中年男子の理想世界

涼風てくの

第序話:創造する世界

 少女は衝撃を受け、ひどく困惑していた。こんなのは想定のほかだった。
「どうしたの? 乱暴はしないよ」
 やけに耳にへばりつくような、生暖かい声が掛けられる。
「いや……、おかしい……」それはかすれて、うまく発声することが出来ず、声帯をわずかに震わせた程度のものだった。
 こんなはずじゃなかった。そんなつもりはまるで無かった。皆無といっても過言ではない。ここまで何年かけて、設計・制作し、何年かけて確認作業を行ったことか。その苦労を思うと目頭が熱くなるような心境だった。
 少女は耐えきれずに後ずさる。現実、理想、共存するそれらから目を背けたかった。おかしいのだ、本当の意味で共存するはずはなかった。あくまでも理想の中の現実のはずだった。こんなのは少女の望んだことではないのだ。


「おっかしいなあ、ここは何でも叶えてくれる理想郷だって聞いてたんだけど」男は下卑た笑みを浮かべ、頭を掻く。
「………………」
 立ち尽くしていた少女は最早、声を出すことすら出来なくなっている。その時、冷汗が吹き出したような感覚がした。
 しばしの間立ち尽くした後、しかし目を白黒させ、踵を返し、遂には全力で駆け出す。以前、必死に設定したチート能力を再確認する意味でもそれは必要だった。しかし、そのことに関してはこうやって、疾風の如く走ることができていた。目から涙が出、後ろへとなびき、明るい月の光によって幻想的な煌めきを帯び、落ちて行く。風がとても冷たく、素っ気ないように感じられた。


「何とかしないと……何とかしないと……」
 走りながら、呪文のように繰り返す。これを唱えなければ壊れてしまうのではないか、そんな思いに駆られていた。勿論、必死に努力し、完璧に作ったはずのこの世界において、そんなことは有り得るわけがない。そのために、年に関しては全く考慮しなくていいよう整え、設計、造形したのだ。元から自分の人生全てをかけるつもりでいた。実際、彼女はその半生、いやほとんど全てである数十年を懸けたけたのだ。この理想郷のために――




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 望月もちづきはほくそ笑んでいた。見やすいように配置した九つのモニターを前にして。
 部屋は薄暗く、二本ある内の一本が切れた蛍光灯の光以外は、モニターの不健康な光だけで照らされている。四方を囲む不格好な壁はコンクリートをむき出しにし、肌寒い外の気温を際立たせているような感覚さえした。
 望月にとっては、これが人生最高の日になった。完成を望みに望みつづけた月日、この望みを叶えるためだけにどれだけの時間を費やしたことか。だが望月には達成感を得る、その目的以外には費やした時間など問題ではない。そう、長年掛けて作ったこの理想郷はまさしく、理想世界ユートピアと呼ぶに足る存在へと変貌しているのだ。これを前にしては時間など、風の前の塵に同じ、である。年齢、性別、身長、体重、体系、運動、知能、そして特殊能力。その他全てが彼のなすがままになる。それは直接の影響のない周りを覆う世界、それにおいても同じことだった。魔法の国や人工知能の国、女の子しかいない国も作れれば、はたまたネバーランドですらその手中にあると思われた。
 俺TUEEEEEEE、最強、チート、異世界、魔法世界。それらが妄想の世界と言われ、ちゃちな虚構物だなんだのと、ストレスのはけ口にされることはもうない。全ては実現されたのだ、圧倒的な努力家によって。そんな彼は、今までの数十年間をしみじみと思い出していた。


 きっかけは小学生の頃だろうか。あの頃は非常にか細かった。否、あの頃だけではない。その面影は今なお残されている。そんな彼は勉強ができた。だがしかし、誰もそれに取り合うことはない。勉強などは蚊帳の外だったのである。そのくせ、周りは運動のできる奴を尊敬していた。弱弱しいその体が表す通り、学校では一、二を争うような運動下手でそれ故に、不憫な思いをすることが多々あった。何故勉強が取り合われず、運動だけが相手にされるのか、当時の彼にははなはだ不思議であった。
 小学生のある時、虐められそうになったことがある。がたいの良いクラスメイトに馬鹿にされ、非常に腹が立った。体を使って抵抗をした、だが、全くかなわなかった。体の全部を使った、壊れるぐらいまでに。それでも結果は変わらない。彼はそうしているうちに泣き出していた。自分の全力を尽くしている。なのに相手はそれを物ともしていない。それが非常に悔しかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。どうして全力を尽くしても何も変わらないのか。
 圧倒的な物の前には戦うべくもないのだと早々に思い知った。まともに戦えないのなら殺すしかない。理性を失った頭はそう判断を下した。殺せば全てが済む、今なら殺人犯の気持ちがわかる。確かそう思っていた。だが結局、人をあやめることは無かった。


 中学の様々な行事と仲間を経て、そして高校。入学したそこは、頭のいい彼にも背伸びしている、そんなように思われる場所である。そこにおいては、努力家がどれだけ勉強をしようとも越えられない壁が何枚もあった。けれどもそれが心地よかった。これで良いのだ。
 高校一年の夏、十六歳になった時、衝撃的な出会いをした。出会いと言っても人物ではなく、アニメである。それは、勉強の出来不出来によって自分の能力値が決められる、というものだった。非常に興奮したのを鮮明に覚えている。素晴らしい、これがまさしく自分の望んだ世界のように思われた。中学生までの段階が彼の骨格だとしたら、その出来事は彼の中身を形作る発端だろうか。
 まずはどのようなものにするか、という高校一年でも出来そうなことから考えた。友達にもサンプルとして、理想郷はどんな場所か、ということを調査しておいた。彼はメモをスケッチブックに書き止め、結局、理想郷はそれぞれが自分の望みをかなえられる場所、ということにし、これと言った設定はしないことにした。それからは日々、努力に努力を重ねて行った。挫折しかけたこともあるが、諦めはしない。それを信念とした。最初は手探りでしかなかったが、時を重ねるごとに思わぬ進歩を経て、今に至る。ここまでやって来られたことには自分でも驚いていた。


 今、と言うと四十五の中年男子のことになる。現在は視力の低下や老眼に悩まされ始め、苦労をしていた。理想世界ユートピアを作り上げればそんな悩みも解消される、そうしてモチベーションをなんとか維持して来た。二十二世紀となった今でも、視力を改善させられない医療技術には落胆する勢いだ。そもそも改善などとは考えていないのではないか、と彼は幾度も思った。それは今までに自らが作り上げたものを比べれば一目瞭然だからだ。


「ふっ、」望月は両手を広げ、全知全能を気取った。
 そしてため息をつく。いい年した男が何をしている、と思ったのである。けれどその考えも今後改めねばならぬ、そう思うのであった。
 冷えた体を温めるために、インスタントコーヒーを淹れた。甘めのコーヒーである。コーヒーカップには長いこと凝りに凝った自作キャラクターがあしらわれており、彼は満足していた。製作途中に飽きるようなことは彼に限って有り得ないことである。そしてそれを口へと運びながら考える。この大発明を自分の中だけに留めて置くべきか。しばし悩んだ後、果たして彼の考えは固まった。出来るだけ差支えのないように、公開するのはやめて置こう、と。公開することがないのなら、ややこしい準備は避けられるだろう。それに今までの長きにわたって行った世界創造はそんなものを必要とはしないように察せられた。彼は興奮冷めやらぬうちに準備を進めて行く。
 その閉鎖的な部屋は、彼の家とは別に設けた建物の中にあった。理想世界を作るためだけの建物だった。それ故に毎日外出をする必要があったが、徒歩での移動の間の思考の時間が、彼の気持ちを高め、制作の成功にもつながったように思われる。


 さて、準備もほどほどに、と心の準備をした。
「これで良し」
 いよいよ長年の夢が叶う時が来た。しかし、しばらくは躊躇われた。長年やってきたものをここで終わらせて良いのか。そのような思いが頭の中で反響した。彼は目を閉じて心を落ち着け回想した。今までのことを。勿論、ここで止める訳もなく、いよいよだ。鼓動が高鳴る。呼吸は荒くなった。
 彼は両頬を叩く。設定はその世界においてもいじることが出来る。彼はその事実に安心した。今は初期設定だけで良い。
「俺、いっきまぁーすっ!」
 部屋には妙に気の抜けた、非常にあっさりとした声だけが残った。

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