マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-113【汝、甘き死に花を咲かせよ】

「『燎原りょうげんの、彼岸の園に、我が逢瀬おうせ、命を謳う、黄昏の刻。弾指か刹那か、我が追憶の、かがりよ照らせ、水沫みなわ日向ひなた。嗚呼キミよ……胸に募りて、行方無く、せめてこの思慕、紅蓮に染まれ。汝、甘き死に花を咲かせよテイク・スイートデッド』」

 嘆きの色さえ湛えるその詠唱は、死出の旅路を鮮紅せんこうに彩る寡婦の悲歌。咲き誇る彼岸の花を思わせる、細波さざなみ立つ紅涙が、大地を緋色に染めていく。

「真っ赤だ……真っ赤な潮が、幾つも……」

 その鮮やかな朱は湖の如く、大地にまだらに咲き誇る。その上を踏み拉く魔物が、足下から、胴体に至るまで、血染めのように朱を纏っていく。まるで惨状の如き光景に、唖然とするアクセル。

「ううん。光景は鮮烈って感じだけど、効果は見た目通りじゃないわ」

「……え? それは、どういう?」

 初見であればアクセルのような反応は当然だろうと踏んで、傍らで未だ魔力を迸らせるウルリカが、彼の誤解を片手間ながらに修正する。

「魔術の名は『汝、甘き死に花を咲かせよテイク・スイートデッド』。これは、とある魔女の悲劇、その末路に由来する魔術よ。その女は最後に、自死を選んだ。燎原りょうげんの火に包まれた花園で、悲歌をたんじながらね。焔に消え入る女の最期に残されたものは、一面に紅を湛える彼岸花だった」

 眼下に広がる光景はまさしく、ウルリカの説く物語をなぞらえる。だが、大地を染める鮮やかな紅涙は、命を奪うわけでも、新たに血潮を流すわけでもない。言わば目印、要は結界。それ自体が直接手を下すモノではなかった。

 だが、朱き湖が大地に斑模様を描いてからというもの、魔物の群勢は目に見えてその様相を変えていた。それまで、目的を同じくしていたはずの魔物が――同志の魔物を襲っているのだ。

「つまり、この術を被った者を取り巻く生き物全てが、命を剥ぎ取る死神と化すの。動植物をも問わずね」

 血染めとなった魔物が、魔物の標的となる。爪牙を立てられ、血肉を食らわれる。標的が骸と化せば、新たな魔物が血に染まる。そして、食われる。

 その間にも絶え間なく、砲弾が、大矢が、雷槍が雨霰となって降り注ぐ。そんな砲撃の渦中にあっても、連中の標的は相変わらず、“朱き湖に染められた”魔物に襲い掛かる。

「でも今は本来の用途で用いるんじゃない。確かにああやって同士討ちしてくれるのは有難いわ。けど、あれだけで壊滅できる程度の規模でもなし、魔術師達の魔力にも限度がある。だから今回はその、命を剥ぎ取る死神が目当てなのよ」

 何度も、何度も、朱に染まる大地で、狂った食物連鎖が繰り返される。すると、その連鎖の頂点捕食者として君臨し続け、群れの中の勝利者となった魔物の、その体躯に異変が起き始めた。

「死神となった魔物は、剥ぎ取った命を――つまりは喰らった魔物の魔力を享受するの。これを何度も何度も繰り返していく。するとどう? 最後に生まれるのは、莫大な魔力を内包した魔物よ」

 同志の骸を踏み越え続ける魔物の肉体は、まさに膨れ上がったと表現すべきか。それはかつて矛を交えた夭之大蛇ワカジニノオロチが如く、例外的な水準にまでその体躯を著しく膨張させていく。

「強い魔力を帯びた尋常の生物が魔物に変異したというなら、その身体に溜め込める魔力量は普通じゃ考えられないほど多いはず」

 捕食に次ぐ捕食から、膨張に次ぐ膨張は、留まることを知らず。魔物の群れの渦中にあって、頭一つ抜きん出る魔物がまばらに現れてきた。周囲の魔物を次々と喰らい、その力を己がモノとしていく。まるで喰らった分の質量を、そのまま肉体に変換するかのように。

「それは恐らく、走魔性を誘発させるほどに。上手く事が運べば、どれほどの魔力量で走魔性が働くかも測定できる。同士討ちと走性の観測、一石二鳥ってことよ」

 血で血を洗う争いの最中、その時、光芒こうぼうの一閃が、天から降り注ぐ。景色を塗り潰す天光に照らされて、地上に深い影を落とすのは、一匹の大狼。白銀に艶めくその様は、魔物という禍々しい括りに似ず、神々しいまでの誇らしさを湛えていた。

破狼ハロウ……神話に綴られる、月を裂く幻獣、月の大狼ロノフスクを想起させる魔物……そう、あれが連中の頂に立つわけね」

 目に眩き銀線をなびかせる破狼ハロウと呼ばれた気高き魔王は、人類の総力を挙げた掃討砲撃の渦中にあって、何ら怯むこともなく、まるで嘲笑うかの如く、暁天ぎょうてんに吼える。すると、彼方から押し寄せる魔物の群勢が、体格にして数十倍にもなる大狼に向かって、一斉に襲い掛かった。地上から、大空から、数多の鋭い爪牙が、深い獣毛に覆われた大狼の皮膚に食い込む。まるで死屍ししに湧く蛆虫の如く、大狼の身体中にへばりつき、その肉を喰らわんとうごめく。

 だが破狼ハロウは歯牙にも掛けず、身体をブルンと震わせる。たったそれだけの所作が、大気を揺るがし、砂塵を巻き上げ、へばりついた有象無象を弾き落とす。そして、地上に叩きつけられた、その脆弱な肢体を、見る見るうちに捕食していく。それは瞬時に大狼の血肉へと変換され、膨れ上がった四肢は蠕動ぜんどうし、更に膨張を重ねる。

「――補足した。あぁ……尋常じゃないわね、あれは」

 ウルリカが畏怖を込めて呟く。同時に、大地を朱く染め上げていた魔術を解除した。すると、斑模様を描く朱き湖は、あたかも地表に浸透していくように、その姿を消失させていく。

 魔術の行使を終えたウルリカは、地面に突き立てた儀仗剣に上体を預け、項垂れていた。肩で息をする、指先は震えている、額から汗が滴る。平静を装っていた彼女の体力は、限界に近かった。昨日からの疲労と負傷が治らぬ身体に鞭を打ち、数百人もの魔術師達を取り仕切っていたのだ、寒空の下で座しているだけでも虫の息というもの。並々ならぬ意地っ張りの彼女でなければ、卒倒していてもおかしくない。肩を抱くアクセルの手に、自然と力が入る。

「ウルリカ……」

「……ベッドに臥せる? とか……そういう愚問、やめてよね……」

 残り僅かな体力で魔力を循環させ、負傷の回復に専念するウルリカ。肉体の裂傷や打撲は早い内に修復されるだろう。それでも、心身に蓄積した疲労が回復するわけではない。その様子に、たとえ四肢が動かなくなろうとも勇者として戦う、彼女の不退転の覚悟を察するアクセル。ただ静かに、はだけた外套を彼女の肩に掛けた。

 そんな二人の傍らで、望遠鏡による観測を続けるパーシー。階差演算機の鍵盤を弾き、眼下に見える破狼ハロウを分析する。

「うーん、まずいなぁ。あの質量、あの魔力量……概算で、千頭分ってとこかなぁ」

「せ、千頭!?」

 アクセルが思わず驚愕の声を漏らす。それはつまり、今や荒れ狂う台風の目となって魔物の群勢をなぎ倒し続ける大狼、そのたった一匹の肉体に、普遍的な魔物の千倍にも及ぶ質量と魔力量が備わっているというのだ。最早、にわかに想像し難い規模にまで変貌していた。

「うん、概ね。群れの全体数で見れば全然少ないから、一個体が吸収できる限度量ってだけだけどね。とはいえ、魔物千頭分も許容できる生体ってのも驚嘆きょうたんなんだけど。とにかくアレ、放っておいたら不味いよねぇ」

 異常な事態だということは、誰の目にも明らかだった。その絶対的な力を有する大狼が、万一魔物のことごとくを殲滅したとしても、次の標的となるのは当然人類。果たしてアレは、人が敵う相手なのだろうか。

「……アレは既に、咒術がもたらす……霊獣なんて神話の域にまで、変革してるのかも……」

 魔物が体内に宿した、咒術を引き起こす飽和魔石の存在を踏まえるに、破狼ハロウは今や、魔物という生命の枠を越えたのかもしれない。

 ウルリカは何かを察してか、腰部のベルトに吊した鍵に目を遣る――それは、彼女を救った時と同じように、確かに震えていた。

 このタイミングでコレを渡した、その教授は咒術を用いた兵器を備えている。縮退魔境《エルゴプリズム》や魔物の膨大な魔力に呼応し、そしてそれは、空間さえも跳躍する力を持っていた。それらが意味するものとは。

「……咒術は、虚数の力……虚数の力とは、理が反転した力……理の反転とは、因果の逆転……夢想が、夢想のまま、顕現する法則……その名を幻理、物理と相対する法則……」

 ティホンとの対話の際に現れた、幻理という言葉を、ウルリカは再び口にした。それは、物質を理とするこの世界に相反する、幻想を理とする世界の法則。物質によって世界を動かすのが物理なら、願望によって世界を動かすのが幻理。

 まるで眉唾まゆつばな話だと思っていたが、そうとも言い切れないようだ。

「この鍵は、世界の歪みに応え、時空をこじ開けた……咒術が、関係している……?」

 思索を巡らせるウルリカ、それを遮るかのように、脳裏に聞き覚えのある声が響いてきた。

「おいウルリカ! ありゃ何なんだよ! 何が起きたってんだ!? 突然血の池が現れたかと思いきや、でっけぇ狼がドンドン大きくなっていきやがった!」

「……アレクシア。ええ、さっき伝えた“走性作戦”、その産物よ……ちょっと、今後あたしがどれほど協力できるか分からないから……一先ず後は、あんたたちに任せるわ」

「ハッハァ! 言うじゃねえか! んな怪物産み落としといて、手前のケツを俺達に拭かせるってかっ! ――ああ、任しとけ! デカブツ相手は俺の十八番おはこよ! お前はそこで高みの見物と洒落込んどきな!」

 闊達かったつなる言葉を吐き出すだけ吐き出し、アレクシアは一方的に精神感応テレパシーを切断する。疲弊し切ったウルリカには堪える激語だったが、心なしか、一つ零れた溜息には、安堵が混じっていた。

 そんな不意の安心感からか、突如、視界が揺らぐ、意識が薄れる、力が抜けて儀仗剣を取り落としてしまう。床に座したまま、前に倒れそうになるのを、アクセルが支えた。

「少し、休むといいよ、ウルリカ。誰も文句なんて言わないさ」

「……馬鹿ね……誰も、言わなくたって……自分に、言いたくなるのよ……」

「うん、君はそういう人間だ。だから、目が覚めた後で、気が済むまで自分を叱ればいいよ」

「……チッ……生意気……言うじゃない…………」

 フッと、意識が消えた。アクセルの肩に、顔を埋めて。安らかな寝息を立てながら。

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