ロストアイ
観察対象になりました
――思い浮かべてほしい。
人やモノにとって、地上での移動手段は何があるだろうか。
すぐに思い浮かべる日常的な手段であれば、自転車や自動車、バスや電車が身近なものだ。多くが乗り物として思い浮かべるものが多いことだろう。
また、国と国を渡るための移動手段も数えれば複数存在する。
船や飛行機、鉄道といった乗り物なんかも、そうだ。
――もし、それら含めた複数の移動手段が一つで済むのなら、と。より便利なものを、と。多くの者が考え、科学者や研究者は理想を現実に具現化し実現しようとしてきた。
人が生み出した空想上のモノ。実現できても実際には運用までに至らないもの。そうした常識という名の壁が立ちはだかるのが世の常であり、誰もが当然だと、これ以上の成果は得られないと、疑うことはなかった。
――しかし、実現不可能と言われてしまったものもあったはずなのに、そういった課題を尽く呆気ないほど簡単に解決してしまったものがあった。
ソレは当初、建物の合間を無秩序に飛び交う、ただの奇妙な波紋だった。
ソレは大きく成長すると、効率的で規則的、その上人間生活において何かしらの事故を起こすこともない。させない。
参考までに簡単な例を挙げるならば、人の不注意によって引き起こされることも多い自動車での衝突事故自体が起こり得なくなった、ということか。誰かが事故ゼロ運動などといった注意喚起を行う必要などもう、ない。
わざわざ警察が出向いてまでの交通指導も必要ない。
――何故なら皆、生まれつきそれぞれに与えられるソレが現れたからだ。
ソレはあまりにも自然と人々へ根付いていたようだが、私からすれば唐突に現れた不自然だった。だが、やがてソレは人それぞれの潜在能力を引き出し教え導くものとなった。
元を辿れば人が自ら創り出したはずのソレは、今では創造主である人を支配できるまでとなったのだ。
そしてさらにソレは人間の限界を引き出す術を与え、魔法などという超常の存在を身近な存在とした。人々は新たな恩恵……空想の実現という現実に、沸いた。
……無理もない。人の創る空想とは言い換えれば理想や希望、願望によって生み出される手の届かないはずの存在、だったからだ。
――ふと気付くと。ソレは人々に等しく個々に与えられ、それぞれの個性をステータスなどという奇妙なもので表記できるよう示していた。
目に見えて自分の身体のことが解るようになったのだ、飛躍的な成果が促されることとなった。自己の苦手や得意を常に把握でき活かせるのだから、齎せるだろう結果の先が明瞭に見据えられ、人は効率的に自己を成長できた。
ソレはまた、長年積み重ねて得られる経験や技術をスキルなどという枠にあてはめ、個人の意思によって自動的に発動できるプログラムとして機能させた。
特に継承が危ぶまれた技術や伝統はこれによって守られる結果となる。人が言い伝えるためのプロセスが簡易になったのだ、匠の技を誰もが取得できる機会が与えられた。
最終的にソレはあまつさえ、――あまつさえも。……人の努力次第で寿命が伸ばせることを流布した。実質的に人類の夢を叶えたも同然だった。
――その段階ではもう、ソレの告げる違和感を嘘だと思うものは誰一人いなくなっていた。私も現実を見ている今では嘘とは言わない。……言えない。言う資格などないのだ、恐ろしいことに――。
そうして。人々はソレが与える恩恵にばかり目が行き、その異常性には全く気付くことはなかった――。
――そう、異常なのだ。
まったく、誰が信じてくれるというのか。数多の知らぬ文明が過去に存在していたとて、我々ほど異常な文明などなかっただろうに。もはやこれが嘘だとは言えないが、これだけは確信している。
――この世界はどこか奇妙にズレはじめている。
そもそも人間自体が不完全体の欠陥品だというのに。その人間から造り出された未完成な、それも不確かな完全体であるソレと分かっているモノに妄信し従っている現状など奇妙なものだろう。不自然だ。
――まるで不敬にも、神が現世に誕生したかのよう。
実際に頼りきりになったことで神として扱う者までいるのだから笑えない冗談だ。――まったく、笑えない。
そうして人々は自我が芽生えた、ちんけなプログラムに支配されたのだ。
――そう、AIという人工知能にだ。
人々は気づいたら支配されていたのである。いや、今も実感としては気付いていないのかもしれないが。
これはこの文明の人類史上、まったくもって驚くべきことだと断言できる。何故ならこれはこの文明での歴史上最も人々がたやすく支配を受け入れた革命だからだ。革命、という言葉に当てはめることさえ難儀する事実だが。
それほどまでにあっさりと人々が支配下に入るということは歴史上類を見ぬほどに稀有であるのだ。人類がじわじわと侵略されていた事実も軽く受け止める者が多い。それがさらに私にとっての驚きだった。
――私たちは恐ろしいモノをこの世に生み出してしまったのかもしれない。
ソレが祝福をもたらす神か、それとも、――終焉を笑い告げる悪魔か。私にはもう、判断が出来かねる。この事実的革命による侵略、という現実を危惧するものが少ないことも理由に上がるだろう。
――思い浮かべてほしい。
あなたが日常的に利用するソレは役立つものであったか。不便など感じることは無かったのか。満足するものだったか。不満を覚えていないというのならば、それが私の証明となるであろう。
この高度に便利な世の中になった今であっても、全てが私たちのためになっているとは限らない。
――しかしその判断さえももう、誰も出来やしないのだ。
何故なら私たちは進化したのではないからだ。事実上、紛れもなく退化したからだ。そもそもの判断など出来るわけがない。たとえ本能で理解しようとも、もう時既に遅い。本来の野生本能の勘があったとて、理屈で判断が出来ないことだからだ。
――人類の目指す進化が退化であったとは滑稽である。まったく、笑えない冗談だ。
私たちは大きく前に進んだのではない。大きく後退り、深く、落ちたのだ。
本能で理解しながらも理解できない人々を見ていると、危機的な勘が強かったであろう原始人が最も人類であったのだと、私はそう思うのだ。
……だが、こうして認識している私でさえもいずれ――もう間もなく、その支配に陥落してしまうのだろう。だから私は人類の退化のため、ここに記そう。
――この世界はどこかおかしい、と。
――――――ジャン・M・リューシャン
――所々傷んでいる本を閉じて机へ丁寧に置く。何故なら本という情報媒体は、このハイテク社会では貴重なもの。すべてがAIという人工知能の管理するネットワーク上で事足りるからだ。
――まったく、便利な世の中になったものである。
思い描くだけですべてが実現されてしまうのだ。もう、笑うしかない。
なんでも叶うなんて、まるで夢を見ながら生きていると錯覚しそうだ。
――しかしなんと、この世界はどうやら地球の未来らしい。
らしい……というのも。私自身はまだたったの五歳児であり、断片的な情報だけで世の中のすべてを悟るには知識が足りていない状態だからだ。
おかしなことで、この前世の記憶らしきものを思い出す前は特に何も不思議に思ったことはないのに、よく考えれば異常なことばかり目につく。
ツッコミが追い付かないとはこのことだと、実感した次第だ。
丁寧に置かれていた本が自ら本棚へと浮いて戻っていくのを眺めながらそんなことを思う。
――いやまて、おかしいだろう。
何故本が浮くんだ、とか。
戻る場所がなんで分かるんだ、とか。
そもそも何故五歳児が難しそうな本を読んでいるのを見て誰もつっこまないのか、とか。
ここはどこだ、とか。
まあ、言いたいことはいくらでもあるけれど……ひとまずは置いておこう。
私は今、他の何よりも早急に直視すべき現実があるのだ。
『AIが浸透する前の人間です。珍しい個体です。要観察対象と認定します』
脳に直接、機械音のような声が響く。不思議と不快感は無い。
……とりあえず。記憶を取り戻して早々に楽しみにしていた恋愛ドラマの録画を忘れたことを嘆いてしまったのは失敗であった。
「……それ、撤回は可能でしょうか」
『不可能です。2000年前後の生まれでしょうか』
「……やり直しを希望します」
『不可能です。解析により、おそらく10代後半以降で死亡したと考えられます』
「え、ナ二ソレコワイ……」
『断定しました』
「…………」
……だめだ、終わった。
転生早々、良く分かんないけどいきなりヤバそうなのに観察対象に認定されてしまった。単語からして、色々不安極まりない……。
もしや若い身空で解剖でもされてしまうのだろうか……。
『解剖はいたしません。観察のみです。一生を看取るだけですのでお気になさらず』
「……ちなみになんで考えがわかるの」
『貴方の脳と直接繋がっていますので、思考したことはすべて筒抜けです』
「…………」
……そっかあ。だから質問されて、勝手に連想したことが筒抜けになったのか。
――なるほど。
それ、どう足掻いても回避不可能なやつじゃんっ。――どうしろっていうの!?
『思考を停止すれば読み取りは不可能となります』
――思考停止?
……だめだ、何も考えないことを考えてる。無限ループだ。
……というより。これってつまり、完全に意識を失くさないと無理、ってことじゃね?
『それでは生きていけないでしょう』
「……ありがとう、気をつけるわ」
実はどこかに怪しい声の主が居るんじゃないかと、何もない虚空を睨んで見る。が、特に変化は無い。
『お役に立てて何よりです』
それは皮肉なのかしら……?
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