エデン・ガーデン ~終わりのない願い~

七島さなり

未来への約束

 新しく出来た城の謁見の間。


 そこに二人の男女がいた。小柄な女と、背の高い男だった。


 男の方は真新しい玉座に座り、女の方は男に覆い被さっている。


 二人は人気のない部屋で深く口付けを交わしていた。


 しばらくして、小さく吐息を溢しながら女の方、エヴィ・F・エンドレスが唇を離す。


 露になる薄い桃色の唇。彼女の髪から服、肌、その全てが白いせいか、その色がやけに目立った。


 艶っぽい唇を少しだけ噛み締めるようにして、彼女は覆いかぶさっていた男から離れた。


 たった今彼女と口付けを交わしていた相手は固い表情でエヴィを見据えている。


「これで良いのか?」


 玉座に座る男の、滅多に開くことのない唇から言葉が紡がれた。滲む声は低く、威厳に満ちている。


「こんなもので、本当に」


 そんな声で紡がれる言葉の端々から感じられるのは侮蔑にも似た何か。


 エヴィはそれに深くため息をついた。


「重要なの。貴方にはこんなものかもしれないけど……」


「…………」


 何か言いたげに開かれた口は、結局何も発することはなかった。


「……無理を言ってごめんなさい。ただ、貴方以外に適任がいなくて」


 白い少女はもう一度唇を噛み締めると、眉尻を下げて悲しげに呟いた。


「致し方ない」


 玉座に座る男は感情を感じさせない低く淡々とした声で言う。


 しかし、少女は彼が何も思わないわけがないということを知っていた。


 こんな風に言うくらいならはっきり嫌だと断ればよかったのに。そうエヴィは心の中だけでぼやく。


 それが出来ないのは、知っているけれど。


「それで、これで願いは叶うのか?」


 今日の男はいつもより饒舌だった。


 エヴィは問いかけに静かに首を横に振った。


「いいえ。前にも話したの。これはまだ始まりの始まり。下準備なの。貴方の願いを叶えるにはまだだめ。そのためにはわたしのお願いは聞き入れてくれないと……」


「そのことなら構わない。好きなようにすればいい」


「聞き入れてくれるの?」


「ああ」


 男が深く頷いたのを見て、エヴィは僅かに顔を綻ばせた。


「ありがとう」


「断る理由がなかっただけだ」


 しかし、それは冷たい返事によってすぐに悲しげな表情に戻ってしまう。


 しばらく黙っていたエヴィはふと窓の外を仰ぎ「……そろそろ、いくの」と言った。


 僅かに影のある笑みを浮かべ、男に向けて恭しく頭を下げる。


「数々の助力と広い土地の提供、本当に感謝しております。また、この世界の平和に微力ながら協力できたことはわたくしにとってなにものにも変えがたい誇りです」


 エヴィに習い、男も厳かな様子で立ち上がり、一礼をした。


「それは我とて同じこと。貴殿には感謝してもしきれない」


 儀礼的なやり取り。


 ここ数ヵ月の間、共に世界を救おうと努力し、協力しあったとは思えないほど他人行儀なやり取り。それを二、三回続けたあと、エヴィはもう再び丁寧に一礼すると男に背を向けて歩き出した。


 まるで喧嘩別れのよう。何か気のきいた一言でも言えたら良いのに。そう、エヴィは頭の隅で思った。


 しかしそれを言うには彼と居た時間はあまりにも短すぎた。


 数ヶ月という時間では、彼と分かり合うことは出来ない。


 エヴィはとぼとぼと扉の方まで歩いていく。


 扉の前にたどり着くとエヴィは振り返ることなく扉を開けた。


 あっさりとしたお別れだと思いながら部屋を出ようとする。


 その時、部屋の主である男の遠慮がちながらも良く響く声が背中からかけられた。


「僅かな時間を共に生きた同胞ともよ、貴殿の進むべき道に光あれ」


 不器用で遠回しな、彼らしい別れの言葉が。


 まさか、男からそんな言葉を言われるとは思っていなかった。


 エヴィは勢いよく振り返ると驚いたように眼を見開いて男を凝視した。その時には男はすっかり黙りこくっていて、固く閉ざされた口が再び開くことはなかった。


 しばらく無言で見つめ合う。


 やがて諦めたようにエヴィはふっと笑った。男の前で見せた最初で最後の心からの笑顔だ。


「うん。さよなら、エデン。願わくば、貴方の世界が平穏でありますように」


 そしてエヴィは部屋を飛び出した。


 扉が閉まるのを確認して


「なんだ、ちゃんと言えるじゃないの」


 と、また小さく笑う。


 そうして彼女は玄関ホールに向けてただ真っ直ぐな道を歩き出した。


 夜だからか、両脇の柱に掲げられた松明が頼りなく足元を照らす。その薄暗い廊下をただ一人で歩き続ける。


 すると途中、廊下の柱の陰からエヴィをじっと睨み付けている女性と会った。


 足を止めて、その視線を真っ向から受け止める。


「そんなに睨むほど、わたしが嫌い?」


 聞くと、女性は「そうね」と短く答えた。


「そう。わたしはもう少し仲良くしたかったの」


 エヴィは微かに悲しげに微笑みながらそうおどけてみせた。


 すると女性は眉間に皺を寄せて


「ふざけないで」


 と厳しい口調で言った。


「いいじゃない。目障りなわたしは今日をもってここから退散するのだから」


 それにエヴィは呆れたように息を吐く。


 すると女性の鋭い瞳が僅かに見開かれた。


 それを確認して、エヴィは再び歩き出す。女性の前をゆったりとした足取りで通り過ぎる。


「あなたは何がしたかったの? あなたは何も、何もしなかったじゃない!」


 通り過ぎざま、彼女がエヴィにそう言い放った。


 それにエヴィは足を止め、振り返ることはなく悲しげに微笑んだ。


「うん、そうだね」


「っ――……」


 女性がぎりっと歯噛みする音が微かに響く。


 沈黙が下りる。


 エヴィは再び静かに歩き出した。


 後ろから怒声が聞こえた。それでも今度は振り返らない。


「何をしようというの!? 何も出来ないくせに!!」


 代わりにとても小さな声で呟いた。


「私にしかできないことを、しにいくの」


 その声は誰の耳に届くこともなく消えた。誰も聞くことなく消えた。


 それがなんだか悲しくて、エヴィは飄々とした様子で左手を軽く持ち上げてふらふらと振ってみせる。


「じゃ、また会えたら良いね」


 彼女はそれ以上、エヴィに何かを言ってくることはなかった。


 少し俯きがちに長い廊下を抜け、玄関ホールを抜ける。扉を開けると涼しい夜風が頬を撫でた。


 それに顔を上げる。


 外は真っ暗だった。遥か彼方にあるはずの正門すら見えない。


 何も見えない暗闇が目の前に広がっていて、エヴィはそれに少しだけ恐怖を感じた。


 足を前に踏み出すことが怖い。果てのない暗闇に身を投げ出すのが怖い。


(戻るのが――怖い?)


 そう思ったとき


「エヴィ?」


 扉の影から自分の保護者代わりである真っ黒な竜が含みのある笑みを浮かべながら顔を出した。


 それに恐怖が一瞬で霧散する。


 エヴィは無意識に笑みを零した。


 それに竜の青年は少しだけ不思議そうな顔をする。


「もう良いのかい?」


「うん」


 気遣いが滲む声に素直にそう答える。


「エデンはなんて?」


「良いって」


 エヴィはそう言いながら外へ出ると、扉を完全に閉めた。


 暗闇が周りを支配する。


 しかし、先ほどの恐怖は微塵もなかった。


「暗いなあ」


 そんな声がして、目の前に黄色の火の玉が生まれる。青年の顔がぼんやりと照らし出された。


「じゃあ、僕が下調べをしていたところに連れて行くよ?」


 青年はそう言いながら六個ほど火の玉を空中に浮かべた。


「うん」


 それを少しだけ楽しそうに眺めながら頷く。


 青年は数える程しかない階段を下りると「こっち」と言って軽く手招きをした。


 それに招かれるまま、エヴィも階段を下りる。


 エヴィが降りるのを確認して、青年はゆっくりとした足取りで歩き始めた。


 足元と目の前を照らし出すように火の玉が二人の周りを浮遊する。


「石畳に躓かないよう気をつけなよ、エヴィ。それと石畳を抜けても油断しちゃあいけない。芝生が茂っているとはいえ、この森の土はまだ少し柔らかい。油断すると足を取られるよ。君は思ったよりも鈍くて間抜けなところがあるのだから」


 ふとおどけた口調で青年が言った。


「失礼なのっ」


 それにエヴィは拗ねたように唇を尖らせた。


「事実だろう。時には認めることも大事だよ」


 しかし青年に悪びれた様子はない。


 エヴィは頬をむーっと膨らませると、そのままそっぽを向いて黙った。


「また拗ねる」


 楽しそうに言った声にエヴィは答えない。


 すると自然と二人の間に沈黙が訪れた。


 無言で、舗装されていない森の中の道を歩く。自分が先に黙ったというのに、エヴィは思わず感傷的な気持ちになった。


 本当はもっと話さなければならないことがあるはずなのだ。


「……あなたは、いつまでそうしてるの?」


 ふと小さく呟く。


「いつまでも。こうする必要がなくなるまで」


 すると彼は先ほどとは違う、感情の感じられない淡々とした声で言った。


「そう」


 それに小さく頷き、微かに笑う。


「ならがんばらないとね」


 そういうと同時に保護者代わりの青年が足を止める。どうやら目的の場所に着いたようだ。


「……ああ」


 青年の手が差し出され、エヴィはその手を取った。そして青年に向けて微笑む。すると青年も陰鬱な表情にひっそりと淡い微笑を浮かべた。


「あなたがいる限り、失敗はないと思うの。でもね、絶対、絶対成功させるから」


 エヴィは力強くそう言った。


 青年は一瞬だけ眼を細めて、それから穏やかにくすりと笑って肩を竦める。


「別に、僕は君が失敗するなんて端から思ってないけど」


 そして繋いだ手をすっと引き寄せ、エヴィのことを優しく労わるように抱きしめた。


「僕はいつでも待っているよ。君達・・の帰りを」


 まるで父親が我が子を愛でるかのように、青年はそっとエヴィの頭を撫でた。


 それにエヴィは笑う。


 それはひどく懐かしい感覚だった。


「うん。いってきます、ロエル」


 エヴィは泣きそうになるのをこらえながら青年を軽く抱き返すと、ゆっくりと離れた。


「いってらっしゃい」


 青年はそう言って、それ以上近付いてくることはなかった。


 もう別れは済んだのだから当然か、とエヴィは笑った。


 振り返る。そこには城壁があった。城壁には白い紋様が描かれている。


 エヴィはそれにそっと触れた。


 小さく息を吸い、吐く。


 そして少女は唄い始めた。


「ねむりにつく 世界のために」


 唄いながら、彼女はただ願う。


 自分の居ない世界が平和でありますように、と。




 そして、エヴィ・F・エンドレスは世界から姿を消した。

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