豆腐メンタル! 無敵さん

仁野久洋

八月一日留守無敵④

 ――などと、きれいに締めている場合ではなかった。
 無敵さんの言っていることは荒唐無稽支離滅裂なように思えて、その実しっかりと筋が通っている。無敵さんの自殺法は、結論こそ常軌を逸しているものの、理路整然とした思考によって導き出されているのだ。
 無敵さんは、バカではない。それだけは分かった。多分、いや、きっとそうに違いない。なにしろ、俺は人を見る目には自信があるから。「こいつは自分のことしか考えていないヤツだ」と思っておけば大体合ってる。ソースはリチャード・ドーキンス。遺伝子が利己的なんだからみんなそうなって当然だし。
 まぁ、俺がこんな風に思っていることなんて言わないけど。一度クラスの女子に話したら、「ホズミって悲しい人だね」って憐れむように言われたからな。


 そんな俺の悲しい過去は置いといて、無敵さんが本当にバカではなかった場合、結構最悪かもしんない。なぜなら、ただのバカなら放っておいても問題ないし。「良く考えたら、あたし、サバンナなんて行けないよぅ。てへぺろ☆」なんて照れながら、帰って来る可能性が高いからだ。


 しかし、無敵さんはバカではない。多分。


 彼女は、きっと今の一瞬で、サバンナへ渡る方法をもきちんと考えている。多分、パスポートもあればお金もある。アフリカ行きの飛行機に乗るのなんて、東京駅で乗り換えするよりも簡単だ。この高校にいる時点で、英語だってそこそこ出来るんじゃないだろうか。英語はどこでも通用する。英語が分かれば、世界中、ほぼどこの国にだって行けるのだ。と、ここまで考えるのに五秒ほど経っていた。無敵さんはすでに留守先生の眼前、教卓前を風のように横切ったところだ。


「意外とヤバくないか、これ?」


 と、無意識に。俺は誰にともなく呟いていた。
 カチッ。
 その時、頭の中で、音がした。


「来た。まただっ……」


 瞬間、教室の前側出口へと疾走する無敵さんの動きがスローになる。ゆっくり、ゆっくりと無敵さんの髪がたなびく。


 人は良く「周りの景色がスローモーションになった」と事故に遭った瞬間を証言する。危機に際して人の生存本能が研ぎ澄まされ、脳に多量の血液が巡り、処理能力が飛躍的に向上するからだ、などと言われてきたが、本当のところは全くの逆。
 出血を最小限に抑えることを最優先と判断した脳は、その他の機能を遮断する。結果、脳への血流が減少し、映像処理がコマ送りのようになる。
 これは《タキサイキア現象》と呼ばれる、脳の誤作動なのだ。
 しかし、俺の“これ”は、それとは違う。「じゃあなんなんだ?」と聞かれても、それは俺にも分からない。そもそも、今も別に生命の危機になどさらされていない。
 ただ、“ヤバい”と思った時。
 頭の中で音がして、俺の周りがスローになるだけなのだ。


 スローモーションの中、反応が見られるヤツはいなかった。ここで無敵さんを止めに走れるのは、俺しかいない。そういうことになるだろう。
 いやだなぁ。そんなことをしたら目立つじゃないか。
 俺はゆっくりと考える。他の人間には一瞬の時間でも、俺にとっては五分くらいはある感覚だ。ここで動くべきか動かざるべきか? 今後の学園生活で失敗しない為にも、熟考する必要がある。
 クラスメイトが自殺する為に教室を飛び出そうとしている。普通の人間であれば、考えるまでもなく止めに行くことだろう。


 だがしかし。俺は生憎と普通じゃあない。いや、”普通じゃあなくなった”。


 俺はそれを自覚している。だからこそ普通になりたいと願うのだし、目立ちたくないとも考える。多くの人間が《平均》と考える枠に収まり、その真ん中で安心したい。誰にも凄く好かれたりせず、誰にも強烈に恨まれたりもしない。緩くて温くてありきたりな、誰もが当たり前に享受出来得る平穏無事な学園生活を送りたい。俺の願いはそれだけだ。


 普通じゃなかった中学校生活を、俺は二度と繰り返したくはないのだ――


 ――だから、放っておけばいい。誰も動けないような状況なんだ。俺が動かなくても、誰も責めたりはしない。無敵さんも、他のやつらも、今日初めて会ったクラスメイトの一人にすぎないんだ。
 瞬間、脳裏に中学時代の同級生の顔が浮かび上がった。


『ホズミくんて凄いね。どうしてそんなことまで分かっちゃうの?』


 やめろ。


『ありがとう、ホズミ。お前がいなかったら。お前があの時、ああ言ってくれなかったら』


 やめてくれ。


『調子に乗るなよ、オト。そっとしといた方がいいことだってあるんだぜ』


 分かっている。


『オト。お前は正しい。いつもいつでも正しいさ。でもな。正しいことをしたからって、みんなが幸せになれるとは限らないんだぜ』


 もう、分かっているんだ。俺は、それを知っている。


『正論のナイフで、滅多刺し、ってやつだな。はは。お前は僕をどうしたいんだい、ホズミ』


 分からない。どうしたいなんて思ってなかった。俺は。俺は、ただっ……。


『うん。私もそう思う。でも、無理だよ。だって、みんなまだ子どもだもん。嘘が甘やかで、真実が厳しいだなんてこと、まだ理解出来るはずないよ』


 あざみ。久しぶりだな、莇。お前の顔が浮かぶなんて。


『でも、私には分かるよ。ホズミくんが、誰よりも優しいんだってこと。真実は厳しいけれど、だからこそ、それを知らせる人は本当に優しいんだってことも』


 莇飛鳥あざみあすか。まだ、最後に会ってから、一カ月も経っていないはずなのに。


『だからね』


 ああ、莇。その先を言うのは、やめてくれ。


『間違っているのは、みんなだよ。私を含めた、みんななの。でも、そんなの当たり前だし、悪いことじゃないんだよ。だってそうでしょう? 自分を守って、何が悪いの? 居心地のいい場所にいて、誰が困るっていうの? 私は、オトを許さない。正しいオトを、許さない。真実の優しさが残酷だっていうのなら、私はそんなもの欲しくない!』


 悪かった。そうだ。悪いのは俺だ。お前を泣かせるようなことが、正しいわけがないじゃないか。
 やはりそうだ。正しいこと。それは人の心を掘り起こす。心の深く深くに沈めていた、醜いところも汚いところも無理やりに掘り起こして引きずり出し、白日の下に晒して見せつける。


『だから』


 と、記憶の中で莇が微笑む。


『負けないで。私みたいな間違った人たちに負けないで。間違いを寛容するこの世界に。正しい人が糾弾されるこの世界に。せめて。せめて、オトだけは……、私にとっての、白馬の王子さまでいて欲しい。私の、大好き、な、オト、だけは……、』


 莇飛鳥の潤んだ瞳が煌めいた。





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