マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~
Log-033【虎穴に入りて独り-弐】
「――嘘、嘘でしょ……?」
「……おい嬢ちゃん、さっきの男じゃあない。誰だ“こいつ”は」
瞳を大きく開いたウルリカ、開いた口は塞がらない。
信じられないものを見た、あるいは眼前の事実を信じたくない、という表情を湛えていた。
一方のサルバトーレには、実際に“男”の記憶が無かった。だが、ウルリカの表情から察するに、只ならない事態へと陥ったのだと悟る。何より、周囲を覆っていた結界が目に見えて薄まり、殆ど消えかかっていたのだ。既に彼女の精神状態は、結界に気を配るほどの余裕を失っていた。
固まる彼女の肩を揺さぶりながら、サルバトーレは檄を飛ばす。
「らしくもねぇ、なにやってんだテメェ! 目の前の奴がさっきの野郎じゃねえってことは、まだ“どこかに潜んでいる”ってことだろうが! テメェだけの命じゃねぇんだ!」
ウルリカはその苛烈な言葉に、ハッと我に返った。
意識の跳ね返り際、間髪入れず結界を整え直すと、サルバトーレの忠告通り、周囲に飛び散っていた液体金属が、途端に蠢きだした。その飛沫は無数の鋭利な針となって収斂していき、『それ』は剣山となってウルリカたちに飛び掛る。
あと僅かでも長く、意識が結界から離れていたならば、誰一人即死を免れないほどに、圧壊せんとする波濤として押し寄せてきた。明らかに質量保存則を超えた、眼前一面に聳える針の壁。それはまさしく、大口を開けた“鉄の処女”。
再び、膨大な魔力の相剋によって引き起こされる電弧が、眩い閃光を放ち、そこに生じた魔力の奔流が暴風となって、辺り一帯を破砕していく。
「やはり素晴らしい! 君ならば一時の感情になど流されないと信じて演出した甲斐があったというものだ!」
ティホンの姿は未だ見えなかったが、その声はどこからとも無く聞こえてきた。
「さあ、私の舞台はたった今山場を迎えた! ウルリカ、君はどんな舞踏を興じてくれるんだ?」
「……あんたの言う舞台、それ頭でっかち尻つぼみって言うのよ。その自己陶酔した頭に叩き込んどきなさい。全く、自称演出家がこれじゃ世話無いわね。興醒めも甚だしいわ」
「ほう、随分と余裕じゃあないかぁ? ウルリカ」
「第一あんた、魔法の禁忌を犯しといてこの程度? まあ、言っといてなんだけど、あたしも禁呪だとか掟だとか別に興味ないわ。けどね、国際指名手配級の危険を犯しといて、即席で組んだ結界すら破れないあんたが、憚りもなくあたしを“試す”だなんて」
ウルリカがそう言い終えた、その瞬間、彼女の足元から白く発光する光芒が、まるで回路のように、地面に沿って規律正しい線を結んでいく。
「身の程を知りなさい、凡骨」
その光の筋は瞬時に平面から立体へ――地面へ、壁面へ、空間へと張り巡らされていく。
「あたしはね、試されるだとか、指図されるだとか、縛られるのがとにかく嫌いなの」
それは地下室だけに留まらず、建物全域にまで伸びていく。辺り一帯は、あたかも巨大な集積回路によって構築された、演算器の内部構造といった様相を呈していた。
「――平伏しなさい」
そう言い放った直後。あらゆる神秘の術は、そこに“静止”した。
今もって吹き荒れていたはずの魔力は、ピタリとその流れを止める。液体金属の『それ』も、その形状を留めたまま――まさしく眼前に迫り掛からんとする様相のまま、その動作のみが凍結していた。文字通りの“静止”。
ウルリカは自身の手を伸ばし『それ』の一端に触れる。すると、先程まで鋼鉄の如き硬度を持っていた『それ』が瞬時に液体へと変化し、地面に零れ落ちていく。
眼前を覆っていた、そそり立つ剣山の如き鉄壁が、元の液体金属へと還る。視界が開けたその向かいには、壁に寄りかかり腰を落として、ぐったりと項垂れる“男”がいた。
瓦礫が積み重なり傾斜となった地面をゆっくりと下り、ウルリカは“男”の側へと歩み寄る。彼の右手は跡形も無く吹き飛んでおり、全身の皮膚も焼け焦げていた。そして、彼のその眼窩には、眼前の主人を映す眼すらも――。
辛うじて息はある。ウルリカの気配にも微かな反応はある。だが、残された時間は決して長くない。彼女は“男”の頬に手の平をあてがう。
その仕草は、彼女を理解した者が知る、彼女のどんな側面よりも、優しさを帯びていた。
「……あなたの名前は、フェデーレ・ルチアーノ。フェデーレ、あなたは立派にその任を全うした。フェデーレ、あなたに渡した呪物は、あなたによって起動されなければ、あたしはこうやって見送ることも出来なかったわ」
三度、フェデーレと呼ばれた男は、失った右手とは対照的な、健在な左手を、自らの懐に入れていた。その左手が懐から力なくスルリと抜け落ちると、その手にはウルリカの言う、呪物と思しき物体が、いまだに力強く握られていた。
それは、金属に似た光沢を湛えた、正六面体の物体。各面には所狭しと刻まれた呪文と回路図。呪物が動作していることを示すかのように、刻まれた呪文と回路図の軌跡に沿って、淡く青白い光が零れていた。
「フェデーレ……フェデーレ、だと……!? なぜ……なぜ俺は、今の今まで気付かなかったんだ……!?」
サルバトーレは酷く動揺していた。それもそのはず、フェデーレという男は、
「そう、あんたの弟よ。とはいえ、あんたには眼中にも無かった人間でしょうけどね。彼の魂の性質、要するに固有天性は、際立った儚さ、強烈な影の薄さ。誰もが彼に気付けない、およそ記憶にすら定着しない、恐るべき隠密性を持っていたの。あたしはその固有天性を更に引き出した。そして、完璧な密偵として利用したわ」
フェデーレの固有天性『果無者』は、およそ密偵や暗殺者といった、自己の情報漏洩を最小限に抑える必要のある者が持つべき、自身の特徴を削ぎ、影を薄くする、生来の存在感の薄さ。有り体に言えば、時間・場所・状況を問わず、空気に馴染める性質。それを秘めるがゆえに、彼は今まで“男”としてしか認識されなかった。
ウルリカはフェデーレが組織に加入した時点で、既にその資質を見抜いていた。そのため彼女は、その特異性を最大限発揮させるため、一つの強い暗示が掛けた。曰く“認識不詳の呪詛”と俗に呼ばれる呪いの類の闇魔術。文字通り、被術対象を他者から隠蔽する効力を持つ。解除方法は、術者によって短時間に三度、その名を呼ばれること。
そして、彼が愚者だったことが、これと上手く噛み合った。従属する世界に対して抵抗せず、あらゆる事物をすんなりと受容できる。そして、そんな彼を、あらゆる物事がすんなりと受容できたのだ。
計画の初期段階から、彼をルカニアファミリーの組員としても活動させていた――誰の記憶にも残らない密偵として。
「サルバトーレ、あんたも知っての通りフェデーレは愚者と言っても差し支えない男よ。賢明さなんて欠片もない。でもね、反面彼にも優れたところがあるのよ。それは、命令を遵守するってところ。だから彼には密偵として手厚く手引きしたわ。そして見事にルカニアファミリーの裏を取ってみせた。そして、最後の、最期まで――あたしの言い付けを守り通したの」
そう言い終えると、フェデーレに膝を付いて寄り添っていたウルリカは立ち上がり、サルバトーレの方を振り向く――と同時に、腰に備えた杖を抜き、その切っ先を彼に向けた。
「……おい嬢ちゃん、さっきの男じゃあない。誰だ“こいつ”は」
瞳を大きく開いたウルリカ、開いた口は塞がらない。
信じられないものを見た、あるいは眼前の事実を信じたくない、という表情を湛えていた。
一方のサルバトーレには、実際に“男”の記憶が無かった。だが、ウルリカの表情から察するに、只ならない事態へと陥ったのだと悟る。何より、周囲を覆っていた結界が目に見えて薄まり、殆ど消えかかっていたのだ。既に彼女の精神状態は、結界に気を配るほどの余裕を失っていた。
固まる彼女の肩を揺さぶりながら、サルバトーレは檄を飛ばす。
「らしくもねぇ、なにやってんだテメェ! 目の前の奴がさっきの野郎じゃねえってことは、まだ“どこかに潜んでいる”ってことだろうが! テメェだけの命じゃねぇんだ!」
ウルリカはその苛烈な言葉に、ハッと我に返った。
意識の跳ね返り際、間髪入れず結界を整え直すと、サルバトーレの忠告通り、周囲に飛び散っていた液体金属が、途端に蠢きだした。その飛沫は無数の鋭利な針となって収斂していき、『それ』は剣山となってウルリカたちに飛び掛る。
あと僅かでも長く、意識が結界から離れていたならば、誰一人即死を免れないほどに、圧壊せんとする波濤として押し寄せてきた。明らかに質量保存則を超えた、眼前一面に聳える針の壁。それはまさしく、大口を開けた“鉄の処女”。
再び、膨大な魔力の相剋によって引き起こされる電弧が、眩い閃光を放ち、そこに生じた魔力の奔流が暴風となって、辺り一帯を破砕していく。
「やはり素晴らしい! 君ならば一時の感情になど流されないと信じて演出した甲斐があったというものだ!」
ティホンの姿は未だ見えなかったが、その声はどこからとも無く聞こえてきた。
「さあ、私の舞台はたった今山場を迎えた! ウルリカ、君はどんな舞踏を興じてくれるんだ?」
「……あんたの言う舞台、それ頭でっかち尻つぼみって言うのよ。その自己陶酔した頭に叩き込んどきなさい。全く、自称演出家がこれじゃ世話無いわね。興醒めも甚だしいわ」
「ほう、随分と余裕じゃあないかぁ? ウルリカ」
「第一あんた、魔法の禁忌を犯しといてこの程度? まあ、言っといてなんだけど、あたしも禁呪だとか掟だとか別に興味ないわ。けどね、国際指名手配級の危険を犯しといて、即席で組んだ結界すら破れないあんたが、憚りもなくあたしを“試す”だなんて」
ウルリカがそう言い終えた、その瞬間、彼女の足元から白く発光する光芒が、まるで回路のように、地面に沿って規律正しい線を結んでいく。
「身の程を知りなさい、凡骨」
その光の筋は瞬時に平面から立体へ――地面へ、壁面へ、空間へと張り巡らされていく。
「あたしはね、試されるだとか、指図されるだとか、縛られるのがとにかく嫌いなの」
それは地下室だけに留まらず、建物全域にまで伸びていく。辺り一帯は、あたかも巨大な集積回路によって構築された、演算器の内部構造といった様相を呈していた。
「――平伏しなさい」
そう言い放った直後。あらゆる神秘の術は、そこに“静止”した。
今もって吹き荒れていたはずの魔力は、ピタリとその流れを止める。液体金属の『それ』も、その形状を留めたまま――まさしく眼前に迫り掛からんとする様相のまま、その動作のみが凍結していた。文字通りの“静止”。
ウルリカは自身の手を伸ばし『それ』の一端に触れる。すると、先程まで鋼鉄の如き硬度を持っていた『それ』が瞬時に液体へと変化し、地面に零れ落ちていく。
眼前を覆っていた、そそり立つ剣山の如き鉄壁が、元の液体金属へと還る。視界が開けたその向かいには、壁に寄りかかり腰を落として、ぐったりと項垂れる“男”がいた。
瓦礫が積み重なり傾斜となった地面をゆっくりと下り、ウルリカは“男”の側へと歩み寄る。彼の右手は跡形も無く吹き飛んでおり、全身の皮膚も焼け焦げていた。そして、彼のその眼窩には、眼前の主人を映す眼すらも――。
辛うじて息はある。ウルリカの気配にも微かな反応はある。だが、残された時間は決して長くない。彼女は“男”の頬に手の平をあてがう。
その仕草は、彼女を理解した者が知る、彼女のどんな側面よりも、優しさを帯びていた。
「……あなたの名前は、フェデーレ・ルチアーノ。フェデーレ、あなたは立派にその任を全うした。フェデーレ、あなたに渡した呪物は、あなたによって起動されなければ、あたしはこうやって見送ることも出来なかったわ」
三度、フェデーレと呼ばれた男は、失った右手とは対照的な、健在な左手を、自らの懐に入れていた。その左手が懐から力なくスルリと抜け落ちると、その手にはウルリカの言う、呪物と思しき物体が、いまだに力強く握られていた。
それは、金属に似た光沢を湛えた、正六面体の物体。各面には所狭しと刻まれた呪文と回路図。呪物が動作していることを示すかのように、刻まれた呪文と回路図の軌跡に沿って、淡く青白い光が零れていた。
「フェデーレ……フェデーレ、だと……!? なぜ……なぜ俺は、今の今まで気付かなかったんだ……!?」
サルバトーレは酷く動揺していた。それもそのはず、フェデーレという男は、
「そう、あんたの弟よ。とはいえ、あんたには眼中にも無かった人間でしょうけどね。彼の魂の性質、要するに固有天性は、際立った儚さ、強烈な影の薄さ。誰もが彼に気付けない、およそ記憶にすら定着しない、恐るべき隠密性を持っていたの。あたしはその固有天性を更に引き出した。そして、完璧な密偵として利用したわ」
フェデーレの固有天性『果無者』は、およそ密偵や暗殺者といった、自己の情報漏洩を最小限に抑える必要のある者が持つべき、自身の特徴を削ぎ、影を薄くする、生来の存在感の薄さ。有り体に言えば、時間・場所・状況を問わず、空気に馴染める性質。それを秘めるがゆえに、彼は今まで“男”としてしか認識されなかった。
ウルリカはフェデーレが組織に加入した時点で、既にその資質を見抜いていた。そのため彼女は、その特異性を最大限発揮させるため、一つの強い暗示が掛けた。曰く“認識不詳の呪詛”と俗に呼ばれる呪いの類の闇魔術。文字通り、被術対象を他者から隠蔽する効力を持つ。解除方法は、術者によって短時間に三度、その名を呼ばれること。
そして、彼が愚者だったことが、これと上手く噛み合った。従属する世界に対して抵抗せず、あらゆる事物をすんなりと受容できる。そして、そんな彼を、あらゆる物事がすんなりと受容できたのだ。
計画の初期段階から、彼をルカニアファミリーの組員としても活動させていた――誰の記憶にも残らない密偵として。
「サルバトーレ、あんたも知っての通りフェデーレは愚者と言っても差し支えない男よ。賢明さなんて欠片もない。でもね、反面彼にも優れたところがあるのよ。それは、命令を遵守するってところ。だから彼には密偵として手厚く手引きしたわ。そして見事にルカニアファミリーの裏を取ってみせた。そして、最後の、最期まで――あたしの言い付けを守り通したの」
そう言い終えると、フェデーレに膝を付いて寄り添っていたウルリカは立ち上がり、サルバトーレの方を振り向く――と同時に、腰に備えた杖を抜き、その切っ先を彼に向けた。
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