マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~
Log-142【神に最も近づいた愛-壱】
メルランの声色は、冷徹なものだった。まるで、死期を悟った人間のような、無闇矢鱈と悲観するわけでも、微かな希望にも縋ろうとするわけでもない、諦観した者の声だ。
「この私達に、離脱しろと……?」
嗚呼、そうか。ウルリカが翁に一々苛立つ理由が分かった。この男は、物事の解しか見えていないのだ。過程に一切の執着はなく、成果にのみ意義を見出す人間。人間味の何たるかを理解しつつも、人間らしさに足を掬われることは決してない超人。そう、根源的に彼は、合理の怪物なのだ。その人間性は、今やかつての暴君ボブロフと何ら変わりない。ただあの男と比べて、あらゆる知識と遍く機転に一角の見識を有しているだけだ。
「……翁よ、侮っておられるのですか? 無礼千万、甚だしい。私達の勝利目標は、時間を稼ぐこと。巨神の殲滅が目的なのではなく、来たるべき連盟軍にバトンを渡すこと。都に一歩たりとも敵を踏み込ませず、セプテムを防衛すること。それこそが私達の使命――部隊の存亡に関わらず、でございます。その程度、果たせぬ私達ではございませんわ」
イングリッドは分かっていた。その反論、その反抗もまた、メルランの筋書き通りに過ぎないと。理解した上で、その口車に乗ったのだ。結果的にそれは、連盟部隊に決死の覚悟を決めさせる鍵となる。不愉快ではあるが、この状況下では確かに合理的な手段だった。
「……では、儂らも魔砲の再装填を継続する。市民の命、国家の存亡、お主らに預けたぞ」
全く以てつかみ所のない、狂言回しのような男だ。イングリッドは呆れたように一つ息を吐いて、巨神がそびえ立つ雪原に目を遣る。その直後、彼女は目を見開いた。先ほど決めたばかりの覚悟が。揺らぎそうになる光景が映る。
「駄目よ、逃げ――」
イングリッドの声は、届くはずもなく……それは執行された。
*
無貌なる肉を纏った巨神が眼前に現れてもなお、アクセルとルイーサは一直線にウルリカの救出へと向かっていた。異形の姿となった神への畏怖はある、理解不能の事態に対する焦燥もある。しかし二人は、ウルリカを救えぬ恐怖の方が勝っていた。
「ルイーサ様! ウルリカが見えました!」
「分かっている、お前がウルリカ様を捉えろ! 私は警護に徹する!」
夕闇に染まる雪原を疾走する二人。もはや鉄塊の飛来はなく、重く響き渡る慟哭が彼らの緊張を煽るのみ。異形の神が何をしでかすか予想もできないが、直近の脅威はなく。
「――ッ! まずい!」
しかしそこに、天蓋の叢雲をことごとく吹き飛ばす巨神の咆哮が轟く。その影響で、ウルリカの軌道が逸れた。上空に吹き荒ぶ強風と相まって、彼女の落下地点が定まらない。アクセルは落下範囲におおよその目星をつける、あとは直感と天運に任せるほかない。
「ウルリカ様は前方だ! 走れアクセル!」
「了解ッ!」
だが、ウルリカは強風に随分と運ばれてしまい、アクセルの予想よりもさらに向かい側へと落ちていく。彼は即座に踵を返し、全力疾走で向かうも、背筋には冷たいものが走る。このままでは、間に合わない。
「――アクセルッ! 歯を食い縛りなさいッ!」
ルイーサの喚呼が背後に響き渡る。その直後、アクセルは背中が焼けるような熱と、切り裂けるような痛みを感じるとともに、突如として身体が宙を舞い、帆が順風を受けたかのように急加速した。彼は直感する、ルイーサは自分に向かって榴弾を発砲したのだ。後方を一瞥すると、地面が抉れて煙が立っていた。直撃ではないにせよ、至近距離で榴弾を何発も炸裂させたのだ。一歩違えればアクセルの方が死にかねない無茶苦茶な手段ではあったが、その飛翔は確かに――ウルリカに届いた。
「ウルリカァァァァァッ!!!」
ウルリカを全身で受け止めるため、アクセルは宙空で姿勢を整える。落下の直前に合わせて、彼の腕が伸びる。そして、その腕はしっかりと、彼女を抱き留めた。しかし当然、尋常ではない重力が彼の全身にのし掛かる。地面へと叩き付けられる瞬間、藁をも掴む思いで受け身を取る。しかし、緩衝のために地を蹴った足の方が砕けてしまう。勢いは殺せず、そのまま臀部を強打し、更に尾てい骨が砕けた。
次第に肉体が崩壊していく、そんな極限状態の渦中において、アクセルの感覚神経が一気に収束し、時間感覚は極度に縮まった。刹那を何秒にも感じられる中で、彼は命の危機に戦慄する。片方の腕でウルリカを締め付けるように抱くと、もう一方の義手で受け身を取る。だが、義手は軋む音を立てて粉砕した。意に介さず、肘と肩とで受け身を取る。それでも勢いは衰えず、肘が砕け、肩が外れ、鎖骨が折れた。衝撃は腕を貫通し、肋骨のことごとくを粉砕する。
「ウグッ……! グ、クッ……! ク……ハ……ハァ、ハァ……!」
だがここにきて、ようやく落下の衝撃は収まった。全身の骨肉という骨肉を犠牲にして。
「アクセェェェルッ!!!」
悲鳴にも似た、ルイーサの張り裂けるような喚呼。ウルリカの安否を気遣っているのだと考え、アクセルは彼女の脈に触れる。息はある、鼓動を感じる。彼女が纏う外套の上からでは分からないが、その身体に触れたアクセルなら分かる。彼同様、全身の骨という骨が折れてしまっていることを。巨神の熱に当てられて、頬も焦げている。火傷も全身に負ってしまっているのだろう。しかし、それでもウルリカは生きている。奇跡という他ないが、何にせよ生きている。一つの安堵が白息となって零れた。
「ああ……ウ……ルリ、カは……大、丈夫……まだ、息が……あ――」
自らも重傷を負ってしまったアクセルは、気が気でないだろうルイーサを安心させるため、鳴らない喉から声を絞り出してウルリカの生存を伝える……恐らく、聞こえていない。ならばと、後ろを振り向こうと顔を上げた、その瞬間――視界を包み込む、漆黒。
突然、夜になったかのような、辺り一面を覆い隠す闇。だけど、それはありえない、先ほど見た空はまだ夕闇だったから。なら、頭上から降り注ぐこの闇はなんだ? 嗚呼……闇が近づいてくる、吐き気を催すような重圧を伴いながら。風雪を切り裂き、轟々と唸りを上げて。嗚呼……そうかこれは、宵闇でも蝕でもなんでもない――これは影だ。
「――――あ」
それが巨神の足底であると気付いた時には、既に遅かった。いや、もし即座に気付けていたとしても、両足が粉砕したアクセルに逃げる手段などない。ウルリカを辛うじて抱えたまま、頭上から大地へと降り注ぐ巨大な漆黒を、彼はただ呆然と見つめていることしかできなかった。
「この私達に、離脱しろと……?」
嗚呼、そうか。ウルリカが翁に一々苛立つ理由が分かった。この男は、物事の解しか見えていないのだ。過程に一切の執着はなく、成果にのみ意義を見出す人間。人間味の何たるかを理解しつつも、人間らしさに足を掬われることは決してない超人。そう、根源的に彼は、合理の怪物なのだ。その人間性は、今やかつての暴君ボブロフと何ら変わりない。ただあの男と比べて、あらゆる知識と遍く機転に一角の見識を有しているだけだ。
「……翁よ、侮っておられるのですか? 無礼千万、甚だしい。私達の勝利目標は、時間を稼ぐこと。巨神の殲滅が目的なのではなく、来たるべき連盟軍にバトンを渡すこと。都に一歩たりとも敵を踏み込ませず、セプテムを防衛すること。それこそが私達の使命――部隊の存亡に関わらず、でございます。その程度、果たせぬ私達ではございませんわ」
イングリッドは分かっていた。その反論、その反抗もまた、メルランの筋書き通りに過ぎないと。理解した上で、その口車に乗ったのだ。結果的にそれは、連盟部隊に決死の覚悟を決めさせる鍵となる。不愉快ではあるが、この状況下では確かに合理的な手段だった。
「……では、儂らも魔砲の再装填を継続する。市民の命、国家の存亡、お主らに預けたぞ」
全く以てつかみ所のない、狂言回しのような男だ。イングリッドは呆れたように一つ息を吐いて、巨神がそびえ立つ雪原に目を遣る。その直後、彼女は目を見開いた。先ほど決めたばかりの覚悟が。揺らぎそうになる光景が映る。
「駄目よ、逃げ――」
イングリッドの声は、届くはずもなく……それは執行された。
*
無貌なる肉を纏った巨神が眼前に現れてもなお、アクセルとルイーサは一直線にウルリカの救出へと向かっていた。異形の姿となった神への畏怖はある、理解不能の事態に対する焦燥もある。しかし二人は、ウルリカを救えぬ恐怖の方が勝っていた。
「ルイーサ様! ウルリカが見えました!」
「分かっている、お前がウルリカ様を捉えろ! 私は警護に徹する!」
夕闇に染まる雪原を疾走する二人。もはや鉄塊の飛来はなく、重く響き渡る慟哭が彼らの緊張を煽るのみ。異形の神が何をしでかすか予想もできないが、直近の脅威はなく。
「――ッ! まずい!」
しかしそこに、天蓋の叢雲をことごとく吹き飛ばす巨神の咆哮が轟く。その影響で、ウルリカの軌道が逸れた。上空に吹き荒ぶ強風と相まって、彼女の落下地点が定まらない。アクセルは落下範囲におおよその目星をつける、あとは直感と天運に任せるほかない。
「ウルリカ様は前方だ! 走れアクセル!」
「了解ッ!」
だが、ウルリカは強風に随分と運ばれてしまい、アクセルの予想よりもさらに向かい側へと落ちていく。彼は即座に踵を返し、全力疾走で向かうも、背筋には冷たいものが走る。このままでは、間に合わない。
「――アクセルッ! 歯を食い縛りなさいッ!」
ルイーサの喚呼が背後に響き渡る。その直後、アクセルは背中が焼けるような熱と、切り裂けるような痛みを感じるとともに、突如として身体が宙を舞い、帆が順風を受けたかのように急加速した。彼は直感する、ルイーサは自分に向かって榴弾を発砲したのだ。後方を一瞥すると、地面が抉れて煙が立っていた。直撃ではないにせよ、至近距離で榴弾を何発も炸裂させたのだ。一歩違えればアクセルの方が死にかねない無茶苦茶な手段ではあったが、その飛翔は確かに――ウルリカに届いた。
「ウルリカァァァァァッ!!!」
ウルリカを全身で受け止めるため、アクセルは宙空で姿勢を整える。落下の直前に合わせて、彼の腕が伸びる。そして、その腕はしっかりと、彼女を抱き留めた。しかし当然、尋常ではない重力が彼の全身にのし掛かる。地面へと叩き付けられる瞬間、藁をも掴む思いで受け身を取る。しかし、緩衝のために地を蹴った足の方が砕けてしまう。勢いは殺せず、そのまま臀部を強打し、更に尾てい骨が砕けた。
次第に肉体が崩壊していく、そんな極限状態の渦中において、アクセルの感覚神経が一気に収束し、時間感覚は極度に縮まった。刹那を何秒にも感じられる中で、彼は命の危機に戦慄する。片方の腕でウルリカを締め付けるように抱くと、もう一方の義手で受け身を取る。だが、義手は軋む音を立てて粉砕した。意に介さず、肘と肩とで受け身を取る。それでも勢いは衰えず、肘が砕け、肩が外れ、鎖骨が折れた。衝撃は腕を貫通し、肋骨のことごとくを粉砕する。
「ウグッ……! グ、クッ……! ク……ハ……ハァ、ハァ……!」
だがここにきて、ようやく落下の衝撃は収まった。全身の骨肉という骨肉を犠牲にして。
「アクセェェェルッ!!!」
悲鳴にも似た、ルイーサの張り裂けるような喚呼。ウルリカの安否を気遣っているのだと考え、アクセルは彼女の脈に触れる。息はある、鼓動を感じる。彼女が纏う外套の上からでは分からないが、その身体に触れたアクセルなら分かる。彼同様、全身の骨という骨が折れてしまっていることを。巨神の熱に当てられて、頬も焦げている。火傷も全身に負ってしまっているのだろう。しかし、それでもウルリカは生きている。奇跡という他ないが、何にせよ生きている。一つの安堵が白息となって零れた。
「ああ……ウ……ルリ、カは……大、丈夫……まだ、息が……あ――」
自らも重傷を負ってしまったアクセルは、気が気でないだろうルイーサを安心させるため、鳴らない喉から声を絞り出してウルリカの生存を伝える……恐らく、聞こえていない。ならばと、後ろを振り向こうと顔を上げた、その瞬間――視界を包み込む、漆黒。
突然、夜になったかのような、辺り一面を覆い隠す闇。だけど、それはありえない、先ほど見た空はまだ夕闇だったから。なら、頭上から降り注ぐこの闇はなんだ? 嗚呼……闇が近づいてくる、吐き気を催すような重圧を伴いながら。風雪を切り裂き、轟々と唸りを上げて。嗚呼……そうかこれは、宵闇でも蝕でもなんでもない――これは影だ。
「――――あ」
それが巨神の足底であると気付いた時には、既に遅かった。いや、もし即座に気付けていたとしても、両足が粉砕したアクセルに逃げる手段などない。ウルリカを辛うじて抱えたまま、頭上から大地へと降り注ぐ巨大な漆黒を、彼はただ呆然と見つめていることしかできなかった。
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