彼処に咲く桜のように

足立韋護

二月二十五日(三)

 病院には夕方の六時ごろ着いた。冬にも関わらず流れ出る汗をブレザーの袖で乱暴に拭い、息を整え、病院の正面玄関に入る。
 受付の名簿に名前を記入し、その横に位置するエレベーターを使ってさくらの病室がある三階まで上がった。


 エレベーターの扉が開いて、まず目に飛び込んできたのはさくらの両親の姿だった。医師の前に立ち塞がるようにして二人は立っていた。その表情と声から焦燥や困惑の感情が窺えた。誠司は思わず柱の影に隠れる。


「どうしてだ! 快方に向かっているんじゃなかったのか!」


「大月さん、詳細は別室でお話ししますから。廊下で大声は控えてください」


「そんなこと言ってる場合か!」


 医師はしばし黙りこくってから、呆れたように小声で呟いた。


「……傷口から入った菌が、全身に回っている可能性があります。まだ可能性の段階ですので、別室で治療法などの相談をしましょう」


「ほらお父さん、行きましょうよ」


「俺は納得できるまで帰らないからな」


 さくらの両親と担当医が廊下を歩いて行った。誠司はそれを見送りながら、さくらのいる病室へ入った。
 ベッドの周囲のカーテンは開いていた。さくらが髪を後ろで一つに束ね、座りながら静かに読書をしている。誠司が歩いていくと、さくらがこちらを二度見してから口を開けながら本を膝の上に落とした。


「さくら! 反論は許さないぞ。俺はもうどこにも行かない。何を言われようとも離れてやるもんか」


「せ、誠司君……」


 誠司はベッドの横に片膝を立て、涙目になるさくらを見上げた。そのか細い手を取り、優しく両手で包み込む。


「それで良いな?」


「は、い」


 さくらは言葉を詰まらせ、やがて少し痩せた頬を大粒の涙で濡らした。


「ああほら、鼻水鼻水」


「う、うぅ」


 誠司が枕元にあったティッシュを手渡すと、さくらはそれを楕円形にして両鼻に突っ込んだ。


「止めるんじゃなく、出したらどうだ……」


「恥ずがじいもん」


 両鼻に白いティッシュを突っ込んでいる情けない姿に、誠司は思わず吹き出し、声を上げて笑った。それにつられてさくらも笑みを浮かべる。


────その時、さくらは目を疑った。笑っている誠司の頬を一筋の涙が伝っていたのだ。誠司はそれを指でなぞり、ベッドへと視線を落とす。


「さくらと出会わなければ、俺はきっと鬱屈としたままだった。過去と本当の意味で向き合わず、前すら向けなかっただろう。さくらが居てくれたから、俺はここまで来られた」


「誠司君……」






「さくら、ありがとう」






 その言葉はあまりにも自然に口からこぼれ出た。誠司の心にあったその言葉を、涙を、せき止めていた『何か』はいつの間にか霧散していた。
 さくらとその周りを取り巻く仲間達によって、とうとう約束は果たされた。


「どういたしましてっ!」


 茶目っ気たっぷりに笑うさくらに、誠司は口元を緩ませる。
 そのありきたりな言葉は、誠司をこの上なく安心させた。


 これから話し込もうとしたところで、面会時間終了のアナウンスが流れた。誠司は渋々置いてあった鞄を持って立ち上がる。


「今日は間が悪かったな。また明日来るから」


「うん……!」


 見送ってくれたさくらの表情は、どこかすっきりとして落ち着いていた。


 何故さくらが俺を避けたのか、それはわからない。だがそれが本心でないことだけは知ることができた。
 それだけでも収穫だ。

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