マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-093【逃走は音にのせて】

 外はポツポツと粉雪が舞っていた。

 見張り塔の地下牢獄から抜け出したウルリカ。雲の切れ間から差す日の光を掌で遮って空を見上げる。東から登る太陽、それが頭上に来る頃に、戦いの火蓋は切って落とされる。

 そんな事を考えながら、ウルリカは後ろを振り返る。そこには渋い顔を湛えたエフと、その背後には喜びの舞いに興じるティホンがいた。

「おい、なあ……本当にこの男を連れて行くのか? さっきから邪魔臭いんだが……」

 ウルリカとティホンの二人は、エフが監獄潜入の際に眠らせておいた看守から軍服を奪取して身に纏い、滞りなく逃亡するためセプテム軍兵士に擬態していた。更に、魔物を迎え撃つため大部分の兵士が西門方面に出払っていることもあり、城塞内は大分手薄となっていた。しかし、二人は脱獄囚。荒事を起こせば魔物との戦いに向けられた皆の集中を乱しかねない。穏便な逃亡は必須だった。

「仕方ないわよ、今は何者であれ戦力が欲しいからね。それにティホンは腐っても国家公認の魔術師。教鞭を執れるだけの学識と素養はあるわ。あんなんでも十分な戦力になるのよ」

 事実、ティホンはあのメルランから直々に大学教授としての斡旋を受けていたほど。自らの嗜好を満たすため率先して小等部の教育者を選ぶことさえなければ、ウルリカとは大学時代に顔を合わせていたかもしれない。但し、魔術の実力は確かにお墨付きだったものの、メルランは彼を人格的に危険視しており、監視下に置きたかったという側面も存在するようだ。

「おお、おお! 彼方より我が身を焦がす炎天! ああ、我が聖女は光届かぬ深淵から私をお救いくださった! どこへでも付いて行きますぞ! さあ、何なりとご命令を!」

「……それに、あたしの言うことだけは聞いてくれそうだしね」

 ティホンは小児性愛者ゆえに歪んだ思想で小等部の教育者を選んだ。だが、実際に犯罪に手を染めた前科は今の所ない。ともすると、彼は加えて被虐嗜好なのかもしれない。

「……分かったよ」

 首を横に振って溜め息を吐く。するとエフは上を向いて、呼吸を落ち着かせる。

「『つわものは、靴の音にて。商人あきんどは、銭の音にて。飢え人は、わんの音にて、目を覚ます。初音サウンド・ワンド』」

 詠唱の直後、甲高い鳥の鳴き声が発せられる。彼は微動だにせず、ただ静かに耳を澄ます。周囲からの反響を耳で捉え、脳内で三次元空間へと変換していく。

 暫くして、エフが手招きで先導し始めた。見張り塔は横並びに四つ、地上に出てきたのは左から二番目。彼曰く、右端の見張り塔に用があるという。

音響術サウンドアートの初歩、『初音《サウンド・ワンド》』で姫首輪鴎ヒメクビワカモメの鳴き声を再現したのね。確かにこの時期、冬鳥の鳴き声に疑問を抱く者はまずいないわ」

「ああ、眼の見えない音響術師サウンドアーティストとしては基礎中の基礎。とはいえ、音の持ち札はようやく百を越えたところだけどな」

 『初音サウンド・ワンド』は術者が過去に聴き、理解した音を再現する魔術。冬鳥である姫首輪鴎ヒメクビワカモメの鳴き声は、この時期セプテム国民が日中頻繁に耳にする自然音だった。

「ふーん、やるじゃない。周囲を騙し切れれば目視より状況把握に優れてるわね、それ」

 盲目の音響術師サウンドアーティストにとって、音を発せられない状況下での測距は困難を極める。しかし、潜入工作員ならば音を殺すのは疎か、如何に自己の情報を殺すかが作戦の成否を左右する。この二律背反を成立させるには、もう一つの命題である、如何に欺くかに掛かってくる。ゆえにエフのような盲目の音響術師サウンドアーティストは、膨大な音の持ち札が必要だった。

「あたしも実践に堪え得る程度には音響術サウンドアート、習ってみようかしら」

「よしてくれ、俺の取り柄がなくなっちまうよ」

 寒空の下に他愛のない言の花を咲かせる。背後では依然として狂喜乱舞するティホンを連れ、三人は右端の見張り塔に向かった。


―――


 螺旋階段が上下に伸びる見張り塔、その裏手に三人は居た。するとエフが膝をついて、地面の雪を掻き分け始めた。暫くすると、雑草を疎らに生やした土壌が露わになる。彼はそこに掌を密着させ、魔力を静かに込めた。

「『夕されば、門田かどたの稲葉、訪れて、あしのまろやに、秋風ぞ吹く。かんと鳴け、鞆音アグノストーン』」

 詠唱を終えると、エフは地に着けた掌を通して、拡散する魔力を地中に伝播させていく。

「超音波振動による反響定位エコーロケーションね」

 ウルリカの言葉通り、それは先程行使した『初音《サウンド・ワンド》』とは違い、人の可聴域を超えた超音波。三次元空間の定位には触覚に加え聴覚の利用が不可欠、だが地中ならば平面的な測位で十分だからこそ可能な手法だった。

 地中の測位が完了したのか、エフは地面から手を離し――突如、素早く肘を引き、指をまっすぐ伸ばして、腕を地面に突き刺した。地中で手をモゾモゾと動かす、何かを掴んだか、手を握り締めて力一杯引き上げる。錆びついた鉄と鉄が擦れ合う鈍い音を立てながら、地中に覆い隠された地下道への蓋が開かれた。

「王族専用の逃走経路……確かに各国の王城には必ず用意されてるものだけど、それを市民が知る由もないはず。誰からの入れ知恵かしら?」

「ネストルという男から、とエレイン隊長から聞いている。勇者に肩入れする役人だとか」

「……ああ、そう」

 ネストル――またの名を、サルバトーレ。即ちフェデーレの兄にあたる。

「切っても切れないもの……ね」

 それを縁と呼ぶべきか、皮肉と呼ぶべきか。二人は常にすれ違ってきたようだ。付かず離れず、微妙な距離にあった。

 だが、彼がそれを知ることはないだろう。これまでも、これからも。サルバトーレが明かさない限り。エフの――いや、フェデーレの幸願う彼ならば、決して明かすことなどしないだろう。

 どこか奇妙で、されど深い家族愛。そんな、思い想いが交錯する二人の在り方に、ウルリカの心は哀歓を感じずにいられなかった。

「ほら、行くぞ。大分道草を食ってしまった、急がないとだぞ」

「ええ、そうね。合流したら全滅してただなんて冗談じゃないもの」

「お任せあれよ! 我が聖女! この足、朽ち果てるまで付いていきますぞ!」

 苔生したカビ臭い地下道に入る。人一人分の隘路、煉瓦で組み上げられた洞に、外の光は届かない。ウルリカは指を弾き、再び火を灯す。黙々と、慎重に、だが駆ける。長く続く洞は、まるで永遠にも、一瞬にも感じられた。

 その先にあるのは――人の戦い。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品