気分は下剋上 肖像写真

こうやまみか

20

「教授がお立ちになっていらっしゃる場所から右手を水平に伸ばして丁度指が当たる位置に有ります」
 ああ、これかと思って手に取って見ると「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」と書いてあった。
「確かに面白そうな題名ですね。
 それはそうと、こんなにたくさんの本がどこに置いてあるか全て覚えていらっしゃるのですか?」
 自分は当然、執務室やマンションの書斎に置いてある本を悉く暗記しているが、そういうことが出来る人間の方が稀だと裕樹が言っていた。それまでは、目にしたものを無意識に脳にインプットしてしまう方が普通だと思っていたので、とても意外だったが。
 ただ、その後世間話に紛れて色々な人に聞いてみたら裕樹の言う通りだった。
「好きな本が本棚のどこに有るかを覚えるのはむしろ当たり前だと思いますけれど……。
 ああ、教授にもお教えしておかなければ……」
 百合香ちゃんの声が楽しげに弾んでいる。子供の――といっても彼女は小淑女といった雰囲気だが――充溢な精神力を感じるとこちらまで元気になってしまう。夏の「事件」の後にはそれで物凄く助けられたのも事実だったし。
「何をですか?」
 つい、その勢いに乗せられてしまう。
「教授が今『漱石と…』の本を取り出されたので、一冊分の隙間が出来ましたよね。その区画の本を全て左に寄せて頂けませんか?」
 そういえば、病室に置いてあるとはいえ私物の本棚だ。読んでいる本のジャンルは異なるが、読書とか調べもののためには数冊分の隙間が必ず出来る。
 百合香ちゃんはハードカバーのエリアに――高さ調整付きの本棚だった――こそ、一冊分と思しき隙間が出来ているだけで、その他は本屋さんの陳列棚のようにびっしりと詰まっているのが不思議と言えば不思議だった。
「そこに金色のビス……と言うのですか?ボタンみたいなのが有りますよね?」
 金色のが一つで後は木目調に合せたのか茶色だった。
「お話しの途中ですが、読む本を一回一回本棚から取り出すのですか?」
 彼女はお祖父様が元総理大臣、お父様は政権与党の「若手のポープ」との評判が高い、いわば華麗なる政治家一族の一員なので、そういうお上品な取り出し方が彼女の住んでいる世界では普通なのだろうか。
 ただ、そういう名士と呼ばれる人も患者さんに多くいらっしゃるので、彼女から学べる仕来たりめいたものにも興味が有った。知らないと恥をかきそうなので。
「はい。ベッドから本棚の往復が私にとっての良い運動だと田中先生が仰って下さいまして。一冊を読み終えたら次の一冊を取りにいくついでに元の位置に戻しておくのが、私の読む時間も考えると『適度な運動』だそうです。そのアドバイスに従っているだけです。
 この病院に来た当初は、ベッドから降りるだけで呼吸も動悸も苦しかったのですが、徐々に良くなってきたと田中先生にも言って頂けて、ある日『ベッドと本棚を往復しても良いですよ』という許可が下りたのです」
 ああ、なるほどと思ってしまう。百合香ちゃんの場合は手術に耐えられるだけの体力をつけるところからのスタートだったし、主治医の裕樹から電子カルテで上がってくる彼女の様々なバイタルサインも予想以上に良くなっているのは、そうした的確なアドバイスのせいも有るのだろう。それに「病室を歩き回って下さい」のようないかにもテンプレート的な指示ではなくて、百合香ちゃんが本を読みたいからベッドを下りて――もちろん、それだけの体力が付いたのを見計らっている――本棚に行くという一見運動とは思えないような巧みなアドバイスは流石だった。
「金色の所を押してみて下さい」
 百合香ちゃんが楽しそうに言ったので指で押した。
 すると。

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