婚約破棄された男爵令嬢〜盤上のラブゲーム

しみずん

見習いメイド

 馬車の揺れが今までのそれとは大きく異なりすっかり激しくなってきました。それはつまりアヴァドニア公爵家の治める領地を抜けて、お父様が治めるポーンドット男爵領へ入ったと言う事ですね。

 アヴァドニア公爵家のお屋敷を出て約一時間、もうすぐ私達のお屋敷へと到着する筈です。

 窓の外の景色を見渡すと、そこには濃密なほど鬱蒼と生い茂るウッディールの森があって、かたわらには広大なジャガイモ畑が広がっています。

 もうすぐ収穫の時期ですね。ドーラさんのお手伝いをしてあげないと。

 それに、採れたてのジャガイモで作るパイユはとっても美味しいんです。柔らかくて、ホクホクで、さっぱりとした甘さで、味と香りが抜群なんです。

 早く食べたいな。毎年恒例のみんなで作るパイユ。

 などと考えているうちに馬車はいつの間にかポーンドット家のお屋敷に到着していました。

 御者のネイブルさんが扉を開けてくれるとお父様は無言のまま馬車を降りてお屋敷に向かって歩いて行きました。その背中はやはり落胆しているご様子で少し怒っているようにも見えます。

 お父様から視線をはずすと、そこには優しく微笑みながら私を待ってくれているネイブルさんの姿があって、その見るからに優しい微笑みに私は安堵を覚えました。

「どうぞ、お嬢様」

 そう言って差し出されたネイブルさん右手。私は自身の手をネイブルさんの手の上に重ねて、

「ありがとうございます。ネイブルさん」

「いえいえ。それよりも頭をぶつけない様に気をつけてくださいね、お嬢様」

「はい」

 ネイブルさんの紳士的なエスコートにより安心して馬車から降りた私はネイブルさんにお礼を済ませ、お屋敷に向かって歩き出しました。

 こじんまりとした正面入り口前の階段を慎重に登り扉を開くと、白を基調とした安価なエプロンに包まれたお尻が私のすぐ目の前でヒラヒラとリズム良く動いて私を通せんぼしていました。

 私はそれを一目見ただけで途端に可笑しくなってしまい右手で口元を隠しながら言いました。

「ただいまアンナ。お掃除お疲れ様」

 私の問い掛けにアンナはゆっくりとこちらを振り返り一瞬、呆けたような表情を見せそれから慌ててきちんとこちらに向き直り姿勢を正して頭を下げる。

「ももも、申し訳ございませんっ!」

 言葉を詰まらせ取り乱すアンナの姿を見てとても幸せな気持ちになりました。

 私って性格悪いですね。

「アンナ、何で謝るの? お掃除中だったのでしょう?」

「ああっ! おかっ、おかえりなさいませお嬢様!」

 先月から我が家に勤めに来てくれている15才になったばかりの見習いメイドのアンナは、私と同い年のとても可愛いらしい慌てん坊の女の子です。

 そんなアンナは栗色の艶やかな髪を垂らして必死に頭を下げています。

「アンナ、慌てないでよく聞いて? さっきから全く会話が噛み合っていないわ。だから、まずは頭をあげて私を見て?」

 そんな私の言葉にアンナは素直に頭を上げかけたのですが、

「申し訳ございませんっ!」

 と、またしてもアンナは深々と頭を下げてしまいました。

「ほらほら、アンナ。また繰り返しになってしまったわ」

 私はアンナの両肩を持って彼女の上半身を真っ直ぐに伸ばします。そしてそのまま彼女の目を見つめながら、

「はい、ここでストップ。ただいまアンナ」

 と、にっこり微笑んでみたのですがアンナは決して私の目を見ようとせずに視線を伏せて今にも泣き出してしまいそうな顔をしています。

「うぅ……ごめんなさい……」

「ふふふっ。アンナ、私あなたのそういうところ大好きよ? でも、そろそろ中に入れてもらえるかしら?」

「ーーーーっ!」

 本日何度目かのアンナのハッとした表情。本当に可愛いらしいです。

「申し訳ございませんっ!」


 その後しばらく経ってから、ようやく私はお屋敷の中に入る事が出来ました。




 夕食の時間です。

 私とお父様は四人掛けのテーブルを贅沢に二人だけで囲みます。

 とは言っても当然、昔から二人きりだった訳ではありません。私がまだ幼い頃はお父様の隣にお母様がいらっしゃっていつも笑顔で今日私が何をしたのだとか、明日は一緒にどこに行こうだとか、そこで何をして遊びましょうだとか色々なことを話しながら楽しく食卓を囲んでいました。もちろんお話だけではなく正しく美しいテーブルマナーも教えて頂きました。

 そして後数ヶ月も経てば待望の弟か妹が産まれて、そのうち私の横の席に座るようになって、ポーンドット家の食卓は更に賑やかで楽しいものになる筈でした。

 ですが、当時多くの死者を出した流行り病のせいでお母様とお腹の子は命を失いました。

 それからですね。このテーブルを二人で囲むようになったのは。

「…………」

「…………」

 そんな広々とした寂しささえ感じてしまうテーブルの上には、給仕の方達が手際よく並べてくれたおかげで早くも美味しそうな料理がたくさんです。

 とはいえアヴァドニア公爵家で頂いたような豪華な食事と違って、一般的な家庭で出されるような普通の食事内容ですがどれもこれも良い香りが立ち込めていてついつい食欲が刺激されてしまいます。そこはやはりポーンドット家のコックさんであるランドさんの手腕が光りますね。

 それに豪華な食事も良いのですが食事に本当に必要なのは豪華さではなく、味と栄養ですからね。私はそう思います。

「…………」

「…………」

 さて、お茶会から戻って数時間経ちますがお父様の表情は未だ暗くやはり元気がありませんし会話は全く弾みません。

 ポーンドット家の食卓は普段からあまり賑やかなものではありませんが、今日の食卓ほど静まりかえってはいません。

 たいていお父様がどことどこの家が婚約を発表しただとか、私達よりも高位な貴族の令息が婚約相手を探しているだなんて話をしてくるので、今みたいにずっと無言で食べ進めるなんて事はまずありません。

 こんなにも静まりかえった食卓では、咀嚼するのもなんだか憚られてしまって食事もうまく喉を通りません。

 私が食卓を包む重苦しい空気感に苛まれていると、明らかに緊張した様子のアンナがお父様のワインを注ぎ足しにやってきました。

 私の真正面、顔の引きつったアンナが震える手でお父様のグラスにボトルを近づけます。

 すると、ボトルを早く傾けすぎたせいでワインが勢いよく流れ出し、飛び散った数滴の赤がテーブルクロスを鮮やかに染めました。

「ーーーーあっ」

 アンナは肩をビクつかせ凍り付いたように固まったまま、ワインが染めた赤を凝視しています。

 ですが次の瞬間、透明の液体が勢いよくテーブルに広がりその赤は次第に輪郭を歪め鮮やかな鮮紅色はもはや見る影もないくらいにぼんやりと薄れていきました。

 そう、私がついうっかりとお水の入ったグラスを倒してしまったのです。

「ーーーーあっ! ごめんなさい! 考え事をしていたので、ついうっかり……アンナ、ごめんなさいね。拭いてくださる?」

「あっ、えっ、はっ、はいっ! すぐに!」

 アンナは手際よく私の零したお水を処理してくれました。そしてその事で、なんとなくですがさっきまでの重苦しい空気感も払拭されたようで、その後はいつものようにリラックスして食事を続ける事が出来ました。

 食事を終えた私は自室へと戻ります。


 








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