エデン・ガーデン ~終わりのない願い~

七島さなり

目覚める少女

 馴れた足取りで窓枠に足を掛け、王子、ティエル・エデンは外に飛び出した。


 それと同時に風が吹いて、少し長い茶髪を揺らす。翡翠色の瞳はまるで子どものように輝いていた。


 芝生が茂る地面に柔らかく着地する。


 うまく衝撃が逃れたのか、いつものような足の痛みは何時まで経っても襲ってこない。彼は無事着地できたことに小さくほっと息を吐いた。


 窮屈な『勉強部屋』からの逃走はティエルが幼少の頃からの日課だ。それでも、やはり地上四階からの大ジャンプには度胸がいる。


 ティエルは自分が先ほどまで居た勉強部屋を仰ぎ見た。誰かが逃走の瞬間を見ていた様子はない。


 それに誰も居ないのにふふんと誇らしげに笑って見せる。


「さて今日はどこに行くかな」


 すっかり上機嫌なティエルは弾んだ声でそう呟いた。顔に浮かぶのは悪戯を楽しむ子どものような笑顔。


 そうして忙しなく辺りを見渡したティエルは近場の木に身を隠した。


 大陸の真上に浮かぶ『エデン城』は周りを大量の樹木に囲われている。要は小規模な森になっているのだ。そのおかげで外は身を隠しやすい。


 木の陰に身を潜めながら辺りの様子を伺う。


 ちなみにティエルが今いるのは城の裏手側だ。木々のおかげで侵入者が少ない上に、そもそも上空何千メートルに浮かぶ城に侵入しようなどという者は滅多に居ないため、裏手は警備が異常に薄い。


 ティエルはしばらく忙しなく辺りを警戒した後、もうここには誰も居ないと断定して木々の中を正門に向けて移動し始めた。


 森の中に熱のない日差しが差し込む。ティエルは眩しさに目を細めながらも移動を続けた。


 ある程度、移動するたびに辺りを見渡す。しかし警備が居る様子はまるでなかった。


 思わず苦笑いを浮かべる。


「……まあ、これくらい警備がすっかすかだと逃げ出す側としてはありがたいけど、いくらなんでも薄すぎじゃないか?」


 少しだけ大きな声でそう呟いてみた。


 誰かが反応した様子はない。どうやら近くに誰も居ないようだ。


「駄目だ、こりゃ」


 ティエルはやれやれと溜息を吐いた。


「えっと、今の状況ならこっちまで警備をどうにか回せるか……?」


 そしてふとそんなことを思う。思うと同時に警備について考えようとする。


「でも今は今日の行く場所を決めないとな」


 しかしそれはすぐにやめた。やめて、今日の目的地について考える。


「まだ城の中で見てないところがあるしそこに行くのもいいな。でも下に降りるっていうのも捨て難い」


 ティエルはいつも部屋を抜け出しては城の中を探検したり、城下町に行って探索をしたりしている。


 だから今日の目的地もそのどちらかだ。


「今日は訓練もあるし、そういや、あれもあったな……。じゃあやっぱり中か? いや、でも鍛冶屋のオジサンとこに行きたいし……」


 ぶつぶつぶつぶつと呟きながら、ティエルは歩を進めていく。


 周りを警戒するのはもう無意味だとわかったのでしない。


 そうして周りになど目もくれず、城壁伝いに歩き続ける。


 その独り言が、一心不乱に正門へ向かっていた足が不意に止まった。


 顔を上げ、首を傾げる。


「ん?」


 見慣れないものがそこにあった。


 城壁を凝視しながら、それに近づいていく。


 それは見たこともない紋様だった。


 白い何かで描かれた、円の中に言葉らしきものと三角形をいくつか重ね合わせたような図形。それは本で読んだことのある魔法陣によく似ていた。


 ティエルは好奇心が旺盛なせいか、それにあっという間に近づくと


「んー?」


 としばらくその前で立ち尽くした。


「今までなかった、よな……?」


 小さくそう呟く。


 そうして昨日、ここを通ったときのことを思い出してみる。しかし、記憶が曖昧でうまく思い出せない。


 仕方なく自分が思い起こせる限りの記憶を思い起こして考えてみる。やはり記憶の中にこの謎の図形と合致するものを見つけ出すことは出来なかった。


 というか、この道を通ったときのことを思い出すことが出来なかった。


 じっと顔を近づけ、それをまじまじと観察する。


「石灰か?」


 それらしい何かで壁に描かれている。はずなのだが、ティエルは妙な違和感を覚えた。


 これはなんだろう、そう思ってじっとそれを見つめる。


 しかしそうしていても答えは出なかった。得体の知れないものはやはり得体の知れないもののままだ。


「よし」


 というわけで、結局それがなんなのかわからなかったティエルはそれに触れてみた。


 両手で、べったりと、しっかりと。


 すると触れた途端、紋様が白く淡い光を放ち始めた。


「は!?」


 思わず間抜けな声を上げる。


 咄嗟に壁から手を離そうとする。しかし、離す前に手が壁を突き抜けた。


 突然支えがなくなったことにより前のめりに倒れる。何が起こったかわからないままティエルは頭から落下した。


 地面にぶつかる前になんとか受身をとる。


 そのため顔を地面にぶつけることは防げたが勢いを殺せないまま体を強かに打ちつけた。


「っぐ――」


 小さく呻く。


 そのまま声もなく痛みに悶えること数秒。ようやく「って……」とだけ搾り出した。


「なんだってんだ……」


 自然とそんな呟きが漏れる。


 痛む体を何とか両手で持ち上げる。動かすたびにぎしぎしと体の節々が痛み、悲鳴を上げた。口から出そうになる悲鳴をかみ殺す。ティエルは歯を食いしばってようやく体を起こすとその場に座り込んだ。


 はあ、と息を吐いて顔を上げる。


 そして声を失った。


 驚きで痛みが吹き飛ぶ。同時に前を向いたまま固まってしまう。


 なぜなら、目の前に黒い少女が居たから。


 真っ黒な髪に真っ黒なドレス、そして白い肌によく似合う真っ黒なドレスグローブ。胸の前で祈るように手を組み、瞳を硬く閉じた少女。閉じた口は呼吸をしているのかもわからない。


「え?」


 ティエルは茫然とした様子で呟く。


「なんで、」こんなところに。


 そう言いかけて、ティエルはようやく周囲を見渡した。


 そこは鈍い灰色の壁と床しかない四角い部屋の中だった。天井に吊るされたランタンが部屋を薄暗く照らし出す。床には城壁にあったものとよく似た紋様が描かれていた。紋様は淡く白い光を放っている。


 完全な密閉空間。入口もなければ出口もない。ましてや窓のようなものもない。


 こんなにも息が詰まりそうな部屋なのに、部屋を満たす空気は異常なまでに澄んでいて居心地がいい。


 ティエルは周りを見渡した後、視線を少女に戻し、


「なんでこんなところに……」


 と改めて呟いた。


 そして好奇心に従っておそるおそる少女に近づき、口の前に手をやった。


 ほとんど動いていない口から、小さく吐き出されているらしい呼気が手に当たった。


「生きては、いるみたいだな……」


 小さくそう呟き、少女から離れる。


 ティエルは少女と向かい合うように胡坐をかいて座り込むと、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。


 状況がまるで掴めなかった。


 その上、これから先どうしたら良いのかわからない。


 部屋には入口も出口もない。つまり出方がわからない。


 そもそもどうやって入ったのかもわからない。


「なんなんだ、ここ」


 もともと独り言の多いティエルは不安と焦りのせいか、いつも以上に多く独り言を呟き続けていた。


「ここが何なのかわからないし、なんでこんなところに女の子がいるのかもわからないし、どうやってここから出るのかもわからない。一体どうすりゃ良いんだ」


 ぶつぶつぶつぶつと一人、腕を組んで呟き続ける。


 ひとまず状況を整理してみようとティエルは左手を口元に添えた。


 険しい表情を浮かべ、たった今起きた事を考える。


 部屋を抜け出した。森の中を歩いた。城壁に変な紋様を見つけた。触ったら突き抜けた。割と高いところから落ちた。怪我はない。謎の部屋を発見。そこで謎の女の子を発見。床には壁にあったものと似ている紋様。


 とそこまで考えて、ティエルはあることを思いついた。


「もしかして床のこれに触れば戻れるんじゃないか!?」


 思いついたら早い。すぐに組んでいた腕を解くと、ティエルは迷わず地面の紋様に触れた。


 そうして数秒待ってみる。


 何も起こらない。


 もう少しだけ待ってみる


 やはり何も起こらない。


「なんでだよ!」


 ティエルは思い切り叫んだ。そうしてイライラとした様子で何度も何度も床を叩く。ぱしぱしと、ぽんぽんと。


 それはまるで寝ている人を起こすような仕草だった。


「なんでも良いから起きろよ!」


 もう一度だけ、そう叫ぶ。


 すると、


「ん……」


 なんの前触れもなく、どこからか人の声がした。


 驚いて、ティエルは体を一瞬だけ強張らせる。


 しかし、すぐに目の前の少女の方に目を向けた。


「んぅ……?」


 聞こえるか聞こえないか程度の呼吸しかしていなかった少女の小さな口からはっきりと吐息が漏れた。


 それから瞳がゆっくりと開く。


「…………」


 しばらく胡乱な目が地面を見つめ、黒い姿と同じ真っ黒な瞳がゆっくりとティエルの方へと向けられた。


「だれ……?」


 ひどく寝ぼけた可愛らしい声が言う。


 ティエルは何も言えなかった。


「んー……」


 少女は小さく伸びをする。


 そして


「まあ、良いか……」


 と呟くと、黒いドレスグローブに覆われた手をするすると力なく伸ばしてきて、ティエルの頬を優しく包んだ。


「え、な……?」


 ティエルは素っ頓狂な声を上げて少女を見る。


 少女は微笑を浮かべると、ティエルを引き寄せて深くキスをした。

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