マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-082【その瞳に映るモノ-弐】

 ウルリカの殺気は、およそ少女のものとは思えない膂力りょりょくとなって、アクセルの頭を掴んだ手に込められる。彼女の魔力は、さながら竜巻の如き波濤となり、吐き気を催す程の戦慄せんりつを彼の胸底から引き出した。途端、縛り付けられたかのように身体が強張る、激しい動悸に息苦しさを感じる。

 セプテムの都市を包む寒気など忘れてしまう程の、張り詰めた空気。背筋を突き刺す怖気。忍び寄る、死の気配。アクセルに向けたウルリカの殺意が、単なる脅しではないことを物語る。

 彼は滝のような汗を流していた。乾き切った喉に、生唾を流し込む。総毛立った肌が治まらない。そして、力の入らなかった身体は自ずと、眼前に迫る死を避けようと、自身を掴む彼女の手首を、馴染んだばかりの義手で掴み返していたのだ。その義手は、小刻みに震えていた。

「……そう。まだ生きようとする意思は死んでないようね。いいのよ、それで」

 ウルリカはそう呟くと、アクセルが恐れ慄く程の殺意を解いていく。同時に、周囲を圧殺する魔力の波濤も収まっていき、彼の頭を掴んだ手を離した。今し方まで射殺すかのように険しく研ぎ澄まされていた眼光も、最早鳴りを潜めている。

 その様子を認めると、咄嗟にアクセルも、掴んでいたウルリカの手首を離した。

「あ……ウルリカ……!」

 彼女の手首を見て、目を見開く。無意識に必死な抵抗をしていたのか、そのか細い手首は義手の無機質な形を象って、青紫色に変色していた。

「ごめ――」

 アクセルがすぐさま謝罪しようと、平伏して頭を下げようとする――その額目掛けて、デコピンが飛んできた。

「そういうの、要らないから。時間の無駄。これでおあいこにしましょ」

 痛烈な一撃。頭蓋骨が砕けたかと思えるような衝撃を受けて、アクセルの身体が真後ろに吹き飛ぶ。勢いそのままに、背中を壁に打ち付けた。視界は明滅して眩暈がする、肺に痛みを感じて咳き込んだ。そんな様子に構わず、ウルリカは手厳しい物言いで、説教を続けた。

「てかアンタ結局何も学んじゃいないのね。言っちゃ悪いけど死んで詫びるなんて愚行はね、背負った罪から逃げる一番手っ取り早い方法よ」

 それはアクセルが最初に抱いた感情。そして、レンブラントに、ジェラルドに、ウルリカにたしなめられた方法だった。

「背負った罪を償える機会はね、生きてる間でしか決して得られないの。アンタはその背負った罪から逃げようとしてるだけ。そんなの責任逃れよ。卑怯者以外の何者でもないわ」

 それはアクセルに訴えかけると同時に、自身にも言い聞かせるもの。人類を託された少女の、その責務に対する覚悟表明。

「一度背負った罪が軽くなることはなし、むしろ時が経つにつれて重くもなっていくわ。でもね、咎人ってのはそれを一生掛けて背負い抜くの。それこそが本当の罰、法が定めた罰なんて形だけよ。泣いて、悔やんで、苦しんで。それでも、だからこそ、生きてるうちに何をすればいいのか苦悩し続ければいいのよ。それが贖罪なんだから」

 人なるは、ただ生きるだけで罪を生む。その罪が裁かれずとも、人の心には積もるもの。

 罪を識るは、人の意志。罪を抱くは、人の性。なればこそ、罪を背負って生きるのが人の業。

 だからウルリカは、アクセルに強くぶつかった。人であることに、目を背けるなと。

「言っとくけど、アンタはまだ苦悩していい立場じゃないからね。アンタは、あたしを護るの。あたしがあたしの目的を果たすまで、護り抜くのがアンタの使命じゃない。それを果たすまで、一丁前に苦悩する資格なんかアンタにないんだから」

 アクセルを指差しながら説き込む。己が生き方を悔やむ前に、果たす目的がある、と。

「女王マースに勇者の何たるかを問われてあたしが言った誓詞、覚えてる? 『を厭わず、を尽くし、に背かず』これ、創世神話の英雄が成し遂げた試練から来る“六趣の範嶺りっしゅのはんね”って故事成語よ。あたしはこれを勇者として生きると誓った時、胸に刻み込んだわ。アンタも死の衝動に駆られる度、思い出しなさい。これは血盟よ、いいわね?」

 そう言って、ウルリカは親指を噛んだ。指先から血が滴り落ち、足元に薄く積もった雪を染める。血染めの指をアクセルの額に当てて、血判を押した。

「『汝、忘れることなかれ、失うことなかれ。其は汝が傍らに付き添うもの、其は汝が求めに応えるもの。その度、思い出せリメンバーミー』」

 その詠唱がもたらす魔術は、かつてフェデーレという男に掛けた“認識不詳の呪詛”とは対義の暗示、対象の存在感を強調する“事物誇張の呪詛”と俗に呼ばれる光魔術。それは本来、衆目を集めるためや、商標を世に知らしめるためなど、被術対象の特徴を不特定多数の者に注目させ、頭に刻み込むために専ら用いられるものだった。

 ウルリカはそれを、アクセルが死の衝動に駆られる度、反射的に“六趣の範嶺”なる心得が思い浮かぶ条件的暗示として用いた。血盟という名の、血の契約を以て。

「さ、もう行くわよ。時間、押してるから」

 ウルリカはそう言うと、颯爽と立ち上がろうとする――その手を、アクセルが掴んだ。

「……なに?」

「ごめん――いや、違うよね、こういう時は。いつもありがとう、ウルリカ」

 黒々とした痣を顔に湛えつつも、血色を取り戻したアクセルが、笑顔で感謝を捧げた。

「……ふん」

 ウルリカは鼻であしらうと、掴まれた手を握り返して、座り込んだアクセルを力強く引っ張り上げる。彼女の為すがままに、強引に立たされたアクセル。

 しかし、先ほどのデコピンの影響が残っていたのか、突如として視界がちらつき始めた。飛蚊症を起こし、足元がおぼつかない。引っ張り上げられた勢いそのままに、体勢を崩して、ウルリカの方へと身体が傾いてしまう。

「あ!」

「ちょっと!」

 アクセルは咄嗟に、ウルリカを掴む手を離し、それを彼女の腰に回して抱え込む。もう片方の手を壁に叩きつけ、倒れそうになる身体を支えた。

 崩れかけた体勢を、何とか整えたアクセル。顔を上げると、その眼前には――

「――――」

 吐息が肌を撫でるほど近い、ウルリカの貌。

 これほど近くで、ただの彼女を、見たことがあっただろうか。

「…………」

 それは、少しばかり眉をひそめた、真摯な面持ち。

 それは、主人と従者の関係を踏み越えた、心の距離。

 それは、これまでを共に歩んできた、信頼の温もり。

 それは、すれ違うたび築いてきた、硝子越しの真心。

 およそ、息を呑むまでの、刹那の刻だった。

 けれど、二人にはきっと、長い長い、時の隙間だった。

 そのひと時だけは、全てを忘れられた。罪も、使命も――待ち受ける運命さえも。

「………………」

 そこに言葉はそぐわない。意味あるものは無粋となる。

 二人の心は、触れているから。

 脈打つ鼓動が調和する。自我と他我が混じり合う。

 交わる視線の間には、何者も介在できない。

 引き合うように、釣り合うように、欠けた歯車を補うように。

 二人の間に、紡がれてきた糸を、手繰り寄せる――

「……ーい! おーい! ウルリカー? アクセルくーん? どこー?」

 突如、二人を呼ぶ声。

 否応なく、二人は現実へと引き戻された。目を丸くして、即座に距離を置く。途端、恥かしさがこみ上げてきて、紅潮する二人。今や、互いに目を合わせることもできなかった。

「あ、お、エレイン……目が覚めたんだ。よ、よかったなぁ……」

「あ、アンタ……き、気持ち込もって、ないわよ」

 当て所もない、たどたどしい会話。彷徨う視線、汗ばむ手、地に着かない足。騒つく胸の置き場にも困り果て、二人は忙しなく揺れ動いていた。

「そ、そんなことはないさ。タ、タイミングが悪いなぁ……とか、そんなことは――」

 ――路地裏に快音が木霊する。鋭く正確に入った、ウルリカの回し蹴り。

 脛が砕けたかと思うような痛みに、アクセルは悶絶する。

「あれー? 今なにか音がして……あ! ここに居た! 探したよー二人ともー」

「……え、ええ。遅くなって悪かったわね。あんたらの代わりに、ちょっと軟弱者に灸を据えてたの。これでこいつの不始末、許してやって頂戴」

 ウルリカはエレインから視線を逸らしながら、背中越しにうずくまるアクセルを指差す。

「えぇ……いやいや、そんなのいいのに。なんだか想像以上に無事だったし……アクセル君、大丈夫?」

「あ……はは……だ、大丈夫、ですよ……お気に、なさらず……」

 エレインは屈み込んで、うずくまって動かないアクセルを指で小突いた。痛みで小刻みに揺れるアクセルは、苦悶を堪えながら声を漏らす。

 その路地裏にもう一人の人影。堂々たる立ち振る舞いで現れたのは、レギナだった。

「なんだいなんだい、痴話喧嘩かい? アタシら二人には問答無用で手を上げたってのに、正妻には頭が上がらないってのかいアクセル」

「ちょ、何言ってんのよあんたっ! 違うわよ! こいつがウダウダ情けないこと言ってたから、喝入れてやったってだけ。供人を預かる主人として当然の務めよ」

「はん、素直じゃないねぇ。まあいいさね。アタシらもこれ以上倒れていられないんだ、ちゃんと躾けといておくれよ」

 レギナはカッカと笑いながら戻っていった。彼女の背中を見送ると、エレインも立ち上がる。神妙な面持ちでウルリカに近寄り、ひそひそと小声で話し掛けた。

「ところでウルリカ、見当はついてるの?」

「ええ大凡ね。だから大丈夫よ。あたしがこいつの側にいる限りは問題起こさせないから」

「うーん、妹が頼りになり過ぎて困る」

 ウルリカのその堂々たる言葉に対して首肯するエレイン。しかし、それとは別に、無粋とは分かりつつも、彼女の口角は意図せず次第に上がっていく。ウルリカはそんなニヤリと笑みを湛えた姉の胸懐に気付き、ムッとして外方を向いた。

「クフフッ――あ、それより……そろそろ戻らないと。サルバトーレの旦那がカンカンだよ~」

「あいつはいいのよ。どうせ内と外がチグハグな奴なんだから」

「んー、確かに。ちょっと分かるかも」

 エレインは大きく伸びをして、頬を軽く叩いた。

「よし! 久しぶりにいっぱい眠れた! じゃあ、僕は先に行って待ってるね。早めに来てよ! 怒られるの僕たちなんだから!」

「ええ、分かってるわよ。すぐ行くわ」

 エレインは手を振って、小走りでその場を後にした。

 後に残された二人。ウルリカは手を組んで、壁に肩からもたれ掛かる。一つ、溜息を吐いた。

「……いつまでそうしてるつもり?」

 アクセルがわざと身体を丸めているのでは、とウルリカは踏んでいた。だが、

「……いや、ウルリカ……わざとじゃ、ないんだ……ちょっと、動けない」

「え? あ、あらそう。そんなに強く蹴りすぎたかしら」

 ウルリカはこめかみを掻いて、ばつの悪い表情を湛える。アクセルの傍で膝を折り、彼の腕を肩に回して、担ぎ上げる。アクセルもまた、ウルリカに身体を預けた。

「悪かったわね。肩、貸すわ。一先ず戻りましょ」

「うん……ありがとう、ウルリカ」

「…………ま、いいんじゃない? その腕、おもむきあるわよ」

 既に、先ほどまでの恥じらいは消え去ったようだ。信頼する仲間として、共に歩む友として、互いを尊ぶ関係へと戻っていた。それはとても、心地の良い間柄だった。

 琴線の触れ合った感覚を思い起こす。それはきっと、互いの確かな心だったのだろう。嘘も、強がりもない、真心だったはず。そう回想すると、次第に恥じらいの感情が戻ってくるので、止めた。

 もしかして、いつものこの関係の方が性に合っているのでは? そんなことを胸中に抱きつつ、二人は小雪舞う道を行く。その冷たさは、火照った頭を静めるには都合が良かった。

 それは、束の間の小休止。まもなく、人類の命運が輪転を始める。

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