第86話『加療』

誰かが、俺を見て笑う。
それは、アイツらみたいな、バカにしたような笑い方じゃない。
俺といるのが心底楽しいような、そんな幸せそうな笑み。
そんな顔を見ている俺まで、なんだか嬉しくなってしまう。
その人は、俺に言ったんだ。
「マサタ、強さは優しさだ。でも、勘違いしてはいけない。『優しくなる為に強くなる』んじゃない。『強くなる為に、誰かに優しく為する』んだ。お前は優しいから、きっとすぐに強くなれるよ」
その人には珍しく、哲学的なことを語っている。
いや、珍しいとは言ったが、その人の顔を見るのはこれが初めてのはずだ。
この人は誰だっけ……。
俺の、大切な、大事な人…………。

眼前の、白。
視界が明瞭になるにつれ、それが単なる白ではないことがわかった。
白地に、黒い斑模様。石膏ボードだろうか。
「おー、起きたんだねー」
そんな声が、左から聞こえる。
首を動かし、左を見る。
美しい翆色みどりいろの髪を背中まで伸ばした少女。
少女は左がルビーの様に赤く、右はエメラルドの様な緑色をしたその眼で、こちらを覗き込んだ。
「……………盡…？」
マサタは、無意識に彼女の名を呼んだ。
盡ハナ。
彼女はA+ランクの生徒ではあるものの、マサタを重症まで追い詰めた数少ない生徒である。
「そうね。私が分かるなら大丈夫だねー」
彼女はやさしく微笑みながらそう言った。
「お、俺……。なんで……」
「いやねー、決闘が終わるなり倒れちゃってね、それからずっとここで休んでたね」
首から上を動かし周囲を見渡すと、自分の横たわっているベッドの周りをカーテンで区切られていることがわかる。
ここは医務室のベッドの上だろうか。
「そうか…。その間、盡が看てくれたのか…？」
「違うんだよね。私だけじゃなくて、塚田さんとか城嶺さんとか平佐名さんとかもね、みんなで交替で看てたんだよね」
「そっか、ありがとな」
「全然気にしないでね、友達が怪我したら看病ぐらいするよね」
優しく笑いかけながら、ハナがそう言った。
そんな彼女に、マサタは少し胸が躍ったのを感じた。
そして、それを誤魔化すように話を続けた。
「………なあ、譬聆はどうなったんだ？」
決闘でのダメージ、決して小さくないはずだ。
彼は今、如何しているのだろうか。
「それがね……譬聆さんね………」
明らかに、ハナの表情が曇った。
何か深刻なことがあるのだろう。
マサタは、生唾を飲んでその言葉の先を待った。
だが、ハナは言葉でその事実を告げなかった。
その代わりに、マサタの周囲のカーテンを開けた。
それを見たマサタは感嘆した。
自分の正面に、アツシがいたのだ。
アツシは、その喉に包帯を巻かれ、向かいのベッドの上に鎮座していた。
彼は右手でスマートフォンを操作しながら、左手に握られたリンゴを齧っている。
そして、二人の目が合った。
『……あっ』
僅かな沈黙。
そして、アツシがマサタを指差しながら叫んだ。
「ンでてめェがココの病室なンだよ！」
「知らねぇよ！俺が頼んだ訳じゃねぇし！」
「ふッッッざけンなよ！出てけ！」
「はぁ！？お前が負けたんだからお前が出て行けよ！」
先までの優しく、静かな空気が嘘のように一変し、2人の怒号が小さな医務室に充満する。
「るッせェよ！俺の方がてめェより年上だろァ！！」
「黙れ！この老害が！」
その一言で、一気に怒りの頂点に達したアツシが、鬼のような形相でマサタを睨む。
「…てめェやるかァ…？」
「“また”ボコボコにしてやるよ……」
下らぬ煽り文句に対して、さらに下らぬ煽り文句で返す。
正しく、売り言葉に買い言葉。
それでも互いに手を出さないのは、二人とも重症であるが故に、身動きが取れないからである。
「ま、まあまあ……。落ち着こうね……」
ハナが両者の顔を見ながら割り入る。
「ポンコツは黙ッてろォ！」
アツシがそんなハナの言葉を蹴散らす。
「おい！盡は関係ないだろ！謝れよ！」
そのアツシの言動に、マサタがまた食いつく。
「あァ？ンだと？！ポンコツなのが悪ィンだろ！」
「許さねえぞ！この野郎！」
「あぁー！もう！静かにしてね！」
ヒートアップしていく二人の喧嘩を見ていたハナが、それを押した。
マサタのベッドの枕元にある、オレンジ色のコードとその先端に取り付けられたボタン。
ナースコールだ。
それを押すと、アテスターから声が響いた。
「どうしましたか？」
「浜曷先生！美那原くんの意識が回復したけどね、譬聆さんと喧嘩しちゃっててね、私じゃ止められそうにないんですね！助けてくださいね！」
マサタとアツシは、今なお背後で下らぬ諍いを続けている。
きっとその内容は、ナースコールを通して浜曷にも聞こえているだろう。
「……わかりました」
その声は普段と何ら変わらないが、間違いなく怒りを秘めていた。
そんな声だった。
数分して、扉が開いた。
全員の視線が扉へと集中する。
見ると、浜曷が立っていた。
「浜曷先生！」「浜曷先生？！」「美伽ちゃん！」
ハナは助けを求めるように。
マサタは驚いたように。
アツシは嬉しそうに。
それぞれがその名を呼んだ。
浜曷は、マサタの元へ歩み寄り。
ドン。
と、その背を叩いた。
「いっっっっっっでぇええええええええ！」
マサタが悶える。
「痛覚も反応も正常ですね。決闘勝利と意識回復、おめでとうございます。ただ、残念ながら後遺症として、脳に異常があるようですね。病室で騒ぐのはその影響でしょうか」
浜曷が淡々と話す。
怒っている。この上なく怒っている。
「す、すみません…」
背中はダメだろ。という心の声を殺して、マサタは謝罪した。
浜曷は踵を返し、今度はアツシの元へと歩んでいった。
「美伽ちゃん！この病室からアイツ追い出してよ！」
アツシは未だに喚いている。
浜曷は、そんなアツシのすぐそばに歩み寄り、彼の右頬を自身の左手で優しく触れる。
「えッ……。ちョッ、美伽ちゃん…。ダメ、みんな見てる……」
なぜか頬を赤らめながら、アツシが恥じらう。
浜曷はそんなアツシに優しく微笑む。
そして、右手を首筋へ這わせ─────それを振り上げ、アツシの首筋へと振り抜いた。
「あ°ぁあぁああああああぁあ！」
その激痛に、アツシは思わず仰け反りながら絶叫した。
その叫び声をどうやって発音したのかは謎だが。
見ると、浜曷の右手は手刀の形になっていた。
「誰が“美伽ちゃん”だ」
普段は敬語でしか会話をしない浜曷が、怒りのあまりため口になっていた。
「痛ッてェ……。ひでェよ、美伽ち──浜曷先生…」
同じ過ちを繰り返しそうになったが、振り上げられた手刀を見てすぐに訂正していた。
「二人とも、病室で静粛にするのは一般常識です。そもそも、場所に関わらず、大きな声を出すのはマナー違反です」
『…はい……』
「“次”は、ありません」
『はい、すみませんでした』
「謝るべきは、私に対してではなく、盡さんに対してです」
『盡さん、すみませんでした』
「い、いえ…。大丈夫ですね…」
謝罪されるハナでさえも、思わず浜曷の顔色を窺ってしまった。
「それと、美那原さん。あなたにお話があります」
「…えっ？」
浜曷は、マサタに医務室から出る様に促した。
マサタは少し怯えながら浜曷の後に続いた。