マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-087【仕組まれた歴史】

 入口の鉄扉の前に悠然と佇むメルラン。一行の肩越しに、ボブロフを見据えたその瞳は、憂いを帯びていた。翁の訳知りな表情に対し、ウルリカは眉間に皺を寄せる。

「魔術の大老……」

 メルランに向けられた、その言葉、その声には、畏敬の念が込められていた。ゆっくりと、そして確かな言葉で、慎重に発した声の主は、ゴドフリーだった。それに応じて、翁が顔を向ける。

「アナンの末裔よ、その内にくすぶ任侠にんきょうを抑え、よくぞ数多の楔石を導いたのう」

「有難き言葉、痛み入る」

 丁重にお辞儀し、敬意を表する。その様子はまるで、師弟のよう。そして何より、この状況下で冷静に事の次第を飲み込めているのは、この二人と、ネストルと呼ばれる男、そして諦観したように目を伏せるボブロフだけのようだった。ウルリカは状況を即座に分析し推理する。

「……魔術界最高顧問……政府との緊密なパイプ……動向の筒抜け……平行した存在……勇者の後見人……王の側近……卿との師弟関係……あぁ、そう、そういうこと。随分もてあそばれたもんだわ」

 溜息を吐くウルリカ。首を横に振り、ぶっきらぼうに腕を薙いで、水の結界を破裂させた。既に脅威は去ったということ。それは、メルランの出現に起因しているということ。そう、これは――

「……そこのデケェ爺さんが全部仕組んでたとでも言うのかよ?」

「ええ、らしいわよ。あの首脳連中の正体も、メルランの出鱈目レベルの魔術。きっとボブロフの思念を分割して、人形に憑依させてたのね。恐らく……あたし達がこの世に生を受ける前から、この舞台は仕組まれていたんだわ」

 半眼で憂鬱ゆううつに語るウルリカの言葉に、目を見開くアレクシア。彼女の云わんとすることを察してか、苦虫を噛み潰したような表情を湛えながら頭を掻く。それはまさに、上層から下る不条理を飲み込む軍人の態度のよう。

「叔父貴! どういうことですか!? し、仕組んでいた……? 何を……? どこまで……?」

 レギナの嘆きのような問いに、ゴドフリーは複雑な表情を湛える。するとメルランが歩み寄り、ゴドフリーの肩にそっと手を置く、彼の代弁を担うかのように。

「人はのう、水を飲んで楽しむ者もおれば、錦を着て憂うる者もおる。お主らには目的があった、それを果たすため、真の覚悟で運命と対峙してきたわけじゃ。じゃがのう、世界には裏の顔がある。それは決して救いようのないものなんじゃ。真理を解すれば、その眼はきっと曇るじゃろうて。左様なる前に、その清澄せいちょうなる意志のまま、お主らの目的を果たして貰いたかったのじゃ」

 レギナの問いに対するメルランの応えは、そこにいる全員に対する弁明だった。当然、この期に及んで、何もかもをひた隠し続けるその姿勢に、誰も納得などいっていなかった。

「はっ、なーにが俺たちの為だ。結局はあんたたちの為、だろ?」

 皮肉を込めて指摘するアレクシア。ため息を漏らしながら、鉄床をひしゃげて突き立てていた大剣を背中に仕舞い、持続していた魔術《覚醒神経》を停止。身に纏っていた魔力は、そよ風をたてながら霧散していく。

「アレクシア……あんたはこの翁が何を言ってるのか、分かるのかい?」

「詳しいことは分かんねえよ、けど言いてえことは何となく分かる。俺たちゃ要は、連中が企てる秘密の計画とやらの、ピースだったってわけよ」

 そう言い放った彼女の鋭い視線が、メルランを射抜く。

「まあ、加担すんのはこの際いいさ、乗りかかった船だしな。だが何より気に食わねぇのが、こんだけの人間を巻き込んどいて、何一つ説明がねぇってことよ」

 だが、翁の表情は変わらない。説明する気がないことを、暗に物語っていた。

 暫くの沈黙の後、ゴドフリーがレギナの方を振り返る。彼女の眼前に歩み寄ると、相手を穿つかのような表情を湛え直し、口を開いた。

「レギナ、俺が全霊を以て認めよう。貴様という大器あればこそ成し遂げられる大仕事だ。弱冠の身で異邦に降り立ち、二十余年で政界まで上り詰め、貧民にまで落ちた。数々の辛酸を味わってきた貴様だからこそ、骨の髄まで弱者を労われる。貴様なら民衆を”信じられる”のだ」

 その言葉を額面通りに受け取るなら、それは称賛と言えよう。だが対照的に、レギナの胸に込み上げる思いは、不信、孤独、悲哀。それはまるで、突き放されたかのような冷たさだった。

「……“信じられる”とは、あのボブロフと比べて、という意味ですか?」

「……」

 その言葉に、沈黙を以て応えるゴドフリー。それはレギナにとって、真に信頼に足ると見込んでいた男の、裏切りに近い行為。この男は知っていた、この国が、その王が、既に破綻していたことを。そして、この男は、それを救える力を持ちながら、ただ傍観していただけだったのだ。

「ならなぜもっと早く、この国を正しく治めようと為さらなかったのですか!? 叔父貴なら出来たのでしょう? 知っていたのでしょう!? 民草の犠牲をもっと抑えられたことを、この国をもっと早く正せていたことを!」

 彼女の嘆きが木霊する。それは、多くを率い、多くの苦悩を背負い、多くの犠牲を越えてきた者の、正当なる怒りと悲しみだった。

 この訴えは、一面として正しく、しかし、もう一面では不条理であることを、レギナは分かっていた。ゴドフリーという人間の立場を鑑みれば、言っても仕方のないことだ、ということを。

「……すみません。年甲斐もなく、過ぎたことを感情のままにぶつけてしまいしました」

「……構わん、お前の気持ちは理解している。お前が道理を弁えた上で、それでも口にせねば気が済まなかったこともな。今は、吐けるだけ吐き出すがいい」

 レギナは目を伏せ、静かに頷く。

 ゴドフリーは、世界の裏側で戦う人間。裏に潜む者が、表立つことは許されない。だからこそ彼は、表側で戦い得る人材を――レギナ・ドラガノフを傍らで育ててきた。

 そして彼女もまた、ゴドフリーが自らの存ぜぬ土俵で戦っていることを、その委細を知ってはならないことを、暗黙の了解としていた。

 メルランが進み出る。翁が現れてから、一切の反応を示さなかったボブロフの前に立つ。首脳陣……だったはずの人間が一様に崩れ倒れた円卓を、二人の間に挟んで。

「ボブロフよ、この者らと語らいで、見えたものはあったかのう」

 メルランの語りかけに、そっと目を開く。その表情に変わりはなかったが、しかし、その瞳には、僅かばかりの憂いを湛えていた。そんな彼の、人間的な感情の機微に、レギナは息を呑む。彼女の知る限り、この者がここまで人間性を表した姿など、見たことがなかった。

「……メルラン様、私は既に、正しきものを見定める眼など、持ち合わせてはおりません。故に、決意のままに――王位をお譲り致します。レギナ・ドラガノフよ」

「なっ……何!?」

 レギナは耳を疑った。私に王位を譲る、そう言ったのか?

「お、おいおい。んなあっさりでいいのかよ……何か、拍子抜けだぜ」

「……あの口ぶり、仕組んでたってわけじゃなさそうだけど、端っから諦めてたって様子じゃない。尚更タチ悪いわね」

 勇者一行の目的達成。ボブロフの降伏を告げる言葉が、諦観した態度が、それを証明する。確かに目的そのものは達成されたが、晴れ晴れとした気持ちだとは到底言えないものだ。

 そしてレギナにとっては、あまりにも唐突な幕引きとなった。あまりにも唐突に、彼女の願いが、夢が、焦がれた光が、その手の内に置かれたのだ。長く長く、待ち望んでいたはずのものが、こうも容易く。

 なのに、彼女の胸中には、肯定的な感情だけじゃない、あらゆる感情が渦巻いていた――驚き、喜び、怒り、悲しみ――それは、混乱にも似た激情の螺旋。

 命を賭して戦ってきた目的は果たされた、だが何の為に戦ってきたのだ?

 仇敵と定めた男は敗北を認めた、だが奴は手を下さずとも敗北していたのではないか?

 ならなぜこの時なんだ? ならなぜ私を選んだ? まるで生きる骸と果てるまで王に君臨したこの男は、そうまでして何がしたかったんだ?

 疑問は尽きない。しかし、感情がとぐろを巻いていたはずの彼女の脳裏に、ふと一筋の奇妙な冷静さがよぎった。その冷たい思考が語る「わだかまりの全てを紐解くには、猶予がない」と。

「……色々と、聞きたいことはある。吐き気がするほど、山ほどね。だけど、今は置いておくよ。アタシは革命軍の頭だ、上が立ち止まってちゃ下は困るさね」

 レギナは目を瞑ると、両の手で頬を強烈に叩いた。静まり返った玉座の間に、乾いた打音が響き渡る。再び開いたその瞳には、彼女の変わらぬ真っ直ぐな情熱が灯っていた。そして、颯爽と足を踏み出し、ブーツの音をカツカツと鳴らしながら、座するボブロフの隣に付く。

「テメェまさか、このままのうのうと舞台から降りられるなんて思っちゃいないだろうね?」

 隣に顔を向けることもなく、ボブロフは漫然とした口調で、

「……無論です。私の生殺与奪は貴女が握っている。どうぞ、ご自由に」

 目を薄く開けたまま、どこを見るわけでもなく、ただそう呟いた。

 すると、レギナの手が素早く、ボブロフの襟首に伸びる。彼女は烈火の形相となって、勢いよく引き寄せる、目と鼻の先まで近づいたボブロフと対峙する。強烈な語気を孕みながら、

「たった今この場でテメェの首を捻るなんざ、秒も掛からないよ……だけどね、それで晴れるのは、アタシの気だけだ」

 歯を食いしばる、殺意が漏れる、襟首を握る掌には爪が食い込み、鮮血が滴っていた。個人の感情を、必死に押し殺す。そして、彼女の信念からは、想像だにしない言葉を口にしたのだ。

「……テメェをたった今から、宰相に任命する。そのザマであれだけ講釈垂れたんだ、テメェはまだ使えるよ。その身、その頭、朽ち果てるまで使い倒してやるさ……心底、不本意だがね」

 今にも噛みつきそうな烈女を前に、ボブロフは目を見開く。それもそうだろう、彼女の人となりを多少なりとも知っている者からすれば、驚くべきことなのだから。

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