マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-127【祈りをくべて輝く炎】

「……これが、飽和魔石の、核……」

 ウルリカの眼前にそびえ立つのは、無窮むきゅうの結晶、白妙しろたえの劫火。それは、想像を絶する、久遠くおんの祈り。破狼ハロウの精神が絶望の煉獄なら、それは余りにも、切なる光明を放っていた。そう、彼女を取り囲んだ悪心おしん催す瘴気とは裏腹に、その結晶は狂おしいほどに燦然さんぜんと輝くのだ。

「これは、一体、何……? 飽和魔石って、咒術って、幻理って、一体何なの……?」

 疑問は尽きず、溢れんばかり。だが、その答えに辿り着くには、今は余りにも時間が足りない。そして最早、ウルリカの精神も限界を迎えていた。これ以上の長居は、精神の崩壊をもたらしかねない。今はただ、目的を果たさなければ。

 ウルリカは手を伸ばして、眩く光る結晶にそっと触れる――突如、数え切れないほどの思念が、脳裏を貫く。それは群発頭痛の如く、それは眼を抉り取られるが如く、まるで万力が頭蓋を貫くが如く。発狂するほどの激痛が、彼女を襲った。

「うっ……! ぐっ……! いっ……! ――っあああああああああああ!!!」

 慟哭どうこくが木霊する、頭を抱えてのたうち回る。何も考えられない、痛み以外の一切を感じない。尋常ではない度を超えた激痛に、事切れてしまえればどれほど楽だろうかと、絶望的な思考へと追い遣られる。しかし、それでも、ウルリカの手は、飽和魔石の核に触れ続けていた。最早それは、無意識下の行為。そこから手を離せば、もしかすると、この痛みから解放されるのでは。そんな藁にも縋りたい気持ちさえ無意識に封じ込め、彼女は自らの中心教義セントラルドグマに則り、死よりもなお苦しい選択を取ったのだ。

 ――ふと気が付くと、辺り一面は闇に包まれていた。先ほどまでのような、目が焼き切れるような真紅も、思考を掻き乱すようなノイズも、肺が焼きつくような瘴気もない。一切の光なき、久遠くおんの闇。すると眼前に、ほんの小さな、純白の火が灯るのを認めた。

「……これ、は……」

 ウルリカはその火に触れようとする、だがその手は、硝子がらすのような滑らかで硬質なモノに遮られた。嗚呼ああ、そうかこれは、飽和魔石の核、無窮むきゅうの結晶、白妙しろたえの劫火。先ほど脳裏を貫いた無数の思念、その中の一つが彼女に語りかけてくる。それこそは、人が束ねし祈りの篝火かがりび、幻理の卵、と。

「……そっか、あたし辿り着けたんだ……」

 得心するウルリカ。その言葉通り、彼女は魔層の最奥さいおうへと辿り着き、遂にアクセルの異能を到達させたのだ。彼女を取り囲んだ久遠くおんの闇は、彼の闇だった。

「……悪いわね、祈りをくべて輝く炎。破狼ハロウの精神はさぞ居心地いいでしょうけど、貴方の主人である人間にとっては脅威きょういなの。力ずくでも、退いて貰うわよ」

 ウルリカは人差し指の先を噛んで、血を出した。眼前の結晶に擦り付け、自らの血で呪文をつづっていく。面一杯に記した呪文、それこそが飽和魔石を砕き得る魔術の術式。魔力さえ流してしまえば、即座に術式は履行りこうされる。

「結果は神のみぞ知る……さあ、ちょっとくらい反応見せなさいよね、魔物の王様」

     *

 瞼を開く、大きく息をする。ウルリカは状況を把握する、身体はアクセルの背中に負ぶさっている。意識は潜行していた仮想空間から、現実空間へと浮かび上がっていた。記憶を遡る、破狼ハロウの魔層、その最奥さいおうへと辿り着き、飽和魔石の核を認めた。その核なる結晶体に、血文字で呪文を書きつづった。そうだ、自分は確かに目的を果たしたのだ。

「……ウルリカ……気がついた、ようだね……?」

 颶風ぐふうに掻き消されてしまいそうな、振り絞って発した掠れ声。その声に力はなく、いつ意識を失ってもおかしくない有様。想定以上の時間が経過したわけでもなければ、連盟部隊が全滅に瀕したわけでもない。だが、刻々と最悪の事態に近づいている事だけは間違いない。

「ええ、なんとかね。だけど、目標はすでに手中にあるわ。死にたくなるほど刺激的な旅路だったけど、手応えは十分よ」

 そう、ウルリカには手応えがあった。アクセルの異能を通して伝わってくる、破狼ハロウが擁した飽和魔石の在り処に続く道。二人で伸ばした一筋の侵食経路は、今や大狼の喉元に手を掛けていた。

「あたしが浸透させて、アンタが侵食したこの針糸は、謂わば導火線よ。あたしが魔石に命懸けで刻み込んだ呪文に火を点けるの。さあ、最後まで気張るのよアクセル」

「……勿論もちろん、だとも……深手を負った、隊長だって……最前線で、戦って、いるんだ……」

 周囲の音は遠くなり、焦点は合わず、意識は朦朧もうろうとしている。一瞬の気の緩みが、地上への落下に繋がる。窮するアクセルを、しかし彼を救ったのは、アレクシアと共に最前線に立つジェラルドの戦う様だった。

 いち駐屯兵でしかない彼には、肉体活性や増強の魔術も使えなければ、彼女ほどの剛力や戦闘センスを持ち合わせているわけでもない。全ては野良で培われた荒削りの技術と、野生的経験で補っているに過ぎない。破狼ハロウの予備動作、魔力の潮流、一挙手一投足、それら僅かな機微を推し量り、如何なる爪牙をも潜り抜ける。その慧眼けいがんこそが、決して伊達や酔狂ではない、彼の積み上げてきた全てを物語っていた。

 そもそも――今や失われてしまった――仲間との一糸乱れぬ連携こそが、彼ら駐屯兵団の持ち味だった。それにも関わらず、ジェラルドは単独で女傑アレクシアに並び立とうというのだ。努力を怠らなかった凡人が、憧れていた稀代の天才と肩を並べた瞬間だった――そこに至るまでの経緯が、たとえ痛ましいものだったとしても、胸の詰まるものだったとしても、アクセルにとって彼が偉大であることに、変わりはない。

「ウルリカ、頼む……破狼ハロウは、僕達の仇だ……どうか、この脅威きょういを……討ち、滅ぼしてくれ……」

「欠伸が出るくらい当然よ。滅ぼさなきゃ滅ぼされるだけ、当然の帰結ね。これで――終わらせるわ」

 アクセルの背中越しに、ウルリカは手に持った儀仗剣から、彼の漆黒の手に向かって、あらん限りの魔力を注ぐ。すると、剣の柄を握る彼の手が小刻みに震える、それは痛いほどの熱量を生じた。彼の手を通じて、同じ漆黒に染まる剣を伝い、破狼ハロウの体内を貫く一筋の侵食経路をなぞる。注ぎ込まれた膨大な魔力は歪な筋道を満たしていき、終点である飽和魔石へと辿り着く。

「……さあ、起きなさい、我が魔術よ。単純明快、ゆえに破壊の申し子、焔旋砕破フラクテイン。火種は与えたわ、あとはあんたの目覚めを待つだけよ」

 今や大狼の中に眠る魔石は、風波なき魔力を満たした槽、静かなる拍動を刻む――一転、ウルリカの血でつづられた術式は履行りこうし、魔力溜まりは見る見るうちに激しい熱量と強い圧力に変わっていく。

「――励起れいきした! アクセル、すぐに離れるわよ!」

 ウルリカが叫ぶ、言葉を返す間も無く首根っこをつかまれ、大狼に突き刺さった剣から一緒に飛び降りた。身体の力が抜ける、心臓が浮遊する、疲労困憊から気を失いかける。

「『発火イグニッション!』」

 宙空で体勢を整えたウルリカ、身を屈めて足元に儀仗剣を置き、魔術を執行する。鞘尻から勢いよく噴流が放たれ、爆轟波ばくごうはを生じる、急加速からの急上昇を伴って、アクセルはいよいよ意識を失い始めていた。

「あたしにつかまってなさいアクセルッ!!」

 まるで母が子を叱責しっせきするような物言いでアクセルに怒声を浴びせるウルリカ。微睡まどろみ白む視界から一気に現実へと引き戻された、彼女の腰に諸手を回して、必死にしがみつく。

「アレクシア! 全軍退げて! 奴から爆発が起きるわ!」

「全軍後退ッ! すぐに退けぇッ!」

 アレクシアの号令が掛かる、連盟部隊はそれを念頭に置いていたか、素早い転進からの滞りない後退を見せる。しかし、それを命じた本人を除いてだが。

「アレクシア! 危険だ、君も退がれ!」

「馬鹿野郎ッ!! ならコイツは誰が留めておくんだ!? 俺しかいねえだろうがッ!!」

 ジェラルドが退避を勧告する、だがアレクシアは最後まで挺身して、時間を稼ぐつもりだった。もしも自分が相手をしなければ、きっと破狼ハロウは別の標的を見つけて、牙を剝くだろう。その上で、ウルリカの言う爆発でも起きようものなら、被害は標的となった者のみならず、甚大な範囲に広がりかねない。ならば、彼女が取る行動は一つだけ――英雄的行動だけだった。

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