マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-156【海の只中に至るまで-陸】

 甲板から階段を降りると、四十平米ほどの客員用デッキが広がっていた。しかし、この船はそもそもが交易船として利用される船だ。客員用デッキとはいえ、奥側は天井まで敷き詰められた貨物で一杯となっている。その手前に木造の簡素なベッドが間隔を開けて四つ設けられていた。そこにはアクセルが未だ目覚めず、静かに眠っている。

 エレインはウルリカをベッドの一つに腰掛けさせる。呼吸が浅い、息をするのも苦痛を伴うのだろう。彼女のための痛み止め薬を懐から取り出し、ぶどう酒の入ったスキットルを手渡す。対症療法とはいえ、痛みがあるとないとでは勝手が全く違う。

 ぶどう酒に口をつけて喉を潤すと、ウルリカは深く息を吐いた。胸中にざわめいていた感情が腑に落ちたか、脳裏はゆっくりと沈静していく。

「……ありがと、だいぶ落ち着いたわ」

「どういたしまして。……ウルリカは、もう全部分かっているんだよね?」

「あたし自身の目的はね。でも……あんた達がメルランから託された情報ほどじゃないわ。勇者の身でありながら、勇者のことについて知らないことが山積してる。もうここまで来たんなら、全部話してくれるわよね?」

「……うん、もう後戻りはできないから。僕も覚悟はできてるよ、みんなと運命を共にするって」

 エレインの真に迫る言葉に、ウルリカは首を横に振って、呆れたふうに溜息を吐く。

「全く、だから馬鹿って言ってんのよ。いいこと? 見届け人まで死んじゃう決闘がどこにあるってのよ。戦いに決着をつけるのが生死を問わないってんなら、それを見届ける人間は生きて後世に伝えなきゃなんないでしょ? あんたの役目は後者だって言ってんのよ」

「見届け人……僕が後の世に、勇者の伝説を……?」

「ええ、そうよ。勇者が神を滅ぼすってんなら、神が息を吹き返さないよう封をするまでが勇者の役目ってことよ。神が紡いだヒトの歴史に終止符を打つってんなら、ヒトが紡いだ神の歴史で塗り潰してあげるのが筋ってもんでしょ」

「……そっか、それが――」

 ――咒術。それは概念を現象する魔法、その正しき在り方。ヒトが持ち得る唯一の、不滅の神を滅ぼす手段。神が神話のように、歴史のように、法則のように立ち回るなら、その一切を否定する手段が咒術なのだ。

「詳しいことはアクセルが起きてからにするわ。でも、これだけは覚えておいて頂戴。あんたはどんなことがあってもあたし達の傍にあって、どんなことがあっても死ぬんじゃないわよ。それが勇者一行の一人としてあんたに託される最後の役目、いいこと?」

「……うん、分かった。ありがとう、ウルリカ。僕もここにいていいんだ……」

「あんたはいつまで経っても頭堅いまんまね。言ってんでしょ? 自分のできそうなことをただやればいいのって。あたし達や世間の顔色なんてどうでもいいじゃない。んなことに一々気を取られてたら日が暮れて人類仲良く滅亡よ? 今このときの自分に集中なさい」

「今このときの、自分……他人ひとの介在しない、自分……」

「いいのよ、他人ひとの厄介になったって。その分、返せばいいんだから。意見や思想だってぶつかっていい、ちゃんと相手の理屈にも耳を貸せばね。未来なんて誰にも分からないの、世界を思い通りの姿に変えることなんて勇者にもできない。でも、こう在りたいって自分を描くことはできるわ。あんたは目に見えない衆目なんかに怯えるエレインさんがお好みかしら? あたしはそれでも良いわよ、端から見てて面白いから」

 そうだ、そんな自分と決別するために、姉と刃を交わしたのではなかったか。その覚悟を胸に抱いて人魔大戦に臨み、そして勇者が目的を果たすための架け橋となることを買って出たのではなかったか。

「…………」

 そうだ、己はいつでも全力だった。油断したわけでも、手を抜いたわけでもないじゃないか。自己の最善手を尽くしたはずじゃないか。

「でも、あんたは違うでしょ? あんた自身のことなんだから、良いわけないわよね。ええ、自らの意志のままに生きるエレインでありたいんでしょ? なら、今からなさい。それができるのは他の誰でもない、自分だけなんだから」

 嗚呼、そうか。自分の理想とする自分が離れていくのを感じていたのは、そういう絡繰からくりだったか。理想像を描きさえすれば、勝手に向こうから近づいてくるものだと錯覚していた。違う、理想とは指標なのだ。自らの足で歩み寄らなければ近づけぬものなのだ。

「……ホント、ぐうの音も出ないなぁ……その通りだよ、ウルリカ。僕は理想を描くばかりで、近づこうとしていなかった。何から何まで、面目ないよ」

 そう言ってエレインはウルリカに頭を下げる。その表情はほころんでいた。頭を掻きながら困ったように微笑むその顔は、いつもの彼女だった。

「それでいいのよ。大人になればなるほどね、思考の贅肉が付き過ぎてくんの。馬鹿になりなさい、今このときを一番大切にする馬鹿にね」

 ウルリカの論理が全てではないのだろう。人それぞれ向き不向きの別れる考え方だろう。だが少なくとも、エレインには響くものがあった。彼女の煮え切らないコンプレックスを的確に捉えた煽り言葉だった。

 その後しばらくして、ウルリカは床に就いた。彼女の身体は未だ痛ましい傷を残している。本来ならば、何をおいても臥していなければならない容体。だが、彼女には彼女の哲学があった。それは、心の在り方こそがこの世の在り方、という考えだ。もしもエレインがこのまま後ろ向きな気持ちのまま勇者の功業を続けていたとしたら、少なくとも彼女にとっては決して納得のいく旅路とはならなかっただろう。釈然としない気持ちのまま、ただ出来事だけが目まぐるしく過ぎ去ったとして、どうして自他を受け入れられようか。そう、ウルリカは何をおいても、己が哲学を優先したのだ。他人ひとのため、己のために。

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