マギアルサーガ~うたかたの世に幕を引け~

松之丞

Log-025【神童の深き谷底-壱】

 この世はどうしようもなく不平等だった。

 謂わば上位者1%によって、残り99%は支配されている、そんな世界。

 幾星霜を経ても変わることのない人の世の常に気付き、心底辟易へきえきとしたのは十歳の頃だろうか。

 彼女は、生まれもっての上位者だった。家柄も、地位も、そして彼女自身の素質も。

 大陸の南端にある王国アウラは、ヴァイロン王から枝葉に連なる、多大な王侯貴族が実権を握り、国家国民を統治していた。

 その中にあって、武勇に誉れ高いローエングリン家は権力を欲することなく、先祖から代々に渡って武を研磨することに心血を注いでいた。また、貴族の尊き観念“相応の義務を果てしてこその富貴ノブリス・オブリージュ”を現在に引き継ぐ、数少ない貴族でもあった。

 それゆえに、ヴァイロン王とその眷属からは高い信頼を勝ち得ていた。対して、諸侯から目の敵とされたのは言うまでもない。

 城郭都市アウラの中心地から郊外に向かい、地平線が見えるほどだだっ広い平原が広がる只中に、一際目を引く邸宅が建っていた。それこそがローエングリン家の代々住まう邸宅であり、俗世間からはみ出した風変わりな家柄を表していた。

 邸宅の前には、毎朝馬車が停まっていた。優秀な学徒として名を馳せる当家の姉妹は、その馬車に乗って、アウラの都市中心に置かれた学舎へと向かうのが、毎日の光景となっていた。

 しかしいつからか、姉妹の一人の姿を見なくなった。

 まだ年端もいかない彼女は、利口すぎたがゆえに道を外した。そして優秀すぎたがゆえに、決して消えない心の凝りを抱えていたのだった。


―――


 薄暗く湿った路地の裏。そこは社会の枠組みからはみ出した者共の巣窟となっていた。

 悪意の吹き溜まり、そう蔑まれた彼らは世間一般に云う、堕落した世界の住人。暴力と犯罪が平然とまかり通る日の当たらない地下世界は、しかし、ある種の統制がなされていた。犯罪組織の統率により、この世界は一つの社会を作り上げていた。実社会の裏側にあり、影として、闇として存在する裏社会。

 マフィアと呼ばれる裏社会を取り仕切る組織集団は、本来実社会の圧迫に対する不信感や反発によって生まれた犯罪結社だが、それは時代とともに移ろい行くもの。

 それらは、金銭や権力といった、利益にありつくために、実力主義の世界で生き抜いてきた。そこで磨かれた自らの特殊な能力と人脈を、時として実社会の狡猾こうかつな権力者が他者を貶める目的のために貸与する。それが更なる利益を産み、組織を、裏社会を拡大させた。

 彼女が表社会を見限ったのは、そんな歪んだ欲望によって国家は支配されていると感じたからだった。

 彼女が十代に差し掛かった頃。退屈な教育機関からは次第に離反していき、いわゆる悪友と呼ばれるような人間と連むようになっていった。家に帰ることも少なくなっていき、裏社会へと足を運ぶことも増えていった。

 彼女は他人に心を開くことなど決してなかったが、そこでは“絶対的な優等生”を演じる必要がなかった。実力により周囲を屈服させられ、実力さえあれば自由であることが許された。貴族である彼女には衛生的な居心地は悪かったが、精神衛生面においては、今までと比べて遥かに過ごしやすかったのだろう。

 彼女が十二歳の時には、既に幾つかの非行集団を統率していた。

 彼女に唾を吐いた者は例外なく、その遥かに開く実力によって鼻面をくじかれた。

 誰も彼女を二度と見下すことができないよう、完膚なきまでに叩き潰されたのだった。


―――


 そこはアウラの中央市街地から西に離れた労働者住宅街。

 治安はとても良いとは言えず、日の当たらない裏手に入れば、薬の売人が薄笑いを浮かべ、酒瓶と注射器が無数に転がり、売春婦の嬌声が聞こえた。

 辺り一帯はマフィアの目が行き届いており、行政機関も簡単には入り込めない。表立った犯罪自体は多くないものの、民間事業やそれが行う商売内容、物流や公的機関に至るまで、その大部分にはマフィアの息が掛かっていた。

 その労働者住宅街の一角、出稼ぎ労働者などといった貧困層が住まう、三階建ての集合住宅が建っていた。長らく手を付けていないのだろうレンガ造りの外壁は薄汚れ、所々剥がれ落ちていた。中でも賃貸料金の安価な一階には、素性が判別できない人間が暮らしていた。

 そこに、一人の若い男が紙袋を持って住居に入っていく。一階の奥まった角部屋、鍵の壊れた木製の扉は、装飾の無い簡素な作りで、唯一の装いだったはずのドアノッカーは壊され、その痕跡だけが残っていた。

 男は手の甲でノックを二回、その後に三回、間を置いて再び三回。そして男は、今にも外れ落ちそうなドアノブに手を掛けて部屋に入る。

「姐さん、今帰った」

 昼間でも薄暗い室内。明かりを灯すこともなく、足元に注意しながら、男は居間に続く短い廊下を進む。ただ、男にとって不思議なのは、以前ならゴミと埃だらけで脚の踏み場もなかった廊下は、今では嘘のように整然としている。男が足元に注意するのは、それが癖となっていたからだったが、現在では注意するほどの障害物などなかった。

 それもこれも、この男が「姐さん」と呼ぶ、年端もいかない少女が、ここに居座るようになってからだ。

 居間の扉を開く。中央に大人四人ほどが座れる机と椅子が置かれた、他に何の飾り気もない部屋。ほんの小さな窓から僅かに木漏れ日が差す様は、一見すると牢屋のようだった。その僅かな木漏れ日を利用して、分厚い本を読み耽る、一人の少女が椅子に腰を掛けていた。

 これもまた、男にとっては不思議な光景だった。彼の集団内に居る人々とは、あまりにもかけ離れた、ある種の高貴さが彼女からにじみ出ていたからだ。

 決して今の彼女は、お高く止まった身なり格好をしているわけではない。近隣住民と同様に、ウール生地のゆったりとしたチュニックに、動きやすく丈夫だからと穿いたデニム地のズボンと、薄汚れたワークブーツ。化粧っ気の一つもない面差しに、紫苑しおんの髪を二つ結いで束ねる。その姿はまるで素朴な農村に住まう、質素な家庭の少女のよう。しかし、それでも隠し切れない貴さを持つ彼女のような人間こそが、真に貴族と呼ばれるべきなんだろう、と男は見入っていた。

「――何?」

 男が無言で立ち尽くしていたのが気に障ったのか、少女は不機嫌な物言いで男に問い掛ける。

「あ、いや……頼まれたものを」

「ありがと。そこ、置いといて」

 少女はぶっきらぼうにそう言って、再び目線を本へと向ける。男は気まずさを感じながら、机に紙袋を置いて、中から不格好な細長いパンを一つ取り出す。少女とは対角線上の椅子に座り、脚を組んで食べ始める。男にとっては、痛いほどの静寂が辺りを包んでいた。だが、少女は気にも留めていない様子だった。

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