虚空の灯明

一榮 めぐみ

35. おかえり

 トントン……


 誰かがあたしの部屋の扉を叩いた。


「……リューナ、ちょっといい?」


 アイキの声だ。眠りかけていたあたしは、ぼうっとしながらもむくりと起き上がる。


「うん、いいよ」


 扉を開けて入って来たアイキは、夜中だというのに真面目な顔をして、余所行きの格好をしている。


「なに……こんな真夜中にどこかにお出掛け?」


 霞む目を擦りながら冗談混じりに言ってみたものの、アイキは真面目な顔をしたまま、胸元に手を当てて黙っている。いつもと違う、真剣な眼差しに夢見心地から一気に目が覚める。


「リューナ、一緒に来て欲しい」
「…………どこに?」
「水の精霊の棲家に、帰るんだ」
「えっ、帰るって……?」
「リューナと二人で帰りたいんだ」


 突然のことに、すぐに言葉が出てこなかった。でもそういえば、アイキはみんなで揃ってご飯を食べようと言い出したり、服を買ってきたり、何だかソワソワしていたかもしれない。


「わかった……それじゃ、着替えるから待ってて」
「うん」


 返事をしたものの、アイキは表情ひとつ変えないで、じっとこっちを見ている。


「アイキ。あっち、向いてて」
「あっ……ごめん」


 アイキにしてはめずらしく気が利かない。さすがにあたしでも、じっと見つめられながら着替えるのは恥ずかしい。アイキに背を向けて、急いで着替えをした。勿論、アイキが買ってきてくれた服を選ぶ。ガサガサと、静かな部屋で布の擦れる音だけが聞こえている。


 きっと、ルーセスやルフには秘密なんだ。真夜中にコソコソと支度して夜逃げみたいだし、アイキの様子だと、もう虹彩に戻ってくるつもりはないかもしれない。


虹彩ここにも長くはいられない……』


 アイキには何か目的があるのだと思う。それが何なのかはっきりとわからないけれど、ぼんやりと、あたしも一緒に行かなければならないような気がする。


 部屋に出しっぱなしにしていた私物も、全部仕舞った。カタン、と物のぶつかる音が、静かな部屋にうるさく響くけれど、あたしの気持ちがアイキに伝わると思ったから、気にせずに仕舞った。


「……お待たせ」


 あたしの声に、アイキは振り向く。ちゃんと余所を向いていてくれたんだ。


「すごく似合ってる。思った通リだ……すごく可愛い」


 アイキは嬉しそうに微笑った。よく見たら、アイキの服も見たことがない服だ。


「アイキの服も可愛いね。ううん、格好いい」
「ほんと?! この服、ルフが選んでくれたんだ♪」


 アイキにしてはめずらしく黒っぽい服だと思ったら、そういうことか。アイキは少しだけ笑顔を残して、あたしに歩み寄る。


 どうしよう、少し、緊張する……。


「ルフとルーセスには、もう少し頑張ってもらわなくちゃね。オレ……もう待ちくたびれちゃった」
「うーん……それって、消去法であたしってこと?」
「確かに、そう聞こえるよね」


 アイキは、クスクス笑いながらあたしの手を取る。


「でも、消去法なら、誰も連れて行かなくてもいいだろ?」
「……うん」


 アイキの手を握り返す。いつもは冷たく感じるのに何故か、少しだけ温かく感じた。


「リューナ、目を閉じて」
「……どうするの?」
「開けたままでもいいけど……驚くかも。転移するよ」
「転移って……?」


 背の高いアイキを見上げる。アイキはにっこりと笑って、ふわりとあたしの頭に手を乗せた。


「空間魔法だよ。オレは一度行ったことがある場所になら、どこにでも行けるんだ」
「そんな使い方ができるの?」
「確かめてみる?」


 アイキが、あたしの頭を自分の方へ抱き寄せた。あたしは目を閉じて、自分の高鳴る鼓動の音と、少し速いアイキの鼓動の音だけを聞いていた。


「でも、誰かを連れて行くの初めてだから少しだけ、怖い」
「えっ?!」
「それじゃ、行くよ」
「うん……」


 不安になってアイキにしがみついた瞬間、水の流れる音が聴こえてくる。肌にまとわりつくような湿度と冷たい空気を感じる。


「リューナ、目を開けて」


 アイキがあたしから離れるのと同時に、そっと目を開いた。


「わぁ……!」


 目に飛び込んでくる、圧倒される美しさに言葉を失う。滝のようにザァザァと水が流れる壁と、ポタポタと水の滴る石造りの柱。天井は一面水に覆われているみたいだけど、暗くてよくわからない。足下は薄ら青く光り輝き、膜のように水が張っている。


「凄い……こんな所があるなんて」
「陽が昇るとキラキラして、もっと綺麗だよ。行こう、水の精霊みずが待ってるよ」


 アイキはあたしの手を取り、奥へと続く通路をずんずんと進んでいく。パシャリ、パシャリと二人分の足音が響く。


 広間のような所にたどり着くと、三人の人影が目に入る。水の精霊と思われるアイキによく似た人と、真面目そうな青い髪の男の人が並び、美しい紫の瞳の女の人がその手前の床に座っている。男の人が微笑むのを見て、はっとした。


「あなたは……ビシュ!」
「お久しぶりです、リューナさん」


 真っ白な空間であたしを助けてくれたビシュが、あの時と同じように微笑んで佇んでいる。手前に座る女の人が不機嫌そうな表情で、ちらりとこちらを見た。


「アイキ、お帰り♪」


 水の精霊が微笑んで、アイキの名を呼ぶ。


「ただいま、水」


 水の精霊は、本当にアイキによく似ている。髪が長いけれど、同じ長さにしたら区別ができないかもしれない。まるで双子のようだ。


「ラピス、ビシュ。二人に、お願いがあるんだ」


 ラピス……? ルーセスと共に戦っていた女の人の名前だ。この人が……?


「なんだ、碧いの。こんな真夜中にわらわを起こしておいて……さらにまだ何か用があるのか?!」
「アイキさん、ラピスは寝起きが悪いみたいです」
「ああ、ラピスちゃん、怒らない、怒らない♪」


 あの空間で会ったビシュの印象と、ルーセスに聞いていたラピスの印象との違いに戸惑う。アイキの横顔を覗いてみるけれど、真面目な顔をしたままで、こちらは見てくれない。


「ルフとルーセスを……守って欲しいんだ。今の二人に、オレとリューナはもう、必要ない」


 アイキの言葉に反応して、ラピスが眉間にシワを寄せた。


「貴様はリューナとどうするつもりだ?」
「……リューナにはオレの歌と剣を教える」


 何がなんだかわからないけれど、黙ってその場に立っていた。ルフとルーセスにあたしたちは必要ないという言葉が胸に刺さる。けれどその一方で、肩の荷が下りた気がして、愁眉を開くことができるような気持ちになった。


 アイキとラピスが睨みあうように視線をぶつけている。ラピスの眼差しは真っ直ぐで、威厳がある。ルーセスなんかよりずっと凛としていて、王族のような気品がある。でも、アイキもそれに負けないくらい堂々としていて、ちょっと、かっこいい……。


「ルフとルーセスは、オレたちを頼ってる。それでも構わないんだけど、このままだとまた何年経っても……何も変わらない気がした」
「二人も、ここに連れてくれば良かったのに」


 水の精霊が優しく語りかける。けれど、アイキは首を横に振った。


「それじゃダメだ……ルーセスもルフも……あまり力を持ってない。ここに連れてくるには、まだ早いんだ」


 アイキは考え込むように下を向いて、口を閉ざす。ラピスはスッと立ち上がると、アイキの前へとツカツカと歩いてきた。淡い紫色のストレートの髪が、きっちりと肩の長さで切り揃えられていて、さらりと揺れる。深紫の大きな瞳が可愛らしくも、美しくもある。


「……面を上げよ、碧い魔法使い。紅いのとあのお方のことは、わらわに任せよ。今まで碧いのには、あのお方を守ってもらったからな。これからは、わらわがあの二人を守ってみせよう」
「ラピス……ありがとう」


 ラピスが先に差し出した手を、アイキが握った。二人が向き合って協力するなんて、なんだか不思議な気がした。同じことをビシュも思ったのか、フフッと笑う声が聞こえた。


「ねぇ、アイキ? リューナちゃんさ、疲れてるみたいだよ。あまりよく眠れていないんだね」
「ひゃっ!」


 背後から髪を触られて、ゾクッとして振り返る。いつの間にか、水の精霊が後ろに立っていた。アイキがあたしを水の精霊から離すように引っ張って、自分の方へと抱き寄せた。


「ルーセスの所為だよ。夜中にリューナを起こすから……っていうか、勝手に触らないでよね!」
「ゆっくり休ませてあげないと、ね?」
「あっ、待てよっ! まだ……」


 水の精霊があたしに手を伸ばしたのが見えた。その刹那、全身の力が抜けるような感覚がして、アイキの声が遠退いていった。

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