レクサプロナイト

さたけまさたけ/茶竹抹茶竹

短編【レクサプロナイト】

短編【レクサプロナイト】

 深く息を吸い込むと肺の中がひりついた。照準器の向こうに見える景色が一瞬、より鮮明になったように感じる。指先に触れる金属の感触をゆっくりと確かめる。そのまま人差し指に掛けた引き金を静かに引き絞り、共に呼気を吐き出した。
 息を全て吐き終えると同時に引き金が微かな金属音を鳴らす。鋭い銃声と同時に銃口からは閃光が走る。私の抱えた狙撃銃が振動し、弾丸を撃ち出したその衝撃を手のひらに伝えてくる。直撃した手ごたえがあった。

 撃ち抜いた、私の横で双眼鏡を手にした彼女はそう呟いた。私は照準器の向こう側の景色に目を凝らす。確かに「何か」を撃ち抜いた。それは透明で目に見えるものではなかったが、確かな感触と実感があった。目には見えない、上手く言語化出来ない形容しがたい何か、言うならば透明な怪物を殺したのだ。
 私は引き金から指を離し半身を起こす。窓の縁に乗せていた狙撃銃を毛布を敷いた部屋の床へと降ろし、窓を閉める。私の住む集合住宅からは閑静な住宅街が見えた。夜の街灯と民家から漏れ出た灯りが点々と光っている。この世界にいる私以外の誰かも同じ夜を過ごしているのだという実感を覚える。

 狙撃銃から弾倉を外し床に敷いた毛布で銃身を包むと押し入れにしまい込んだ。私の背に向けて彼女は、これで終わりかと問う。今日の分は、と私は手を止めずに応えた。また明日には、別の何かが来るのだと。
 油と火薬の匂いをする手を洗面所の石鹸で洗う。時計を見ると日付が変わろうとしていて、休日が終わる事実に私は溜め息を吐く。賃貸の狭い部屋の隅、鎮座しているぬいぐるみを抱え私は床に座り込む。黒で統一された備え付けの家具は住んだばかりの頃には気に入らなかったが、今はそれをどうこうする気力もない。

 狙撃を終えたばかりで脈拍が乱れていた。毎晩の事とは言え未だ慣れない。けれども敵を、見えないあの何かを、撃ち殺さなければ。
 あれは私の部屋まで押し入ってきて心臓の奥まで食い散らかしてしまう。
 あれに名前などないのだ、と私は彼女に言う。一種の概念に近い存在であって、観測者によってその形状や性質を変えるものであるのだと。
 彼女は神妙な顔で頷いたが、私の布団の中で眠たそうにしていた。
 撃ち殺したあれが本当はまだ生きているのではないか。そうやって確かめたくなる気持ちと、気にしてはいけないと自信を宥める気持ちが相反し、行き場のない指先でぬいぐるみの毛をむしる。窓の外を見てしまえば、あれがまた現れてしまう可能性があるのだ。

 それでも尚、気は収まらず私は湯を沸かした。珈琲の粉末を湯に溶かし湯気が上がるそれを手のひらで包み持ち上げる。安い苦味が舌を焦がす。睡魔に囚われ頭を前後に揺らす彼女に私は語る。
 結局は肥え太った自尊心と不格好に育て上げてしまった想像力のせいなのだ。それが、私を喰い殺そうとするあの透明なものを産み出してしまうのだと。

 例えば、世の中に存在する幸福という名の資源が、零和である様に感じられてしまうのだと私は語る。名も知らぬ誰かの幸福によって私のそれは目減りを続け、私の消費した幸福は誰かが享受する筈だったそれの置換であると。資源と語るとその概念を物質的な評価軸で捉えることしかできないが、他者との関係性であるとか称賛や羨望といったものもその枠組の中に位置する資源であると考えれば、私の言わんとする事も伝わるかもしれない。

 これは他者に対する共感性とは違う。人間の精神的な苦楽は相対性を持ちえない、絶対的な評価軸の延長線上にいつもあり続ける。存在するのは相対化によって表出する現状への客観的な価値算出だけであって、それは絶対的な評価軸の上にある個々人の絶えず比例するというわけでもない。
 だがその真理によって諦観を獲得し得るかはまた別の問題だ。

 彼女は私に言う、それは突き詰めれば妬みという感情でしかない。
 私はまさしく、と頷く。それでも、理屈や仕組みを理解しようとも、全てを受け入れられるわけではない。私達が人であるが故に。そしてそれを理解しているが故にまた、空虚さとやるせなさを抱くのだ。
 さながら無間地獄だ、と私は静かに笑う。その中で身と心を静かに焼くのだ。
 終わりはあるのか、と問われ私は曖昧な返事をする。いつかは、と願ってもそれを終わらせる方法を私は知らない。いや、きっと無いのだろう。灼けた灰の上に綺麗な硝子細工を造り続ける他ない。一度燃え炭と化した木が生え変わることはない、それと同じだ。

 私がそう語っている内に時計は進み、その事実が私の胸を締め付ける。何の生産性もない時間の浪費が、言葉にして改めて認識した自身の渇望が、溜まって積もって集って重なって形を成していく。
 私は舌打ちした。窓の外、静まり返った街の中に透明な怪物がいるのが見えた。
 自業自得だ、と彼女は私に言う。喚きたいのを堪えて私は押し入れから狙撃銃を取り出す。だが弾倉は空だった。弾がない、先程ので使い切ってしまった。

 私の慌てる姿を見て彼女は眠たげに言う。もう諦めて寝てしまってはどうかと。
 私は首を横に振った。あれは必ず部屋までやってきて私の心臓の奥まで食い散らかす。鍵を幾重に掛けても扉を何度閉じても、僅かな隙間から滑り込んでくる。一瞬の内に、もしくは蝕むかのように、透明な怪物は私を喰らう。
 一体目を撃ち殺した時に素直に布団に潜り込むべきであったのだ、彼女の遅すぎる提言を余所に私は戸棚を片っ端から開けていく。戸棚の奥に押し込んだ缶入りの菓子を見つける。友人に渡そうとして機会を失ったまま、戸棚の奥に押し込んだものだった。私は慌てて封を切る。小麦粉と砂糖と牛酪で出来た小さく可憐な菓子を弾倉へと押し込む。
 菓子の弾丸だ、彼女は言う。良いのか、とも問う。私は返事をせずに窓枠に狙撃銃を乗せ照準を覗き込む。
 引き金を引いた。寝静まった街に銃声が木霊する。
 目に見えない怪物を確かに撃ち殺した。

 私は嘆息する、振り返ると彼女は既に眠りについていた。狙撃銃を抱えたまま私は寝転がる。睡魔に支配され重たくなった頭を横たえ目を瞑る。
 こんなこと、いつまで続くのだろうか。
 私の放った菓子の弾丸は、きっと明日の夜には見えない怪物へと姿を変える。そうした時、次に弾丸にするものは何だ。現実は変えられず、ただ灰の上に築いていく硝子細工の様な日々を守る為、お菓子も音楽も映画も書物も貴金属も友人も弾丸にし続けていく末にいつか限界が来るのではなかろうか。それとも灰の中から新たな芽が出ることがあるのだろうか。
 何度繰り返しても途切れることのない弾丸を、他の人達は隠し持っているのだろうか、それとも私以外の誰も、あの透明な怪物に怯えずに夜を明かしていくのだろうか。

 狙撃銃を抱えたまま私は真っ暗な部屋の中で夜に沈む。
 窓の外から銃声が轟くのが聞こえた。闇夜に反響して遠くなっていく。私だけではなく名前も知らない誰かもまた同じなのだと知る。見えない怪物は私だけではなく、今銃声を轟かせた誰かの人生にも存在しているのだと。その事実は弾丸にすることができる予感がした。それに希望を見出す辺り、私もやはり人間でしかないらしい。
 例えその見えない怪物が、相対性を持ちえぬ個々の絶対的な評価軸の上に存在するものだとしてもだ。


【完】

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