彼処に咲く桜のように

足立韋護

八月二十九日

 あれから太一の服を一通り選んだが、高額であったために、結局他の安価な店で似たような洋服を購入した。しかし、事を早く進めたがらない太一を気遣い、この日はあっさり解散となった。こうして夏休みは緩やかに進んで行った。


 八月二十九日。夏休みもあと数日で終わろうとした頃。この日は待ち兼ねた花火大会が開催される日だ。
 そして今、俺は浴衣姿のさくらと二人きりで、薄暗くなった空の下、高校へと続く坂を登っている。


「でもびっくりしちゃったね。他の太一君とか全員、急に来れなくなっちゃうなんて」


 太一と葵の場合、気を利かせてくれたに違いない。問題の咲だが、今年は藍田と青山と三人で花火を見に行くとのことだ。放課後から夏休みから、あまりにこちらに割く時間が多かったもので、いい加減駄々をこねられたのだろう。
 俺の言ったとおり、あの一万円を自分が楽しむために使ってくれていたら幸いだ。


「しかしこの、しつこく足を疲労させることに特化したような坂、どうにかならなかったのか……」


「仕方ないよ。丘の中腹に、強引に学校を建てちゃったんだから」


 さくらの髪の毛は後ろで束ねてあり、最後に毛先が上を向くように上手くまとめてある。紅色で何かの花が描かれている浴衣から伸びるキメの細かい白い肌が、普段あまり強調されないさくらの魅力を、格段に上げていた。その細いうなじからも、清楚な雰囲気と可憐さがにじみ出ている。


 ちらと俺を見たさくらは、薄く微笑む。冗談を抜きしても、この微笑みの破壊力は相当なものだ。浴衣姿がこれほど似合う女性も、なかなかいないのではなかろうか。


 前日、花火大会での花火発射位置を太一から教えてもらった誠司は、そこからよく見える場所を、自室で地図を開いて探した。結果、この辺りで一番高い位置から花火を見るには、二人しか知らないあの場所が最適であるとわかった。
 坂を登り切った二人は、慣れたように息を整えた。戸井高校前の道路から横の雑木林に入って行き、生い茂った草木をかき分けて進んでいく。出来るだけ、さくらの浴衣に汚れが残らないよう配慮して進んだ。


「なっ……」


 二人が見慣れた場所を見ると、一人の着物の老婆が椅子に座り、既に暗くなった夜空を眺めていた。先客がいるとは思ってもみなかった二人は、その場で固まった。老婆がゆったりとこちらへと向いて、そのシワだらけの目を優しげに細めた。


「ここの場所、見つかってしまっていたのね」


「わ、私が偶然見つけて、勝手に使ってました。ごめんなさい!」


 老婆は立ち上がると、そこに生える大木を見上げてから、誠司達の元へと歩いてきた。


「あの木は桜の木でね。この辺りだと一番綺麗に咲くのよ」


「桜の木、だったのか」


「ふふ、どうぞ。この場所を好きに使って。この眺めをいつまでも独り占めなんて、良くないものね」


「あ、ありがとうございます。えと、お名前をうかがっても……」


「名乗るほどの者じゃあ、ないのよ」


 さくらの横を通り過ぎた老婆は、ゆっくりと首を横に振り、ぼそりと呟きながら茂みの中へと消えて行った。
 しばらく呆気に取られていた二人は、やがて思い出したように椅子へ座り、薄っすらと輝く星々を眺める。


「あのお婆さんが、ここを作ったのかな」


「ここの土地の所有者、ということか」


「不思議な人だったね。それにこの木、桜の木だったんだ」


「大きいな」


 椅子の横に聳え立っている大木を、二人は見上げた。厳格で、しかしどこか風情のある、立派な木であった。青々とした葉によって、いまだに生きていることを主張しているかのようだ。
 そのとき、突然遠くから、甲高い音が鳴り響き、やがて爆発音が聞こえてきた。二人が前を向くと、赤色から緋色へと彩っている花火が夜空に咲いていた。


「真正面とは、隠れスポットだな」


「綺麗……」


 さくらは瞳に花火を映しながら、思わず椅子から立ち上がった。柔い風で草木がさざめいている。好きな人と、星々の下で花火を見ることができるとは、以前の誠司には想像もつかなかった。声になるかならないかのところで、誠司は小さく呟く。


「お前のほうが……」


「うん?」


「……前に約束した通り、手帳、見せてもらえないか。少しで良いんだ」


 さくらは頬をほんのり赤く染めながら、巾着袋の中から手帳を取り出した。相変わらずボロボロの装丁が目立つ。無言でそれを渡してきたさくらは、どうにも恥ずかしいようだった。


 この中に、さくらの本当の想いが詰め込まれている。


 受け取った誠司は、前に学校で読んだ時のようにページをめくって行く。整った字で、一日一日のことを短く語っている。よく見ると、日付を数日先の分まであらかじめ書いているのか、日付だけ字の濃さが均一であった。あれからも、たまに四コマ漫画仕立ての日もあるようだ。

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