きっと知らない方が幸せなのです

きっと知らない方が幸せなのです

アムール大陸の中で最大の規模を誇るリリシュワール国。
四方を囲う大きな山脈からは澄んだ水が豊富に流れ込み、その水を受けた草花が年中咲き誇る。
植物の成長は他国に比べると異様に早く、飢えを知らないこの国には毎年多くの民が移住していた。
また、リリシュワール国では国花に指定されているリリシュローズを筆頭に、この国にしか自生しない植物も多く、それを求めて商人や薬師、魔術師が多く在住する。故に、医療や魔術の発展は目覚しく常に最先端の技術が生まれていた。

食と医療に富んだ国。
民にとってこの上ないほど理想的なこの国には、他国にはない、ある慣習がある。
5年に1度、異世界より神子の召喚の儀式を執り行うというものだ。

異界から訪れる神子。
いずれもうら若き女性の姿で舞い降りる神子たちは、この国に様々な恩恵を齎モタラす。
それらはこの国にとっては当たり前すぎてなかなか実感できないことばかりだが、かと言って神子の存在を途切れさせることは決してできない。
神子の加護がなくなることは、国家の崩壊を意味するからだ。

神子がいるからこの国には清き水が豊富に流れ込み、神子がいるからこの国の植物は他国より成長が著しく、神子がいるからこの国には他国にはない薬草や花々が咲き誇り、神子がいるからこの国は天災を免れる。この国の人間ならどんなに幼い子供でも知っている、神子という存在の尊さ。

神子という存在をなによりも尊ぶこの国は5年に1度神子を召喚しては、その神子を国を挙げて歓待する。そうやって、神子という存在をこの国に縛り付けるのだ。




「――…よぉ、聞いたか?アミュー。残念だったな。今回の神子はハズレみたいだぞ」
「ハズレって…、神子様に失礼だろ」

何が面白いのか、ニヤニヤと人の悪そうな笑みを浮かべながら話しかけてきたのは同じ従者仲間のレントだ。つい数日前まで新しい神子様に使える従者としての教育を一緒に受けていた。
神子様が召喚されたのは昨日。それと同時に、数多い従者の中から、今回の神子様には俺が仕えることに決まった。

昨日までは俺が神子様の従者になったことに文句を垂れていたが、どうやら今朝回ってきた噂話で気をよくしたらしい。


「歴代の神子様の中でぶっちぎりの醜女らしいぜ。体はグッフィみてぇに横に広がって、背はガキみてぇに小さい。肉が乗りに乗った顔は目が潰れて見えるほどだと」
「…うるさい。レント、それ以上言葉を重ねるなら神子様への侮辱罪でお前を処刑台に送るぞ」
「はっ、怖ぇ怖ぇ。さすがは神子様の従者だな。…まぁ、愚痴くらいは聞いてやるからお前も頑張れよ」

ニヤニヤと口元を歪めるだけの笑みを好青年のそれに変化させながら、レントは俺の肩をポンポンと優しく叩いた。…口は悪いが、性格は歪んだ奴じゃない。多分今朝回ってきた神子様の容姿を聞いて、あいつなりに心配して声をかけてくれたのだろう。
まぁ純粋に、俺をからかいにきたってのもあるだろうが。

(…醜い容姿の神子さま、か)

歴代の神子様は、どれもこれも美しい容姿の女性だったと聞く。
それこそ王族の姫が醜女に見えてしまうほどの圧倒的な美しさで、見た途端に神の使いと分かる神々しさだったとか。
神子様は基本的に、神子様の世話をする従者と将来的に神子様を支える旦那様の候補としか顔を合わさない。だから俺はこれまでの神子様の容姿については話の上でしか知らないから、今回の神子様が歴代で最も醜いと言われてもあまりピンとこなかった。




『…どうぞ』
『失礼します』

神子様がいらっしゃる私室のドアを4回ノックすると、入室を許可する声が聞こえた。
思っていたより低い…、というか落ち着いている声音だと思いつつ、学んだばかりの異国語を話しながら中へと入室する。
ニホン語というこの言葉は神子様が共通して使う言葉らしい。教育では完璧だと念を押されたが本当に大丈夫なのかが俺自身には分からないので不安だ。まぁ、不安を感じたところで伝わらなかったらどうしようもないのだが。

部屋に入ると、バルコニーの手前のソファに腰掛ける女性が目に入る。
きっとこの方が神子様なのだろう。彼女の傍に近寄り、礼をとった。


『本日より神子様の従者を勤めるアミューと申します。お困りのことがあれば、なんでもお申し付けください』

深く頭を下げれば、息をのんだような音が聞こえた。
驚くようなことを、俺はなにかしただろうか。それとも、まさか言葉が間違っていたか。
不安に思っていると、『顔を上げてください』と、静かで、それでいて穏やかな声が聞こえた。


『アミューさん、ですね。私は裕美ユミといいます。これからよろしくお願いします』


ふわり、と穏やかに微笑んだのであろう彼女に、ふと肩の力が抜けるのを感じる。
穏やかそうな人だ。確かに話しに聞いていた通り、身長は低く体格はふくよかだ。この国の水準で考えれば、嫁の貰い手など到底手にすることはできないだろう容姿だが、従者として仕えるなら性格がよければそれ以上に言うことはない。
もしかしたら今は猫を被っていて、一緒に生活していくにつれて段々と本性が現れるかもしれないが、この様子ならしばらくの間は大丈夫だろう。

安堵の気持ちそのままに、こちらこそよろしくお願いしますと言えば、少しだけ戸惑ったように、神子様は微笑んだ。




それからしばらくの間神子様と生活して打ち解けた後に聞いた話だが、どうやら神子様はあのとき人生で初めて男に頭を下げられたらしく、初めての体験にどうしたらいいか分からなかったらしい。
彼女の世界には身分制度はあるものの、彼女にとっては身近なものではなく、偉そうにするのが正解なのか同様に頭を下げるべきか悩んだようだ。

『ふふっ…それは、なんというか』
『アミュー?笑いたいならもっと正直に笑っていいよ。…どうせ私はブスだし、男の人に優しく接される免疫とかまるでないし…』
『あぁ、拗ねないでください。神子様の初々しい反応が愛らしいと思っただけなんですから』
『…うそばっかり』

へにゃ、と困ったように眉根を下げて神子様は笑う。
最近よく見るその表情は、容姿や性格などに好意的な印象を述べたときによく見られる表情だ。
神子様は、ご自身の容姿を嫌う。もとの世界で散々罵られてきたらしいその容姿。確かにこの国の基準でも美しいとは言えないものの、彼女の穏やかな性格を知れば容姿の美醜だけで彼女を嫌悪する者などいなくなるはずだ。かといって、神子様が接触できる相手は最低限に留められているから、この王宮の人間のほとんどが、その事実を知らない。

常に穏やかで、欲が無く、人を思いやることができ、それでいて自分に自信が無い卑屈な彼女。
彼女自身は、己の容姿だけでなく、性格すらもただの偽善者なのだと自嘲するけれど。
俺にはそうは思えなかった。




『ねぇ、アミュー。ちょっといいかな』

そんな風に穏やかな日々を過ごした、ある日のこと。将来旦那様となるアルド王子方との茶会を終えた神子様が、紅茶を飲みながら俺の名前を呼んだ。

『なんでしょう、神子様』
『マルシェとかギールが時々使う言葉でよく分からない言語があるんだけど、あれってなに?』

神子様の素直な疑問に、答えるべきか誤魔化すべきか少し迷って、息を吐く。
答えること自体に、問題はない。ただ、このことを告げれば、次に神子様が何を言うかは分かりきっていた。

神子様の将来の旦那様候補であるアルド王子、マルシェ大神官、ギール騎士。そのお三方が神子様の前で使用されるのはこのリリシュワール国で使用されている公用語だ。
お三方は神子様がこの国の公用語を理解していないのをいいことに、柔和な笑顔を浮かべたまま、彼女をよく罵倒していた。育ちがいいはずの彼等がよくそんな言葉を思いつくなと感心するほどの罵詈雑言。そんな言葉を浴びせられる彼女はもちろん言葉が分からないから首を傾げるし、時折気になって指摘されても、大したことじゃないという彼等の言葉を素直に信じていた。

そんな彼女が、ついに疑問を呈してきた。
1度口についた疑問を彼女はきっとそのままにはしないだろう。ここで誤魔化しても、いつしか必ず、残酷な真実を知るときは訪れる。
来るべきときが来たんだ。そう思いながら、彼等の口にしている言葉がこの国の公用語であることを告げる。すると彼女は予想通りこの国の言葉を学びたいと言った。学んだ先にあるものが輝かしい未来なのだと疑うこともなく。

『それとね、私が公用語を勉強することはギールたちには内緒にして欲しいの。今まで私は彼等に与えられてばっかりだから。…いや、もちろん勉強もアミューたちが教えてくれるから与えられているんだけどね。でも少しでも進んでなにかをして、彼等に近づけたらいいなって思うんだ』

王子達に内緒で、公用語を学ぶ。その結末がどうなるかなんて考えなくたって想像がついた。
きっと彼女は傷つくだろう。だが、たとえ言葉を学ばなくとも、籠の鳥のように与えられる情報を制限され彼女の知りえないところで蔑まれている現状こそ彼女に見えない傷を刻み続けている。

俺は、なにも言うことができなかった。



――…それから、半年の月日が経った。

彼女はたった半年で、この国の言葉を覚えた。日常的に第三者がいないときは公用語のみで会話していたこともあってのことだろうけれど、なにより学ぶ彼女自身の意欲の賜物だ。
言葉を教え始めた当初は、すぐに真実に気づいてしまうんじゃないかと懸念も抱いたが、人を罵倒するような言葉を最初に学ぶわけもなく杞憂に終わった。さらに公用語をほとんど覚えた辺りからは国内の内政が忙しくなり王子達と顔を合わす機会もなかったからか、言葉を完璧に覚えるまで、彼女が真実を知る機会はなかった。

しかし、どうやら今日、彼女と王子達は茶会を開くらしい。
きっと今日も、王子達は何食わぬ顔で神子様を罵倒するだろう。
これまで、彼女の前でそうやってきたように。

(神子様…。真実を知りながら何も告げない俺は、貴方に見限られてしまうのかもしれない)

優しい神子。彼女がこの国に召喚されてからおよそ1年。
強制的な呼び出しに怒りを露にすることも無く穏やかな微笑みを浮かべ、日ごろからこの国について愚直に学び、この国と従者の俺への感謝をよく口にする彼女と過ごした日々は、なににも替えがたい日々だった。できればこれから先も彼女の傍で彼女のために生きたい。…だが、ずっと罵倒され続けていた事実を知ったとき、果たして彼女は俺を許してくれるだろうか。

不安に揺れる心を表すかのように、カップに注いだ紅茶に波紋が広がる。
波が途絶えた鏡のような水面に映った俺の顔は、酷く情けなかった。

「…お茶会の準備が整いました」
「ありがとう、アミュー。…そろそろ王子達もいらっしゃるだろうから、ギールを先に部屋の中へと案内してくれる?」
「かしこまりました」

神子様の言葉に従って、私室の扉を開ける。
扉の横には聖騎士の鎧に身を包んだ、ギール様のお姿があった。

『お待たせいたしましたギール様。準備が整いましたので、お入りください』
『…あぁ、すまないな』

常に神子様の私室の扉の横に立ち、神子様を護る護衛騎士のギール様。
いつも思うが、扉の直ぐ傍にいて俺と神子様の会話が届いていないのが不思議だ。まさかいつも聞こえていて、聞こえていない振りをしているのだろうか?…そんなわけがないか。神子様が公用語を学び始めても、彼はそれまでと変わらず神子様を罵倒しているのだから。

『ギール様、本日も護衛の任を負っていただきありがとうございます。どうぞこの茶会の間はお体の力を抜いてくださいね』
『心遣い痛みいる。神子殿もこの部屋の中にばかりいては息も詰まるだろう。今日の茶会で気分が晴れればよいが』

部屋に入ったギール様は神子様のことを案じるような声をかけると、茶会の定位置である神子様の後ろに立つ。たとえ茶会のときでも座ることなく護衛を全うするその姿を見て、神子様は眩しいものを見るかのように目を眇めた。
それから少しして、アルド王子とマルシェ大神官も神子様の私室へと訪れた。お2人は部屋に入って神子様と視線が合うと、眩い笑顔を浮かべて神子様の容姿を褒めちぎった。
それを聞いて神子様は嬉しそうに、そして申し訳なさそうに笑う。お2人の言葉を疑っているわけではないようだけれど、ご自身が嫌悪している容姿を褒められることに抵抗があるのだろう。


お茶会は終始、和やかに進んだ。

いつも通りの流れで、まずは王子様国の現状についても話した後に神子様の現状を話す。
神子様の現状とは言うものの、王子たちは神子様には興味がまるで無いようで、いつも通り神子様の周囲に怪しい人物はいないという報告をギール様が行うだけだ。
神子様はどうやら先ほどのタイミングで公用語を覚えたことを話したかったようだが、機会を逃してヤキモキしているようだった。
焦る心を宥めようとしたのだろう。中でも味わいが素朴でお気に召している茶菓子を口にした瞬間、それは始まった。

「さっきから菓子ばっかり口にして…。ただでさえデブなのにこれ以上肥えるつもりなのでしょうか」
「はは、しょうがないよ。この子は食べることしか興味ない豚女なんだから。ほっときなよ」

(あぁ、やはり…今日も…)

穏やかな微笑を浮かべながら、放たれる罵倒。
言葉が分からなければ、その意味を表情から読み取ることなんてできなかっただろう。
でもいまや彼女はこの国の公用語を理解してしまっている。先ほどの言葉を聴き間違えではないと確信していることも、分かってしまった。

「今朝も男顔負けの餌を食ってたのにな。本当よく食うぜ、この豚。食料も茶菓子も国民の血税だってのによ」

止めを刺すかのように背後から放たれた言葉はギール様の声。
神子様はその声にピクリと小さく肩を震わせて、そして静かに、目を伏せた。
さすがに視線を伏せた彼女の様子に気付いたのだろう。マルシェ様が心配するかのように、彼女の様子を伺う。

『どうかされましたか?神子』

焦がれるような熱を込めつつ、困惑を含めた声音。
こんなにも優しい声を放つ男がつい数刻前に彼女を貶したなんて誰が思うだろうか。
神子様はマルシェ様の声に伏せていた顔を上げる。その顔は、予想に反して穏やかな笑みだった。

『ん?あぁ、いえ…。なにやらマルシェの発言が、聞きなれない言葉のように思えて』
『あぁ、すみません。今のは公務上で使う限られた言語なのですが、思わず口走ってしまいましたか。まだ仕事の感覚が抜けていないようですね』

嘘を付いたマルシェ様に、彼女は偽りと理解していながら「そうなのですか」と笑う。
流れ出した和みの空気に、この場にいる全員の肩の力が抜けるのを感じる。その後、彼らは気が大きくなったようで、ことあるごとに罵声を浴びせ続けたが、彼女は終始、気付いていないかのように振る舞った。



お茶会が終わり、アルド王子方が退室したのち、部屋は静寂に包まれた。
普段であれば、落ち着いたはずの空気は、どこか重苦しい。

「…申し訳ありません、神子様」

絞り出した声は、情けなくも小さく掠れてしまう。
そんな俺を見て、神子様は首を静かに、横に振った。

「いいのよアミュー。…貴方は知っていたから、最初は渋い顔をしていたのでしょう?」

むしろそれを察せなくてごめんね、と謝る彼女は、一体どこまで優しいのか。
どうして俺を責めないのですか。どうして貴女が謝るのですか。どこまで貴女は自分の中に抱え込んで、しょうがないと諦めてしまうのですか。

彼女の優しさは美徳だと思っていた。それを歯がゆいと思う日がくるなんて思いもしなかった。

「…っ…、わたし、…ほんと、、馬鹿だね」
「神子様…」

ぽたっ、と大した音もたてずに、目尻からこぼれた涙が落ちていく。
次から次へと流れ出る雫。
嗚咽もなく、喚くこともなく。ただただ涙を留める機関が壊れたかのように静かに泣く彼女。


「神子って呼ばないで…私は、私の名前は、ユミだよ」
「しかし、神子様の名は伴侶様だけが呼べる仕来たりで…」

「…お願い、呼んで」
「…ユミ様」
「ありがとう…、アミュー」

そんな彼女のあまりにも細やかな願いを、どうして断れる。
誰も責めず、自分が愚かだったのだと嘆く彼女の精一杯の我儘を。

「……私みたいな…――、なんて…。わかって…」

(…っそんな、そんな、こと――)

自分を愛してくれる相手などいるはずがないと俺のことも信じれなくなってしまった彼女を、今度こそ、その心ごと守りたいと強く思った。



それから、彼女は変わってしまった。


よほどショックだったのだろう。食事を毎日の楽しみにしていた彼女が、食べ物を一切受け付けなくなってしまったのだ。
どんなに食べやすいものでも一口で戻してしまい、ふくよかだったユミ様が目に見えて細くなっていってしまうのを見ていたときは、死んでしまうのではないかと恐怖した。

「お願いします、ユミ様…。一口で、一口でもいいのです。どうか食事をとってください。このままでは、貴女が死んでしまいます。…どうか、どうか」
「ごめんなさい…、アミュー。貴方に、迷惑をかけてしまって」
「迷惑だなんて…!そんなことありません。どうか生きることだけを、考えてください…」


食べては戻し、食事で取れない栄養は魔法で補う。そんな状態が半年続いた頃。
ずっと面会謝絶にしていたギール様が痺れを切らしたのか、俺が席を外した間に、彼女が養生している病室へと押し入ったようだ。
どんなことが行われたのか。どんな会話が行われたのか。俺は知らない。
ギール様には簡単にあしらわれ、ユミ様も大まかにしか話してはくれなかった。
ただその日以降、彼女は食事を取れるようになった。

「…私が食事を取れるようになっても、暗い顔のままなのね、アミュー」
「申し訳ありません。…嬉しいのですよ。ユミ様の体調が回復に向かうことが、嬉しいのです。でも、腑に落ちないのです。なにを持って、ギール様が貴女を救ったのか…」

俺の言葉に、彼女は笑う。儚い笑みだ。
強い風が吹けば、消えてしまいそうなほど、脆い笑み。

「救われたのかは、よく分からないけれど。…思い出させてもらったの。私の存在意義を」

食事を取れるようになってからは、彼女は目に見えて元気になった。
きっと同時期に始めたリハビリを兼ねた訓練もあってのことだろう。
肉体を鍛え、魔法を習得し、市井の暮らしについて学び、生きる技を身に着ける。

彼女はどうやら、神子が5年ごとに召喚されるという事実を知ったようだ。次の神子が召喚されてしまえば、ユミ様はお役御免となり、貴族の男性とご結婚させられてしまうこともご存知のようで、その時期がくれば王宮から逃げ出すつもりだと教えてくれた。


「一人で生きていくのは大変だと思うけれど、少しだけワクワクしているの。この世界には冒険者という職業があるのでしょう?昔に読んだファンタジー小説のようね。きっと働いて稼ぐということは社蓄時代のデスクワークと同じ…いえ、それ以上に大変だろうけど。生きてることを実感できるんだと思う」
「俺を連れて行ってはくれないのですか?」
「…え?」

俺の言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。
その反応で、俺が彼女についていくという選択肢は彼女の中にはなかったのだと分かり、胸が苦しくなった。

「…いけませんか?」
「そんなことはないけれど…、正気なの?貴方はここにいれば、幸せに暮らしていけるのよ。私はそうでもなかったけれど、神子様は代々美人が多いのでしょう?私がいなくなれば、今度こそ貴方は美しい神子にお近づきになれるわ」

なんて無邪気に、残酷なことを言うのでしょう。
俺は、貴女が名前を呼んでほしいと静かに泣いたあの日から、貴女のために生きると決めているのに。

彼女が言うことは事実だ。一度でも神子様の従者を務めた俺には爵位が与えられることが決まっているし、次の神子様が召喚されれば、優先的に従者になれることだろう。彼女は初めて会ったときと比べれば華奢といえるほどまで痩せてしまったが、元々の顔立ちもあってか、美しいと表現できるような容姿にはならなかった。
それでも俺は、貴女がいい。
味方だと思っていただろう相手に裏切られていたことを知り、絶望しながらも責めることはせず、そして体型が変わった今も尚、理由を変えて罵倒されても微笑みながら受け止める貴女の底知れない優しさが、狂おしいほどに愛しい。

大の男3人から罵声を浴びせられて、それで普段重圧を背負っている彼らのガス抜きになるのならと甘んじる彼女。その彼女の優しさに、アルド王子方も最近は絆されている。
まぁ、今更彼女の優しさに気付いたところで、罵倒している事実は変わらないのだから渡す気はないが。


「ユミ様…。俺は貴女の傍で、貴女のために生きたい。もしも俺のことが嫌でないのなら、どうかお傍に置いてください…。俺と、共に生きてください」

ユミ様の前に跪き、彼女の小さな手を取り口づければ、途端に彼女の頬に朱がさす。
いまだに男性に慣れない反応を愛らしいと微笑めば、彼女は遠慮がちに、俺の手に触れている彼女の手に力を込めた。




それから2年後。
その頃にはユミ様に惚れ込んだ王子たちの本気の口説きも冗談だと思い込み、のらりくらりとかわしていた彼女は、次の神子様が召喚され、王宮の警備が手薄になる日を脱走の日と決めた。
どうやら彼女が逃げ出そうとしていることに騎士のギール様も気付いていたようだったが、違う日を脱走日と思い込ませたお陰か、本日は新たな神子様の傍にいるようだ。

「アミュー、本当にいいの?私はこれから無一文になるんだけど?」
「構いません。…俺が、ユミ様の傍にいたいだけですから」

私室でこれまで世話になったお礼を公用語で書き残しながら、ユミ様は再度俺に問う。
何度聞かれようと答えを違えないという俺の気概を感じたのだろう。ユミ様は頬を赤くしながら眩しいものを見るように、俺を見つめながら目を眇めると、ふわりと笑む。王子たちの口説き文句はかわす彼女が俺の囁きには期待するように頬を染める姿に、彼女のすべてを手に入れたいという征服欲と、彼女のすべてをそのまま護りたいと思う庇護欲が交錯する。
まるで愛されているのではと勘違いしてしまいそうなほど慈愛に満ちたそれに、思わず胸が高鳴った。


「そう…、じゃあ、行きましょうか」

王宮のすべての人間を出し抜いて、街の人込みへと潜る。
良くも悪くも平凡な俺たちの容姿は人の目を集めることもなく、また、記憶に残ることもなく、難なく人の波へと溶け込んでいく。
ユミ様の目立つ黒い髪は、魔法で緑色へと変えている。
彼女の唯一の特徴も隠し通してしまえば、追っ手に見つかることもないだろう。

「楽しそうですね、ユミ様」
「ふふ、それはアミューもだよね?すごく楽しそう」

王宮の中での儚い笑みとは違う、希望に満ち溢れた溌剌とした笑顔。
見ているこちらが元気をもらうような、無邪気な子供のような明るい表情。
そんな彼女の瞳に移る俺も、年甲斐もなく嬉しそうに笑っている。

「えぇ、そうですね」

あのお茶会の一件でユミ様の中に生まれた人間への不信感は、俺にはすでに薄れている。
きっとこれから先、彼女が深く関わるのも、心を許すのも、俺以外にはいないだろう。
王宮から彼女を逃がしてしまった時点で、彼女の今後は俺のものになったも同然だ。

「彼等を出し抜けたと思うと、結構気分がいいです」
「…?」

俺の発言の意味が分からないのだろう。首をかしげる彼女に、なんでもないと苦笑する。
この優しく愛らしい彼女に出会えたことを、俺は心から神に感謝した。





END

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