ショートショート集

月夜野 星夜

琥珀の博物館

 『琥珀博物館』と名付けられたその建物は、郊外にひっそりと建っていた。


 外側から見ただけなら、どこにでもありそうな、古びた博物館なのだが、中に足を踏み入れた者たちは、きっと皆ひどく驚くことだろう。


 柱も壁も、すべて琥珀で出来ており、中には太古の昆虫や、植物、生物たちが当時の姿のまま閉じ込められているのだ。


 天井には青空の模様が描かれていて、一定時間ごとに太陽と月の照明が移動しては、博物館の中に擬似的な昼と夜とを作り出していた。


 あちこちにシダの葉が生い茂り、珈琲色の土の通路と相まって、まるで太古の森林にタイムスリップしたかのような気分が味わえる。


 さらに、そこを訪れる客たちには、とっておきのサービスが待っている。


 博物館の中央付近は、オープンカフェのスペースとなっており、客たちは琥珀に囲まれながら香り高い珈琲を楽しめるのだが、ここでは一風変わったサービスがあり、ここに来る客のほとんどは、そのサービスが目当てである。


 それは、珈琲を注文した客にだけ手渡されるもので、飴玉ほどの大きさの琥珀で、その琥珀をもらった客たちは、それを珈琲の中に溶かし込んで、まろやかな甘味を楽しむのだ。


 この蜜のような琥珀は、そうとう美味しいらしく、それを溶かした珈琲を口にした客たちは、皆一様にうっとりとした顔をして上を向き、夢見るかのように瞳を閉じたまま、何時間も動かない。


 そんな新聞の広告を見て、好奇心を刺激された僕は、この博物館へと、生まれて初めて足を運んでみたが、なるほど。


 確かに、広告の通り、皆うっとりとした表情のまま、瞳を閉じてピクリともしない。


 そんなに美味しいものなのか……。


 僕は、半信半疑ながらも、珈琲をひとつ注文することにした。


「珈琲をひとつ」
「はい、少々お待ち下さい」


 僕からの注文を受けて、カフェの店員は珈琲を淹れるために、カウンターの奥へと引っ込んだ。


 ふわっと珈琲のこうばしい香りが、辺りに漂い始める。ほどなくして、店員は珈琲カップを手に奥から現れた。


 珈琲を受け取る際に、店員は「サービスです」と、飴玉ほどの琥珀をひとつ手渡してくれた。


 僕は席に着くと、さっそく手渡された琥珀を眺めてみる。


 黄色い色ガラスを覗くように、琥珀を通して周りの景色を覗いてみると、世界のすべてがいびつに歪み、キラキラと蜂蜜色に輝いて見える。


 その美しさにうっとりしながらも、僕は試しにその琥珀をペロリと舐めてみた。


 とても甘い。


 匂いはどうだろうか? クンクンと嗅いでみたものの、特になんの匂いもしなかった。


 珈琲に入れてみようか? 僕は、テーブルの上に置いた珈琲へと視線を落とす。


 湯気が立ち上る珈琲からは、相変わらず良い香りが漂っている。


 そっと、その珈琲の中へと、手にしていた琥珀を入れてみる。


 すると、まるでバターのように、琥珀の外側が崩れて溶け出した。見る見るうちに琥珀は小さくなっていく。


 やがて完全に琥珀が溶けきると、黒茶色だった珈琲は、ミルクを混ぜたかのような、カフェオレ色と化していた。


 恐る恐る口を近づけてみる。温かな湯気が鼻先に当たった。香りに変化はない。


 思いきって、最初のひと口を口に含んでみた。


 その瞬間、脳が蕩けるような甘さと心地良さ、かぐわしい珈琲の香りと、香ばしいコクのある苦味、そして、体がふわりと浮き上がるような高揚感を覚えた。


 意識が研ぎ澄まされていくかのような、頭が冴え渡る感覚。心が心地良さの波に乗って、どこか遠い太古の彼方へと運ばれて行くような……。


 気がつくと、僕は何もない海の底にいた。


 ときおり、どこかで海底火山が活発に動いているような振動と、ゴォ……というくぐもった音が聞こえてくる。


 それ以外には何もない。何もいない紺碧色の海水で満たされた空間があるだけだ。


 僕はそんな空間に、意識体のような存在として、ふわふわと漂っていた。


 やがて、何もないと思っていた海水の中に、ちらほらと小さな何かがうごめき始めた。


 それは、どんどん数を増やしていき、何もなかったはずの空間を、少しずつ埋め尽くしていく。


 その小さいものたちは、数を増やすと同時に、あちこちでお互いに衝突や、合体を繰り返し、徐々に大きくなり、大きくなる過程で、その姿形を変えていった。


 最初は一種類しかいなかったはずの小さなものたちは、今じゃ大小様々な大きさへと進化し、その姿は千差万別だった。


 時代はカンブリア紀に突入したらしかった。


 進化の大爆発。DNAの実験場と化した海……。


 ピカイア、ハルキゲニア、アノマロカリスに、オパビニア。三葉虫に、ウミユリに、ウミシダ……。


 不思議なことに、その生物を目にしただけで、その生物の名前が頭に浮かんでくる。


 目まぐるしいほどのスピードで、どんどん時代は進んでいく。


 オルドビス紀……。


 生き物たちは、より大きくなっていった。固い殻や、ハサミなどを持つことに成功したものもいる。


 チョッカクガイ、カメロケラス、ウミサソリ、アンモナイト……。


 やがて、魚たちが目立って泳ぎ始める。


 シルル紀……。


 あごのない魚、アテレアスピスが生まれた。


 歯のように見える骨を持つ巨大な魚、ダンクルオステウスが、我が物顔で他の小魚たちを脅かしながら悠々と泳ぎ回る。


 海が、魚で満ちあふれる。


 魚でありながら、胎生種のマテルピスキスが出現。


 植物が地上をおおい始めた。


 デボン紀……。


 最古の木、アルカエオプテリスが天に向かって伸びていく。


 ひれを、手足のように使うことのできる魚たちが現れた。


 ユーステノプテロン、ティクタアリク、イクチオステガ……。


 脊椎動物たちが上陸を開始する。


 石炭紀……。


 ヒロノムスなどの爬虫類の登場。


 地球上の酸素濃度が増え、地上は、巨大な昆虫たちの世界となる。


 一方、海ではヘンテコな渦巻き型の歯を持ったサメ、ヘリコプリオンが泳いでいた。


 ペルム紀……。


 哺乳類の遠い祖先である、ディメトロドンや、哺乳類型爬虫類のディイクトドンなどが登場した。


 そして、地球上のすべての大陸がひとつとなった超大陸、パンゲアの出現。


 時代が変わる度に、幾度となく繰り返される大量絶滅と大繁栄。生物たちの命の歴史。


 三畳紀から続く、ジュラ紀、白亜紀の中生代……。


 翼竜や、魚竜などが現れ、爬虫類の多様性で満ちあふれる地球。恐竜たちの時代。


 ステゴサウルスや、マイアサウラ、植物の葉を食べる草食恐竜たちの群れ、それを狙うティラノサウルスなどの肉食恐竜たち。


 やがて、巨大な隕石がやって来て……。


 恐竜たちの大量絶滅の後、生き残った生物たちの繁栄が始まる。


 古第三期、新第三期、第四期と続く、新生代……。


 哺乳類たちの時代。


 海へと戻った、バシロサウルスなどの海生哺乳類。


 森林や、草原を闊歩かっぽする、カリコテリウムなどの大型哺乳類。


 マンモスの誕生。


 自分の周りに展開する映像のスピードが、心なしか速くなってきた。


 まるで、誰かが早送りでもしているかのように、ビュンビュンと時代が進んでいく……。


 南アフリカの森林から、草原へと躍り出た猿たちが見えた。


 その猿たちは、いつの間にか二足歩行をし、手を使い、やがては言葉のような吠え声でコミュニケーションを図り始める。


 落雷による火事で火を手にしたその猿たちは、小規模なグループ毎に文化を継承し、知恵を分け合った。


 猿たちの一団は、徐々に現在の人間のような姿へと変わっていく。体毛が薄くなり、手に石などの武器や、道具を持ち、子どもを背負い、前屈みだった背筋が伸びていき、名付けの概念が生まれ、身の回りのものに名前を付けるようになった。


 その姿が現代人と変わらなくなった頃、彼らは北上を開始した。


 北上しながらも、彼らは分離と合流を繰り返し、アフリカ大陸の隅々に居住地を築いていった。


 やがて、彼らは現在のエジプト付近にまで到達した。しかし、彼らの快進撃は留まることを知らなかった。


 彼らの1部の仲間たちは、あるものはさらに北へと進み、あるものは船で大海原へと漕ぎ出した。


 東西南北、どこだろうとも、進めるところがあれば、彼らはどこへでも向かった。


 どこかの段階で手に入れた、神という概念を宗教として昇華させ、石像を作り、文字を刻み、巨大なピラミッドの巨石を、仲間たちと共に積み上げていく。


 目の前に現れては消える人々の、1人1人の名前や、生い立ち、家族関係、経歴、死因などが浮かんでは消えていく。


 トト、ヘルメス、オンケロス、マネト……。


 ギリシャの大神殿、イギリスのストーンヘンジでの祭り、コロッセウムでの剣闘士の試合、1面の小麦畑、ビールを酌み交わし、パンを頬張る人々、アステカや、マヤの文明、ロシアの針葉樹林地帯、イヌイットの狩り、秦の始皇帝、縄文時代の栗林、ハンニバルの象部隊、ブッダの説法、キリストの誕生……。


 時代を巡るスピードが、どんどん加速していく。


 アラビアの商人たちのキャラバン、モンゴルの大平原での戦い、平安貴族たちの華やかな歌会、バイキング、十字軍の遠征、長く暗い中世ヨーロッパの魔女狩り、羅針盤と火薬の登場、大航海時代、インディアン、科学の夜明け、工業地帯の煙、電話の登場、ライト兄弟の初飛行、大きな戦争、エジソンの発明品……。


 時代は現代へと近づいてくる。


 街中にラジオの音が流れ出し、テレビの映像が喧噪をもたらした。


 歌手たちの歌、芸能人たちのドラマ、オリンピック選手たちの活躍、大阪万博の賑わい、漫画の神様の登場、ゲームや、アニメが子どもたちの娯楽となり、やがては大人たちへと広がっていく。


 ヤンキーたちのバイクの轟音ごうおん、ルーズソックス、コギャル、ヤマンバ……。


 携帯電話ケータイが小型化し、皆がスマホを持ち始めた頃、ネットの海が世界を席巻する。


 すさぶような光の洪水の中、僕は、ある2人の赤ん坊に目が吸い寄せられた。


 その2人の名前は、それぞれ僕の両親と同じ名前だった。幼かった2人は、別々の家庭ですくすくと育ち、ある大学で出会い、恋に落ちて、将来を誓い合った。


 1年後には、初めての子どもをさずかり、そして数年後には、3人目の子どもを授かった。


 3人目の子どもは男の子で、琥珀こはくと名付けられた。


 その子どもは、何不自由なく育てられ、様々な経験を積みつつ大人になっていく。


 あるとき琥珀は、自分と同じ名前を与えられた博物館へと足を運んだ。


 そして……。


 そこまで思い出したとき、僕はハッと目が覚めた。


 閉館のアナウンスが館内に流れている。僕は大きく伸びをして、カップに残っていた珈琲を飲み干すと、席を立った。


 そのまま出口に向かって歩き出す。


 、博物館から外へと出て行く僕の背中を見送った。


 そう、僕は彼の記憶と記録が結晶化した琥珀。


 不思議な博物館の2019年の収集品。2010年代最後の年の、人間という生物の貴重な歴史が詰まった、記憶と記録のコレクション……僕は、そのうちのひとつだ。


 僕はその後、館長たちの手によって、博物館の収蔵庫の棚へと収められた。


 そうして、今日もまた、琥珀に囲まれた博物館の奥で、僕は琥珀色の夢を見続けている。

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