何も変わっておりません、今も昔も。
05
透き通った綺麗な水が人型を形作る。
ウェーブがかった髪ですらまるで本物の髪のように波打ち、水という透明な色しかないはずの体は薄暗い谷の底にあっても尚、光を集めて時折虹色に輝いていた。
「―――ウンディーネ。来てくれたのね」
突然の出来事で呆けていたが真先に我に返ったのはエリーゼだった。
微笑みを浮かべて、来訪に感謝をすればウンディーネは上流貴族にも劣らない優雅さを持ってお辞儀を返した。
『我が父王との旅路に横入りしてしまったこと、お詫び申し上げます。不肖ながら兄姉よりも先に祝いをさせて頂きたく参上いたしました次第です。アルテミシア様。此度の帰還、心よりお祝い申し上げます』
『……何故待たなかった』
疑問符のつかない問いかけはセルジェからウンディーネへ向けられ、そこには明らかな批判と苛立ちが混ざっていた。
エリーゼの帰還は精霊王だけでなく、上位精霊から下位精霊、その上四大龍までもが待ち望んだ事だ。故に、帰還した際の順序も決められているのだ。それは精霊王、四大龍の同意の下に決められた盟約でもあり、破ってはならぬ掟でもあるのだ。
そのことは当時、精霊王直々に全精霊に命が下されていた。四大龍は古から存在する古龍であり、その寿命こそ精霊王には及ばないものの、存在は対等とされている。だからこそ盟約は締結され、互いの存在を認め合い世界の理を巡らせてきた。
人が存在する世で生きる者と人が存在しない外で生きる者。相容れないはずの存在が対等にやって来れたのは互いが互いの理を理解し尊重してきたからなのだ。
だが、ここでかつて交わした盟約を上位精霊が順序を外し、破ってしまった。
その上、ウンディーネが口にしたのはアルテミシアの名だ。
下位精霊にしか言っていなかったとはいえ、あの場には水の精霊もいた。上位精霊は自らの下位精霊と等しく通じており、知らなかったでは済まされない。それが出来ない者に上位精霊である必要はないのだ。
そもそもウンディーネは見た目や仕草こそ淑女然としてはいるが上位精霊の中で最も若く、先に生まれた火・風・土・空の上位精霊たちに甘やかされて育った。怒られることもなく、我儘を許容され好き勝手しても兄や姉たちが後始末をし、面倒を見てきたため致命的な問題は起こらず、今までやってきてしまった。
故に、怒りという感情を向けられたことがなかった。今まで通り、自分のやりたいことをやった。その結果、四大龍と精霊王が交わした盟約を破り、父王の怒りを買ったのだ。
『先ほども申し上げた通り、兄姉たちよりも先にお祝いを申し上げに、』
『私はそれを許した覚えはない』
冷たく言い放つセルジェにウンディーネは首を傾げる。
『……それは何故でしょうか?』
『それが解らないのであれば、尚更だ。……お前は水を愛し者に相応しくないようだな』
何故、と問うてもセルジェは答えない。
盟約を交わした直後に五大精霊たちにはきっちりと伝え、理解させたつもりだった。
古龍と原始の王が交わした盟約はだたの盟約ではない。
魂の契約と呼ばれ、遵守しなければならない掟となるのだ。破った者にはそれ相応の処罰を下さねばならないほど重く見られるものなのである。
そのことを、知らなかったとは言わせない。これは精霊王に連なる全てのモノが知らねばならないことであり、知っていなければいけないことなのだ。
『自ら願い請うて来たが故に任せていたのが失敗であったか』
セルジェは冷めた瞳でウンディーネを見下ろす。エリーゼを視界に収めていた時には見られない冷酷な、王としての瞳だ。
そんな瞳を向けられて尚、ウンディーネは気付かない。
彼女の兄姉たちが甘やかしてきたせいでもあるが、やはり一番の原因は本人の気質、元々の性格だろう。
『何故ですか!人間であるそんな娘より私の方が、』
不意にウンディーネの言葉が途切れる。
身に降りかかる重圧は、父王セルジェと風龍アンから発せられたものだ。
『“私の方が”、なんだ?』
『君さぁ、ボクたちの主を馬鹿にしてるの?』
身を刺すような鋭い二つの視線に射抜かれたウンディーネはそれでも言葉を紡ごうとするが、その視線がそれを許さない。
―――彼女は正しく踏んではならない【龍の尾を踏んだ】のだ。
「セルジェ様、アン!どうかそれ以上は……!」
『エリーゼ。これは精霊王と龍の領域だ。人間のお前が踏み込むことはまだ許されない』
精霊と人との線引き、そして明確な拒絶だった。
短い生を謳歌するヒトと、長き生を享受する精霊。生きる世界が違うのだと、言外に告げていた。
『魂の契約は守らねばならない。それはアルテミシアにも言っただろう』
前世で語られた魂の契約については当然エリーゼも覚えている。
魂の契約を交わす際の契約の重さも、破った時の代償も、それぞれが簡単に支払えるものではないということも。
そこに人間であるエリーゼが入り込む余地は、無い。
『主様、ボクらはね、君が戻って来るのをずっと、ずぅーっと待ってたんだ。それは先に会った土の爺様もそうだと思う。勿論これから会いに行く水の姉様や火と空の兄様もそう、楽しみで楽しみで、待ち遠しかったの。君に逢うためならボクらはどんなことだってする。それくらい、ボクらは君が好きなんだよ』
アンはそこで一度言葉を切り、言いにくそうにしながら再度口を開いた。
『でも君はまた人間に生まれてしまった。経験を積んで修練していた前世のアルテミシアならともかく聖女の力を持っているただの人間にボクら全員の愛は耐えられない。いくらその魂が精霊王の寵愛を一身に受け、四大龍の加護を持っていようと、魂は耐えられても器の方が耐えられないんだ。だから、ボクらは順番を決めた。本当なら順番なんて決めずに、戻ってきた君を一番に出迎えたかったんだよ。でも、それが出来ないから、出来ないと分かっていたから、魂の契約で会う順番を決めたんだ』
「私の、ため……」
『まぁ、建前としてはボクらが愛する“主様のため”だけど、本音を言ってしまえばね。自分たちのためなんだよ。ボクらは君に……主様がただ幸せであることを願ってるだけなんだ。主様には笑っていて欲しい、幸せになって欲しい。そこにほんの少し自分たちの欲を付け加えるなら、君が思い描く幸せの風景の中にボクらがいたらいいなって思うんだ』
そう言ったアンはエリーゼを見て優しげに微笑んだ。
『ボクらは君のことが大切だから魂の契約を結んだ。この契約を蔑ろにするということはボクらと精霊王が君を大切にしないのと同義なんだ。だから破った者には相応の処罰を課さなければいけないんだよ。そうしないとボクらは堕ちてしまうから』
エリーゼはアンにそう言われて仕方のないことだと理解する。次いで、そっとセルジェへと視線を移して尋ねた。
「代償を払っても彼女は無事でいられますか……?」
『それはウンディーネ次第であろうな。分かっているだろう?ウンディーネ』
『何故、何故なのですか!!私は水を愛し者です!兄も姉も皆が私が一番だと言っていました!なれば、精霊王様の寵愛を受けるのは水を愛し者でなければおかしいではないですか!!』
はらはらと大粒の涙を零しながら叫ぶ彼女はただ子供のような理屈で叫ぶ。
事情を知らぬ者が見れば、間違いなく彼女の味方をするだろうがここにそんな者はいない。もし、いたとしても精霊王たる彼がいる時点で全ての精霊は彼につく。
『もう良い。……火を愛し者、風を愛し者』
冷酷さを滲ませた声色でセルジェは水を愛し者が兄姉と呼ぶ上位精霊の名を口にする。
ウンディーネの両脇にそれぞれ炎と風が渦巻き、それらがウンディーネが現れた時と同じように人の形を形作っていく。
火を愛し者は上半身に胸当てを付けた短髪の美丈夫となり。
風を愛し者は長髪を後ろで緩く結び柔和な顔つきの優男風となって。
『お兄様、兄上!』
二人が現れ、ウンディーネは味方が増えたと喜びをあらわにしているが、当の二人は精霊王の視線を受けて、そしてその隣にいるエリーゼの姿を認めるや否や、妹のしでかしたことを理解して二人は地に頭を付けて伏した。
『我が父王よ。此度の水を愛し者の不始末、誠に申し訳ありませぬ』
『私達が末の妹だから、と甘えさせるばかりで戒めなかったこと、伏してお詫び申し上げます』
『魂の契約はお前達の詫びでどうにかなるほど易しいものでは無いことを理解しているだろうな?』
『はい』
『十二分に』
『ではこれが水を穢し者に堕ちる前に浄化せよ』
一方、ウンディーネは何故この状況になっているのかまだ理解出来ていなかった。
兄達は私が一番だと言った、いつだって我儘を許容してくれた。
今までだって不始末は許されてきたのに。
困惑を隠せず、ウンディーネは視線をさまよわせる。
ふと、視界に入ったのは精霊王の寵愛を受けた人間。
今まで自分に優しい人や空間しか知らなかった彼女には自らの胸の内に燃え上がるどす黒い感情がどういうものか理解していない。
それは本来ならば精霊が持ってはならない感情。
―――嫉妬、憎悪。
それは透き通っていたウンディーネの体を濁らせた。
全身に行き渡ろうとするその澱みはウンディーネの感情を糧に更に増殖する。
『ウンディーネ!』
それに気付いたシルフが止めようと名を呼ぶが、澱みは増していくばかり。
『―――何故?その女がいなければ私は、私が!!』
その言葉の続きが紡がれることはなく、精霊王の魔法によって水を愛し者は消滅していた。
『……火を愛し者、風を愛し者。かつてお前達は水を愛し者が生まれた際、私に言ったな?"自分らが必ず相応しき者へと導く"と。その結果がアレだ』
セルジェの言葉に悲痛な表情を浮かべて何かを堪えているようだった。
妹への、優しさだと思ってやっていたことが水を穢し者へと堕としてしまうなど
精霊王は基本的に自らに連なる精霊たちには寛容だ。
だが、それは理を、摂理を守っているからだ。
破る精霊にはそれ相応の対応をしてきたし、それは今までもこれからも変わらない。
けれどそんな中で精霊王の行動源たる摂理から外れた唯一の例外。
それは寵愛する娘だった。
そしてその唯一の例外はアルテミシアの生まれ変わり、エリーゼにも適用される。
愛する者を害を成そうとし、あまつさえ水を穢し者に身を堕とした者に容赦などするわけがなかった。
『魂の契約の代償は存在の消滅で賄おう。だが、水を愛し者を堕落させた責はお前達含め土を愛し者にも負ってもらう。追って沙汰は下す、下がれ』
『承知致しました』
『御意』
二人は返事をして再び転移魔法でこの場を去って行った。
静まり返るその場で、エリーゼはセルジェを見つめる。こちらを決して見ようとしないセルジェの背中にそっと寄り添う。
『……エリーゼ。すまない、怖い思いをさせてしまったな』
「いいえ。……いいえ」
こちらを見ずに謝るセルジェは水を愛し者について何か言うこともなかった。
精霊王たるセルジェにはエリーゼが想像も出来ないほどの責任があるのだろう。
それは先の一件にも言えることで。
人間である自分が共に背負うことはまだ出来ないけれど、解放されることをセルジェは望んでいないのだろうけれど。
どうか彼が出来るだけ苦しまずに済むように、そう祈ることしか出来なかった。
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