マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-109【白き静寂】

 ゆっくりと瞳を開ける。目の前には、質素な天井があった。

 暗く静まり返った一室で、ベッドに仰臥しているのが分かる。視界の脇には、暖かみのあるほのかな明かり、それに照らされて、アクセルの横顔が映った。

「……ウルリカ、起きたようだね」

「アクセル……ここは?」

「西門近くの住宅に仮設した医務室だよ。今は……午前三時、真夜中だね」

 ベッドから起き上がろうとするウルリカ。しかし、その一挙手一投足に対して、身体の節々が痛みを訴えかける。声が漏れ、顔を歪ませた。

「まだ安静にしてないと。君は本当に良くやってくれたよ。もう少し休んでて」

「……生意気じゃない。いいの、ちょっと外の空気吸いたいから」

 そう言ってウルリカは身体を起こす。すると、立って歩けないほどに、その身が痙攣けいれんしていることに気付いた。一つ溜息を吐いて、震える指先でこめかみを掻く。

「…………肩、貸して」

「……うん。無理だけは駄目だよ?」

「分かってる。少しだけでいいわ」

 ウルリカは掛け布団をめくり、素足をアクセルに向ける。ベッドのサイドテーブル下に置いた革のブーツを、彼女の神経に障らないようゆっくりと履かせる。新調された外套をハンガーから取り、彼女の肩にそっと掛けた。自力で立ち上がろうとする彼女の脇下に腕を差し入れ、覚束おぼつかない足腰を支える。

「我ながら不甲斐ないわね……」

「それだけのことを成し遂げたんだ、君は。こうやって支えられることさえ誇らしいよ、僕にとってはね」

「……フンッ、洒落臭いわよ、一々」

 ウルリカはそっぽを向いて、顔を背ける。そんな憎まれ口や仕草さえ、アクセルは微笑ましく受け取った。

 彼女をおもんぱかり、ゆっくりとした歩調で部屋を出る。薄暗い照明が照らす廊下を抜けて、磨り硝子に淡い光を湛える玄関扉の冷え切ったノブを捻る。

 外は暗夜の寒空、微かな光を零す水銀灯に照らされて、粉雪がヒラヒラと街を舞っていた。掌に拾えば、すぐに溶けて落ちていく。それは、灯に煌めく、冷たくて、儚い、地上の星屑。

「……こっちに来てから、気に留める余裕なんてなかったけど……綺麗なものね……」

「ああ。この街に、こうやって静かな夜が訪れたのも、君のお陰だよ。君が命がけで作戦を成し遂げなければ、今や魔物の巣窟となっていたかもしれない」

「……馬鹿ね。あたし一人の力じゃないわ、決して。みんながいなきゃ、運だってついてなきゃ、こうはならなかった」

「それも、そうだね」

 ウルリカが一歩、また一歩と、足を踏み出す。アクセルはその歩調に合わせて進み、二人は街の大通りへと歩み出た。

 深夜の寂寞じゃくまくに、雪を踏む二人分の音が静かに響く。ポツポツと舞い落ちる雪の音に耳を峙たせ、心を委ねる。言葉を連ねることもなく、二人はただ深々と、淡く灯された夜道を歩く。その姿はまるで、雪白の絨毯が敷かれた処女道を共に歩く、新郎と新婦のよう。

 次第に、二人の眼前へと迫ってきたのは、今や静穏なる佇まいをした、セプテム城郭都市西門。外に蓋をするかのように、厳粛なる排他性を湛える門扉。異邦者である彼氏彼女らからすれば、一見して疎外感を彷彿とさせる頑なさだが、今だけはそれが破られていないことを心から歓迎するばかりだ。

 暫く歩みを止めて、門扉を見上げる二人。そこに言葉はなかったが、時を同じくして、同時に足を踏み出す。向かったのは、門扉の横に設けられた側防塔。今や閉じられた鉄扉を開き、しんと静まり返った塔内を貫く螺旋階段を昇っていく。

 二人の靴音が響き渡る、白い息が軌跡を作る。次第に、外から零れる淡い光が頭上を照らし出した。風を切る音が鼓膜を揺らす、白雪に染まった塔の屋上に出る。そこには、雪を纏った帆布に覆われた観測機器と、折り畳まれた小型射出機が壁に寄り掛けてあった。

 二人は、円弧に抉り取られた胸壁の前に来て、先刻まで魔物の群勢が跳梁跋扈していた広大な平原を眼下に望む。降りしきる氷雪によって、今ではその激戦の爪痕を覆い隠してしまっていた。深雪越しに見える大地の凹凸が、辛うじてその凄惨さを物語るか。

 数キロ先に見える、広範囲に渡る窪みこそは、ウルリカが解き放った縮退魔境エルゴプリズムの痕跡。それがもたらした超重力の網から離脱するのに必死だった彼女にとっては、これが初めて見る、かの黒鉄くろがねの、人智を超える脅威だった。

「無情か、慈悲か。人と魔物の血で血を洗う戦いなんて、この世界にとっちゃ雪に埋もれて隠れちゃう程度のものなのよね」

「……その程度で、いいんだよ。だから人は、何度打たれたって立ち上がれるんだ。この世界が、誰かにはばからずに在ってくれるから」

「……そう、ね」

 アクセルのその言葉は、ウルリカの表情を曇らせた。

 勇者である彼女とて、世界の真実の全てを把握しているわけではない。だが、勇者としての使命は理解している。それが、この世界を敵に回すことと同義だということを。その具体的な意味を知っているわけではない。しかし、そんなものがもたらす最期など、想像に難くない。ろくでもない末路、ということだ。

 それでも、今だけは、待ち受けるその全てを覆い隠す、静謐せいひつなる銀世界で、甘く冴えた良夜に浸る。身も心も縛り付ける宿命を忘れて、貴方と貴女が佇む、この今という時間に、ただ沈んでいたかった。

 だが、二人に許された猶予は、長くはなかった。忍び寄る魔の手は、その停滞を許してはくれなかった。

「――そんな、やめてよ……嘘でしょ……?」

 漠然と眺めていた、大地に降り注ぐ儚き粉雪、その視線の遙か先に、闇夜に紛れてうごめくモノ。その影はまるで湧泉ゆうせんの如く、次第に地平線を染めるにじみとなって広がっていく。

「ウルリカ、あれは……!」

「もうあたし達に安息日は与えないってわけね……敵ながらその執念には敬服するわ……」

 人類の戦いは、まだ終わっていなかった。

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