彼処に咲く桜のように
夜明け
街灯が暗い夜道を照らしている。何も通らない道路をただ照らしている。細道、大通り、階段を気にすることなく漠然としながら歩いていく。
誠司は歩きながら、無意識のうちに自分がどこかへ向かっていることに気がついた。空が徐々に明るくなってきた。どれほど歩いたのかわからない。数十分、もしかしたら一時間は超えていたかもしれない。
誠司は足を止めた。見上げると、戸井高校の裏門前に立っていた。
「学校……。あれは……」
校庭に続く鉄網には、人一人が通ることのできる穴が空いていた。校庭に咲く春桜の花びらが舞い落ちてくる。
「少し、早いな」
思えば、ここでさくらと歩いたあの時から、俺はさくらのことが好きだったのかもしれない。
誠司は学校の敷地外を校門前へ歩いていく。空はだいぶ明るくなってきたが、まだ日は出ていない。さくらとの思い出が詰まった道、校舎、一つ一つを振り返るようにして誠司は巡っていく。
ふと、道路の横、険しい獣道に目が行った。その瞬間、さくらの後ろ姿が見えた気がした。獣道へと入っていくそれを誠司は追いかけた。背の高い雑草、飛び出る枝葉をかき分けて、奥へと進んで行く。
光が見えた。途端、桜の花びらが舞っているのが見える。さくらの幻は待っていてはくれなかった。どこにも人影はなく、誠司は仕方なく桜の木の下にある椅子に座った。真正面の崖からは、戸井の町が一望できる。
穴が空いてしまった心を埋めるように、誠司は手に持っていた手帳を開く。
『二十八年。二月二十四日。曇り。
せっかく咲ちゃんが見舞いに来てくれたのに、泣いちゃった。誠司君は今日も来ない。当たり前だね。あれだけ拒絶しちゃったんだから。でもこれで良いんだ。
自分の体のことは、自分が一番知ってるから』
『二十八年。二月二十五日。晴れ。
誠司君が駆けつけてくれました。約束、守れたよ。嬉しくて、帰って行ったあとに、また泣いちゃった』
『二十八年。三月一日。晴れ。
クラスの人達が来てくれたよ。友達って良いね。大切な思い出を一緒になって振り返られる。素敵だね』
『二十八年。三月七日。雨。
誠司君の面白い話を聞くことが、今の生きがい。退院した後の話をしてくれた。
ごめんね』
『二十八年。三月八日。曇り。
手に力が入らなくて、手にペンをテープで固定した。少し、字が下手になった』
『二十八年。三月九日。
今日も誠司君が来てくれた。弱っていく私を見ても、何も言わないでいてくれる。ありがとう』
誠司の呼吸が僅かに震え始めた。三月十日はテーピングされた手で必死に書いたであろう四コマ漫画が描かれていた。『勿忘草』と題された四コマ漫画を、誠司は震える手で手帳を持ち直してから読み進めていく。
一コマ目で少女がベッドの上で眠りから覚め、二コマ目で起き上がった少女が窓の外を見つめている。三コマ目で少女の目から雫が落ちた。
四コマ目は、ベッドと部屋の絵だけになり、少女はいなくなっていた。
さくらには、すべてわかっていたんだ。何もかも、自分がどうなるかすら。ふと、さくらの弱々しい笑顔が蘇る。
十一日以降から、さくらの字からますます力が失われていっていた。日付だけは先に書いてあったようで、整った字で書かれてある。
『二十八年。三月十一日。
せいじくんも、おとうさんも、おかあさんも、ありがとう』
『二十八年。三月十二日。
みんな、ありがとう』
『二十八年。三月十三日。
ありがとう』
『二十八年。三月十四日。
ありがとう』
『二十八年。三月十五日。
』
『二十八年。三月十六日。
』
『二十八年。三月十七日。
』
誠司はページをめくっていく。日付以外の何もない紙に、何かを求めるように、呼吸を早めながらめくっていく。
やがて誠司の手が、白紙のページで止まる。
「う、あ……。あぁぁ……!
ああぁぁぁっ!」
両眼から大粒の涙が流れ、手帳へと落ちる。目元と鼻を赤くしながら涙を拭ったが、それでも止めどなく、溢れ出した。
「なんでっ、なんでだよぉぉ……」
誠司は自分の胸に手を強く押し当てる。
「苦、しい。胸の奥が、締めつけられて苦しいよ、さくらぁっ……!」
────刹那、周囲の草木が揺らぐほどの風が吹いた。真上に咲く桜の花びらが誠司を包む。風で最終ページの向こう、表紙の裏の見返し部分にまでページがめくれていった。
風が止むと同時に誠司の足元が明るく照らされていく。誠司が顔を上げると、真正面の町の向こうから太陽が姿を見せ、一日の始まりを告げていた。
「夜が、明けた」
足元から徐々に手元へ日の光が広がっていき、誠司は照らされた手帳に再び視線を落とした。誠司は見返し部分にあった大きな文字を見て、両瞼を見開き、大きく息を吸いこんだ。
『それでも立ち上がって、前を向いて!』
誠司は椅子から立ち上がり、真正面に昇り続ける太陽を眺めた。
誠司は歩きながら、無意識のうちに自分がどこかへ向かっていることに気がついた。空が徐々に明るくなってきた。どれほど歩いたのかわからない。数十分、もしかしたら一時間は超えていたかもしれない。
誠司は足を止めた。見上げると、戸井高校の裏門前に立っていた。
「学校……。あれは……」
校庭に続く鉄網には、人一人が通ることのできる穴が空いていた。校庭に咲く春桜の花びらが舞い落ちてくる。
「少し、早いな」
思えば、ここでさくらと歩いたあの時から、俺はさくらのことが好きだったのかもしれない。
誠司は学校の敷地外を校門前へ歩いていく。空はだいぶ明るくなってきたが、まだ日は出ていない。さくらとの思い出が詰まった道、校舎、一つ一つを振り返るようにして誠司は巡っていく。
ふと、道路の横、険しい獣道に目が行った。その瞬間、さくらの後ろ姿が見えた気がした。獣道へと入っていくそれを誠司は追いかけた。背の高い雑草、飛び出る枝葉をかき分けて、奥へと進んで行く。
光が見えた。途端、桜の花びらが舞っているのが見える。さくらの幻は待っていてはくれなかった。どこにも人影はなく、誠司は仕方なく桜の木の下にある椅子に座った。真正面の崖からは、戸井の町が一望できる。
穴が空いてしまった心を埋めるように、誠司は手に持っていた手帳を開く。
『二十八年。二月二十四日。曇り。
せっかく咲ちゃんが見舞いに来てくれたのに、泣いちゃった。誠司君は今日も来ない。当たり前だね。あれだけ拒絶しちゃったんだから。でもこれで良いんだ。
自分の体のことは、自分が一番知ってるから』
『二十八年。二月二十五日。晴れ。
誠司君が駆けつけてくれました。約束、守れたよ。嬉しくて、帰って行ったあとに、また泣いちゃった』
『二十八年。三月一日。晴れ。
クラスの人達が来てくれたよ。友達って良いね。大切な思い出を一緒になって振り返られる。素敵だね』
『二十八年。三月七日。雨。
誠司君の面白い話を聞くことが、今の生きがい。退院した後の話をしてくれた。
ごめんね』
『二十八年。三月八日。曇り。
手に力が入らなくて、手にペンをテープで固定した。少し、字が下手になった』
『二十八年。三月九日。
今日も誠司君が来てくれた。弱っていく私を見ても、何も言わないでいてくれる。ありがとう』
誠司の呼吸が僅かに震え始めた。三月十日はテーピングされた手で必死に書いたであろう四コマ漫画が描かれていた。『勿忘草』と題された四コマ漫画を、誠司は震える手で手帳を持ち直してから読み進めていく。
一コマ目で少女がベッドの上で眠りから覚め、二コマ目で起き上がった少女が窓の外を見つめている。三コマ目で少女の目から雫が落ちた。
四コマ目は、ベッドと部屋の絵だけになり、少女はいなくなっていた。
さくらには、すべてわかっていたんだ。何もかも、自分がどうなるかすら。ふと、さくらの弱々しい笑顔が蘇る。
十一日以降から、さくらの字からますます力が失われていっていた。日付だけは先に書いてあったようで、整った字で書かれてある。
『二十八年。三月十一日。
せいじくんも、おとうさんも、おかあさんも、ありがとう』
『二十八年。三月十二日。
みんな、ありがとう』
『二十八年。三月十三日。
ありがとう』
『二十八年。三月十四日。
ありがとう』
『二十八年。三月十五日。
』
『二十八年。三月十六日。
』
『二十八年。三月十七日。
』
誠司はページをめくっていく。日付以外の何もない紙に、何かを求めるように、呼吸を早めながらめくっていく。
やがて誠司の手が、白紙のページで止まる。
「う、あ……。あぁぁ……!
ああぁぁぁっ!」
両眼から大粒の涙が流れ、手帳へと落ちる。目元と鼻を赤くしながら涙を拭ったが、それでも止めどなく、溢れ出した。
「なんでっ、なんでだよぉぉ……」
誠司は自分の胸に手を強く押し当てる。
「苦、しい。胸の奥が、締めつけられて苦しいよ、さくらぁっ……!」
────刹那、周囲の草木が揺らぐほどの風が吹いた。真上に咲く桜の花びらが誠司を包む。風で最終ページの向こう、表紙の裏の見返し部分にまでページがめくれていった。
風が止むと同時に誠司の足元が明るく照らされていく。誠司が顔を上げると、真正面の町の向こうから太陽が姿を見せ、一日の始まりを告げていた。
「夜が、明けた」
足元から徐々に手元へ日の光が広がっていき、誠司は照らされた手帳に再び視線を落とした。誠司は見返し部分にあった大きな文字を見て、両瞼を見開き、大きく息を吸いこんだ。
『それでも立ち上がって、前を向いて!』
誠司は椅子から立ち上がり、真正面に昇り続ける太陽を眺めた。
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