彼処に咲く桜のように

足立韋護

八月十八日(ニ)

 靴を脱ごうとしたとき、目の前にある武道場の中から童顔の男子が顔を出した。新品の面の色が移り、両頬が薄っすら紺色になっていた。首を傾げながら立ち上がり、誠司達の目の前へと歩いてきた。剣道着姿が様になっている。


「あれ、確か……秋元先輩?」


「お前は誰だ? 一年生か?」


「あ、ハイッ。北村って言います! 秋元先輩は結構校内で有名っすからね。あ、誰かに用事っすか?」


 有名って、後輩にまで知れ渡っているのか……。


「さくら、名前はなんて言うんだ?」


「えっとね、涼子りょうこちゃんって言うんだけど」


 北村の顔が一瞬引きつったのを秋元は見逃さなかった。


「どうかしたのか?」


「……えーっと、涼子ちゃんっていうのは、西京さいきょう涼子先輩のことっすよね」


「うんっ、そうだよ。居たら呼んでもらえないかな」


 北村は後退りしつつ振り返り、武道場に礼をしてから入っていった。西京涼子を呼んでいるのか、暫し踏み込みの弾むような音と、竹刀の鋭い音が鳴り止んだ。


「さ、西京先輩、この人達なんですが」


 北村が連れてきた大柄な人物は、小手と面、胴を着用しており大垂には確かに『西京』と楷書の白字で書かれてある。その手には使い込まれた竹刀を持っており、今にも踏み出して面を決められてしまいそうな威圧感があった。


「あら、さくらさん!」


 面と中の手拭いを外した西京は、腰ほどまである漆のように黒い髪の毛を垂らした。丸顔でたれ目、いかにも温厚そうな面持ちだ。しかしその印象は次の瞬間打ち砕かれる。


「北村君、どうしてさくらさんだって、最初に言わなかったのかしら?」


「そ、それは、名乗らなかったもので……。先輩にも、確認してほしかったし……」


「名乗らなかったのなら、どうしてどなたか訊ねなかったの?」


「すみません……」


「声が小さい」


 西京は小柄な北村の短髪を片手で掴み、その腹に竹刀を突き立てた。その場の緊張が高まる。穏やかな表情のまま、髪から手を離し、小手を外した西京は武道場の中を指差した。右手の竹刀の先で北村の腹をツンツンとつつく。


「ふふ、声が小さいのはきっと腹筋が足りないせいなのね。腹筋百回して、それから見取り稽古の続きをしなさい。ほら返事っ!」


「ひゃ、ひゃぁい!」


 どたどたと走って行った北村は、半泣きになりながら武道場の奥の方で腹筋を始めた。それを確認した西京は、ゆっくりと誠司達のほうへと振り返った。


「さくらさんと、そのお友達かしら。暑いところわざわざご苦労様。お茶でも飲む?」


「ありがとう、お気遣いなく。涼子ちゃん、今日はね、葵ちゃんのことを聞きに来たんだ」


「葵さんについて、ねぇ」


 長い話になりそうだと、誠司達が武道場の下駄箱の辺りに腰掛けると、西京もその場に慎ましく正座した。姿勢が良く、育ちの良さがうかがえる。


「前に保健室で、葵ちゃんと中学校時代から一緒だって言ってたよね。それで少し聞きたいことがあってさ」


 いつの間に知り合いになったんだこの二人は。まあ、今は置いておこう。


「彼女とは浅からぬ関係があるから、きっと力になれるわ。何でも聞いてくださいな」


「じゃあ単刀直入に、葵ちゃんの好きなタイプ、教えてほしいな!」


「あらまっ! んー、そうねぇ。中学二年生のとき、彼女、好きな人がいてね」


 皆は好きなタイプどころか、好きな人の情報が聞けると思い、気持ち顔を寄せた。


「それが、当時の担任の先生だったのよぉ。それがもっぱらの噂になってね、中学校のとき、家のこともあって結構沈んでたのを憶えてるわ」


「先生っ?」


 対象が先生ということも気になるが、問題はその先生とやらがどういった人物だったかだ。


「それは、どんな人間だったんだ?」


「んん、一言で表すなら……『邪教』かしら」


「邪教……って、どういうこったよそれ!」


 太一が眉をひそめながら、立ち上がった。西京はその様子を至って真面目な表情で見上げた。


「落ち着いてね。簡潔に言えば、その教師に唆されたというわけ。あまり詳しくは言えないのだけれど、彼女、家柄とかで悩んでいるところにつけ込まれて、あの教師に陶酔してたわ」


「な、なんだってそんな……」


 たじろぐ太一だったが、その葵の悩みは既にわかっていた。


『親戚、友人、教師、生徒、家族……彼らは決して『葵』に興味を示さない。いずれ莫大な金に関与するであろう、夏目家の一人娘にしか興味がないんだ。その瞳に写っているのはいつも、『夏目』という名前だけなのさ』


「ある弱い部分を慰められると懐いてしまう。未成熟な心の部分、そこを巧く突かれたというわけ。今はそんな部分、ないと思うけれどもね。
 その教師に異常性癖の節がなかったことだけが不幸中の幸いで、葵さんの体は汚されずに済んだ。でも彼女ね、教師に頼まれて、家のお金を、邪教のお布施のために持ち出したらしいの。もちろん、本当の邪教のためじゃないわよ? 愛する人のためならば、とね。
 結局渡す前に親族の方々にばれて、教育委員会に通報され、教師は地方に転勤。彼女はそれでも健気に学校へ来ていたけれど……思い返せばその頃から時折、人を小馬鹿にした、そんな笑い方をするようになった。今の元気の良さは、もしかしたら強がりなのかもしれないわね」


 なんとも許し難い話だ。味方を語り、その信頼を利用して金を出させる。本当に邪教のそれだな。


「ああ、好きなタイプの話だったわね。その時の事実から考えると、彼女の絶対的な味方になってあげられる男、かしら。今度は変な男に引っかからなければ良いけれど……」


「涼子ちゃん、詳しく話してくれてありがとうね。よくわかったよ」


「はい、どういたしまして。さくらさんのような、礼儀を重んずる人はやっぱり好きだわ。さて、そろそろ稽古に戻る頃合いかしらね。それでは皆さん、今日はこの辺で」


 西京が立ち上がると、複雑な顔をする皆もつられて立ち上がった。振り返って武道場へと入っていこうとする西京へ、太一が声をかける。その声は、いつもより低く、若干の震えが伴っていた。


「事情はわかった。けどよ、一つ聞かせてくれ。なんであんたは味方になってやらなかったんだ?」


 ゆらりとこちらへ顔を向けた西京は、先程より若干暗い表情を浮かべている。


「最初に、浅からぬ関係がある、と申し上げた通り、我々西京家と葵さんの夏目家は、土地の権利のせいで犬猿の仲だった。その子息である私達が、助け合いなどしてはならない。ただただ、互いの情報をかき集め、向こうに悪いことが起これば酒を浴び、良いことが起これば憤怒する。こんなにも馬鹿馬鹿しいことに、私達は付き合わされているの。わかったかしら? それでは」


 防具を装着して再び武道場へ振り向いた西京は、中へと入っていった。それを見送ったところで、咲、太一、さくら、誠司の順にその場を後にした。しばらく、ため息が出るばかりで、沈黙が続いた。

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