 その威迫に戦慄いたか、射手は次の矢を番える動きも見せず、弩を放り出して藪から現れた。だけど……何か、変だ。尻尾を巻いて逃げ出すかと思いきや、正面切って対峙するだと?

 頭巾を目深に被る小柄な男、俺の腹ほどしかないその短身痩躯から察するに、恐らく小人族プルか。表情は定かじゃないが、怯える様子はない。いや、戦意が衰えていない。

 その身に帯びた武装など、もはや用途を失った背に担ぐ矢筒に入った弓矢に、それ背負うためのベルトに差し込んだ短剣、腰に帯びるくの字に内反ったククリナイフ。

 なにより奴は猟師、人と刃を交える戦士じゃない。段平を携えた、騎士であり大人族ヴァンダルである俺に、白兵戦で敵う道理などない……はずなのに、なぜ平然と向かい合える? ああ、そうか。少し考えれば、簡単な道理だ。

 藪の寸前で急制動する、背に担いだ剣を抜刀して振りかぶり、渾身の力で地面に叩き付ける。土に草に飛沫が舞い上がる、その最中、鞭で打ったような風を切る音が木霊すると共に、辺りの木々が一斉にさざめいた。やはり、奴は俺を罠に誘ってたってわけか。俺が猪狩りに仕掛けたモノにも似た罠に。

「……お、おいおい、冗談だろオマエっ! この土壇場でそりゃねえぜっ!」

 酷く動揺した、少年のような男の声だ。およそ見当が外れたのだろう。その企み、挫かせてもらったよ。俺は憂慮なく、藪を飛び越え、距離を詰める。苦し紛れか、胸のベルトに差した短剣を抜き、俺に向かって放った。しかし、焦燥から手が滑ったか、俺の遙か頭上へと飛んでいってしまった。

 ――頭上……? もしや、狙って? まさか、これも罠か!?

 俺は咄嗟に両腕で頭頂部を覆う。その直後、頭上から雪崩のように砂礫が降り注いだ。それはもはや、小石などという生易しいものじゃない、こぶし大ほどの大礫が雨霰となって俺の骨肉を殴打した。めり込み、軋む、だが腕を退けるわけにはいかない。その場で立ち止まってしまった俺に対し、機会を伺っていた小人族プルの猟師が再び短剣を放つ。今度は正確に、一直線に、俺の喉元へと撃ち込んできた。首の薄皮一枚を切らせながらも、倒れ込むように横転して回避する。肩から背中にかけて、べったりと土砂を纏った。

 しかし、奴は俺に反攻の機会を与えるつもりはないようだ。落下してきた石を両手に拾い上げ、俺に向かって間断なく投げつける。その精度は全て精確、敵ながら見事という他ない。頭部に頸部を始め、鳩尾や脛、間接といった人体における弱点という弱点を的確に突いてくる。

 だけど、俺もやられっぱなしは性に合わない人間でね。頭に血が上ってる分、痛覚は比較的麻痺している。だから、今のうちだ。出し惜しむ必要は無い。俺は、内に秘めた《魔力》を全開した。肉体が急速に活性化する、神経が飛礫の射線を正確無比に捉える、そして意識が――まただ、先の感覚が、蘇ってきた。

 視界に映るあらゆる物事が緩慢、だけど《魔力》が全力で躍動する分、先のもどかしいほどの鈍重さが薄い。俺の思考速度に、身体が付いてくる。その飛礫、遅いぞ。奴の放った大礫の悉くを紙一重で躱し、瞬く間に距離を詰めていく。頭巾で目元は見えないが、俺が接近するにつれて、その顔には如実に焦りを滲ませていった。

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