マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~
Log-108【黒い太陽】
「え!? どういうこと!?」
目を開ける、周囲を見渡す、彼女は、何もない大空に投げ出されていた。横に見えるのは、地上へと急降下していく、たった今自分を食い散らかすはずだった、魔物の長い列。まるで空から膨大な瀑布が波濤となって流れ落ちるかのよう。
「あたし……助かったの……? どうして……?」
おかしい。あり得ない。人類に牙を剥いてきた魔物が、目の前の無抵抗な人間を取り零すなど。
「……違う。あたしを狙ってたんじゃない。連中が目指しているのは……あの、魔石」
ウルリカの洞察が導いた答え、それは、魔物の矛先が縮退魔境に向いているということ。
「でもなぜ? 危機感から? あの魔石が危険な代物だと知って? 違う、そんな高等な知恵なんてない……なら」
虫が光あるところに吸い寄せられてしまう走光性、ならぬ、魔力あるところに吸い寄せられてしまう走魔性……そんなものが、あっても不思議じゃない。そう、ウルリカの脳裏を過ぎる。
「飛んで火に入る夏の虫……光に吸い寄せられる性質、走光性が祟った諺。なら連中は? そっか、あたしなんかよりも、ずっと強い魔力に吸い寄せられている……走魔性……」
自分の考えが確かなら、抜け落ちていたピースが嵌まる、そんな予感がしていた。
――だが、そんなことよりも……ウルリカはハッとして、
「……っ! 馬鹿! 悠長に観察なんかしてる場合じゃないっての! ここから離れないと!」
勢い良く指を鳴らす。主人を失い、宙を舞うだけだった儀仗剣が、噴流を上げて再び彼女の下へとやってきた。
「良い子ね。何度も手放しちゃって悪かったわ。もう一度だけ、頑張って貰うわよっ!」
己が儀仗剣に対する謝辞と激励の言葉と共に、彼女は再び空を疾駆した。あらん限りの魔力を投入して、剣が悲鳴を上げるほどの噴流を放出した。
「あと、十秒くらい……!? やらかしたわね……! 予定通り放り投げておくんだった……!」
最早助からないと踏んで、縮退魔境に推進力を与えたのが却って仇となった。本来ならば一分間の猶予が与えられるはずだった。一分あれば、魔石が生み出す超重力の射程範囲からは十分に離脱可能だった。だが今や、彼女に与えられた時間は、十秒余り。
「『発火!』」
火急の状況下、ウルリカは両の掌を背後に向け、呪文を唱える。すると、その掌から、儀仗剣から放たれる噴流と同様の爆炎が噴き出した。推進器は三つとなり、“魔脈”ははち切れんばかりに回転し、今にも千切れ落ちそうな両腕に鞭打って、彼女は更に加速する。だが、
「くっ……! 足りない……! まだ、足りない……!」
彼女の目測で、それでもまだ半歩足りない。その速度は、既に音速へと達していた。周囲に轟音を撒き散らしながら、天を覆う白雲を貫く。それでも、まだ足りない。
「どうしろってのよ! この状況! もう次の一手なんて用意しちゃいないわよ!」
絶叫するように愚痴を放つウルリカ。典礼魔術のような大規模なものや特別な呪物を除き、僅かな呪文詠唱で瞬時に長距離を移動する、あたかも縮地の如き仙術や瞬間移動といった都合の良いものなど、少なくとも彼女は知らない。
ふと、腰部辺りの肌感覚に訴えかける、僅かな振動を捉えた。音速飛行と、それに伴う魔術の執行と、更には土壇場での高速思考により気付くのが遅くなったが、何かが腰の辺りで蠢いているのが分かった。
「鍵が……また、震えてる……?」
ベルトに吊り下げていた鍵が、まるで胎動するかのように蠢いていた。それを意識してか、ウルリカの脳裏に、“鍵を用いる”という現状打破の解決法が過ぎる。
「なぜ?」と彼女は自分に問うた。そもそも使い方どころか、その巨大な鍵の形をした物が何なのかも理解していないにも関わらず、それを用いようとしている自分がいる。
自分の知らない自分が、頭の中で囁くのだ。不可思議、不可解のなにものでもない、はずなのに、彼女は次第に冷静さを取り戻していく――そんな折りだった。
大地が、大気が、空間が、震えるのを感じた。そこにある全てのモノが、引きずり落ちていくのを感じた。光ある全てのコトが、闇に葬られていくのを感じた。ウルリカの背後に現れたのは、この世全てを朽ち滅ぼす、超重力の闇――無間地獄――。
未だ射程範囲を脱すること叶わぬ彼女は、その身を以て、縮退魔境による超重力の暴威を味わうこととなった。
「くっ……! あっ……がっ……! や、ばっ……! し、死ぬ……!」
ウルリカの背後で舌舐めずりをして、網に掛かった獲物を引き寄せる、この世で最も昏く、最も苛烈な、虚無。細胞という細胞が一つ残らず引っ張られるような、身体が内側から崩れ失われていくような、生気を吸い上げられて頭の天辺から足の爪先まで虚脱していくような、闇の淵に落ち込んでいく感覚が、彼女の神経系を支配する。
最早どれほどの噴流を以て前進を試みようとも、針の先ほどさえ動かない。まるで宙空で縛り付けられたかのように動けなくなった。だが逆に、我を忘れて一瞬でもその噴流を止めれば、為す術なく、瞬く間に闇の淵へと落ちていくだろう。決して二度とは光を仰げぬ、久遠の闇へと。
「こんな……! 形で……! 死んで……! たまるか……!」
だが、それでもウルリカは諦めなかった。一度は諦めてしまったその命が、今こうやって――苦痛という形ではあるが――生きている実感を持って、世界を眺めているのだから。命を諦める、という罪を背負ってまで、生きているのだから。
「今、死ぬんなら……! 端っから……! 生き延びや……しないわよ!」
それは――彼女の、生を渇望し、生に邁進し、生を尊ぶ、命の哲学に呼応したか。
それは――その全てを嘲笑い否定する、果てなき無間地獄が呼び覚ましたか。
或いは――その両方か。
鍵が、星の錠を開いた。
「――え?」
気が付くと、そこは遙か上空。ウルリカの眼下には、先ほどと同じ、大地を埋め尽くす雲海が広がっていた。煌々と輝く西日が、眩く彼女を照らす。
「これ、は……」
彼女には、心当たりがあった。ベルトの吊革に目を落とす。そこに吊した鍵は、今は震えていなかった。だが不思議と、腑に落ちる感覚がある。
「あんたが、運んだの? ここまで、あたしを?」
ウルリカは鍵に向かって問い掛ける。無論、返答はない。でも、ソレの仕業だということは、何故だか実感としてあった。
「旧主の、権限因子……」
その鍵を手渡したメルランの言葉を反芻する。それがどういう意味なのかは、今以て不明だが、自分の“何か”に呼応したのだと。
「……これが、とんでもないモノだってことだけは分かった。あとは教授を問い質さないと。魔物の件も含めて、ね」
幾つもの不可解な事態を目の当たりにしたウルリカ。だが、それら全ては恐らく、メルランという男にとっては想像の範疇にあったのだろうと推測する。
ほんの僅かでも動かせば激痛が走る満身創痍を堪えながら、暫くの空中遊泳に身を委ねた。
―――
眼下では、喝采が巻き起こっていた。方々で勝ち鬨が上がっていた。耳を劈いた筒音や地響きは、今や嬉々とした歓声に取って代わられていた。
身体中を縛り付ける吐き気がするほどの激痛と、疲弊しきって目眩のする混濁とした意識の隅で、ウルリカは自らが用いた捨て身の作戦の成功を悟った。
「全く……無邪気にはしゃいじゃって……ホント、何とかなって、良かったわ……」
鼻で笑い飛ばしながら呟くウルリカ。その視界は既に、暗転と明転とを繰り返し、今にも墜落しそうなほどの微かな意識。ふらつきながら乗じる儀仗剣、そこから放たれる噴流も、勢いが疎らとなっていた。徐々に落ちていく高度、何とかアクセル達の居る側防塔を目掛けて滑空する。
「おーい! ウルリカ! こっちだ! もう少し、頑張って!」
塔の屋上、彼女の魔術で抉り取られた胸壁の前で、大きく手を振り、彼女を励ますアクセル。その容態を察してか、心配した表情を湛えて待ち構えていた。
「……全く……いつ、見ても……馬鹿面、ね……」
アクセルの顔を見て安堵したか。不意に、ウルリカの意識は遠退いていく。白んでいく風景、歪む彼の姿。気付いた時にはもう、不眠の抵抗は間に合わない。力が抜けていく、足腰が立たない、宙空での姿勢そのままに、側防塔へと向かって墜落していった。
「――ウルリカ! まずい!」
噴流の勢いそのままに滑空する儀仗剣がアクセルに向かって飛来する。それを片手で捕らえながら、追って墜落してきたウルリカを全身で受け止めた。激突の衝撃で後ろに吹き飛び、背中を胸壁に打ち付けるアクセル。これで三度目か。
激しく咳き込みながらも、意識を失って、己に身を委ねる彼女を、優しく抱擁した。
「……おかえり、ウルリカ」
ウルリカの耳元で、労いの言葉を囁く。果たして、その声は届いていただろうか。だが、微かに彼女の頬が緩んだ、そんな気がした。
目を開ける、周囲を見渡す、彼女は、何もない大空に投げ出されていた。横に見えるのは、地上へと急降下していく、たった今自分を食い散らかすはずだった、魔物の長い列。まるで空から膨大な瀑布が波濤となって流れ落ちるかのよう。
「あたし……助かったの……? どうして……?」
おかしい。あり得ない。人類に牙を剥いてきた魔物が、目の前の無抵抗な人間を取り零すなど。
「……違う。あたしを狙ってたんじゃない。連中が目指しているのは……あの、魔石」
ウルリカの洞察が導いた答え、それは、魔物の矛先が縮退魔境に向いているということ。
「でもなぜ? 危機感から? あの魔石が危険な代物だと知って? 違う、そんな高等な知恵なんてない……なら」
虫が光あるところに吸い寄せられてしまう走光性、ならぬ、魔力あるところに吸い寄せられてしまう走魔性……そんなものが、あっても不思議じゃない。そう、ウルリカの脳裏を過ぎる。
「飛んで火に入る夏の虫……光に吸い寄せられる性質、走光性が祟った諺。なら連中は? そっか、あたしなんかよりも、ずっと強い魔力に吸い寄せられている……走魔性……」
自分の考えが確かなら、抜け落ちていたピースが嵌まる、そんな予感がしていた。
――だが、そんなことよりも……ウルリカはハッとして、
「……っ! 馬鹿! 悠長に観察なんかしてる場合じゃないっての! ここから離れないと!」
勢い良く指を鳴らす。主人を失い、宙を舞うだけだった儀仗剣が、噴流を上げて再び彼女の下へとやってきた。
「良い子ね。何度も手放しちゃって悪かったわ。もう一度だけ、頑張って貰うわよっ!」
己が儀仗剣に対する謝辞と激励の言葉と共に、彼女は再び空を疾駆した。あらん限りの魔力を投入して、剣が悲鳴を上げるほどの噴流を放出した。
「あと、十秒くらい……!? やらかしたわね……! 予定通り放り投げておくんだった……!」
最早助からないと踏んで、縮退魔境に推進力を与えたのが却って仇となった。本来ならば一分間の猶予が与えられるはずだった。一分あれば、魔石が生み出す超重力の射程範囲からは十分に離脱可能だった。だが今や、彼女に与えられた時間は、十秒余り。
「『発火!』」
火急の状況下、ウルリカは両の掌を背後に向け、呪文を唱える。すると、その掌から、儀仗剣から放たれる噴流と同様の爆炎が噴き出した。推進器は三つとなり、“魔脈”ははち切れんばかりに回転し、今にも千切れ落ちそうな両腕に鞭打って、彼女は更に加速する。だが、
「くっ……! 足りない……! まだ、足りない……!」
彼女の目測で、それでもまだ半歩足りない。その速度は、既に音速へと達していた。周囲に轟音を撒き散らしながら、天を覆う白雲を貫く。それでも、まだ足りない。
「どうしろってのよ! この状況! もう次の一手なんて用意しちゃいないわよ!」
絶叫するように愚痴を放つウルリカ。典礼魔術のような大規模なものや特別な呪物を除き、僅かな呪文詠唱で瞬時に長距離を移動する、あたかも縮地の如き仙術や瞬間移動といった都合の良いものなど、少なくとも彼女は知らない。
ふと、腰部辺りの肌感覚に訴えかける、僅かな振動を捉えた。音速飛行と、それに伴う魔術の執行と、更には土壇場での高速思考により気付くのが遅くなったが、何かが腰の辺りで蠢いているのが分かった。
「鍵が……また、震えてる……?」
ベルトに吊り下げていた鍵が、まるで胎動するかのように蠢いていた。それを意識してか、ウルリカの脳裏に、“鍵を用いる”という現状打破の解決法が過ぎる。
「なぜ?」と彼女は自分に問うた。そもそも使い方どころか、その巨大な鍵の形をした物が何なのかも理解していないにも関わらず、それを用いようとしている自分がいる。
自分の知らない自分が、頭の中で囁くのだ。不可思議、不可解のなにものでもない、はずなのに、彼女は次第に冷静さを取り戻していく――そんな折りだった。
大地が、大気が、空間が、震えるのを感じた。そこにある全てのモノが、引きずり落ちていくのを感じた。光ある全てのコトが、闇に葬られていくのを感じた。ウルリカの背後に現れたのは、この世全てを朽ち滅ぼす、超重力の闇――無間地獄――。
未だ射程範囲を脱すること叶わぬ彼女は、その身を以て、縮退魔境による超重力の暴威を味わうこととなった。
「くっ……! あっ……がっ……! や、ばっ……! し、死ぬ……!」
ウルリカの背後で舌舐めずりをして、網に掛かった獲物を引き寄せる、この世で最も昏く、最も苛烈な、虚無。細胞という細胞が一つ残らず引っ張られるような、身体が内側から崩れ失われていくような、生気を吸い上げられて頭の天辺から足の爪先まで虚脱していくような、闇の淵に落ち込んでいく感覚が、彼女の神経系を支配する。
最早どれほどの噴流を以て前進を試みようとも、針の先ほどさえ動かない。まるで宙空で縛り付けられたかのように動けなくなった。だが逆に、我を忘れて一瞬でもその噴流を止めれば、為す術なく、瞬く間に闇の淵へと落ちていくだろう。決して二度とは光を仰げぬ、久遠の闇へと。
「こんな……! 形で……! 死んで……! たまるか……!」
だが、それでもウルリカは諦めなかった。一度は諦めてしまったその命が、今こうやって――苦痛という形ではあるが――生きている実感を持って、世界を眺めているのだから。命を諦める、という罪を背負ってまで、生きているのだから。
「今、死ぬんなら……! 端っから……! 生き延びや……しないわよ!」
それは――彼女の、生を渇望し、生に邁進し、生を尊ぶ、命の哲学に呼応したか。
それは――その全てを嘲笑い否定する、果てなき無間地獄が呼び覚ましたか。
或いは――その両方か。
鍵が、星の錠を開いた。
「――え?」
気が付くと、そこは遙か上空。ウルリカの眼下には、先ほどと同じ、大地を埋め尽くす雲海が広がっていた。煌々と輝く西日が、眩く彼女を照らす。
「これ、は……」
彼女には、心当たりがあった。ベルトの吊革に目を落とす。そこに吊した鍵は、今は震えていなかった。だが不思議と、腑に落ちる感覚がある。
「あんたが、運んだの? ここまで、あたしを?」
ウルリカは鍵に向かって問い掛ける。無論、返答はない。でも、ソレの仕業だということは、何故だか実感としてあった。
「旧主の、権限因子……」
その鍵を手渡したメルランの言葉を反芻する。それがどういう意味なのかは、今以て不明だが、自分の“何か”に呼応したのだと。
「……これが、とんでもないモノだってことだけは分かった。あとは教授を問い質さないと。魔物の件も含めて、ね」
幾つもの不可解な事態を目の当たりにしたウルリカ。だが、それら全ては恐らく、メルランという男にとっては想像の範疇にあったのだろうと推測する。
ほんの僅かでも動かせば激痛が走る満身創痍を堪えながら、暫くの空中遊泳に身を委ねた。
―――
眼下では、喝采が巻き起こっていた。方々で勝ち鬨が上がっていた。耳を劈いた筒音や地響きは、今や嬉々とした歓声に取って代わられていた。
身体中を縛り付ける吐き気がするほどの激痛と、疲弊しきって目眩のする混濁とした意識の隅で、ウルリカは自らが用いた捨て身の作戦の成功を悟った。
「全く……無邪気にはしゃいじゃって……ホント、何とかなって、良かったわ……」
鼻で笑い飛ばしながら呟くウルリカ。その視界は既に、暗転と明転とを繰り返し、今にも墜落しそうなほどの微かな意識。ふらつきながら乗じる儀仗剣、そこから放たれる噴流も、勢いが疎らとなっていた。徐々に落ちていく高度、何とかアクセル達の居る側防塔を目掛けて滑空する。
「おーい! ウルリカ! こっちだ! もう少し、頑張って!」
塔の屋上、彼女の魔術で抉り取られた胸壁の前で、大きく手を振り、彼女を励ますアクセル。その容態を察してか、心配した表情を湛えて待ち構えていた。
「……全く……いつ、見ても……馬鹿面、ね……」
アクセルの顔を見て安堵したか。不意に、ウルリカの意識は遠退いていく。白んでいく風景、歪む彼の姿。気付いた時にはもう、不眠の抵抗は間に合わない。力が抜けていく、足腰が立たない、宙空での姿勢そのままに、側防塔へと向かって墜落していった。
「――ウルリカ! まずい!」
噴流の勢いそのままに滑空する儀仗剣がアクセルに向かって飛来する。それを片手で捕らえながら、追って墜落してきたウルリカを全身で受け止めた。激突の衝撃で後ろに吹き飛び、背中を胸壁に打ち付けるアクセル。これで三度目か。
激しく咳き込みながらも、意識を失って、己に身を委ねる彼女を、優しく抱擁した。
「……おかえり、ウルリカ」
ウルリカの耳元で、労いの言葉を囁く。果たして、その声は届いていただろうか。だが、微かに彼女の頬が緩んだ、そんな気がした。
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