やり直し女神と、ハーレムじゃないと生きられない彼の奮闘記

スカーレット

第28話

「尿酸値の値が高めなのと、白血球数がかなり多くなっています。これは、一般的に言う白血病の後期の症状に近いものでして」
「白血病……!?」


秀美さんが卒倒しかけて、春喜さんがその肩を支える。
正直俺も一瞬目の前が暗くなった様な気がした。


診察室に入った俺たち三人は、春海の検査結果を医者から説明されていた。
血液検査に尿検査、MRIにCTスキャンと、どれもこれも私生活で馴染みのないものばかりだ。
そしてそれらの検査結果を見せてもらって最終的に医者が告げたのが、冒頭のそれだった。


白血病って……。
何を言ってるんだろう、この医者は。


「それから……これは少々申し上げにくいことではありますが、医者としてお伝えしなければならないでしょう」
「…………」


この先、医者が言いたいことが何となくわかってしまう。
おそらく春喜さんも秀美さんも、同じ様に感じているのだろう。
だが、俺は認めたくない。聞きたくない。


「手の施し様が、ありません。申し訳ありませんが……」


手の施し様がない、ってのは何だ?
馬鹿につける薬はないとか、そういうときにたまに言うあれか?
確かに俺につける薬なんかないだろう。


医者が、匙を投げる様な状況だってことか?
春海が、あんなに苦しんでるのに?
だって、ついこの間まで普通にしてたんだぞ?


医者の言うことを認めたくないという思いから、俺の頭の中がぐちゃぐちゃしてくるのがわかる。
落ち着かなきゃって思うのに、頭の中がどんどん熱くなってくる様な感覚があった。


「病状は既に後期……いえ、ほぼ末期と言えるものです。春海さんが、かなりの長期間無理をしていた可能性は、かなり高いでしょう。……正直普通の人間が耐えうるレベルの苦痛ではないと思うんですけどね……。投薬や治療で何とかできる段階を、既に過ぎてしまっているのです。もし初期の段階で発見できている様であれば、薬で何とかなったということも考えられますが……」


いやいやいや、おかしいだろ。
あいつ、そんな素振り全然見せなかったぞ?
普通の人間が耐えられないレベルの苦痛を、あいつは何でもない顔でやり過ごしてきたってことか?


俺よりも数倍……それこそタコ坊主よりも強い、あの春海だぞ?
白血病だか何だか知らないが、そんなものに負けて春海が……死ぬ、なんてこと……あるわけないじゃないか。


「あの、手の施し様がないって、どういう意味ですか?」


俺の意志とは関係なく、口が動いてしまう。
聞くべきじゃないとわかっているのに、勝手に口が言葉を紡いでしまう。


「大輝くん、やめるんだ」
「まさかとは思いますけど、春海が……」
「やめるんだ、大輝くん!先生は、敢えて口にしないでくれたんだって言うのがわからないのか!?」


春喜さんが今までにないほどの声を出して、俺を制する。
俺の肩を掴む春喜さんの手に、悔しさが滲んでいるのがわかる気がした。
春喜さんだって、こんなの認めたくないんだろうな……。


「あの……春海は、あとどのくらいもつのでしょうか」


秀美さんはある程度覚悟を決めたのか、春海があとどれだけ生きられるのかを確認し始める。
ということは何か?
秀美さんはもう、春海が生存できる可能性を捨ててしまったということだろうか。


「はっきりしたことは、こちらとしてもわかりかねます。ただ、予想の範囲でよろしければ……この一か月ほどが山場になるのではないかと思います。ひとまずは薬で症状や痛みなどを緩和してはいますが、それもいつまで効果があるのかわからない状況ですので……」
「一か月……ですか……」


俺の肩を掴んだまま、春喜さんが俯く。
短すぎるだろ、何だよ一か月って。
こないだあいつ、十六になったばっかりなんだぞ?


まだまだこれからってところなのに、あと一か月であいつが?


「春海に会うことはできますか?」


俺の言葉を聞いて、春喜さんが肩から手を離す。
直接会って、確認する必要があるだろう。




「入るよ、春海」


春喜さんがノックをして、ドアを開ける。
細い腕に点滴を繋がれた春海がベッドに横たわっていた。


「面会可能時間は二十時までとなっております。近い時間にまた参りますので、よろしくお願いします」


看護師さんが淡々と言うのに対して、俺たちは会釈で答える。
春海は顔をこちらに向けて、申し訳なさそうな顔をしていた。


「春海……」
「ごめんね、その顔……もう全部聞いて知ってるんだよね?」
「まぁな。お前、全部わかってたんじゃないのか?しかも大分前から」
「何で、そう思ったの?」
「それがお前っていう人間だからさ。考えてみたら思い当たることもあったしな」
「そっか……上手いこと隠せてたつもりなんだけど、最後にドジったなぁ」


やっぱり意図的に隠してたってことなんだな……。
常々思っていたけど、やぱりこいつ、とんでもないやつだ。


「あのな……俺、言っとくけど怒ってるからな。何で言ってくれなかった?」
「だよね、大輝だし……。ごめん、って言ったところでもう遅いかな」
「春海、俺も気になってたんだけど、何で黙ってたんだい?先生の話じゃ、相当な苦痛を伴っていたはずだって言うじゃないか」


春喜さんも俺と同じ疑問を持っていた様で、俺の隣に立って問いかける。
そして春海は俺たちから目を背けていた。


「ごめんね、春海。私も気になるわ。気づかなかったことは私も悪いと思うんだけど……」


そう言った秀美さんの顔から、普段の明るさを見出すことはできなかった。
あの秀美さんでさえ、今の状況に参ってしまっている様だ。
俺たちから背けていた視線をこちらに向けて、ぽつりぽつりと春海が語り出す。


「何で……か。心配かけたくなかったっていうのはもちろんなんだけど、せっかく入った高校だったから、っていうのが一番の理由かな」


春海から返ってきた答えに、思わず俺の心臓が跳ねる。
俺と一緒の高校に通いたいっていう、あの夢の為に我慢してたってことか?
付き合い始めに話してくれたあの……いや、どう考えてもおかしい。


普通に考えてありえない。
仮に俺が春海だったら、そんな我慢ができる自信なんかまったくない。
自分の命を削ってまでそんな我慢するなんて、もはや異常だと言えるレベルだ。


「お前、もしかして……俺との高校生活の為に、そんなになるまで……?」
「そうだよ。大輝からしたら、そんなこと、って思うかもしれないけど……私からしたら長年の夢だったから。大輝と一緒に高校通って、一緒に高校生活過ごすっていうのが、ずっと楽しみだったから」


だとしてももっと、他にやり方なかったのかよ。
仮に治療の為に留年することになったって、その時は俺だって一緒に留年してやるよ……。
俺のことを思うが故にこんなことになったってことか?


ってことはこれは、人が人を思う力の成れの果てなのか?
そうなんだとしたら……。


「俺……」
「大輝……?」
「俺がいなかったら、もしかしたらお前は、こんな人生を歩んだりしてなかったのかもしれないのに……」


そう言った時、春喜さんと秀美さんが悲しそうな顔をした。
春海も何でそんなこと言うの?って顔をしている。


「大輝くん……」
「そんなこと、言うものじゃないわ、大輝くん」


今一番参っているんじゃないかと思われた秀美さんの言葉だが、強い意志の様なものを感じる。


「前にも言ったけど、あなたは春海にとっての救世主なの」
「それは確か……寝起きの話だったんじゃ……」
「もちろん、その話はそうよ。だけど、大輝くんと出会ってから、春海は格段に明るくなった。毎日が楽しそうにしている春海を見ることができたのも、大輝くんのおかげなんだから……」


秀美さんが声を詰まらせて俯く。
涙が零れそうなのを必死で堪えているのだろう。
秀美さんがこんなに頑張っているのに、俺は……。


「大輝くん。君が春海との出会いまでを否定してしまったら、春海の今までの思い、してきたこと、全てが無駄になってしまうと思わないか?春海はよく言っていたんだ、大輝くんが私の人生の全てなんだって。そんな春海の思いを、無駄にさせる様なことを言うのなら、俺も黙ってはいられない」


秀美さんも同じ様なことを言おうとしていたのか、何度か頷いているのが見える。
そう言った春喜さんの顔は、俺に反論の余地さえ与えない様な力強さを感じた。


「…………」
「ねぇ、大輝」


春海がじっと俺の目を見ながら問いかける。
以前の様な力強さが感じられない、弱ってしまった視線だ。


「……何だ?」
「パパとママが言った通り、私は大輝と一緒にいたかったの。だから今日まで我慢できたんだと思う」
「そうかもしれないけど!!だけど、それでお前が……」
「聞いてよ、大輝。人が人を思うって気持ちは凄いんだってこと、大輝には覚えていてほしいな。だって、確かに辛かったけど……こんなに頑張れたんだよ?」


上体をゆっくり起こして、春海がまた俺を見る。
辛そう、というか絶対辛くないわけがないのに、何でこんな風に笑っていられるんだよ、春海は……。


「だからね、大輝。私のことは最悪忘れてもいい。だけど、大輝には誰かを思う気持ちを忘れてほしくないの」
「ふざけるなよ、お前……忘れられるわけねーだろうが!!」


春海の言葉に、思わず声が大きくなってしまった。
忘れろなんて、できるはずがない。
春海が俺を全てだと言ってくれた様に、俺にとっても春海はかけがえのない存在だった。


代わりなんて当然いない。
唯一無二の存在なんだ。
それを忘れるなんてこと、どうしたらできるって言うのか。


「大丈夫だよ、大輝。今はまだ時期じゃないけど、いつかまた絶対会えるから。約束するから」
「何言ってんだよ、お前……意味がわかんねーよ……」
「今はわからなくてもいい。だけど、必ずわかる時は来るし、また会える」


本当に意味がわからない。
春喜さんも秀美さんもさすがにわからない様だった。
仮にいつかまた会えるんだとしても俺はそんないつかより、今春海に生きて元気でいてほしかった。


それこそ毎日同じ高校に通って、バカなこと言い合って、デートなんかもしたりして、そんな当たり前の日常を二人で過ごせればそれで満足なんだ。
なのに……。


その後俺は大したことも言えないまま面会時間が終わってしまい、明日秀美さんは着替えなんかを持ってくると言っているのを聞いた。
春喜さんは仕事でどうしても来られないらしいが、秀美さんが来てくれるのであればひとまずは安心だろう。
間に合えば来る様にする、と言っていたが春海は無理しないで、と両親を気遣っていた。


俺は明日、バイトがあってこられない。
正直こんな時だし、休んで、と考えたが春海に止められてしまったのだ。


「こんなことで歩みを止めないで?大輝には私以外にも大輝を必要としてくれる人が沢山いるんだから。来られる時にちゃんと来てくれたら、私はそれで満足だから。ね?」


こんな風に病人に気を遣わせて、俺は何をしているのか。
情けなさやら色々な感情が入り混じって、正直頭がおかしくなりそうだった。


帰りは春喜さんが車で送ってくれて、車内で姫沢家に泊って行かないかと提案された。
しかし春海のいない家に泊まるのは、俺の中で価値が見いだせず、また明日も学校があるということもあって、春喜さんと秀美さんには申し訳ないが丁重にお断りした。
施設に戻った俺は夕飯など食べる気になれず、風呂だけ入ってそのまま眠ってしまった。


体は疲れていたのか、思っていたよりもぐっすり眠った気がする。




「えっと……嘘、だよね?」
「それならどんなにいいんだろうな。だけど、俺も朝目が覚めてやっぱり夢じゃなかったんだ、ってがっかりしたところでな」


翌日の学校。俺は昼休みに野口を呼び出して、人目を避けるために中庭へ来ていた。
昨日の病院での出来事を全て話すと、野口は予想通りの反応を示した。
こんな突拍子もなくて、現実離れした話をいきなり信じろという方が無理がある。


「嘘、そんな……」


いつもの様に明るく下ネタだの軽口が飛び出さない辺り、本当にショックを受けているんだろう。
実際説明した俺だってこの現実を受け止められていない。
感情がマヒする、なんてよく言うが今の俺はそんな感じなのかと思う。


「ごめんなさい、今の話……本当なの?」


昇降口の方から声がして、ツインテールの女子が姿を現した。
こいつは確か……。


「宮本、だったか。今の話聞いてたのか?」
「ごめんなさい、立ち聞きなんて、って思ったんだけど……今日姫沢さんが来ていなかったから、あなたに事情を聞こうと思ってついてきたのだけど……」
「そうか……まぁ、仕方ないよ。気にしないでくれ。聞いちゃったものはもう、どうしようもないんだから。一応言っておくと、俺も嘘であってほしい。だけど、本当の話なんだ。身内でもないのに、俺……医者から色々聞かされたし」


あの医者は本当にちゃんと春海の状態を診察したのか、なんて考えが浮かんでしまう。
本人が受け入れている現実を、俺はまだ嘘であってほしいなんて希望を持っているのかもしれない。


「まだ、あいつは諦めてない……と思う。もちろん、俺も。だから、野口に宮本。さっき聞いたことは誰にも言わないでほしい。まぁ、春海のお母さんから学校に連絡が入ってバレる、なんてこともありえるけどさ」
「誰に言えって言うのよ、こんな話……気軽に笑って話せる様なことでもないのに……」
「私も言わないよ……言えないでしょ……」


二人もおそらく俺と同じ様な心境なんだろう。
悲痛な面持ちで、嘘であってほしいと願っているんだと思う。


「なぁ宮本、春海と仲良くしてくれてたみたいだけど……」
「仲が良かったというか……私と姫沢さんは出席番号が近かったから。自然と話す機会が出来たって言う方が合ってるかもしれないわ」
「そういうことか。でも、ありがとうな」


春海に俺や野口以外の話せる友達がいたということは、俺にとっても少し嬉しかった。
もしかしたら春海は、自分がこうなることをわかっていたから敢えて仲の良い友達を作らずにいたんじゃないか、って思う。


「まぁ、何だ……とりあえずはそういうことだからさ。今日本当なら行っておきたいんだけどバイトがあってさ。春海が休むなって。だから明日、見舞い行くんだけど……お前らも来るか?」
「私はパス。だって、初めてのお見舞いなんだから、宇堂くん一人で行ってあげた方がきっと喜ぶよ」


力強く言う野口の明るさに、少しだけ救われた様な気持ちになる。
春海や朋美以外の女子にこんな気持ちになるなんて、少し前だったら考えられなかったかもしれない。


「私も遠慮しておくわ。心配なのはもちろんだけど……姫沢さんが最初にきてほしいのは、やっぱり宇堂くんのはずだもの。女子と一緒になんて行ったら姫沢さんはきっと、がっかりすると思うから」
「そうか……色々考えさせちゃって悪いな。なら、明日は俺一人で行ってくる」
「明後日なら、一緒に行っても大丈夫かなって思うしお邪魔していいかな?」


はにかみながら野口が問いかける。
ただただ目がでかいだけのチビだと思ってたこいつが……こんなにいい笑顔するんだな。
いや、昨日あんだけ一生懸命助けてくれたんだ、そういう言い方は良くないな。


「私も概ね同意見ね。明後日なら、私もお邪魔したいかも」


やや遠慮がちに見える宮本だったが、春海のことはやはり気になるらしい。
それなら連絡くらいは取れる様にした方がいいだろうと、宮本と連絡先の交換をした。


その後、何とも実になる気のしない授業を終えて、俺は真っすぐ地元に帰った。
バイトがあるから、というもので俺は高校入学後すぐに、地元のコンビニの面接を受けたのだ。
昔からよく行っていた店でもあるから、面接そのものはただ志望動機や週何日入れるとか、そういう確認だけで終わり、すんなりと俺はこの店の一員となった。


入学当初は、とにかく金を貯めておきたいなんて思って始めたバイトだが、今は貯めてどうなるんだろう、と考え始めてしまっている。
俺の中で徐々に目に見えない絶望が、その口を広げて俺を呑み込もうとしているのがわかる気がする。
そしてそれはそう遠くない将来、俺を蝕んでいくのだと予感する。


だけど今はまだ、そんなものに呑まれてやるわけにはいかない。
春海を今がっかりさせるわけにはいかないのだ。
その一心で俺は、無理やり前を向き続けることができた。


挨拶と共に俺はバイト先のコンビニに入って、事務所で荷物を置く。
暗く沈みがちなこの気持ちを少しの間でも忘れることができるし、今日は忙しくなってくれればいいと思う。


オーナーの楠木勲くすのきいさおさんが俺に挨拶を返してくれて、今日の予定なんかを俺に伝える。
楠木さんは非情に温和かつ人当たりのいい人で、俺が小さい頃から可愛がってもらっている。
今日はその楠木さんの奥さんと一緒に夕勤のはずだったが、急遽子どもの用事で代理が来るのだとか。


その代理が俺の苦手とする女性の人で、普段はOLをしている二十六歳の柏木愛美かしわぎまなみという人。


「今日、あの毒婦なんですか……」
「あっはっは!!毒婦って……気持ちはわからなくもないけどね」


そう言って楠木さんは笑うが、俺からしたら笑いごとではなかった。
俺からしたら興味も関心もない相手ではあるものの、向こうはどうもそうは思っていないらしく、俺はよくちょっかいをかけられる。
割とあからさまに嫌な顔を返しているはずなのに、それが堪えるどころか増長させる結果になることが多く、そしてめんどくさい。


いつか仕事の後にみんなで食事に行った時は酔っぱらって普段の何倍も絡まれたりしたし、正直いい思い出がなかった。


「おっはようございまーす!!」


なんて考えていたら元気よく入ってきたのが柏木さん。
はぁ、こういう気分の時に最も会いたくない人種だ。


「……おはようございます」


がっかりしている気持ちを更にがっかりさせない為に、努めて柏木さんの方は見ない。
今の俺の精神状態じゃどんな暴言を吐くかわからんし、事情も知らない人に八つ当たりなど俺の望むところではない。
急でごめんね、とか廃棄持ってっていいからね、とか楠木さんが言ってるのを聞いて、柏木さんが喜んでいるのがわかる。


「どうしたの?何かあんた辛気臭くない?」


ほらきた。
何でこっちが頑張ってシカトしてんのに、わざわざ話しかけてくるのかな。


「いや別に。あんたと一緒なのが少しだけ憂鬱だったってだけで」
「んだと、このガキ……」
「ほら、仲良いのはわかったから仕事ね!!今日もよろしく!!」


手をパンパンと叩いて、楠木さんが俺たちを店内に送り込む。
ここまで嫌っている相手ではあるが、この柏木さんは俺に仕事を教えてくれた人でもある。


『笑顔は接客の基本』


そう言ったのも彼女だ。
実践してるところなんかそんなに見たことないくらいの気分屋のくせに、と後になって笑ったことがあるのを思い出した。


「なぁ、お前本当に今日変だぞ?大丈夫か?」


なんやかんやあって、店が暇なまま仕事終わりの時間を迎えた。
どんだけ寂しがり屋なのか、この人はいつも決まって話しかけてくる。


「いや特には。強いて言うなら腹が減ってるくらいですかね」


そう言って思い出したが、俺は昨日から何も食べていなかった気がする。


「ふぅん……?確かに腹減る時間だよな。まぁ何だ、悩みがあるならこの『お姉さん』がきいてやってもいいぞ?」


その強調の仕方は、自分が少なからずおばさんであることを自覚してる人のやり方だと思うんだけど。
それに、俺みたいな思春期真っ只中の男子高校生に、あなたみたいな美人でスタイルいい人がそんなこと言ったら、五百パーセントくらい卑猥な妄想しかしないと思う。


「そんないらない心配してないで、柏木さんご自身の婚期でも心配されてはどうですか」


そう言った瞬間、俺は柏木さんに襟を掴まれて、そのまま壁際まで追い詰められた。
背中に軽い衝撃。
そしてこの態勢……壁ドンだ。


「結婚の話はするな……!!」


そう言った時の柏木さんの顔は恐怖で忘れられない。
その後携帯を出す様に言われ、渋っているとまたもとんでもないことを言い出す。


「何だ、素っ裸にされて全身身体検査でもされたいのか?」


この人の発言は悉く女の発言とは思えない様な内容ばっかりだ。
仕方ないので携帯を渡すと、柏木さんの連絡先が登録されていた。


「相談、乗ってやるって。一人で何でも抱え込もうとすんなよ。わかった?」


その言葉にちょっとだけぐっときてしまって、俺は足早に店を出た。
何でこんな時に優しくしようとするのか……。


施設に戻って携帯を見ると、メールが二件未読の状態になっている。
一件は春海からで、受信時間は午後七時頃。


『少しだけ落ち着いてきたかもしれない。まだ油断はできないけど、このまま調子が良くなることがあるなら一時帰宅くらいはできる様になるかもしれないって言ってた』


一時帰宅か……そうなったら俺は、生まれて初めて車椅子とか押す様になるのか。
何にしても、少しでも春海が楽になったというのであれば、それは喜ばしいことだと思う。
昨日のあの様子を見ているだけでも、正直俺が参ってしまいそうだったんだから……。


『返事遅くなってごめんな。昨日言った通りバイトだったんだ。落ち着いていたっていうなら、それは喜ばしいことだと思う。明日、見舞いに行くからその時また詳しいこと聞かせてくれよ』


遅ればせながらの返事なのにやや素っ気ないかも、という思いはあるものの、あまり長々と送っても春海は見るのが大変かもしれないし、とそのまま送る。
言いたいことがあるなら明日聞けばいいのだ。


もう一件だが、送信者がお姉さん……。
誰だ、俺の知り合いにそんな人いたっけ。


スパムメールか?なんて思いながら開いて、俺は軽く戦慄した。


『スパムメールだと思ったか?本当に失礼なやつだなお前は。ついさっき壁ドンやらで熱い瞬間を一緒に過ごしたお姉さんだ。もちろん覚えているよな?まぁ、それはいいとしてお前、飯食うの忘れるほど思いつめてるみたいだけど、ちゃんと食えよ?じゃなかったらお姉さんが口移しで食わせるからな』


えっと……心配してくれてるのは素直に嬉しい。
というか、半分申し訳なく思う。
だが、口移しはいけないよね、うん。


しっかし口悪いなこの人……。
見た目は綺麗なのに、口と酒癖の悪さで男運逃してるよな、絶対。


『それから、お前があたしを毒婦と呼んでいることは知っているからな。なかなかいい言葉のチョイスだ。なんでも知ってるお姉さんより』


なんて思っていたら追加でメールが……マジでおっかない。
これはきっとあれだ、独身女の怨念だな。
いや、あの人まだ死んでないけど。


『ごめんなさいでした。二度と毒婦なんて言わないと、今誓いましたので何卒……あとご飯は今から食べます。ご心配おかけしてすみません』


その後食事を済ませた俺はすぐに寝ることにした。
今夜は昨夜と違ってちゃんと眠れるかわからない。


春海もきっと、こんな風に思いながら苦しさやらと戦ってきてたのだろうと考え、やりきれない気持ちになった。
またも暗くなりそうな気分を振り払う様に、俺は布団にもぐって目を閉じた。

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